五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

都の余裕

2012年03月13日 | 第2章 五感と体感
京都の細見美術館展が現在横浜そごう美術館で行われています。

雅な都を堪能してきました。

夏に作品展を控えているので、そろそろ本気で制作しなくてはならないのですが、職業上この春休みをフルに利用しなくては落ち着いて取り組むことはできないとは頭では解りつつ、なかなか表装モードに頭が切り替わりません。そんな思いもあり、京都の表装を観て、やる気が出てくることを期待しながら、母を誘い観てきました。

掛け軸、屏風、蒔絵、漆、裂、そして画、意匠。。。

いつも観ているものではあるのですが、ふと、思ったことがあります。それは、京都の工芸は自由さがある、ということです。自由というと誤解を生みそうですが、好い加減の遊びと許しがあるのです。江戸にいると息が詰まる或る事が、京都は余裕があるのです。これって、西の文化には叶わない王道の極みをもしかしたら感じ取ったのかもしれません。

何に息が詰まるのか、
何が自分を自由にさせるのか、

「王朝文化の雅」と一言では言い切れない厚みは、薄紙を合わせた料紙のようなものかもしれないし、安定した技術に成り立つ余裕かもしれないし、歴史に育まれた風土であるとも思うし、色々と思い浮かぶことはあります。

3月20日頃まで、横浜そごう美術館で開催中です。

絵画も面白いので、どなたかと連れ添って、にやにやしながら鑑賞することをお薦めします。

表装作業のやる気は、ほんの少しだけ湧いてきました(笑)

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彫刻家舟越保武

2012年03月12日 | 第2章 五感と体感
昨日のTV番組「日曜美術館」は、「彫刻家 舟越保武」でした。その前の週は昨年展覧会後を終えたと同時に地震が起こり、その月の3月30日に亡くなられた佐藤忠良師の特集でした。昨日の番組は昨年11月に放映された再放送だったようです。

いずれも録画し、何度も繰り返し拝見しました。

粘土に籠められるもの。
大理石に籠められるもの。
筆に籠められるもの。

繰り返し繰り返し修練した技術に自然と宿る自己=作品が、表現されたものを超えて美しいと感じるのが舟越保武師の作品なのです。

まだ私が学生だった頃、東北出身の美大生に出会いいつも共通して感じていたことがあります。
それは、「ほんとうに粘り強いし、言葉少なくともやることを黙々し続ける…」と。
都会で育ち、情報を羽織りながら生きてきた自分を恥じたことも度々ありました。

佐藤忠良師にしても舟越保武師にしても、真摯に、粛々と、作品をつくり続けた背景には東北の人に宿る気質がバネになっていることは確かだと思います。

舟越師の代表作に長崎で殉教した26人聖人(数年前に聖人になりました)の像があります。

舟越師は2歳の時に母を亡くし、戦後の食糧難に幼き長男を亡くしています。2歳の長男の死に顔のあまりの美しさに神様を見出したのでしょう。今までカトリック信者の父に反抗的だった舟越師は、家族で洗礼を受けます。

会ったことの無い母を、永遠に追い求めて、女性像にその形象を求め、
そして、敬虔なカトリック信者であった鉄道マンだった父を殉教者の一人のモチーフにし、
ひたすら、ただただ、作品をつくり続けた姿に、繰り返し行われていく祈りの儀式を想いました。カトリックであればミサであるし、仏教であれば、今、東大寺で行われている修二会であるし、信じて見えてくるものは、繰り返し行われる儀式からより見い出されていくのだと思います。芸術は、繰り返される修練と追及から見えてくるものがあり、祈りの儀式と変わりはないようにも思います。

70代で脳梗塞になり、右手が使えなくなり、左手で創作したキリストの頭像は、「これをつくるために与えられたことだったのだと思う」と発言されていたご子息の彫刻家舟越桂さんのお言葉通りだと感じました。

