まだまだ記事にしたいことは多々あるのですが、今日は、この羽黒城で就寝したいと思います。
楽田から名鉄で1駅、自転車だと結構な距離を走って、今日の折り返し点である羽黒駅へ。北上もこれでおしまい。羽黒駅までくると、古墳マニアには、「あっ、あそこが怪しい」とわかるくらいのところがあって、案の定、そこが羽黒城跡であり、羽黒城古墳でした。
ご丁寧にも、このような標識が!
といいつつも、この標識の隣にこのような標識が。
土塁のようですが、標識をよく見ると・・・
梶原ってことは、鎌倉時代ってこと?
さて、矢印に従って羽黒城跡に行ってみました。
なんと、山内一豊とも縁が深い場所のようです。
場所はこんな感じ。
頂上にまで行ってみると、羽黒城址の石碑がありました。
楽田まで来たので、行きたかった神社へ!
前回、楽田に来たときは、青塚古墳がメインだったし、徒歩だったので、大縣神社に行くことができませんでした。なんせ、青塚古墳まで片道2キロ。それを往復したのですから、更に歩くことは困難でした。
しかし・・・自転車でも大縣神社は苦難の連続でした。なんせ、上り坂・・・
足がガクガクしているのに、この坂を上ったのですから・・・で、なんとか到着!
まずは本殿へご参拝。
姫之宮というお社もありました。
姫之宮では「人形串」なるものが売っているそうです。
あぁ、これが人形串なのね!
あるいは、少し歩いたところに「姫石」というものもありました。
色々と、珍しいものがありました。
城巡り6でご紹介した楽田城跡です。
前回は、車が止まっていて全貌を写真に収めることができませんでした。羽黒城跡に行く途中に寄ってみました。
「山砦」が3つ続きます。
そう、「山」なのです。「岩崎山」と「小松寺山」と「久保山」という山に、果敢にも自転車で戦いを挑み、自滅してしまったのです。これだけ大変なのですから、戦国時代の武将たちも、守りに固く、攻めあぐねていたことでしょう。
ようやく、砦跡があるだろう神社の前に到着!
ここに至るまでの坂道も大変だったのですが、更に階段が疲労困憊した私に襲いかかります!
上り切ったと思ったら、またもや階段・・・もうこの段階で、足が言うことをききません。にもかかわらず、この後、更に「山」に上るのですが・・・
ようやく看板を見つけて、神社にお参りをして階段を下りようとしたところ・・・
急な勾配に、足が笑ってしまいました。手すりをつかみながら、ゆっくり降りるしかありませんでした・・・
「砦」も「城」と見做した以上、可能な限りご紹介していきたい!
そんな気持ちが、今日の私の自殺点ともいえる結果を生むこととなろうとは・・・「砦」というとどういうイメージですか?そう、そのご想像の通り、結構、山の上にあるのです。自転車で回るには地獄というくらいの坂が私を待ち構えていました。当然、坂道を自転車を押していくこととなります。
で、小松寺山砦跡。ここも、「看板」を探すのに時間がかかりました。小松寺は、この通り、すぐに見つかりました。
しかし、あるはずの看板がないのです。お寺からお墓まで通り抜けましたが、あるべき標識がないのです。かなりのロスタイムを喰らいつつ、再びネットで確認すると・・・なんと、隣の八所神社にあると書かれているではないですか!「小松寺山砦跡」の標識が、小松寺になく、八所神社にあるなんて、ありえない!!
この高いところまで、自転車で上ったり下りたり捜索したのだから、体力の消耗の激しさをご理解いただけるかと思います。
やはり納得いかないので、再び岩崎山に登り岩屋古墳を捜索する。
熊野神社と正反対のところで、ようやく岩屋古墳を発見!
岩崎山の西の端に「岩崎山砦跡」の看板があり、東の端に「岩屋古墳」があるといったイメージ。その距離、なんと数百メートル。「案内板ぐぐらいつけろよ!」って言いたくなる。本当、一切「古墳はこちら」とか標識がないんだから!!
でも、苦労して探した甲斐がありました。
これが石室。
中に入れないのが残念・・・
しかし、ここでのロスタイムが、更なる悲劇を招くとは、まだこの時には気が付かなかったのでした。。。
本日、最もロスタイムを喰らったのが、ここ岩崎山・・・
味岡にある「岩崎山」には「岩崎山砦跡」と「岩屋古墳」があるのだが、両方見つけることができず、多大なロスタイムと体力の消耗となってしまった。なんせ、1日で21,373歩もあるいているのだから。この山中を駆け巡ったと言っても過言ではない。
岩崎山を発見するのはすぐできた。しかし、城跡の表示が見つからない。見つかったのは「熊野社の五枚岩」という表示。
これが五枚岩!凄いぞ!
急な坂を一気に山頂まで登る!
「御統監之趾」の石碑は発見!
しかし、山を巡るも「岩崎山砦」と「岩屋古墳」は発見できず・・・時には、このようなトラップもあり、命の危険すら覚悟したのだった。
この巨石が「岩屋古墳」なのか?と思ったが、ネットの記事では石室があると書かれているし・・・
一旦、山を下りて、ようやく岩崎山砦跡の石碑と表示(見出しの画像)を発見!
本当、大変でした・・・
なんと、三ツ山古墳群と田中砦跡は同じ遺跡に重なっています!
なんと珍しい・・・と思いたくなりますが、これは必然なのです。正直、既に巨大古墳としてご紹介した楽田にある「青塚古墳」は、その昔「青塚砦」だったし、後でご紹介する「羽黒城古墳」は「羽黒城」として活用されていました。
盛り上がったところを砦や城として使うのは誰でも思いつくこと。地形を活用して、戦に向かうのなら、当然、古墳は活かされるべきなのです。で、三ツ山古墳と同じですが田中砦跡!
小牧長久手の戦いにおいて、砦として使われたのですね。
「三ツ山古墳群跡」と刻まれた石碑。
そう、三ツ山古墳群は三号墳を残すのみで、既に「群」と呼ぶことはできない状態です。そして、二号墳の哀れな現状がこちら。
古墳が焼失して道路や駐車場ができる・・・なんでしょう、この虚しさは。でも、これは古墳とわかっているからであって、それ以前に膨大な文化的遺産が闇から闇に葬られているのだから、この三ツ山古墳群だけを責めることはできませんし、そんなつもりはありません。