新春能楽番組で毎年、厳島神社の能舞台で行われている観月能が放映されました。
大潮の日を選び、秋の月を愛で、水面(みなも)に挟まれた舞台が見所となり、観客は自然とともにある精神と共に能に酔いしれます。
満潮時は舞台の下すれすれになる水面。
演目は「融」。
旅僧が京都の六条河原院の廃墟に佇んでいると、汐汲みの桶を担いだ老人がやってきます。
この屋敷に住んでいたのは、「源 融(とおる)」
かつて源融は、陸奥塩釜の景色を映した庭を拵えました。
そして、日ごと、難波の海水を汲ませ、そこで「塩を焼かせる」風情を楽しんだそうです。
その話を老人から聞くうち、暫くすると居なくなります。
そのうち、源融の化身が現れ、供養を旅僧に願います。旅僧は夢現(ゆめうつつ)見たさに一寝入りしている間、融は昔を偲び、月下で舞うのです。そして、夜明けと共に消えてゆきます。
時空を経て、六条河原院から場所は水面の淵へ。
月の光が揺れる水面を舞台に映し、舞い人を一層優美にしていきます。
都人がまだ見ぬ陸奥の風景を現代に生きる私達にも充分に想像させていただきました。いつの世も美しい言葉を紡ぐことで平安感を得る人の慾は変わらぬものだと、煌めく舞いから夢現を楽しみました。
謡いの言葉は、行ったことのない場所の風景や情景が見させてくれます。そういう力を持っています。逆に言えば、人がそういう想像力を持ち備えていることに委ねることによって演劇が発達してきたのかもしれません。
津波で流されてしまった古(いにしえ)人が愛した風景は、未だ能楽で表現され、人の心に想像させる力を充分に持っていることを忘れたくないと思いました。
東北の地で由縁のある謡いを謡う機会をつくるもの良いことかもしれません。
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