映画 沈黙2017年1月25日
マーティン スコセッシ監督の「沈黙・遠藤周作の小説の映画化」を観ました。
21日に封切され、早く観ないとそわそわと落ち着かないので、封切直後に観る事が出来て落ち着きました。
遠藤周作の小説は中学生の頃から読みだしました。
こりあん先生と呼ばれた陽の部分と自分の内に迫ったともいえる陰の部分を見事に出しながら小説で表現する遠藤周作に私自身中学生なりの精神性で投影していた事を深く思い出されるのです。
最初に沈黙を読んだのはやはり中学生の頃です。たぶん、文字を辿っただけかもしれませんし、その頃学び始めた世界史の中でマルティン ルターの存在を知り、カトリックを疎む気持ちを持ちそれでも聖書を知りたくてプロテスタントの教会の礼拝に座敷わらしの如く通っていました。教会の人々は忽然と現れた中学二年生の私に下手な声を掛けることなく静かに見守ってくださっていました。今から考えると心臓に毛の生えたような行動です。
その頃の自分が遠藤周作の「沈黙」や「イエスの生涯」、そして「海と毒薬」といつも重なる事が無意識にありました。
考えても考えても自分の内に在るものと宇宙との関係が掴めず、言葉にできないもどかしさの始まりが私の思春期であったのかもしれません。
結局、私は人生の後半に足を掛けた所でカトリックの受洗をすることになるのですが。
今回の映画化は、日本人が描く沈黙よりも俯瞰性が高いのでは?という期待感を持ち、スコセッシ監督の「タクシードライバー」や「シャッターアイランド」のような精神性を映像で見せる巧みさを知るだけに、心待ちにしていました。
彼の得意とする一人称と二人称をどのように使い分けるかも見どころでした。
遠藤周作自身が井上様でありロドリゴであり、キチジローであることの自問自答、もしかしたら登場人物全員がそれぞれの確固たるアイデンティティを基に統合に至る言霊を同時に私自身が投影する事で、「私が考える人とはなにものであるか」というテーマに対しての第三者的な刺激をもらったようにも思います。
スコセッシ監督自身がシシリー出身のボーンクリスチャン(生まれて直ぐに洗礼を授かる)であることで、普遍的な「愛」という概念において既に性善説が備わっており、その素地を基に撮られている事が作品の隅々から伝わりました。ただ、サイレント「沈黙」という現実に向き合う事は、日本が培ってきた歴史を深く知らなくては見えてこないものであることも知りながら撮られた映画である事も臨場感を持って伝わりました。
カトリックの腐敗とルターの宗教改革後、新たな新天地を求めて布教を行うイエズス会は、人の身体は神の神殿である通り、布教者自身が現地に飛び込み、その地のアイデンティティに溶け込みながらキリストの教えを説いてきたのです。そのやり方は、ヨーロッパ全土を呑み込んできたやり方と同じであったかもしれません。各地の風土から生まれた宗教と融合しながら、じわじわと浸透し、いつしかキリスト教の中に含まれてきました。それには、大きく対立したオスマントルコと神聖ローマ帝国の戦い無くては語る事はできないでしょう。
紀元前にカエサルがガリア人を追い詰めながらアイルランドまで到達した事も深く関わっています。
そのあたりの世界の歴史の時系列を横幅で見ながらこの沈黙を観ることで、比較宗教という観点だけではなく、各地の歴史と風土、そして長年かけて成されてきた人の移動を考えないわけにはいきません。そのような比較文化論的な観点を交えてスコセッシ監督の沈黙を観ると、深い深い日本人の抑圧的なものが見えてくるのです。
戦いよりも融和的な精神性の高かった縄文時代から渡来人が多く海を渡ってきた弥生時代によって、権力と支配の概念が強く刻みこまれ、飛鳥・奈良時代の権力争いと絶対的な支配の傘下に置かれた民衆は支配者がすり替わりという環境に置かれても淡々と土地に根付いて生き延びてきたように思うのです。
喜怒哀楽の表情が薄いのは、感情を読み取られない為の一つの防衛機制であり、生き延びる大きな力であったに違い無いと私は推察しています。
絶対的な権力に支配されることで、民衆という民草の革命という行為が学習されないまま耐え忍び、そのうち抑圧という無意識の抑制の記憶が、日本の地に長く住まってきた私達のアイデンティティともなっていったようにも思うのです。
そのような時の流れのまま歴史が蓄積され、中国からもたらされた仏教によって徐々に民衆の為の宗教家が生まれてきたのであろうと思います。
移動して自由を求めることよりも、定着した暮らしの中で「待つ」ことの忍耐強さが育まれたのも農村文化が根付いた証しでもありましょう。
宗教家の行脚によって印がもたらされ、その印を懐に携えることで摂取が図られ、心の平安が訪れる事も、日本人が形を欲しがる傾向に至った要因でもあるかもしれません。
本質を捉えるために天を仰ぐことよりも、明日をどう生き延びるかという方が切実な大問題であったこともあるのではないでしょうか?
