今日は、不明(^^;)の書です。
全体、43.4㎝x195.6㎝、本紙、33.3㎝x136.8㎝。戦前。
「不知退」や「不能進而死」など、勇ましい言葉が躍っています。
不知退而守其廉。是以不能
進而死其節也。 松蔭書 花押
退くを知らずして其の廉を守る。是(ここ)を以って進む能わずして死其の節なり。
けっして退かず、廉潔を守る。このゆえに、進むことが出来ず死の時が来た。
いかにも、吉田松陰らしい言葉です。
がーー、落款には、「松陰書」ではなく、「松蔭書」とあります。これは、吉田松陰の書ではない?
「松蔭」名の人物には、美濃出身で、頼山陽の近くで活躍した江戸後期の儒者、後藤松蔭がいます。彼も、多くの書を残しています。しかし、今回の品とは書体が全く違う。おまけに、後藤松蔭は、その書に、「松蔭」ではなく、なぜか「松陰」の落款を入れているのです。ですから、後藤松蔭の書でもありません。
詳しく調べてみると、今回の書と同じ文面が、頼山陽『日本政記 巻之十 高倉天皇』にありました。平家物語です。
・・・其公卿平時奔競。有事逃避。唯不知退而守其廉。是以不能進而死其節也。故凡士之養気。有其平時。國之養士之気。・・・・
この書の作者は、ここから文章を取ってきて、吉田松蔭の書としたのですね(^^;
戦前は、吉田松陰、頼山陽、渡辺崋山らが今とは比較にならないほど礼賛されました。ですから、彼らの贋作が非常に多く出回りました。
今回の品は、家の雑掛軸の中にあった一つです。戦前、誰かが、これはと意気込んで入手したのですね。
ご先祖様、今一つ冷静な目をお持ちくださっていれば、もう少しマシな品々が揃っていたはず。今回の品は、剪定枝と一緒に燃やしましょう(^^;
遅生さんの家に残されていたものなのですね。
遅生さんのご先祖様が買われてものなのですね。
遅生さんが調べたところによりますと、この書は、吉田松陰の書ではなく、また、「美濃出身で、頼山陽の近くで活躍した江戸後期の儒者、後藤松蔭」の書でもないわけですね。
でも、これ、剪定枝と一緒に燃やしてしまうのも可哀想ですね(~_~;)
戦前にはこのようなものがもてはやされたという歴史的な資料として、この解説文と一緒に保管してあげたいですね(^_^)
吉田松陰の本物として飾っていたのでは、故玩館の権威にかかわるでしょうけれど、、、。
で、まあまあ落ち着いて、となったわけです。
古くからウチにあった品だから、私が抱えてくるような怪しい品物ではない、との信念がその表情からは伺えました(^^;
ま、これまでのかずかずの失敗からすれば、さもありなんですけど(^.^)
しかし、これはペケなのですね。
歳も歳、ここは熱いコレクターではなく、沈着冷静な学者の目をもたねば(^.^)
すごく勉強になりました☆彡そして、そこまでの勉強をされておられるって、只者ではありませんね。
ですから!>私が抱えてくるような怪しい品物ではない、には笑わせていただきましたけれど(*^^*)
ところで、オクラの収穫が毎日!非常に楽になりました。
今までは木を横にも大きくしてしまい非常に面倒でした。
実事態もお化けのようにしてしまってました。種は2本もあれば十分ですのにね。
お教えいただきありがとうございました♡
いつものことですが(;^_^A
オクラはまるでヤシの木のように育てるのがベストです。これで不思議と実がよくなります。横に広がると際限がないし、虫の付くのも酷いです。近年は気温が高いので、11月近くまで実ります。もし樹勢が衰えたら気前よく伐ってしまって、下の方から生えてきている新枝にバトンタッチしてやるとぐんぐん育ちます。
もやしてしまうとたたりがありそうな、、🌀
(東京の世田谷区に松蔭高校という学校がありまして。吉田松陰の教えに立脚しています。なのにどうして学校名は松「蔭」にしたのかな?ってちょっと気になるクリンより🍀)ちなみに世田谷区には松陰神社もあるんですよ🐻💡
この掛軸がいつ頃からウチにあるかわかりません。戦前であることは間違いなし。ただ、誰かが戦地に行くときに書くかもらうにしては、あまりにも直接的すぎますね。
実は、乃木将軍の伝記にも、「不知る退却・・」が出て来るらしいので、明治以降、決死の覚悟を説くときに、しばしば使われたフレーズかも知れません。
それから、薩摩藩士出身の実業家、五代友厚の号も松蔭(松陰?)ですが、書体が全く違います。
「松蔭」、気になりますね。野球などですっかりおなじみとなりました。神社もあるのですか。いろんな使われ方を見ると、松蔭=松陰の場合が多くあります。陰は、蔭の代用字らしいです(^.^)