遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

大皿・大鉢・壷36 伊万里初期色絵芙蓉手鳥紋大皿

2024年01月12日 | 古陶磁ー大皿・大鉢・壷

伊万里焼の初期色絵芙蓉手大皿です。

gooブログの古陶磁愛好者の中で、古伊万里の初期色絵をアップしていないのは、私だけになってしまいました。このままでは肩身が狭いので、手持ちの品を出します(^^;  実は、これは、ブログ〇年周年記念用の品にとっておいていた物です。しかし、後出しジャンケンの鬼としては、ジャンケンの輪に加わる方を選んだのであります(^.^)

径 36.1cm、底径18.4 ㎝、高 6.7㎝。江戸時代前期。

17世紀後半、古九谷の範疇に入る色絵陶磁器ですが、初期色絵の呼称の方が良いように思います。中国の芙蓉手染付大皿を手本にして作られた物でしょう。半陶半磁の素地に白化粧を施し、その上に色釉で絵付けがなされています。上釉はかかっていません。

鍋島支藩、蓮池藩の吉田窯で焼かれた品と思われます(小木一良『新版 伊万里』)。伊万里焼の中でも、初期の輸出品です。今回の品物は、インドネシア、スラバヤの河口堰で発見された物として売りに出されていました。

これが伊万里焼といえるかどうかですが、伊万里焼の名称は、有田の地で焼かれた陶磁器が伊万里港に集積された後、各地へ運ばれて行ったことに由来します。輸出向けであった今回の大皿は、伊万里港に集まった品の一つちがいありません。したがって、立派に伊万里焼と言えるのではないでしょうか。

水辺に鳥(鴨?)が一羽。

その周りを花やお目出度い品々が取り囲んでいます。

川床から拾われた物なので、色絵は相当擦れています。

大きなニュウがあちこちにあります。

ニュウには漆を入れて止め、ホツ(10時の位置)は金継ぎで補修しました。

裏模様も、実に簡素。

高台内には目跡が3つ。

大皿の中央部は、少し凸になっています。

8時の位置のへこみは窯疵。しかし、そこからもニュウが走っています。

満身創痍の品ですが、本家、中国の芙蓉手は染付がほとんどで、色絵の芙蓉手大皿はありません。

吉田窯の色絵大皿は、これまで、色絵鳳凰紋印判手大皿と色絵獅子紋印判手大皿が知られています。いずれも、中国の呉須赤絵を手本にして、日本的にアレンジした物です。今回、色絵芙蓉手鳥紋大皿が加わり、中国写しの傾向がいっそう明確になったと思います。

大皿の裏側、こちら側と

向こう側に、陶工の指跡がついています。

白化粧だからでしょうか、初期伊万里を含め、これだけはっきりと指跡が残っている品は少ないです。

手の指を指跡にあてがってみると、丁度両手で大皿を支える体勢になります。300年以上前の陶工が、こうやって初期色絵大皿を作ったかと思うと、大切にしてやらねば、という気持ちがいっそう強くなりました(^.^)

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百年!?駄鉢

2024年01月10日 | 古陶磁ー国焼

今回は、雑器中の雑器、美濃焼の鉢(丼)です。

左:径 17.0㎝、底径 9.6㎝、高 6.2㎝。重 617g。大正―昭和。

右:径 17.9㎝、底径 9.9㎝、高 5.5㎝。重 608g。大正―昭和。

骨董市にいくらでも転がっていそうな品で、ブログに出すような代物ではありません(^^;

美濃、多治見か土岐の駄知あたりで大量に作られた美濃焼の品でしょう。

駄知で作られたダダクサな鉢 ・・・・・・・

駄馬ならぬ、駄鉢とネーミング(自嘲気味 ^^;)

左の駄鉢:

伝統的な一樹一屋の図です。底は碁笥底。一番の特徴は器の厚さです。現在の売られている鉢の倍ほどあります。器がそれほど大きくないので、ひどく重いとは感じません。

右の駄鉢:

器の造りは、左の駄鉢とほぼ同じ。

異なるのは、絵付けです。雑器にしては、なかなか洒落ています。

ダミの使い方が雑器にしては丁寧です。

よく見ると、葉脈は墨はじきで描かれています。

そして、この駄鉢の最大の特徴は・・・・・・・・

器をグルっと一周するほどのニュウです(^^;

ニュウは、反対側まで、見事に抜けています。

あまりにも危なっかしいので、数年前、私が漆を浸み込ませて留めました(気やすめ(^^;)

どうして、ここまで見事なニュウができたか?

