勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

椿の実

2007-09-15 02:04:01 | Weblog
 我が家のベランダの椿の木に実がなった。暑かった今年の夏、太陽をいっぱい浴びその影響かどうかはわからないが、いつもの年より多くの実がなった。そしてその実が割れた。我が家に来て15年以上が経っている椿である。

◇ つばき ◇

木は自分で
動きまわることができない
神様に与えられた その場所で
精一杯枝を張り
許された高さまで
一生懸命 伸びようとしている

そんな木を
私は友達のように思っている

-星野富弘さん-
 
◇ つばきの実 ◇

だれだろう
こんな固い実を割ったのは

だれだろう
草や花や木の実や
空や鳥や魚に
色をぬったのは

私は
ふしぎなところに
うまれた

-星野富弘さん-

 椿の実から採れる椿油は、髪に良いと聞く。調べてみると、髪のトラブル解消だけでなく、皮膚の保護や予防にもなり、食用としても血液中の悪玉コレステロールを減少させる働きがあるらしい。

 しか~し、どんなに髪に良い影響があるといっても、髪がないことには始まらない。残念ながら、我が家の椿の実は、宝の持ち腐れである。でも今日はうれしいのだ。どんな形でも、実を結ぶってうれしいものである。椿でなくても・・・♪♪♪

水引

2007-09-14 01:36:50 | Weblog
 慶弔時などに進物用の包み紙を結ぶのに使う紙糸を、水引というのはご存知の通り。その結び方も、様々ある。大きく分けて、◇花結び、あるいは蝶結び ◇結び切り ◇鮑(あわび)結び の3種類あるそうだが、それぞれの目的によって、使い分ける必要がある。

 花(蝶)結びは、結び直せることから、婚礼以外のくり返したい祝い事などに使い、結び切りは、固く結ばれ二度とくり返さないという意味から、婚礼や傷病の見舞いなどに使われる。また、鮑結びは、複雑に絡み合った結び目がアワビの形に似ていることから、良いお付き合いの願いを込め、慶事・弔事の両方に使われるようだ。
 秋の野に咲くミズヒキが風にゆれ、目立たないが、楚々としたその可憐な花は、夏の終わりを惜しんでいるかのよう。

 ミズヒキの名の由来は、花穂を上から見ると紅く見え、下から見ると白色に見えることから紅白の“水引”の名を借りたという。

あまり見かけないが、白い花のミズヒキもあり、こちらは「ギンミズヒキ」というそうだ。

 また、科は違うが、花のつき方がミズヒキに似ていることから、黄色い花の「キンミズヒキ」という花もある。秋の野は祝いごとが多いのだろうか。
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 紅白のミズヒキが並んで咲いている、しあわせな場所があった。我がブログを訪れてくださる皆様へ、そしてあなたへ感謝の意を込めて、固い契りを結ぶべく、紅白の水引に結んで、ありがとうの言葉を添えて、ささやかな贈り物をお届けします。(マウスオンでご覧ください)

忍耐

2007-09-12 23:40:45 | Weblog
 墨田区向島にある向島百花園は、僕にとって癒しの場所でもある。ここは野草などの植物を自然のままで育てる、数少ない庶民の庭園である。我が家から自転車で20分ほどのこの庭園は、訪れるたびに新しい発見がある。移ろう季節を知り、季節の花を知り、花の名を知る。
 昨日訪れた園では、数日前にはまだ蕾だった秋明菊が、雨空の下で、一輪だけ微笑みかけていた。
 
◇ 心の部屋 ◇

-秋明菊-

こころの中に
ポッカリ空いた
部屋がある

そこで私は
言葉にも形にも
ならないものたちと
静かに向き合う

詩の行間のように
日本画の余白のように
なんにもないままに
いつまでも残しておきたい
大切な私の部屋

-星野富弘さん-
 一説に、中国から修行僧が持参した「秋明菊」は、日本にない美しさを、“黄泉の国”の秋咲きの菊に例え、「秋冥菊」と名付けられた。しかし“冥”はイメージが暗いので、同音反意の“明”に変更された、とある。(山と渓谷社・「野草の名前」から)

 心の中にポッカリ空いた僕の部屋、黄泉の国に行く前に、なんにもないままに、いつまでも残しておこうか、それとも・・・・・♪

 秋明菊はキク科ではなく、キンポウゲ科イチリンソウ属。花言葉は「忍耐」だそうです。 

運命

2007-09-11 12:22:18 | Weblog
「信長と同年同月同日同時に生まれし者を尋ね出し給ふ」 
 天下を取った信長は、一つのお触れを出した。易占いを信じていない信長は、生年月日がその人の運命を決めるのか、確かめようとした。