函館の五嶋軒の壁に私の祖父の絵の脇に置かれている舟越親子の彫刻は、私の安堵感を覚える空間ですが、また更にそれが強まったような気がしています。

北斗市のトラピスト修道院の聖堂に掲げられている聖母マリアの像は、ご子息が制作され、新芽のような若さを感じます。
トラピスト修道院は「灯台の聖母」とも云われています。明るい光を放つ中に新芽の香りが漂うマリア像の下で手を合わせた時、祈りの中で生活する修道士に永遠の若さを与えている、、、と、おこがましくも感じたことがあります。(一般では見ることはできませんが、作品集から見ることができます。)
一方、父である舟越保武師の制作したカトリック水沢教会の十字架に付けられたキリスト像は、まっすぐ前を向き、いざ、天国に昇らんとする凛とした幸福感が現れています。
このキリスト像には直にお会いしたことがないので、今年は「ぜひ行こう」という気持になっています。

東大寺の修二会はあと3日となりました。

春がやってきます。

魂を想うことは、生きることを想うことと死を想うことに繋がります。

魂を想う作品を見ると、自分の内から思わぬ解釈が湧き出してきて、心と身体の浄化がやってくる、といつも思います。
岩手県立美術館には、多くの舟越保武作品が常設されているそうです。

長ーい文章を読んでくださりありがとうございました。
今日も好き一日でありますよう…

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月11日

2012年03月11日 | 第2章 五感と体感
東日本大震災から一年です。
亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

そして、去年のこの日から「新たなことが始まった」私達が健やかに生き抜いていくことができるよう祈ります。

昨日は能の実盛を鑑賞しました。
主人公の斉藤別当実盛は、戦乱のさ中を平安の武者として源氏と平氏双方に身を置き、80年近い人生を生き延びました。
かつて面倒を見た木曽義仲の手(実際は木曽義仲の家臣)によって、自分の命を終わらせます。

藤原北家の出である実盛の人生の選択を感じながら舞台を拝見しているうちに、彼のアイデンティティ(自己統合性)が見えてきたのです。
あらゆる状況において選択していく自分の心身の置き所に悔いが無ければ、もしかしたら自分の人生を終える時に「ほんとうに悔いが無い」と思えるのかもしれない・・・と、つらつら思いながら舞いを眺めている自分が居ました。

実盛は実盛。

私のこの一年と、これからを考えるに相応しい番組だったようです。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不安感を整理する

2012年03月10日 | 第2章 五感と体感
明日は3月11日です。

この一年間、震災に関して、自分はどんな不安感を持ちながら生きてきたのだろう。

私は都内のビルが互いにぶつかるのではないかと思うくらい、重なり合うように揺れている瞬間を目の当たりにしているので、ビルの谷間を歩く際、ビルとビルの間隔を何気なく測っている自分がいます。
意識されていない抑圧された恐怖感が、密集したビル群を見ることにより蘇ってくるのだと思います。

一月に、津波の被災地を訪れたお陰で、テレビで放映される津波の映像が、現実的な感覚で見ることができるようになりました。想像しても想像しきれない現実の傷跡に立った時に、初めて湧いてきた感情は、虚無感でした。でも、被災した方々の生の声を聞き、感情に触れていくうちに、凍りついたような感情の割れ目から悲しみや憤りや不安感が滲み出てきたのです。

体験している。
体験していない。

あらゆる意味で、この差は、測り知れないのです。

測り知れないからこそ、想像することは大事なのだと思います。

でも、そこで意識すべき大切なことがあります。

自分は、
体験していることによる不安感を今感じてるのだろうか?
それとも、
体験してないことが生み出す不安感を今感じているのだろうか?

