遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

祝!gooブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(1)木曽路の秀忠軍と真田一族

2024年07月08日 | 故玩館日記

1月に、ブログ改設5周年の記念ブログを書きました。gooブログへは、Yahooブログから半年後に移りました。ですから、今日が、gooブログでの5周年になります。

例によって、いつものガラクタよりワンランク上の品を、と探し回り、今回の絵巻物になりました。

『関ケ原合戦絵巻』20.5㎝x7.65m。江戸中期ー後期。肉筆彩色。

関ケ原合戦絵巻は、オリジナルの絵巻を写していったようで、各地の博物館や資料館に収蔵されています。絵巻にはいくつかのパターンがあり、今回の絵巻は2巻仕立て絵巻の第2巻目です。1巻目は残念ながらもってません。

関ケ原合戦の前哨戦から本戦まで、ほぼ時系列になって、右から左へと物語が展開していきます。

木曽路の徳川秀忠軍:

真田幸村と沼田城:

沼田城内:

杭瀬川の戦い:

西軍の配置:

東軍の配置:

島津ののき口(?):

大谷刑部の最後:

敗走する西軍:

大変長い巻物なので、数回にわたってブログで紹介します。

今回は、木曽路の攻防(写真の上から3枚分)です。

木曽路の徳川秀忠軍:

徳川家康は、石田三成率いる西軍との戦いに対して、まず、信州の真田を攻略すべく、秀忠を大将にすえ、徳川の主力、3万4千の大軍をおくりました。

木曽路をすすむ秀忠隊の旗印です。榊原康政、大久保忠隣、牧野康成、本多正信、真田信幸(信之)。これより以前、家康の上杉討伐に参加するため下野国に陣を張っていた真田昌幸は、石田三成挙兵の報に接します。そこで、子の信繁(後、幸村)、信幸(後、信之)と密議を開き、戦の行方がどのようであっても真田が生き残れるよう、信幸は東軍、昌幸と信繁は西軍につくと決めました。その結果、秀忠隊に信幸も加わり、昌幸・信繁と戦うことになったのです。

慶長5年(1600)9月2日、真田昌幸の居城、信州上田城を秀忠軍が取り囲みます。

台徳公(秀忠)の使番(敵軍への使者)が上田城に向かい、降伏を迫ります。

ところが、昌幸は返事を先延ばしにし、降伏に際してさまざまな要求を行い、時間稼ぎをしました。そして、秀忠を挑発し、巧妙な作戦で翻弄し続けたため、秀忠軍は信州で足止めをくらい、関ケ原合戦に間に合わないという大失態を演じることになったのです。

真田幸村と沼田城:

話しは、前後します。

家康の上杉討伐に参加していた真田昌幸は、西軍につくことを決め、急遽、居城、信州上田城へ戻っていきます(下図)。

その際、昌幸は、東軍についた信幸の居城、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄ろうとしました。

戦いの前に、かわいい孫の顔を一目見ておきたいと思ったからです。

城の外で夜通し陣をはる兵士達。信幸の留守を守る兵士たちでしょうか。

秀忠軍の兵という説もあります。

沼田城内:     

女たちがにぎやかに過ごしています。

向こうの部屋では、女中たちが食べ物を前に談笑中。

座敷では、女たちが幼子をあやしています。

左端の女性は、思いつめた様子です。

東軍についた沼田城主、真田信幸の妻、稲(小松殿)でしょう。信幸は、徳川家康の重臣、本多正信の娘、小松姫をめとっていたのです。今は、敵と味方にわかれて戦う真田一族。夫、信幸にかわって城をまもる稲は、西軍に与する舅、真田昌幸の申し出をきっぱりと断ります。大手門にあらわれた稲は、鎧に身を包み薙刀を手にし、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放ったそうです。孫に会うことが出来なかった昌幸は、むなしくそのまま上田城へ引き上げたのでした。

