20日間の入院は、考えられるすべての内科的検査を行うも、どこにも異常は見つけられない。したがって残る術はただひとつ、「精神科」の診察である。
今ではどこの病院も「心療内科」という分野が設けられ、心因性の病気についても誰はばかることなく診察を受けることができる。
心療内科とは、疾病の病態形成に社会的、心理的因子が深く関与していることを重視し、この面の治療に重点を置く内科診療のことである。
しかし当時は心療内科を備えた病院は数少なく、この病院も同じ敷地内の離れた別病棟にある「精神神経科」に行くことになった。
主治医とともにその病棟を訪れる道すがら、医師は僕に説明を始めた。
内容は、精神に異常をきたしているのではなく、心因性の病気の疑いがあるから、云々。というのである。
僕は医師の説明を遮って、「先生、わかっていますから、説明しなくても大丈夫です」そう言って、精神科の診察を受けたのである。
そこでは徹底したカウンセリング。一方的に僕に話をさせ、医師はただ黙って相槌を打ちながら話を聴くだけ。
そうして始まった精神神経科への通院。カウンセリングと、症状を和らげるための薬の処方。そして初めて病名がついた。
「心気症」・・・実際には病気ではないのに心身の不調に悩み、重い病気ではないかと恐れる状態。(hypochndria・ヒポコンデリー)
しかし急激な改善が見られたわけではなく、一度陥った落とし穴から這い出すのは容易ではない。その後も藁にもすがるおもいで、あらゆる民間療法も試し、神頼みまでした。
年齢的にもちょうど厄年にあたっていた。男の厄年は42歳。数え年でいうそうなので、前厄に当たるとか。佐野の厄除け大師には、この年の前厄から始まって、本厄、後厄、お礼参りと、4年続けて行くことになる。
精神科への通院も何年も続く。待合室には同じような病に苦しむ人が大勢いる。
椅子に腰掛けているのがつらくて横になっている人、一人では来ることができず、付き添いに連れられてくる人、みな暗い顔ばかりである。
症状が和らぐと薬も必要なくなるので、徐々に病院からも遠ざかっていく。久し振りに顔を出すと先生は言った。「おっ、また来たね、うどん粉でも出しておこうか?」
「はい、お願いします」そう言ってまた薬を処方してもらう。
休みがちではあったが、仕事は続けていた。5年が過ぎる頃から、薄紙を剥ぐように徐々に症状も改善に向かってきた。
そんなときは積極的に外出することを心掛けた。名画といわれるたくさんの映画を見たのもこの頃だった。いま、その体験がわずかながらも財産になっている。
心の病は時として自殺も考えるとよく言うが、幸い僕は死ぬことは一度も考えたことがない。原因がわかり命に関わる病気でないことがわかったことで、いつかは治ると信じていた。その数年間多くの方から支えられ、いまの僕があることを痛感している。
冬は温泉、夏は海や涼しい高原での森林浴へと、付き合ってくれた友の存在も大きかった。
以前我がブログで紹介した、心の師と仰ぐバンドリーダーのチャーリー脇野氏 も、あらゆる手を尽くして、協力をしてくださった。
他にも、前述のストレスの原因となったかも知れないお客様も含め、優しく見守ってくださった方々へはいまも感謝している。そして多くの教訓も残してくれた。
今ではどこの病院も「心療内科」という分野が設けられ、心因性の病気についても誰はばかることなく診察を受けることができる。
心療内科とは、疾病の病態形成に社会的、心理的因子が深く関与していることを重視し、この面の治療に重点を置く内科診療のことである。
しかし当時は心療内科を備えた病院は数少なく、この病院も同じ敷地内の離れた別病棟にある「精神神経科」に行くことになった。
主治医とともにその病棟を訪れる道すがら、医師は僕に説明を始めた。
内容は、精神に異常をきたしているのではなく、心因性の病気の疑いがあるから、云々。というのである。
僕は医師の説明を遮って、「先生、わかっていますから、説明しなくても大丈夫です」そう言って、精神科の診察を受けたのである。
そこでは徹底したカウンセリング。一方的に僕に話をさせ、医師はただ黙って相槌を打ちながら話を聴くだけ。
そうして始まった精神神経科への通院。カウンセリングと、症状を和らげるための薬の処方。そして初めて病名がついた。
「心気症」・・・実際には病気ではないのに心身の不調に悩み、重い病気ではないかと恐れる状態。(hypochndria・ヒポコンデリー)
しかし急激な改善が見られたわけではなく、一度陥った落とし穴から這い出すのは容易ではない。その後も藁にもすがるおもいで、あらゆる民間療法も試し、神頼みまでした。
年齢的にもちょうど厄年にあたっていた。男の厄年は42歳。数え年でいうそうなので、前厄に当たるとか。佐野の厄除け大師には、この年の前厄から始まって、本厄、後厄、お礼参りと、4年続けて行くことになる。
精神科への通院も何年も続く。待合室には同じような病に苦しむ人が大勢いる。
椅子に腰掛けているのがつらくて横になっている人、一人では来ることができず、付き添いに連れられてくる人、みな暗い顔ばかりである。
症状が和らぐと薬も必要なくなるので、徐々に病院からも遠ざかっていく。久し振りに顔を出すと先生は言った。「おっ、また来たね、うどん粉でも出しておこうか?」
「はい、お願いします」そう言ってまた薬を処方してもらう。
休みがちではあったが、仕事は続けていた。5年が過ぎる頃から、薄紙を剥ぐように徐々に症状も改善に向かってきた。
そんなときは積極的に外出することを心掛けた。名画といわれるたくさんの映画を見たのもこの頃だった。いま、その体験がわずかながらも財産になっている。
心の病は時として自殺も考えるとよく言うが、幸い僕は死ぬことは一度も考えたことがない。原因がわかり命に関わる病気でないことがわかったことで、いつかは治ると信じていた。その数年間多くの方から支えられ、いまの僕があることを痛感している。
冬は温泉、夏は海や涼しい高原での森林浴へと、付き合ってくれた友の存在も大きかった。
以前我がブログで紹介した、心の師と仰ぐバンドリーダーのチャーリー脇野氏 も、あらゆる手を尽くして、協力をしてくださった。
他にも、前述のストレスの原因となったかも知れないお客様も含め、優しく見守ってくださった方々へはいまも感謝している。そして多くの教訓も残してくれた。
-次回は最終章です-
2006.08.25