闇雲な不安感は、不安感を増大させていきます。
不安感が増大する前に、不安感の整理をしてみると、自分の不安感の出所が自分自身で整理されてくるはずです。

3月11日を明日に控え、不安感の整理を心がけておくのも良いかもしれません。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春休みの決意

2012年03月09日 | 第2章 五感と体感
学年末の試験が終わり、試験の結果はさておき、生徒は春休みに向けてのんびりできる時期ですね。

この時期は、一年の中で一番、何にも考えなくてもよい時期なように思います。
この一年の反省はほどほどにしつつ、そして、何かの決意を迫られているのでしたら、ひたすら思い悩むのではなく、悩みを心の箱に仕舞う時間も必要です。

もし、何かの決意をせねばならないとしたら、自分の決意の実行のタイミングを心の中で描きながら、どこで実行すると自分が解放されるか、そして、どのくらいストレスがかかるのか、イメージしてみると良いかもしれません。

実行した時のストレスは、そのまま持続するものなのか・・・それとも、実行するまでの勇気のほうがストレスなのか・・・、そのあたりを今の内に整理しておくと、直前になって精神的に慌てることが軽減されるように思います。

実行に移すことのできない自分に勇気が必要なら、勇気を起こした後の喜びをイメージしてみることも大切です。

「ストレスに追い込まれるイメージ」と「実行した後に訪れる喜びのイメージ」と向き合う余裕があれば、今まで足踏みしてきたことから一歩進むかもしれません。

答えは自分の内にあります。

年度末、私もあれこれと頭の整理をしながら新年度を迎えようと思います。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太古の表現とポロック

2012年03月08日 | 第2章 五感と体感
東京国立近代美術館で行われている「ジャクソン ポロック展」を観てきました。

久しぶりに芸術に触れたように思います。

表象的な芸術は、周辺に溢れています。現代では表象なのか芸術なのか区別のつかないものも多いように思います。人類の移動や侵略と共に表象文化に拍車がかけられ、人類は「この形を見たら、これを意味する」という学習をすることによって表象による概念を持つことが当たり前になりました。

これらのことが知恵であり、個人やコミュニティーが生き抜く力かもしれない、というのも頷くことのできることです。

人にはそれらの形を決める前に、やってきたことがあります。

それは、「自分の体感を表現すること」です。
その表現の始まりの頃は、ルールもなければ、方法も様々だったはずです。

ポロックにしても、ピカソにしても、エミールウングワレーにしても、太古の表現者達と同じように、自己の体感をありのまま表現することで、独自の表象を造り上げてきました。
でも、彼らは、太古の表現に出合ったからこそ、感性が疼き、独自の表現が生まれてきたわけです。

岡本太郎氏も縄文の形象に魅せられ、民俗を追いながら独自の表現を育んでいきました。
(ポロックはネイティヴアメリカン、ピカソはアフリカ、ウングワレーはアボリジニー)

無から有は生まれません。
いきなり表象的な形が現れることはあり得ません。

太古の表現から見えてくる個人の感性が、奥深いものであればあるほど、それを観た者は、その奥深くにあるものを感じるのです。
形というものは、ほんの表層的なものであって、形そのものが大事なのではなく、表現を通り越した奥にある本質を観た時に、ああ、本物だ、と思うのが人の感性だと思います。

人は常に光を観ることを欲しているようです。

統御感を求めているからこそ、観光をするのかもしれません。

定住が常識になっている現代、移動してきた人類の遺伝子が、探し求めることを無意識にさせることで何かに到達することに喜びという感情を与えたのだとしたら、遺伝子の設計者は、何を到達点にしているのでしょう…
「原型とは何か」を追い求めることも到達点の一つだとすると、人類はメビウスの輪のように、また同じところに戻っていくようにも思います。

このようなことを考えながらポロックを楽しんできました。

私の統御感は、こんな感じの上に成っているようです。

精神分析が真っ盛りのアメリカを生きた芸術家であるがゆえに、一層自分を苦しめたとも解釈でき、そのような時代だからこそ、自己を追求できた一人の芸術家から見えてくる本質が、私の心身を糺してくれたのは確かです。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ

2012年03月06日 | 第2章 五感と体感
三寒四温の季節です。

ようやく梅の花が、目に入るようになってきました。

稽古を重ねる中での発表会も無事終わり、段々と解っていないことが解ってくるようになってきた感じがしています。

「何が解っていないか、解らない」と質問すらできません。
自分自身、ただただ、楽しい・・・と、感じていた事から、少しだけですが自分の課題が見えてきたように感じています。