この場面は、先の大河ドラマ『どうする家康』でも出てきました。人気のエピソードなのですね。

一説では、その後、秘かに、沼田城近くの正覚寺へ昌幸らを案内し、孫に合わせた、ともいわれています。真偽は不明です。

 

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円空終焉の地(岐阜県関市)を訪ねました

2024年06月24日 | 故玩館日記

以前のブログで、円空の生誕地、岐阜県羽島市の中観音堂を紹介しました。

今回は、円空終焉の地を訪れました。円空生誕地から30kmほど北、岐阜県関市池尻、やはり、長良川の畔です。

この一帯は、広大な弥勒寺史跡公園となっています。

土曜日の午後というのに貸切り状態(^^;

写真の奥にあるのが弥勒寺。

円空は、江戸時代、廃寺となっていた弥勒寺を再興し、晩年をすごしました。

しかし、その寺は、大正九(1920)年の火事で焼失してしまいました。写真の寺は、その数百m東に再建されたものです。

焼失した弥勒寺跡へ向かいました(上の写真左(西)方)

竹林が枯れています。竹の花が咲いたのですね。

中央の黄線で囲まれた所が弥勒寺跡。

かなり大きなお寺であったようです。

寺には、数百体の円空仏があったそうですが、火事で灰になってしまいました。

竹林の中をさらに西に進むと、円空の墓への道があります。

しばらく山道を登ると、

円空の墓がありました。

弥勒寺跡の裏にあたります。

林の中にひっそりとたたずんでいます。

「ユ(梵字で弥勒菩薩)當寺中興圓空上人 元禄八乙亥天七月十五日 花押」

竹林をもう少し進むと、

関市円空館に出ます。

小さな施設ですが、関市にある300体あまりの円空仏の内、40体ほどを展示しています。その中には、円空の最高傑作とされる一木三体仏や善財童子像があります。

善財童子(パンフより)

円空館を後にして、山を降りていくと、

長良川の畔に出ます。

ここが、円空入定の場所です。

入定塚の横には大きな藤が生えています。

元禄八(1695)年、死期をさとった円空は、「この藤の花が咲く間は、この土の下で生きていると思え」と言い残して入定したそうです。

眼をやると、長良川が山にぶつかって、大きく蛇行し、瀬と淵が連続する変化にとんだ絶景が広がっています。

ここは、下流の岐阜市金華山麓とならんで、小瀬の鵜飼として有名な場所です。

小瀬の鵜飼は、暗闇の中、古式を多く残した方法で行われます。ここの鵜飼は千有余年の歴史をもっていて、円空の時代にも行われていたはずです。

円空の入定は、小瀬の鵜飼を真正面に眺めることができる場所でなされたのですね。

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民家の屋根にシラサギ

2024年06月18日 | 故玩館日記

故玩館、中山道脇の畑から西方をのぞむと、

正面に四方屋根の家が見えます。

もう少し近寄ると、

何か、おかしい。

よく見ると、屋根のてっぺんに白い鳥がいます。

橋をゆっくり渡っていく電動カートのおじさんには、無関心の様子。

一心不乱に、左下方を見つめています。

この家(写真右端)は、川の際に建っています。

ジッと獲物を狙っているのですね。

ここからなら見通しがききます。

しかしこの距離から、水中の獲物が良く見えるものですね。鳥の視力に感心(^.^)

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華渓寺と梁川星巌・紅蘭

2024年06月14日 | 故玩館日記

先回のブログで、大垣市北東部の曽根城址を紹介しました。

ここは現在、曽根城公園となっていて、菖蒲園や池、湧水などがあります。

菖蒲園の横は、広大な芝生広場になっています。

桜の巨木が並ぶ輪中堤の下あたりに、なにやら見えます

銅像です。

梁川星巌・紅蘭夫妻の像です。梁川星巌は、江戸時代の代表的な漢詩人で、紅蘭はその妻です。彼女も、江戸時代の代表的な女流漢詩人です。二人とも、書画をよくしました。

稲葉一鉄の居城、曽根城は、関ケ原の合戦の後、廃城となり、本丸跡には、一鉄の菩提寺、華渓寺が移り、現在に至っています。江戸時代、城下町はすべて、田畑になりました。寺の西方には、その面影がまだ残っています。