その答えは、この鉢の年齢と使われ方にあります。

私が物心ついた頃には、もう今回の駄鉢たちは、食卓の上にありました。おそらく戦前から使われていたのでしょう。

それからずっと、今に至るまで、ほとんど毎日、この駄鉢たちは活躍しています。煮っころがしなどを盛るのに最適だからです。

深いニュウきずを追っても、なおけなげに現役。

百年戦士かもしれない鉢に、里芋を盛りました。

今年は干ばつで十年来の不作。大きな芋は全くありません。そのまま皮をむいたら、実がなくなってしまいそう(^^;

そこで思いついたのがキヌカツギ。

赤ちゃん芋を美味しく食べるうまい方法です。

ん!? これが衣カツギ?

鬼太郎の親爺かベビー布袋さん。

でも、上下逆転すると、

「衣被ぎ」(きぬかづき)を深くかぶった、平安時代の高貴な女性が浮かんできます(^.^)

剥いた部分に生姜醤油をチョンと付け、

「衣被ぎ」を指でギュッと押してやれば、つるりと白肌の小里芋が口の中に入ります ・・・・・うーん😋ウマイ。

指と口がとまりません(^^;

駄鉢の活躍は、まだまだ続きそうです(^.^~)

 

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祝!ブログ5周年!『陶胎七宝蝶紋コンポート』

2024年01月08日 | 陶磁胎七宝

今日で遅生の故玩館ブログも、yahooブログから通算5年となりました。

節目の一品ということで、とっておきの陶胎七宝を紹介します(実は、年賀ブログの写真でした(^^;)

径 21.5㎝、高 11.3㎝、重 805g。明治初期。

陶胎七宝は、通常の金属胎七宝と異なり、陶磁器の上に七宝釉薬を焼き付けた物です。

これまで、いくつかの陶胎七宝をブログにアップしてきました。未紹介の品も含め、故玩館所蔵の陶磁胎七宝のうちで、今回の品が美術工芸品として一番優れているので、紹介する次第です。

器のほぼ全面に七宝が施されています。七宝釉は、近代七宝以前に使われていた艶の無い、いわゆる泥七宝です。

器の外周と足部は、金彩が塗られています。

底に、「日本京都錦光山造」と書かれています。

明治初期に作られた陶胎七宝の主要産地は京都でした。そして、その中心が京焼の錦光山、象牙色の胎土表面にハート形の植線をびっしりと配置して地模様とし、花蝶紋を散りばめたデザインが特徴的です。

今回の品は、その代表作と言っていいでしょう。

中央に四匹の蝶。

そのまわりを、牡丹と桜の花が取り囲み、

さらに外を多くの蝶が舞っています。

 

蝶は、大蝶が11匹、小蝶が9匹、計20匹です。

裏面やステム部にも手抜きがありません。

表面と類似の模様で七宝が施されています。

大きな蝶が、表面より密度濃く飛んでいます。

やはり、牡丹と桜の模様も。

脚下部も、蝶とハート形地模様がビッシリ。

裏面、脚部の蝶は、大蝶が14匹です。

驚くことに、コンポートに描かれた蝶の色模様は、全部異なっています。

京焼の雄、錦光山の意地を世界に示そうと、気概にあふれていますね。

徒然なる時に、いったい何個のハート形地模様があるのか、数えてみたいと思います(^^;

 

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古美術骨董雑誌『阪急美術』

2024年01月07日 | 骨董本・雑誌

戦前、大阪梅田の阪急百貨店が発行していた古美術雑誌『阪急美術』2冊です。

左:『阪急美術』第十五號(昭和13年12月)
右:『阪急美術』第二十七號(昭和14年12月)
縦 23㎝、横 16㎝。
古書店(資料館?)のラベルが付いています。

 

『阪急美術』第十五號(昭和13年12月)
表紙装丁:芹沢銈介(染色家) 表紙素材:丹波手漉き和紙
表紙題字:山本發次郎(美術コレクター)

目次と口絵写真(諏訪蘇山、兎)

武者小路実篤の記事

阪急美術の出版母体、充美会(古美術店9軒)の展観案内。

茶事の記事。

編集後記と阪急美術部の広告。

 

『阪急美術』第二十七號(昭和14年12月)
表紙装丁:芹沢銈介(染色家) 表紙素材:丹波手漉き和紙
表紙題字:大塚治六(書家、教育者)

目次と口絵写真(芹沢銈介、赤絵大皿)

原色図版(時代裂、波斯もうる裂)。

香合の記事。

茶室の記事。

大津絵の記事。

柳宗悦による芹沢銈介第1回個展の紹介。

 