これは、どのことにも共通することです。

多分、まだ、何が解っていないのか、解っていない段階の真っ最中だとは思うのですが、能楽の仕舞いと謡いのおかげで、習うことの楽しさを味わっています。休みがちではありますが太極拳も同じことを感じています。

カウンセリングの理論の学びについても全く同じことが言えるのです。

「傾聴する」ことで、傾聴する側の全人格が表出されてしまうと言っても過言ではないと思っています。
傾聴する側である自分の傾向や個性、性質を意識できていないで、安易に傾聴することは危険な行為と言える場合もありそうです。
勉強を重ねれば重ねるほど、難しさが見えてきます。

私はあれこれと学ぶことばかりの生活をしていますが、たまに、人のために役に立った・・・と、思う気持ちが湧くことも私の生き甲斐と言えそうです。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習い事の礼儀

2012年03月05日 | 悔いのない人生とは?
幼い頃から、多様な習い事をしてきて、それぞれ共通して学んだ礼儀があります。

それは、習っている師匠を差し置き、同輩を指導してはいけない、ということです。

そして、自分が習っている以上、先生は先生です。

プライベートに親しくお付き合いしているのであれば、習い事とは関係の無いところで「さん」付けするのはよいと思いますが、やはり「先生」と云うのが礼儀です。

同じ習い事をしている人を修正してあげたい気持ちは解りますが、ここはぐっと堪えて、口を出さないのが鉄則です。

修業を積んでいる人は、先生以外に絶対に他者を指導しません。する立場ではないからです。

そして、同種の習い事の師匠を掛け持ちする際も、気を遣うことが必要です。烈火のごとく怒りだす師匠の方が多いかもしれません。温かく見守ってくださる師匠が居たとしたら、物凄い大物です。(私の経験上…^^;)

こういうことを教えてくれる人は、なかなか居ません。空気を見て覚えるわけです。つまり、察するのです。
日本は察しの文化が根付いています。

武道や茶道や伝統芸能等、特にこれらの世界の礼儀作法は厳しいはずです。それができて初めて修業が許される世界かもしれません。

礼儀とは、人間関係を育むものです。

幸いなことに、私の諸々の師匠は、とてもとても謙遜な方々ばかりです。だからこそ、それに胡坐を掻かぬ様気をつけたいものです。

礼儀は日本だけのお話ではありません。欧米だと、それにもっと能動的な自己が要求されます。

「許」を待つことは、東洋の独特な考え方かもしれませんが、私は、それらに反発しながら生きてきた節があります。でも、案外その世界が好きなのかもしないと、年齢が重なるほどに思います。
温和に且つ受容力が備わってきた証なのでしょうか…。

謙遜が傲慢にならない程度に、謙遜でありたいものです。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お水取りが繋ぐ

2012年03月04日 | 第2章 五感と体感
今、東大寺、1261回目のお水取りの最中です。

2月から行が始まり、二月堂では3月1日から14日まで、午後7時からお松明が掲げられます。

お水取りのことは、ブログに毎年書かずにはいられない衝動に駆られます。

鑑真和上が造られた戒壇院。
歴史に名を残す名僧が学んだ学び舎址。

昨年は、以前から歩いてみたかった奈良坂を歩き、奈良豆比古神社の楠に出合い、奈良の面白さは、私の心の中で、まだまだこれからだ、と思っています。

松明の火がついた杉の枝を一昨日火の粉を被った主人が頂いて帰ってきました。

杉の独特の香りが、火にあぶられて一層香っています。
好い香りです。

1261回の中の数回しか直に体感することしかできませんが、
自分の祖先が被ったであろう火の粉を想うと、懐かしさがこみ上げてきます。

身体の中に宿る記憶は、ちゃんと蘇るのだと思います。そして、次の世代への遺伝子がまた繋げてくれることが、確実な安心と安定をもたらしてくれます。これが私のアイデンティティだと思っています。

繋げていきたくてもそれがままならず、自分ひとりだけでは、どうにもならないことも沢山あります。
でも、大事なことは、身体が記憶しているのです。

お水取りの祈りを想い、今年もまた生きていこう、思うのです。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供の成長

