第1話 「桜花抄」
女の子「ねぇ、秒速5センチなんだって」
男の子「えっ、なに?」
女の子「桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル」
女の子「ねぇ、なんだか、まるで雪みたいじゃない」
男の子「そうかなぁ? ね~、待ってよ! 明里!」
明里「隆貴くん、来年も一緒に桜、見れるといいね」
隆貴:僕と明里は精神的にどこかよく似ていたと思う。
僕が東京に転校してきた一年後に明里が同じクラスに転校してきた。
まだ体が小さく病気がちだった僕らは、
グラウンドよりは図書館が好きで、
だから僕たちはごく自然に仲良くなり、
そのせいでクラスメイトから、
からかわれることもあったけれど、
でもお互いがいれば不思議に
そういうことはあまり怖くはなかった。
僕たちはいずれ同じ中学校に通い、
この先もずっと一緒だと、
どうしてだろう、そう思っていた。
隆貴「えっ、転校? 西中はどうすんだ?せっかく受かったのに」
明里「栃木の公立に手続きするって。ごめんね・・・」
隆貴「いや、明里が謝ることないけど」
明里「葛飾のおばさんちから通いたいって言ったんだけど、もっと大きくなってからじゃないと、ダメだって」
隆貴「分かった。もういいよ。もういい」
明里「ごめん・・・・」
耳が痛くなるくらい押し当てた受話器越しに、
明里が傷つくのが手に取るように分かった。
でも、どうしようもなかった。
隆貴:明里からの最初の手紙が届いたのは、
それから半年後。中一の夏だった。
彼女からの文面は全て覚えた。
明里:遠野隆貴様へ。
大変ご無沙汰しております。こちらの夏も暑いけれど、東京に比べればずっと過ごしやすいです。でも今にして思えば、私は東京のあの蒸し暑い夏も好きでした。溶けてしまいそうに熱いアスファルトも、陽炎のむこうの高層ビルも、デパートや地下鉄の寒いくらいの冷房も。私たちが最後に会ったのは、小学校の卒業式でしたから、あれからもう半年です。ねぇ、隆貴くん、あたしのこと、覚えていますか?
先輩「遠野くん」
隆貴「先輩」
先輩「なに?ラブレター?」
隆貴「違いますよ」
先輩「ごめんね、全部お願いしちゃって」
隆貴「いえ、すぐ終わりましたから」
先輩「ありがとう。ねぇ、転校しちゃうって本当?」
隆貴「はい、三学期一杯です」
先輩「どこ?」
隆貴「鹿児島です。親の都合で」
先輩「そっか。寂しくなるなぁ。」
明里:今度は隆貴くんの転校が決まったということ、驚きました。お互いに昔から転校には慣れているわけですが、それにしても鹿児島だなんて…。 今度はちょっと遠いよね。いざという時に、電車に乗って会いに行けるような距離がなくなってしまうのは、やっぱり少し…ちょっと寂しいです。どうかどうか、隆貴くんが元気でいますように。
明里:前略。隆貴くんへ。3月4日の約束、とてもうれしいです。会うのはもう一年ぶりですね。なんだか緊張してしまいます。うちの近くに大きな桜の木があって、春にはそこでも多分、花びらが秒速5センチで地上に降っています。隆貴くんと一緒に春もやって来てくれればいいのに、って思います。
明里:私の駅まで来てくれるのはとても助かるのですけれど、
遠いのでどうか気をつけて来て下さい。
約束の夜7時に、駅の待合室で待っています。
隆貴:明里との約束の当日は、昼過ぎから雪になった。
放送「お客様にお知らせいたします。宇都宮線、小山、宇都宮方面行き列車は、ただいま雪のため、到着が10分ほど遅れております。お急ぎのところ、お客様には大変ご迷惑をおかけいたします」
隆貴:その瞬間まで、僕は電車が遅れるなんていう可能性を、考えもしなかった。
不安が急に大きくなった。
放送「お客様にお知らせいたします。ただいま両毛線は、雪のため、大幅な遅れをもって運転しております。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしております。列車到着まで今しばらくお待ち下さい」
放送「お客様にご案内いたします。ただいま、降雪によるダイヤの乱れのため、少々停車いたします。お急ぎのところ大変恐縮ですが、現在のところ、復旧のめどは立っておりません。繰り返します。ただいま、降雪によるダイヤの乱れのため、少々停車いたします。お急ぎのところ大変恐縮ですが、現在のところ、復旧のめどは立っておりません」
隆貴:手紙から想像する明里はなぜか、いつも独りだった。電車はそれから結局、2時間も何も無い荒野で停まり続けた。たった1分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。僕はきつく歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように耐えているしかなかった。
明里…どうか…もう…家に…帰っていてくれればいいのに。
その夜、僕たちは畑の脇にあった小さな納屋で過ごした。
古い毛布に包まり、長い時間話し続けて、いつの間にか眠っていた。
朝、動き始めた電車に乗って僕は明里と別れた。
明里「あの…隆貴くん。隆貴くんは、きっとこの先も大丈夫だと思う!絶対!」
隆貴「ありがとう。明里も元気で!手紙書くよ!電話も!」
彼女を守れるだけ力が欲しいと、強く思った。
それだけを考えながら、僕はいつまでも、窓の外の景色を見続けていた。
第1話 「桜花抄」 完