『阪急美術』は、昭和12年10月に、阪急百貨店から発行(月刊、20銭)され、昭和16年6月まで刊行(45号)されました。そして、その後も装いを変えながら、『汎究美術』(昭和16年7月,45号ー昭和17年3月,54号)、『美術・工芸』(昭和17年4月,1号ー昭和19年12月,31号)、『日本美術工芸』(昭和20年1月,32号ー平成9年1月,700号)の形で刊行されました。

阪急百貨店は、阪急グループの創業者、小林一三(1873〜1957)が、昭和2年(1927)に設立したデパートです。古美術蒐集家、茶人でもあった小林は、百貨店内に阪急美術部を作り、在阪の有力古美術商を集めて(充美会)、店内に古美術店街をつくりました。この充美会が中心となり、発行した月刊古美術誌が『阪急美術』です。茶道具を得意とする古美術店ですし、小林一三自身が茶人でしたから、『阪急美術』に茶関連の記事が多いのは当然としても、注目されるのは、内外の民芸的な品物を積極的に取り上げていることです。また、芹沢銈介装丁の手漉き和紙を表紙に使うなど、『阪急美術』全体に旧来の古美術の枠を超えようとする姿勢が色濃くうかがえます。このように、『阪急美術』には、宝塚歌劇団や東映設立による娯楽の拡大と同じように、古美術品の大衆化をめざした小林一三の趣意が反映されていると思います。文筆にも才を発揮した小林一三です。草葉の陰から、宝塚歌劇団の醜態を鋭い筆致で憂い、たしなめていることでしょう。

もう一つ、『阪急美術』で特筆されるのは、少しずつ形を変えながらも、戦前から戦後へと息長く発行されたことです。特に、戦時体制下でも、古美術の灯を守ることに貢献しました。

昭和13年、『阪急美術』第十五號の表紙題字を書いた山本發次郎は、その頃、画家佐伯祐三の尋常でない才能にいち早く気づき、本格的に蒐集を始めていました。しかし、150点にのぼる日本最大の佐伯コレクションは、昭和20年の空襲でその6割が灰燼に帰してしまいました。山本の死後、残りのコレクションは大阪市に寄贈された後、長い年月眠ったままだったのですが、令和4年、山本發次郎コレクションをもとに、ついに、大阪中之島美術館設立となったわけです。

小さな雑誌『阪急美術』は、大阪の美術界とともに歩いてきたのですね。

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古染付太古石草花紋小皿(10枚)

2024年01月05日 | 古陶磁ー中国

中国古染付の小皿です。

「南京  皿 拾枚」と書かれた古い木箱に入っています。

今では、なかなか見かけない十枚組。

一枚(中央列右端)に古いニュウがあります。他は、窯疵と虫喰い以外、ほぼ完器です。使用痕は全くありません。大切に保管されてきたのですね。

径 13.5㎝、底径 8.0㎝、高 2.9㎝。中国明末ー清初。

全面に太古石と草花、そしてポツンと太陽が描かれています。

写真では、少し黒ずんだ青色に見えますが、染付の色は、実際は、下の写真のように少し紫がかった明るいブルーです。

薄造りで、爪で弾くと、キンキンと中国陶磁器特有の金属音がします。

不明の裏模様。

高台には砂が付着。

高台内は放射状に削られています。

同じデザインの皿、10枚ですが、よく観察すると、細部は皆、異なっていて、同じ皿は2枚とありません。写真の右上の皿には、2匹の虫が描かれています(10枚の内1枚だけ)。

裏模様も、異なっています。

また、10枚の皿の中には、中央に銘のある物があります。

伊万里でもよく見られる角福。

かと思えば、

角福崩し?

かと思えば、

もう完全に幾何学デザイン(^.^)

このように、10枚の中の3枚に銘があるのですが、それらはバラバラ。銘の入れ方は自由気ままなのですね。

また、すでに見たように、太古石草花紋も細部は10枚それぞれ異なっています。陶工は、その時その時の気分で筆を走らせていたかのようです。いい加減と言えばいい加減、良く言えば自由(^^;  このような奔放さが、明末期に作られた中国陶磁器の魅力を作りだしているのでしょう。

皿の周縁は10枚ともザラついています。上釉に微小な剝れがびっしりとあるからです。

この時期の中国陶磁器にしばしばみられる虫喰いです。

これまで、いくつかの中国陶磁器を紹介してきました。虫喰いに焦点をあててみると、どうやら虫喰いには、大きく2種類あるように思えるのです。それを手掛かりにして、虫喰いといわれる疵がどのようにして生じたのか、考えていきたいと思っています。

 

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