2012年03月03日 | 第2章 五感と体感
子供にどこまで手をかけるか…

多分、定まった答えは無いと思います。

親である自分が、他の親と比べてどのような違いがあるのかは、表面的なことは見えても実際家の中でどうなのかは見えませんので、わかりません。

ただ、親にどのように育てられているかは、子供の考え方、湧き出してくる感情、そして行動や態度に接するとジワジワと見えてきます。
このように現象として表れているを一所懸命傾聴していくことが私の役割です。

子供と接している時に、確かに背景として見えてくるものはありますが、私自身の思いこみに囚われると、大事な「ありのまま」を過ぎ越してしまいます。
だから、見えないことを推測するのではなく、事実のみと向き合っていきます。
(事実のみと向き合おうとする努力をするには、傾聴する側の、つまり自分自身の傾向を知る必要があります。相手のためだけではありません。自分のために訓練を続ける事が必要なのです。)

子供は、赤ちゃんの頃からおむつを取り替えてもらい、お腹が空くとご飯が与えられ、生活のリズムの中で、「どうすれば、自分に与えてもらえるか」を自身で体得していきます。それが、その人の持っている性質と加わり、「傾向」となって「現象」として表れます。自分自身が生き延びる術を身につけていきます。

それが、「思考と感情と行動」なのです。

「自分がどうすれば、生き抜いていけるか…」

どんなに幼い子でも、答えに向かって「思考と感情と行動」が働くのです。

高校の卒業式を皮切りに、中学校、小学校、大学や専門学校等の卒業式が次々と行われていく季節です。
学年も切り替わり、子供達も心を新たに、なんらかの目標を持つことでしょう。
子供達と共に、子供を育てる私達も、新たな目標を設定し、今までとは違う子供への接し方を考え改める時期でもあると思います。

子育ての仕方で、親として卒業するものは何か、そして、どんな切り替えをしていくかを考えることは、成長している子供への受容に繋がっていくはずです。

「子供の成長を見守ること」と「子供を守ること」分けて考えてみると、思索しやすいかもしれません。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒業式で見届けたよ

2012年03月02日 | 第2章 五感と体感
社会を批判しても、世間を憂いでも、他者の行動でイライラしても、結局は、自分自身の感情がそうさせているわけで、他者の皆が感じていることではありません。

他人のことは、ほんとうに私ではないのですから解らないのです。

答えは自分の内にあります。

昨日の卒業式で、関わった方々が卒業証書を頂く瞬間に立ち会わせて頂いたことが、私のけじめでもあることをひしひしと感じさせていただきました。

「あなた」という個人が、新たな扉を開けて、次の環境に身を置くわけです。

でも、「あなた」は、今までの経験を糧に次に進んでいきます。だから、今までよりは、答えを導き出すための引き出しが増えているはずです。

その引き出しの中に、私達との関わりが意識、無意識に関わらず入っています。

憂いや迷いが、自分の中に湧き出して、それがどうしようもなくなったらいつでも引き出しの中に閉まってある自分の居場所の扉を叩いてください。いつでも待ってるよ。

でも、きっと、大丈夫^^

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒業式

2012年03月01日 | 第2章 五感と体感
学校のしだれ梅の開花が遅れていて、たぶんまだ蕾だとは思いますが、お一人お一人に心の花束を贈りながら、本日の式で皆様を見送りたいと思います。

6年間の教育過程の中で育まれた学校で個々に感じ取ったアイデンティティは、これから諸々を選択していくであろうことの柱となっていくと思います。案外、それが自分にとって大事なことだった気付くのは、随分時が経ってからかもしれません。

自分の内にある答えは、自分が見つけるしか術はありませんが、ここで与えられた環境が、自分のうちにある答えを導き出してくれるはずです。

私自身、黒子の仕事であるがゆえに、出会った方々との想いは深く強いものがありますが、正直言って、皆様から学んだことのほうが多いのです。共に成長し合って学び合うことができたことに感謝しています。

御卒業、おめでとうございます。

クリック応援お願いします♪♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする