陰山先生の本。
この先生の本は極力読まないようにしている。奇をてらいすぎであり、時に過激、時に緩過ぎ。社会人の学びに対しては、いい面もあるが、悪い面もある。なんせ、われわれは小学生ではないのだから。
とはいえ、小学生でも、薬になる面もあれば、場合によっては、劇薬になる面もあり、素人が使いこなせるものではない。
正直、この本のタイトルを見て、そのとおりにすることが、常に正解と約束できる人はいるだろうか?p.54には「3時間以上勉強するとアホになります」と書かれているが、これは、常に真であろうか?
「山口県山陽小野田市で取ったデータによると、家庭学習と学力はある程度まで比例しますが、2時間半以上勉強している子どもの場合、そこから伸びにくくなります。3時間以上勉強すると学力は下がります。」と書かれている。これは、常に真か?データの取り方が誤っているとしか思えない。
2時間半までは比例で上昇。2時間半~3時間は伸びにくくなる。3時間以上は「学力は下がる」と断言している。何に対して、「学力が下がる」のか?0時間=まったく学習しない人より下がるのか?絶対嘘やん!0時間>3時間以上の学習って式が成立するはずないやんか!
じゃあ、3時間勉強した人より、3時間+α勉強した人が学力が下がっているのか?それもありえない。強いていえば、3時間+α勉強したと言った人は「ながら勉強」(TVを見ながら、遊びながら等々)勉強していたのだろう。そう、同じ人が勉強したと仮定するなら、当然、3時間より3時間+α勉強した方が学力は上昇する。自分で考えればわかるはずだ。10分より30分、30分より1時間、1時間より3時間、3時間より5時間、何かしら打ち込んだ時間が長い方が、成果は大きいに決まっている。効率の悪い3時間以上学習者と、効率のいい2時間半学習者を同じ土俵で比較してはならないのである。
とはいえ、p.138の「読書をすると算数の成績も上がる」等々、首肯できる話も結構あるのだ。
で、もっとも感動したのはp.110の「バカ正直はただのバカ、くそ真面目はただのくそ」という一文である。残念なのは、陰山先生は、これを「自戒を込めていつも自分に言い聞かせている言葉」としているところ。マイナスとしての意味を持った文章としていることが、わたし的には残念である。
「バカ」で結構。「くそ」で結構。「リコウ嘘つき」より、「バカ正直」の方がずっと人間らしくて好ましい。「綺麗チャラ男」より「くそ真面目」の方がずっとあらまほしき姿で落ち着く。
親鸞聖人も自分を「愚禿親鸞(ハゲの愚か者の親鸞)」と呼んでいたし、とある高僧も人間のことを「糞袋」と呼んでいた。「バカ」も「くそ」も、そもそも、弱い人間を表す言葉と捉えることができると思っている。その弱い人間こそ、「正直であること」「真面目であること」を放棄してしまったら、一体、何が残るのであろうか。
「ただのバカ」あるいは「ただのくそ」になりきることができることこそ、一段高い自分を実現する唯一無二の「正しい道」であると思い、陰山先生の言葉に感心したのである。
IQがアップしようと、進学校に行く子どもが増加しようと、諸行無常の人生においては、そんなに大切なことではない。そういう意味で、陰山先生の本を避けてしまうわけであるが、読み出すと、子どもの幸せは何なのだろうか・・・と、ついつい考えてしまい、時間を浪費してしまうのである。
そう、絶対的な子どもの幸せは存在しないし、求めても求めきれいないものであり、そういう意味で「正解はない」というのが「正解」というのがわかりきっているにもかかわらずである・・・
この先生の本は極力読まないようにしている。奇をてらいすぎであり、時に過激、時に緩過ぎ。社会人の学びに対しては、いい面もあるが、悪い面もある。なんせ、われわれは小学生ではないのだから。
とはいえ、小学生でも、薬になる面もあれば、場合によっては、劇薬になる面もあり、素人が使いこなせるものではない。
正直、この本のタイトルを見て、そのとおりにすることが、常に正解と約束できる人はいるだろうか?p.54には「3時間以上勉強するとアホになります」と書かれているが、これは、常に真であろうか?
「山口県山陽小野田市で取ったデータによると、家庭学習と学力はある程度まで比例しますが、2時間半以上勉強している子どもの場合、そこから伸びにくくなります。3時間以上勉強すると学力は下がります。」と書かれている。これは、常に真か?データの取り方が誤っているとしか思えない。
2時間半までは比例で上昇。2時間半~3時間は伸びにくくなる。3時間以上は「学力は下がる」と断言している。何に対して、「学力が下がる」のか?0時間=まったく学習しない人より下がるのか?絶対嘘やん!0時間>3時間以上の学習って式が成立するはずないやんか!
じゃあ、3時間勉強した人より、3時間+α勉強した人が学力が下がっているのか?それもありえない。強いていえば、3時間+α勉強したと言った人は「ながら勉強」(TVを見ながら、遊びながら等々)勉強していたのだろう。そう、同じ人が勉強したと仮定するなら、当然、3時間より3時間+α勉強した方が学力は上昇する。自分で考えればわかるはずだ。10分より30分、30分より1時間、1時間より3時間、3時間より5時間、何かしら打ち込んだ時間が長い方が、成果は大きいに決まっている。効率の悪い3時間以上学習者と、効率のいい2時間半学習者を同じ土俵で比較してはならないのである。
とはいえ、p.138の「読書をすると算数の成績も上がる」等々、首肯できる話も結構あるのだ。
で、もっとも感動したのはp.110の「バカ正直はただのバカ、くそ真面目はただのくそ」という一文である。残念なのは、陰山先生は、これを「自戒を込めていつも自分に言い聞かせている言葉」としているところ。マイナスとしての意味を持った文章としていることが、わたし的には残念である。
「バカ」で結構。「くそ」で結構。「リコウ嘘つき」より、「バカ正直」の方がずっと人間らしくて好ましい。「綺麗チャラ男」より「くそ真面目」の方がずっとあらまほしき姿で落ち着く。
親鸞聖人も自分を「愚禿親鸞(ハゲの愚か者の親鸞)」と呼んでいたし、とある高僧も人間のことを「糞袋」と呼んでいた。「バカ」も「くそ」も、そもそも、弱い人間を表す言葉と捉えることができると思っている。その弱い人間こそ、「正直であること」「真面目であること」を放棄してしまったら、一体、何が残るのであろうか。
「ただのバカ」あるいは「ただのくそ」になりきることができることこそ、一段高い自分を実現する唯一無二の「正しい道」であると思い、陰山先生の言葉に感心したのである。
IQがアップしようと、進学校に行く子どもが増加しようと、諸行無常の人生においては、そんなに大切なことではない。そういう意味で、陰山先生の本を避けてしまうわけであるが、読み出すと、子どもの幸せは何なのだろうか・・・と、ついつい考えてしまい、時間を浪費してしまうのである。
そう、絶対的な子どもの幸せは存在しないし、求めても求めきれいないものであり、そういう意味で「正解はない」というのが「正解」というのがわかりきっているにもかかわらずである・・・