 一人の男が見つかった。極貧の男を見て信長は言った。「わしは天下を取り、おまえは極貧。同時に生れても、運命がだいぶん違うな」。

 ところが男は言った。「いえ。上様と私は大差ありません。ただ一日の違いです」。極貧男がそう答えたので、信長は聞いた。
「その一日とはなんじゃ?」
「天下を取っても、貧しさに極まっても、それは昨日までの過去のこと。上様とて明日はわかりませぬ。今日一日のみ、上様は天下の主として楽しまれ、わたしは極貧に苦しんでいるだけです」

 これを聞いて信長は、一瞬愕然としたが、やがて満足そうにうなずき、男にたくさんの衣服金銀を与えて帰した。結局、人間は今だけを生きている。

-朝日新聞/コラム「昔も今も」から-
 昨日の記事「生きる」の中で、僕は言った。「今日という日を悔いのない一日にしよう」と。しかし、それは特別な日でなくていい。無事是幸せ。時々でいい、小さな喜びが見いだせれば・・・。
 向島百花園には、秋の花が咲き乱れている。その中で、ひときわ目立つ花がある。ひと夏の命を咲き終えようとしている真っ赤な花。それはカイコウズ。花言葉は「夢、童心」。

生きる

2007-09-10 02:44:09 | Weblog

命みじかし 恋せよ乙女
赤きくちびる あせぬまに
 テレビドラマ「生きる」を見た。ある日突然、ガンを宣告され、余命いくばくもないと知ったとき、人はどうするのだろう?ドラマの主人公は、部下だった若い女性の前向きな生き方を見て叫ぶ。「君のように生きて死にたい」。生きることの意味、人の心の強さと弱さ、人間の価値観、それらが重くのしかかる。

 その昔、黒澤明監督の映画「生きる」を見た。志村喬さんが、ブランコに揺られながら歌う「ゴンドラの唄」の名シーンが目に焼きついている。テレビのリメーク版を見て、ストーリーは同じであるが、別のものと思うことにした。どちらが良いということではないが。

 自由気ままに生きてきた僕にとって、生きることの意義を教えてくれたのは、父母の死であり、愛する人、身近な人の死であった。誰もが避けられない、しかしその時期を選ぶことはできない死。遠い先と思っていた最期のときが、身近な人の死によって、より現実的に感じられるようになった。

 我が人生を振り返ったとき、少しの後悔がないわけではないが、まぁ、いい人生だったと思える。今まで生きてきた人生に比べれば、決して長くない残りの人生は、おまけだとも思っている。しかし、自分の命が余命いくばくもないと知ったとき、はたして冷静に受け止めることができるだろうか?自信がない。

 前夜に見たドラマ「天国と地獄」では、死刑宣告を受けた誘拐犯の若者が、全財産を投げ出し身代金を差し出した主人公と対面し、強がって見せる。「たとえ地獄へ行こうとも、少しも恐れていない」。そううそぶくそばから、全身の震えが止まらなくなる。死とはそういうものだろう。 

 そんな死を受け止めるときのためにも、今日という日を悔いのない一日にしたい。命を賭けられるものがあるだろうか。“ある”と信じる。

熱き血潮の 冷えぬまに
明日の月日は ないものを

セカンドハーベスト

2007-09-08 20:36:01 | Weblog
 ダンスのデモに出演するお客様の出張レッスンのため、練習場に出かけた。隅田川に架かる桜橋を渡ると、路上生活者のいる一角で行列ができている。何事だろうとその行列の先頭に行ってみた。行儀良く並んだ彼らに食料を配る一団がいた。
 話を聞くと、日本で食料を必要としている人々へ、食料供給する活動をしているセカンドハーベストジャパン という団体で、今日はホームレスの人たちへの炊き出しの日だそうだ。
 事務局長のチャールズ・マクジルトンさんの話によると、セカンドハーベストとは、食料としてまだ使えるのに棄てられるものを、再利用することを意味し、セカンドハーベストジャパンは、食品製造業者や、卸店、レストラン等と提携し、余剰食糧や食品雑貨の寄付による食料を、それを最も必要としている人々のもとへ届ける、ボランティア活動をしているのだそうだ。

 対象は、母子家庭、ワーキングプア、高齢者、移住労働者、ホームレスなどで、この運動の認知度の向上も目指しているという。

 わが町の近くには、昔、山谷と呼ばれた地区がある。そこで路上生活者の終末ケアーをされている山本さん は、以前紹介したとおりである。

 少し前まで、路上生活者の彼らは、僕にとって視野に入らない存在だった。先日紹介した心優しい友や、山本さんとの出会いによって、身近な存在として、眼に入るようになった。彼らに手を差し伸べるほどの優しさには至っていないが、山本さんをはじめ、ボランティアの人たちを見ると、そんな方たちの存在を知ってもらう役に立てればと思うのです。

