1月に、ブログ改設5周年の記念ブログを書きました。gooブログへは、Yahooブログから半年後に移りました。ですから、今日が、gooブログでの5周年になります。
例によって、いつものガラクタよりワンランク上の品を、と探し回り、今回の絵巻物になりました。
『関ケ原合戦絵巻』20.5㎝x7.65m。江戸中期ー後期。肉筆彩色。
関ケ原合戦絵巻は、オリジナルの絵巻を写していったようで、各地の博物館や資料館に収蔵されています。絵巻にはいくつかのパターンがあり、今回の絵巻は2巻仕立て絵巻の第2巻目です。1巻目は残念ながらもってません。
関ケ原合戦の前哨戦から本戦まで、ほぼ時系列になって、右から左へと物語が展開していきます。
木曽路の徳川秀忠軍:
真田幸村と沼田城:
沼田城内:
杭瀬川の戦い:
西軍の配置:
東軍の配置:
島津ののき口(?):
大谷刑部の最後:
敗走する西軍:
大変長い巻物なので、数回にわたってブログで紹介します。
今回は、木曽路の攻防(写真の上から3枚分)です。
木曽路の徳川秀忠軍:
徳川家康は、石田三成率いる西軍との戦いに対して、まず、信州の真田を攻略すべく、秀忠を大将にすえ、徳川の主力、3万4千の大軍をおくりました。
木曽路をすすむ秀忠隊の旗印です。榊原康政、大久保忠隣、牧野康成、本多正信、真田信幸(信之)。これより以前、家康の上杉討伐に参加するため下野国に陣を張っていた真田昌幸は、石田三成挙兵の報に接します。そこで、子の信繁(後、幸村)、信幸(後、信之)と密議を開き、戦の行方がどのようであっても真田が生き残れるよう、信幸は東軍、昌幸と信繁は西軍につくと決めました。その結果、秀忠隊に信幸も加わり、昌幸・信繁と戦うことになったのです。
慶長5年(1600)9月2日、真田昌幸の居城、信州上田城を秀忠軍が取り囲みます。
台徳公(秀忠)の使番(敵軍への使者)が上田城に向かい、降伏を迫ります。
ところが、昌幸は返事を先延ばしにし、降伏に際してさまざまな要求を行い、時間稼ぎをしました。そして、秀忠を挑発し、巧妙な作戦で翻弄し続けたため、秀忠軍は信州で足止めをくらい、関ケ原合戦に間に合わないという大失態を演じることになったのです。
真田幸村と沼田城:
話しは、前後します。
家康の上杉討伐に参加していた真田昌幸は、西軍につくことを決め、急遽、居城、信州上田城へ戻っていきます(下図)。
その際、昌幸は、東軍についた信幸の居城、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄ろうとしました。
戦いの前に、かわいい孫の顔を一目見ておきたいと思ったからです。
城の外で夜通し陣をはる兵士達。信幸の留守を守る兵士たちでしょうか。
秀忠軍の兵という説もあります。
沼田城内:
女たちがにぎやかに過ごしています。
向こうの部屋では、女中たちが食べ物を前に談笑中。
座敷では、女たちが幼子をあやしています。
左端の女性は、思いつめた様子です。
東軍についた沼田城主、真田信幸の妻、稲(小松殿)でしょう。信幸は、徳川家康の重臣、本多正信の娘、小松姫をめとっていたのです。今は、敵と味方にわかれて戦う真田一族。夫、信幸にかわって城をまもる稲は、西軍に与する舅、真田昌幸の申し出をきっぱりと断ります。大手門にあらわれた稲は、鎧に身を包み薙刀を手にし、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放ったそうです。孫に会うことが出来なかった昌幸は、むなしくそのまま上田城へ引き上げたのでした。
この場面は、先の大河ドラマ『どうする家康』でも出てきました。人気のエピソードなのですね。
一説では、その後、秘かに、沼田城近くの正覚寺へ昌幸らを案内し、孫に合わせた、ともいわれています。真偽は不明です。