だからこそ、「形だけでいいのだ。ちょっとだけでも踏み絵を踏めば良いのだ、簡単な事じゃないか」という井上様の言葉が私の中に安住の様に響いてきたようにも思います。
「一神」という揺らぎの無い一本を自己の精神性と一体として信ずる神父とは違い、物理的に苦しい生活の故に、死ねばパライソ(天国)にいけるであろうという確信性を布教した神父個人に委ねる物理的欲求とも取れる切支丹とは違うことを井上様はロドリゴ神父に切々と語るところが、遠藤周作の思索した比較文化論であり、遠藤周作の葛藤そのものであったようにも感じられました。
そのあたりの思索が、私が中学生の頃からずっと振り子のように考えてきたことと一致するのです。
長年かけて、遠藤周作の沈黙たる所以を神の所在として考えて来られた事は、日本という地においてデジデリウム(見神欲)を思索してきた私自身の宝物なのです。
波に打ち寄せられ、日に照らされてジリジリと暑さの中に佇もうとも天は何も語らないし、手の差し伸べられない現実こそが、自分の内に神の神殿を創り内なる力を養う、つまり自分を活かしてゆくのではなかろうか。
多分、そうだろう。
と、思いつつ、
映画のエンディングに籠めたサイレントの意味を無言で呑み込み、私の中に言葉には出来ない統御感を得た事は確かです。
スコセッシ監督が比較文化的、比較宗教的に思索し続けた愛のかたちがそこにあったように感じ取られました。
もしかしたら、この感覚は日本という地に長く住まう人々にしか伝わらないものかもしれません。その感覚を読み取ったスコセッシ監督は、やはり巨匠であるな、と、思った次第です。
まだまだ、書き足りませんが、とりあえず、映画の所感を書いてみました。
本質を何処に納めるか。
難しい自問自答。
人類の永遠の課題です。
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1月27日たまプラーザ校
2月17日雪谷校
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(NPOキュール会報もしくは東急セミナーBEのホームページをご覧ください)
マーティン スコセッシ監督の「沈黙・遠藤周作の小説の映画化」を観ました。
21日に封切され、早く観ないとそわそわと落ち着かないので、封切直後に観る事が出来て落ち着きました。
遠藤周作の小説は中学生の頃から読みだしました。
こりあん先生と呼ばれた陽の部分と自分の内に迫ったともいえる陰の部分を見事に出しながら小説で表現する遠藤周作に私自身中学生なりの精神性で投影していた事を深く思い出されるのです。
最初に沈黙を読んだのはやはり中学生の頃です。たぶん、文字を辿っただけかもしれませんし、その頃学び始めた世界史の中でマルティン ルターの存在を知り、カトリックを疎む気持ちを持ちそれでも聖書を知りたくてプロテスタントの教会の礼拝に座敷わらしの如く通っていました。教会の人々は忽然と現れた中学二年生の私に下手な声を掛けることなく静かに見守ってくださっていました。今から考えると心臓に毛の生えたような行動です。
その頃の自分が遠藤周作の「沈黙」や「イエスの生涯」、そして「海と毒薬」といつも重なる事が無意識にありました。
考えても考えても自分の内に在るものと宇宙との関係が掴めず、言葉にできないもどかしさの始まりが私の思春期であったのかもしれません。
結局、私は人生の後半に足を掛けた所でカトリックの受洗をすることになるのですが。
今回の映画化は、日本人が描く沈黙よりも俯瞰性が高いのでは?という期待感を持ち、スコセッシ監督の「タクシードライバー」や「シャッターアイランド」のような精神性を映像で見せる巧みさを知るだけに、心待ちにしていました。
彼の得意とする一人称と二人称をどのように使い分けるかも見どころでした。
遠藤周作自身が井上様でありロドリゴであり、キチジローであることの自問自答、もしかしたら登場人物全員がそれぞれの確固たるアイデンティティを基に統合に至る言霊を同時に私自身が投影する事で、「私が考える人とはなにものであるか」というテーマに対しての第三者的な刺激をもらったようにも思います。
スコセッシ監督自身がシシリー出身のボーンクリスチャン(生まれて直ぐに洗礼を授かる)であることで、普遍的な「愛」という概念において既に性善説が備わっており、その素地を基に撮られている事が作品の隅々から伝わりました。ただ、サイレント「沈黙」という現実に向き合う事は、日本が培ってきた歴史を深く知らなくては見えてこないものであることも知りながら撮られた映画である事も臨場感を持って伝わりました。