南側が正面。

境内に進むと、

「史跡 曽根城本丸跡」の石碑とともに、

「梁川星巌記念館」の案内板が建っています。

さらに進むと、巨大な石碑がそびえています。

梁川星巌顕彰碑です。

実は、梁川星巌は、この華渓寺と深い関りがあります。

曽根城が廃城になってから200年後、寺のすぐ南に、大垣藩士、稲津丈太郎の長男として生まれたのが星巌です。聡明であった彼は、数え7歳から寺の和尚のもとで、歴史、漢文、書をならい、学問にひかれていきました。

しかし、12歳の時、相次いで両親が病死。彼は、親の供養のため、庚申像を作り、曽根村の辻に祀りました。

19歳の時、江戸へ出て、儒学と漢詩を本格的に学び、25歳で帰郷します。そして、地元で開いた私塾に学びに来ていたのが、紅蘭です。3年後、15才年上の星巌と彼女は結婚します。彼女は、またいとこであった星巌に対して、「将来はこの人」と、早くから決めていたそうです。

以後二人は、郷里の曽根村にいるのはほんのわずかで、江戸、京都、そして日本各地を放浪の旅でめぐりました。文字通りのオシドリ夫婦、江戸時代には稀な生き方です。

梁川星巌記念館(無料)

文政五(1822)年、中国、九州、四国を巡った旅は、5年に及びました。ほとんど路銀をもたず、各地の文人を訪ね、交流した書画三昧の旅でした。生涯に作った漢詩は3000以上で日本の李白とよばれました。紅蘭も1000ほどの漢詩をのこしています。

星巌の漢詩は、独特の草書体で書かれています。ちなみに、星巌の書画は、戦前までは珍重されたため、贋物が多く出回っています。

晩年は京都に住み、多くの門下生を育てました。勤王の志士、山中静逸三輪田元網(三輪田米山の弟)の妻、三輪田眞佐子は、京都時代の梁川星巌下で学びました。

勤王思想の主導者としても高名で、佐久間象山、藤田東湖、吉田松陰、西郷隆盛などと交友しました。

安政五年、安政の大獄で捕えられる寸前に、星巌はコレラで亡くなりました。代わりに、紅蘭が捕らえられ、獄に入りました。しかし、彼女は、頑として口を割らず、半年後に釈放されました。夫の死後、門人たちとともに膨大な作品を整理し、星巌の遺稿集を世に出しました。

紅蘭も、多くの書画をのこしています。その作風は、星巌とよく似ています。

梁川星巌・紅蘭の作品については、また、ブログで紹介します(いくつかありますが、ほんど読めません(^^;)

華渓寺に入る時には気がつかなかったのですが、入り口脇に湧水場がありました。最近整備された「曾根華渓寺乃福水」と呼ばれる湧水です。20か所以上ある大垣市の湧水のなかで、最北部に位置しています。

地下180mからコンコンと湧き出ています。水汲みの人が、次々とやってきます。

さらに少し南には、豊富な地下水を生かしてワサビ栽培がおこなわれています。このワサビ田も、最近、作られました。

梁川星巌が生れたのは、この近辺です。

もし今、彼がこの地に立ったなら、昔と変わらぬ湧水を見て、どんな漢詩を作るでしょうか。

 

 

