クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

関口芭蕉庵と、芭蕉忍者説~目白散歩・2

2015-04-08 | クリン江戸散歩

神田川沿いを歩いていると、

 「関口芭蕉庵」という、しせき(史跡)があらわれます

 ここは、俳人・まつおばしょう(松尾芭蕉)が、まだ 俳句で名をなすことが 

かなわなかった・若いころ、

 3年以上、住んでいたところ

          「古池や~」

 (←芭蕉の木

 ばしょう(芭蕉)がここで、何をしていたか?というと・・

なんと!

「現場監督」として、

神田川の改しゅう(修)工事に たずさわっていました

「俳聖・芭蕉」が、工事げんば(現場)

・・・・・・・

伊賀の国主・「藤堂家」に仕えていた

若き ばしょう(芭蕉)は、

いろいろなスキルを もっていたらしく、

 神田川を分流させて、水戸はんてい(藩邸)に流す・工事に

たずさわっていました。

 「依頼主」の黄門さま(かんじ:徳川光圀)は、

江戸で しょっちゅうおきる火事

うんざりしていて、

自分のやしきが、火事でやけないよう、

たくさんお水を 

引き込みたかったのです

 この時、ばしょうと黄門さまは、知り合っているはずだから・・・

という、おくそく(憶測)が

やがて、

「芭蕉忍者説」に つながっていきます

 そもそも、この説のはじまりは、

・芭蕉が、忍者の里・伊賀の生まれである。

・芭蕉が仕えた藤堂家は、多くの忍者を抱えていた。

・・・・だから、あやしい

というものですが、

さらに、このあと!

 ばしょうが、東北俳句りょこう(旅行)に 出かけているのも、

ぜったい・うらがある

見る向きがあるのです。

いわく

 「芭蕉が奥の細道を旅したのは、光圀の命令で、東北の伊達藩を密偵していたのだ!

(→江戸初期は、まだ伊達家は天下統一の野心があった)

また、

関所越えが簡単でない時代に、大旅行すぎる・・」

旅費はどこから出ていたのか

(→光圀の支援があったからスムーズだった)

芭蕉は、一日に40キロ以上歩いている日がある。

 健脚すぎだろ・・

(→絶対忍者だ!)

というもの。。


なかなか、

おもしろい・うたがいですよね  (つづく)







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