図書館で借りていた本を返却に鶴間中央図書館へ。
読書を推奨している割に、やはり、自宅からの遠隔地に位置する「名古屋最大の市立図書館」に電車で行くのはエネルギーがかかる。それが証拠に、2016年2月7日に名古屋に単身赴任してから読んだ本は、5年4ヵ月かかって451冊。時に、年間1,000冊以上読んでいたのが、5年以上かけて半年分にも満たない冊数しか読めていない。
しかも、カバンに詰め込んで重い本を自宅に持ち帰るのが辛いので、文庫や新書といった軽い本ばかり借りている・・・武蔵野大学大学院時代に借りた「三階教之研究」という本は、1000ページ超で3.5キロ。こんな本が鶴舞中央図書館にあったとしても重過ぎて借りて帰れない・・・
まあ、本は「読んだ冊数」を誇るのではなく、「読んで何を獲得したか」が重要。著者とシンクロして、著者が何を思って本を書いたかを見出せなければ、それは真に読んだとはいえない。そして、その本を読んで、何か得るものが一つでもあったら、それこそが、自分の人生という時間を投下してまで、その本を読んだ価値があったといえるのだから。
人生80年だとすると、80年=29,200日=700,800分=42,048,000秒が自分の持ち時間。持ち時間を消化すると人は死ぬ。そう、人間は一瞬で死ぬのではなく、1秒1秒死んでいくのである。たとえ、事故で死んだとしても、後から俯瞰したなら、神仏その他みえざる力により「偶発的」に与えられた人生を、生と死の瞬間まで、1秒1秒、その刹那の時間を刻んで、結局は死んでいくのだ。
言い換えると、人生とは、いかに無駄に消費されていく時間をなくし、どんどん無慈悲に削られていく「時間」に、なんらかの「意味」や「意義」や「価値」を与えていくことでしかない。なんせ、自分の思いとは関係なく、勝手に時間は過ぎていくのだから。何もしなければ、自分の「人生目録」は真っ白なまま。あるいは「毎日出社して退社した」って感じの内容だと、死出の旅路の中で、神や仏やその他「私を現世で生かしてくれたみえざる存在」から、「我らが与えた命で、結局、あなたは何をやってきたのですか?」と聞かれた際、「毎日仕事でした」では楽しんでもらえないだろう。
「不可逆性」「一回性」「有限性」といった縛りのある人生。なら、有限な時間で、どこまで際立った人生を演じることができるか?「論文」ではないけれど、それが「人生」の「独自性」であり「新規性」ではないかと思っています。あの世で、神様や仏様に人生を語って、どれだけ笑って、楽しんでもらえるか。あるいは、涙を誘ったり、悲しんでもらったり、どれだけ心を揺さぶることができるか・・・
大幅に脱線して、長々と書いてしまいましたが、昨日の鶴舞公園。
そして見上げると雲。
この空の下、それぞれの人が、それぞれの「人生のレコード」を刻んでいる。