神田川沿いを歩いていると、
「関口芭蕉庵」という、しせき(史跡)があらわれます
ここは、俳人・まつおばしょう(松尾芭蕉)
が、まだ 俳句で名をなすことが
かなわなかった・若いころ、
3年以上、住んでいたところ
「古池や~」
(←芭蕉の木
)
ばしょう(芭蕉)
がここで、何をしていたか?というと・・
なんと!
「現場監督」として、
神田川の改しゅう(修)工事に たずさわっていました
「俳聖・芭蕉」が、工事げんば(現場)
・・・・・・・
伊賀の国主・「藤堂家」に仕えていた
若き ばしょう(芭蕉)は、
いろいろなスキルを もっていたらしく、
神田川を分流させて、水戸はんてい(藩邸)に流す・工事に
たずさわっていました。
「依頼主」の黄門さま
(かんじ:徳川光圀)は、
江戸で しょっちゅうおきる火事に
うんざりしていて、
自分のやしきが、火事でやけないよう、
たくさんお水を
引き込みたかったのです
この時、ばしょうと黄門さまは、知り合っているはずだから・・・
という、おくそく(憶測)が
やがて、
「芭蕉忍者説」に つながっていきます
そもそも、この説のはじまりは、
・芭蕉が、忍者の里・伊賀の生まれである。
・芭蕉が仕えた藤堂家は、多くの忍者を抱えていた。
・・・・だから、あやしい
というものですが、
さらに、このあと!
ばしょう
が、東北俳句りょこう(旅行)に 出かけているのも、
ぜったい・うらがある
と
見る向きがあるのです。
いわく
「
芭蕉が奥の細道を旅したのは、光圀の命令で、東北の伊達藩を密偵していたのだ!
」
(→江戸初期は、まだ伊達家は天下統一の野心があった)
また、
「関所越えが簡単でない時代に、大旅行すぎる・・」
「旅費はどこから出ていたのか
」
(→光圀の支援があったからスムーズだった)
「芭蕉は、一日に40キロ以上歩いている日がある。
健脚すぎだろ・・」
(→絶対忍者だ!)
というもの。。
なかなか、
おもしろい・うたがいですよね
(つづく)