カトリックの腐敗とルターの宗教改革後、新たな新天地を求めて布教を行うイエズス会は、人の身体は神の神殿である通り、布教者自身が現地に飛び込み、その地のアイデンティティに溶け込みながらキリストの教えを説いてきたのです。そのやり方は、ヨーロッパ全土を呑み込んできたやり方と同じであったかもしれません。各地の風土から生まれた宗教と融合しながら、じわじわと浸透し、いつしかキリスト教の中に含まれてきました。それには、大きく対立したオスマントルコと神聖ローマ帝国の戦い無くては語る事はできないでしょう。
紀元前にカエサルがガリア人を追い詰めながらアイルランドまで到達した事も深く関わっています。
そのあたりの世界の歴史の時系列を横幅で見ながらこの沈黙を観ることで、比較宗教という観点だけではなく、各地の歴史と風土、そして長年かけて成されてきた人の移動を考えないわけにはいきません。そのような比較文化論的な観点を交えてスコセッシ監督の沈黙を観ると、深い深い日本人の抑圧的なものが見えてくるのです。
戦いよりも融和的な精神性の高かった縄文時代から渡来人が多く海を渡ってきた弥生時代によって、権力と支配の概念が強く刻みこまれ、飛鳥・奈良時代の権力争いと絶対的な支配の傘下に置かれた民衆は支配者がすり替わりという環境に置かれても淡々と土地に根付いて生き延びてきたように思うのです。
喜怒哀楽の表情が薄いのは、感情を読み取られない為の一つの防衛機制であり、生き延びる大きな力であったに違い無いと私は推察しています。
絶対的な権力に支配されることで、民衆という民草の革命という行為が学習されないまま耐え忍び、そのうち抑圧という無意識の抑制の記憶が、日本の地に長く住まってきた私達のアイデンティティともなっていったようにも思うのです。
そのような時の流れのまま歴史が蓄積され、中国からもたらされた仏教によって徐々に民衆の為の宗教家が生まれてきたのであろうと思います。
移動して自由を求めることよりも、定着した暮らしの中で「待つ」ことの忍耐強さが育まれたのも農村文化が根付いた証しでもありましょう。
宗教家の行脚によって印がもたらされ、その印を懐に携えることで摂取が図られ、心の平安が訪れる事も、日本人が形を欲しがる傾向に至った要因でもあるかもしれません。
本質を捉えるために天を仰ぐことよりも、明日をどう生き延びるかという方が切実な大問題であったこともあるのではないでしょうか?
だからこそ、「形だけでいいのだ。ちょっとだけでも踏み絵を踏めば良いのだ、簡単な事じゃないか」という井上様の言葉が私の中に安住の様に響いてきたようにも思います。
「一神」という揺らぎの無い一本を自己の精神性と一体として信ずる神父とは違い、物理的に苦しい生活の故に、死ねばパライソ(天国)にいけるであろうという確信性を布教した神父個人に委ねる物理的欲求とも取れる切支丹とは違うことを井上様はロドリゴ神父に切々と語るところが、遠藤周作の思索した比較文化論であり、遠藤周作の葛藤そのものであったようにも感じられました。
そのあたりの思索が、私が中学生の頃からずっと振り子のように考えてきたことと一致するのです。
長年かけて、遠藤周作の沈黙たる所以を神の所在として考えて来られた事は、日本という地においてデジデリウム(見神欲)を思索してきた私自身の宝物なのです。
波に打ち寄せられ、日に照らされてジリジリと暑さの中に佇もうとも天は何も語らないし、手の差し伸べられない現実こそが、自分の内に神の神殿を創り内なる力を養う、つまり自分を活かしてゆくのではなかろうか。
多分、そうだろう。
と、思いつつ、
映画のエンディングに籠めたサイレントの意味を無言で呑み込み、私の中に言葉には出来ない統御感を得た事は確かです。
スコセッシ監督が比較文化的、比較宗教的に思索し続けた愛のかたちがそこにあったように感じ取られました。
もしかしたら、この感覚は日本という地に長く住まう人々にしか伝わらないものかもしれません。その感覚を読み取ったスコセッシ監督は、やはり巨匠であるな、と、思った次第です。
まだまだ、書き足りませんが、とりあえず、映画の所感を書いてみました。
本質を何処に納めるか。
難しい自問自答。
人類の永遠の課題です。
:::::
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1月はお休み。
2月から2017年の講座が始まります。
2月7日 腰越講座
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1月27日たまプラーザ校
2月17日雪谷校
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