ブログの記事がコロナ関連のことばかりになってきており申し訳なく思っています。
ただ、この未曾有の「不幸」は、今までの自分の「幸せ」を見つめなおすきっかけにはなるのではないか・・・と思っています。
もし、世の中がここまでグローバル化していなければ、コロナ禍は中国の内陸都市の不幸な災害で終わっていたかもしれません。しかし、世界規模の人の往来により、一気にワールドレベルでの大災害となってしまいました。
とはいえ、災害が及んでいる場所は、今まで物流ネットで世界中の恩恵を享受していた場所が主なところ。さすがに、人の交流が全くない未開の奥地までコロナ禍は伝播していないでしょうから。
日本国内でも、コロナ禍が猛威を振るっているのは都会と言われていたところが多く、「外人が来る」「娯楽施設が多数」「満員列車等人が密集している」「海外に行く人が多い」等々、コロナが広がる下地が整っていた場所といえます。
一方、人が訪問するのが困難な場所は、コロナが魔の手を伸ばすのも困難な場所で、クラスターが発生している場所は、複数の人が集団として集まり、その中に感染源となる人がいた場所と言えます。一部例外もありますが、やはり、都市部に集中しております。
社会とのつながりを断ち切って、一人で生きていくならともかく、誰かしら接点をもって生きていくなら、コロナのリスクはゼロにはなりません。外出時間、人と接点をもつ回数、近密度の軽重等によって可能性が増減するだけのこと。無論、その可能性を可能な限り低下させるのが緊急事態宣言なのですが。
ここで、我々が忘れてはいけないのは「あのとき、偶然、あそこに行ったのでコロナになった」というのと同じ確率で「あのとき、偶然、あそこに行ったのでコロナにならなかった」という点についてです。まあ、コロナに罹る場所の方が少ないので、同じ確率と言うのはいささか暴論かもしれませんが。
言いたいことは・・・できるだけリスクを下げる努力をしたなら、あとは自分の運を信じるしか無いわけです。一本前の電車に乗れてラッキーと思ったら、その列車に感染者がいたってこともリスクシナリオとしてあり得るわけです。逆に、寝坊して一本電車を乗り過ごしてしまったがために、その列車には乗らなかったかもしれないわけです。
そして多くの人々が、コロナになっていないため、あるいは事故やトラブルに巻き込まれていないため、そういう日常を当然と思っているため、その幸運を感じ取ることができていません。
一歩、外出した以上は、コロナ罹患のリスクはゼロではありません。にもかかわらず、コロナに罹らず、一日の仕事を終えることができたのなら、その幸せを感じるべきでしょう。そう考えておかないと、万一(愛知県では3万人に1人なので三万一?)コロナに罹ってしまうと、自分の不幸を呪って立ち直れないかもしれませんので。
罹った人が悪いのではなく、悪いのはコロナ。そして外出せざるを得ない以上、リスク回避の努力を尽くしたなら、後は、運命の幸不幸に従うしかないのですから。