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大垣、曽根城公園と華渓寺

2024年06月12日 | 故玩館日記

この季節、花菖蒲がまだ見られるかもしれないと思い、近場の名所へ出かけました。

故玩館から中山道を西へ、次の赤坂宿方面へ向かいます。すると、すぐに揖斐川。

江戸時代、ここは、木曽川、太田の渡し、長良川、合渡の渡し、とともに、中山道での主要な渡し場、呂久の渡しがあった場所です。

『木曽街道名所図会』に描かれた情景を見ると、当時、呂久川(杭瀬川、猿渡川とも)とよばれた揖斐川は、現在よりもっと急流であったことがわかります。

この難所も、現在は、橋を渡ればなんなく通過。実はこの橋は、50年ほど前まではいわゆる沈下橋。少しの降雨で、すぐに通行止めとなりました。

西方向、右側は伊吹山(雲の中)、左は養老山脈がずーっと南へ三重県境まで続いています。その狭い隙間を抜けて近江や越前に向かうので、すべての交通が集中します。

後ろを振り返れば、東に金華山、頂上に岐阜城が点のようにかすかに見えます。左方の御嶽は雲の中。

橋を渡ってしばらく行くと前方の土地が少し低くなっています。

実は、かつての揖斐川は、ここを右から左へ流れていたのです。大正時代に、頻発する洪水を防ぐため、大改修を行い、揖斐川の流路を東へ数百m移動しました。ですから、木曽街道名所図会の呂久の渡しは先の橋付近ではなく、この辺だったのです。

もう少し進むと、かつての大川を渡り終えたことになります。

向こう側にこんもりと見えるのは、大垣輪中の堤防(通称、大島堤)。左方面は大島地区。戦国武将、大嶋光義(雲八)の生誕地との説もあります。右方面が今回の目的地、曽根城公園です。

公園には、すぐに到着しました。

やはり盛期は過ぎていて、人はまばら。その分、ゆっくりできます。

かなり広い湿地帯に、色とりどりの花菖蒲が育ててあります。

125種類、27000本だそうです。

その横には、大きな池(曽根の池、6200㎡)。

向こう側の桜並木は輪中堤(大垣輪中、大島堤)です。その向こうを、かつては揖斐川が流れていました。

大池の横には、湧水の小さな池があります。天然記念物、ハリヨが生息しています。

ハリヨは、湧き水のあるところに生息する小さな淡水魚で、巣を作り子育てします。

昔はウチの辺りでも、湧水池がそこら中にあり、私たちはハリヨを捕まえては、遊んでいました。ところが、高度成長期を境にして、湧き水は枯れ、池はつぶされ、ハリヨはごく限られた所にしかいなくなりました。

大垣地区はまだ、湧水がかなり豊富です。ところが、揖斐川の東、わずか2㎞しか離れていないのに、私たちの辺りは、皆無です。おそらく、地下水脈が、揖斐川より西では伊吹山系、東では、能郷白山系の水から成っているからでしょう。

公園の一角に、地味な説明板が。

曽根城本丸跡とあります。この公園は、戦国時代にここに存在した曽根城跡なのです。現在、石垣や土塁が少し残っています。

本丸のあった場所には、曽根城ゆかりの寺、華渓寺が建っています。

 

曽根城は、戦国武将、稲葉一鉄の居城で、創建は、永禄年間(1558-1569)。関ケ原合戦では、東軍の前線基地となり、数㎞南の大垣城に陣取った石田三成を牽制しました。曽根城の焼き討ちに失敗したことが、西軍のその後の命運を決したとも言われています。そして、関ケ原合戦以降、廃城となり、水田にかわりました。

華渓寺に残された「濃州曽根古城跡図」によれば、本丸、二の丸、内堀と外堀、惣堀を備え、家老屋敷、侍屋敷、町屋などが集まった、本格的な城下町であったことがわかります。

注目されるのは、中央の本丸の少し左上方、細長い土地です。「斎藤内倉佐」と書かれているのは、名将、斎藤利三のことです。彼は、後に、明智光秀の重臣となり、活躍します。

斎藤利光の娘、お福(後の春日局)は、私の集落の城、十七条城主、稲葉正成の妻となります。その経緯ははっきりしませんが、揖斐川を挟んで東西に対峙した二つの城です。離合集散が日常茶飯事だった当時、和解に伴う政略結婚だったのかもしれません。

思わず、歴史散歩の一日でした(^.^)

 

 

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