あめんぼの歌

2007-09-07 01:19:37 | Weblog
 一昨日の早朝、ベッドから逆さまに落ちて打った頭、昨日お会いしたコスモスさんには、いつもと変わらないので大丈夫と、太鼓判を押していただいた。しかし、いつもが変な僕は、それだけではちょっと不安。そこで自分で確認することにした。頭が変なのは確認のしようがないので、舌の回り具合を確認する方法を試みた。

 皆さんも一緒に声を出して読んでみませんか、舌の回りが良くなるかもしれません。普段から無口で、思ったことの半分も言えない僕には、活舌がよくなる練習にもなりました。

◇ あめんぼの歌 ◇

あめんぼあかい(あまい)な  
あいうえお   
浮き藻に子海老も泳いでる

柿の木栗の木    
かきくけこ   
きつつきこつこつ枯れけやき

ささげに巣をかけ  
さしすせそ   
その魚(うお)浅瀬で刺しました

立ちましょラッパで 
たちつてと   
トテトテタッタと飛び立った

なめくじのろのろ  
なにぬねの   
納戸にぬめってなに粘る

はとぽっぽほろほろ 
はひふへほ   
日なたのお部屋にゃ笛を吹く

まいまいネジ巻き  
まみむめも   
梅の実落ちても見もしまい

焼き栗ゆで栗    
やいゆえよ   
山田に灯のつく宵の家

雷鳥寒かろ     
らりるれろ   
蓮華が咲いたら瑠璃の鳥

わいわいわっしょい 
わゐうゑを   
植木屋井戸換えお祭だ

-作・北原白秋-

 今のところ舌の動きと、言語をつかさどる脳には、支障をきたした形跡は見当たらなかった。皆さんはいかがでしたか?舌を噛んで死んでも責任は負いかねますので、ご承知おきください。

落ちたっ!

2007-09-06 00:52:37 | Weblog
 あの暑い夏も去り、朝晩の過ごしやすさは、心地良い眠りを誘う。雨音が子守唄に聞こえた早朝のこと、夢うつつの中で寝返りをうった。そこはベッドの端、あっと思ったが、時既に遅し。ベッドに足を残したまま仰向けで頭から落ちた。ゴツンという音とともに、もんどりうって目が覚めた。

 僕の記憶ではベッドから落ちたのははじめて、いや、頭を打ったので記憶がなくなっているかもしれない。幸い怪我もなく、多少の記憶が薄れたかもしれないが、それは頭を打ったせいではないかもしれない。頭だけに怪我がないのは、毛が(怪我)ないからか。
 因幡の白兎が、大国主命(おおくにぬしのみこと)の助言で傷を治したという、がまの穂が秋風に揺れている。


◇ だいこく様 ◇

大きなふくろを肩にかけ だいこく様が来かかると
ここにいなばの白うさぎ 皮をむかれて赤はだか

だいこく様はあわれがり きれいな水に身をあらい
がまの穂わたにくるまれと よくよく教えてやりました

だいこく様の言うとおり きれいな水に身をあらい
がまの穂わたにくるまれば うさぎはもとの白うさぎ
 
だいこく様は誰だろう  大国主のみこととて
国を開きて世の人を  助けなされた神さまよ

 がまは、薬草としてだけではなく、布団の芯、筵(むしろ)、灯心、食用 [若葉と根] などと、利用価値が高いと、野草図鑑にある。

 僕の頭も、がまの穂綿にくるまれば、“♪頭はもとの黒髪よ!” なんてことにはならないだろうな。

ほおずき

2007-09-05 01:05:15 | Weblog
 
◇ ほおずき ◇

ほおずきが赤くなったくらいで
さわぐな
トチの実が落ちているくらいで
 かやつり草があったくらいで
さわぐな
私の中の子供たちよ

-星野富弘さん-

かやつり草

 地球が滅びるわけでもないのに、明日この世が終るわけでもないのに、何故そんなに急ぐ。僕の中の幼稚な子供が、理性を失って慌てふためく。そんな日があった、最近のこと。
 赤く色づいたほおずきも、7年もの長い年月、土の中でじっと耐え、ひと夏を鳴いてその命を終る蝉でさえ、時が来るのをじっと待っている。「待てば海路の日和あり」。悪天候も、いつかは晴れる。昨日はまた暑い日が戻った。僕にとってはうれしい日和。

 かやつり草を、久しぶりに見た。三角形の茎を両端から裂くと四角形になる。それを蚊帳に見立てた子供の頃の遊びを思い出す。僕の中の子供よ、あの日のように無邪気になれ。この僕も、愚かな自分をちょっと恥じて赤くなっている。

