「脳死は人の死」を前提に、
本人の意思が不明な場合でも家族の承諾で
0歳からの臓器提供を可能にする改正臓器移植法(A案)が13日、
参院本会議で可決、成立した。
施行は公布から1年後。
現行法は臓器移植の場合に限って脳死を人の死と認めており、
死の定義を大きく変えるとの懸念もある。
97年の同法制定後、改正は初めて。
http://www.asahi.com/politics/update/0713/TKY200907130189.html?ref=goo
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「脳死は人の死」と定義づけした、改正臓器移植法案が、
先に衆議院で可決していた「A案」のまま、参議院でも可決されました。
「脳死は人の死」・・・
難しい問題ですね。
臓器を提供される側と、臓器を提供する側、
どちらの立場になるかで、180度変わってきます。
テレビで、脳死状態のお子さんを一生懸命育てるご家族を拝見したことがあります。
「歯が生えてきた」ことに感動し、
「髪が伸びた」と喜び、
「身長が伸びた」と喜ばれるご両親は、
愛情たっぷりに我が子を見守っておられました。
親だからできる、親子だから伝わる 「絆」を大切に守っておられました。
そんな人たちにとって「脳死は人の死」と決めつけるのは残酷な気がします。
でも、一方で、臓器提供を待っておられる方もたくさんいらっしゃいます。
幼いお子さんを連れて、
海外まで、臓器移植のために渡られるご家族を何度かテレビで見ました。
多額な費用、臓器提供を待つ間のご苦労は計り知れないと思います。
移植医療のために、今回の改正臓器移植法案は必要だったのでしょう。
では、従来の “臓器を提供する意思がある場合に限って「脳死は人の死」とする”は何故問題なのか、
私自身、勉強不足のため、よく理解できていません。
15歳未満も、親の承諾により、
“臓器を提供する意思がある場合に限って「脳死は人の死」”でいいのでは、と思うのです。
(的を射ていない意見でごめんなさい)
「死」の定義は何か・・・
世界のほとんどの国で、「脳死は人の死」とされ、
脳死下での心臓、肝臓、肺、腎臓などの移植が日常の医療となっている現状のなか、
「脳死=人の死」と一律に定義づけることが必要なのかどうか、
その考え方に、なかなか、ついていけない自分を感じています。