2005年に公開されたCIAファイルで、コロ子がとても興味を持った人物が
います。戦前は陸軍大佐、戦後は国会議員を務め、現職のままインドシナで
行方不明になった辻政信氏です。本当にドラマチックな人生で、その著書
「潜行三千里」はベストセラーになりました。
「潜行三千里」はベストセラーになりました。
この辻氏について、元NHKアナウンサーの下重暁子さんがエッセーを書いて
おられます。
辻氏が姿を消してから50年。辻氏を直接知る方からの貴重な証言です。
掲載紙:東京新聞 暮らすめいと(東京新聞読者の生活情報紙) 月一回発行
下重暁子の出会った人々 辻政信(上) 4月号掲載
目の前をメコン河が流れる。一月は乾期なので雨期のように濁ってはいない。
芝生には牛が二頭、対岸の山は緑で日本の風景にも似てほっとする。直前に
訪れたカンボジアの赤茶けた土と違って、ラオスの自然は優しい。
タイやベトナムと国境を接する、いわゆるインドシナの地のどこかに辻政信
は眠っているのか。最近、埋葬されたという場所を訪れたと知人の作家が
言っていたが・・・。カンボジアでNPO活動をする友人と共に思いがけず
ラオスの地を踏んだ。辻政信は一九六一年、南アジアで行方不明になり、
七一年にラオスで射殺されたという説が有力である。
著名な関東軍参謀で、ノモンハン事件をはじめ様々な作戦に関わり、戦後、
潜伏して「潜行三千里」を書いた。帰国後、衆参両院議員を務めた毀誉褒貶は
なはだしい、歴史上の人物である。
カミソリ辻と呼ばれ陸軍幼年学校、士官学校全て首席。その頭の鋭さは誰も
真似ができななったと陸士同期の父が言う。
その辻政信に四谷駅前で会った。父の紹介だが、早大四年で就職に苦労する
私の話を聞いてコネを考えてくれた。議員用の黒塗りの車の中で、別れ際に
私に封筒を渡した。お金だとわかったので即座に断った。
「父に叱られます」「親翁には黙っとけ」。無理に押しつけられて車は発車。
麹町口に私は一人とり残された。後で数えてみると当時の家庭教師のアルバイト
麹町口に私は一人とり残された。後で数えてみると当時の家庭教師のアルバイト
料三年分はあった。驚いて父に話すと少し考えて「もらっとけ」。
インドシナを訪れ行方不明になったのは、それから間もなく。すでに決意を
固めて、同期生の娘の苦境にせめて手をさしのべたのだろうか。アルバイトで
必死に働く私が可哀そうだったのか。真意を確かめることなく今に至った。
その後、辻氏の故郷・石川県小松へ講演に行った折、辻氏の妹さんがたずねて
こられ「兄は生きています」。
ラオスの朝六時、ルアン・プラバーンの路上でオレンジ色の衣をまとった
托鉢の僧の中に、その面影を探していた。
下重暁子の出会った人々 辻政信(下) 5月号掲載
私の父は絵描き志望だったにもかかわらず、長男だったので泣く泣く
軍人になった。祖父も軍人で、代々そういう家だったのである。
幼年学校から陸軍士官学校。その三十六期で辻政信と同期生であった。
ほかに二・二六事件の首謀者の一人、野中大尉や閑院宮がいた。父は事件当時
の皇道派の青年将校に心情的には近く、決起を聞いてすぐ駆けつけようとした
が、上司に止められたという。辻政信は統制派で、反対の立場であった。卒業
が、上司に止められたという。辻政信は統制派で、反対の立場であった。卒業
して辻は陸大に、出世街道を進み、若くして参謀となり、ノモンハン事件を
はじめ、中国各地の戦を指揮した。「カミソリ」の名のように頭が切れすぎて、
作戦は必ずしも成功ではなかった。
「あの体の中には、摘出出来なかった弾丸がそのまま残っている」と、父が
語るように関東軍の辻の名はとどろき渡っていた。戦後、戦犯に問われても
おかしくなかったが、東南アジアを転々とて身を隠し、戦犯を免れ日本に戻って
「潜行三千里」を上梓、衆院議員から参院議員に転じた。
私が出会ったのはまさにその頃。日本テレビの編成局長が部下だったので、
私を引き合わせてくれた。就職に苦労している私を見かねてのことである。
それも同期生の娘というだけである。当時の軍人の結びつきと結束は固く、
同期の面倒はよく見た。後に、私がアナウンサーになった時、今の九段会館
(戦前の軍人会館)で、陸士の偕行会の総会があった時、司会を頼まれた
こともあった。
こともあった。
それにしてもなぜ、辻政信は再び姿を消したのか、見つかれば殺されることは
分かっているかつての戦場に赴いたのか。辻政信に恨みを持つ人々が数多くいた
と思える場所へ。辻政信しか分からぬ思い、例えば贖罪のようなものがあったの
か。さまざまな人が辻政信について書いているが、いまだにその謎は解けて
いない。「兄は生きています」という小松のご家族に会った時、なぜもっと
よく話を聞き、調べてみることをしなかったかと悔やまれる。