優しさとは・・・

2007-09-04 01:08:42 | Weblog

◇ 桃 ◇

食べないで
しばらく
ながめていよう
すこしは
やさしいこころに
なれるかもしれない

-星野富弘さん-
 

 部屋中に漂う甘い香りに包まれて、触れてはいけない柔肌は、眺めるだけの桃色吐息。そっと唇触れる日は、今日か明日か永遠(とわ)の日か。ながめているだけでやさしいこころになれるなら、いつもそばに置いておきたいこの香り。

 その昔、優しさを絵に描いたような友がいた。家を持たない人がいると、食べ物屋に勤める友は、残ったご飯でおにぎりをつくり、彼らに食べさせた。通勤駅で電車に飛び込んだ人を見たといって、次の朝、線路に花を手向ける。息子を尋ねて田舎から来たお年寄りが、息子の居場所がわからず、酔った足どりで駅のホームをよろめき歩くのを見て、危ないからと家に連れて帰り、一晩泊めて、息子の居所を探し当て、いたく感謝されたこともある。他にも数え上げたらきりがない。

 独りよがりで生きてきた僕に、人の優しさを教えてくれたのは、友がこの世を去ったとき。そんな優しさに慣れていた僕は、友がいなくなってはじめてその桁外れな優しさに気が付いた。

 優しさという文字から人を除くと、憂いになる。いつまでたっても、優しさを教えてくれた友のように、優しくなれない僕は、今日も甘い香りの桃をながめながら、自分の中にやさしいこころを探してる。明日はこの桃を食べてみようか、少しはやさしくなれるかもしれないから。

 あなたのそばにいる人に、優しい心で接してみませんか。いなくなると憂いになるから。

飛翔

2007-09-03 06:01:56 | Weblog
 世田谷区の花、サギ草には、世田谷城主吉良頼康公の側室・常盤姫の悲しい「サギ草伝説」があるらしい。
 無実の罪で露と消えた常盤姫の文(ふみ)が足に結ばれていた鷺を射落とした場所に咲いた白い花。それは美しい鷺の飛翔を思わせる花となって、咲き乱れたという。
我が家の窓辺に飛来した2羽の白鷺は、良い便りを運んできてくれるだろうか?

秋の道

2007-09-02 03:04:56 | Weblog

◇ 秋の道 ◇

秋の道を
蟻が歩いている
立ち止まっては
空を仰ぎ
立ち止まっては
うなずき

蟻よ おまえは
何を信じているのか

-星野富弘さん-

 冬に備え、ただひたすら働く蟻の姿をよそに、キリギリスの鳴き声が聞こえる季節がやってきた。

 イソップ物語「アリとキリギリス」はそもそも「アリとセミ」だったらしい。セミは熱帯系の昆虫のため、生息しない国もあり、国によって様々な昆虫に置き換えられたそうだ。日本も何故か、セミがキリギリスになったという。こんな可愛い絵 のアリとキリギリスの話を見つけました。

 蟻の一穴、天下の破れ、とか、蟻の穴から堤も崩れる、とかいいます。思わぬ不注意が大事を引き起こすこともある。そんなとき、蟻の思いも天に昇る、といわれるように、小さく無力な者の願いでも、一念が強ければかなえられるらしい。

 今宵の空は、曇り空。空を仰ぎ、何かを信じ、立ち止まってはうなずく蟻のように、星は見えないけれど「星に願いを」かけてみよう♪

吾亦紅

2007-09-01 01:23:03 | Weblog
 先人は、目には見えない秋の訪れを、風の音に聞いて驚いたという。長月9月、風に揺れる吾亦紅(われもこう)の花が、夏に終りを告げ、秋の訪れを教えてくれる。
 ワレモコウは、「吾亦紅」「吾木香」「割木瓜」「割帽額」「地楡」などと様々な字が当てられる秋の代表的な花である。
「吾も亦(また) 紅(くれない)なりと ひそやかに」 高浜虚子

 花言葉は、『もの思い』『愛慕』『感謝』『移ろいゆく日々』 。センチメンタリズムの代表のようでもある。
 そんな『吾亦紅』を歌ったすぎもとまさとさんの歌が心に沁みる。亡き母への想いを切々と歌う歌声は、団塊の世代に贈る母への挽歌。今話題の曲である。

◇ 吾亦紅 ◇


あなたに あなたに 謝りたくて
仕事に名を借りた ご無沙汰
あなたに あなたに 謝りたくて
山すその秋 一人逢いに来た
ただ あなたに 謝りたくて

 興味がありましたら、こちらでその一部を試聴できます。母への切ない思いを込めた歌詞と歌声、哭(な)けますよ♪