木場のほりわり(掘割)を
ブラブラしていて
ふと・見つけた、
あかい鳥居・・
すさき(洲崎)神社・・。
(弁天さまの、お社か)
しき地も、はいでん(拝殿)も、小さくて、
いかにも、地元・みっちゃく型 ってかんじです
しかし・・
(・・・ん?)
「津波警告の碑」 (こんなところに、なぜ・・?)
<寛政三年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した
高潮により、
付近の家屋がことごとく流されて
多数の死者・行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視し、
洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて
空き地とした。>
・・・・・・・
(このへん、海だったんだっけ・・)
れきし(歴史)にくわしい・チット
によれば、
江戸時代は
「埋立地の造成」がすすみ、
もと・海があった、すみだ(隅田)川・左岸が、
どんどん・りく(陸)地に
かわっていった
らしい
こちらの「波除碑」と、
「平久橋」のたもとの「波除碑」とを
むすぶと、
当時の海岸せん(線)がわかる。。
ばくふ(江戸幕府)は、
「人は住んじゃダメ」
と
おふれを出しましたが、
けっきょく
明治になってからも、
木場関係者は住んだり、
「洲崎遊郭」の女の子たちが
住んだりして、
住民は、たびたび・海あらし(嵐)に おそわれたそうです
そんな
「江戸の埋立地」には、
もとの海を
れんそう(連想)させる・地名が、
つけられています
この近くだけでも、「越中島」「大島」「永代島」・・・
ちょっとはなれて、
「向島」「佃島」「石川島」「豊洲」「築地」「汐留」・・・
つまり、
そういう名前の場所は、
漁民でもないかぎり
住むことが
あまり しょうれい(奨励)されて
いない。。
なのに、
今は、
うめたて地が さらにふえて、
タワーマンションとかが
いっぱいたっている・・
(れきし(歴史)の きょうくん(教訓)は)
(つづく)