ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

旧国鉄宮原線の話

2013年02月01日 01時58分47秒 | 社会・経済

 2013年度予算案が国会に提出されました。政権交代により、数年前に民主党・国民新党・社会民主党連立政権の下で主張された「コンクリートから人へ」の逆である「人からコンクリートへ」の色彩が強まっています。或る意味で、この国では、一般的な社会保障制度や社会福祉制度よりも公共事業のほうが社会保障的な、あるいは社会福祉的な機能を果たしているのかもしれません。

 私自身は、「人からコンクリートへ」への転換があながち間違っているとは思いません。インフラストラクチャーの整備は必要ですし、維持・管理の費用を欠かす訳にもいきません。昨年12月に発生した中央自動車道笹子トンネルの事故で改めて問題となったように、東海道新幹線や首都高速道路など、建設から半世紀近くが経過し、老朽化が問題となっている施設が日本には多いのです。補修にも限界があるので、高架橋の架け替えなど抜本的な対策が必要でしょう。

 しかし、何のための公共事業なのかがわからないようなものが多いのも困ります。このところの大きな問題は高速道路でしょう。2011年3月11日の東日本大震災で、いくら高速道路を整備しても地震の際には全く使い物にならないことが判明しています。そうでなくとも、北海道などで、あまりに走行台数が少なく、並行している国道や県道でも十分に役に立つというような高速道路もあります。一時は景気を押し上げる効果があるかもしれませんが、長期的に見て無用の長物と化する可能性、いや蓋然性は高いと言ってよいでしょう。

 今の状況を見ていて思い出すのは、1980年代の国鉄の分割民営化です。当時、私は高校生でしたが、巨額の赤字、サービスの悪さ(これはJRにも引き継がれているという部分があります)などのために、あまりに無残、悲惨な最期を迎えました。しかも、その際には国鉄の赤字体質の原因または拡大要因の一つとなった地方の赤字ローカル線が次々に廃止されました。一部は第三セクターに引き継がれましたが、鉄道として残らなかった路線のほうが多かったはずです。

 さらに、赤字ローカル線問題は1980年代で解決された訳ではありません。候補にあげられながらも廃止を免れた路線もあり、21世紀に入ってから再び存廃問題が浮上しています。これについては、JR各社が15年間ほど、各路線の収支状況を一切公表していなかったという事実があります。蓋を開けてみたら、1980年代の水準より悪化していたという路線が少なくないのです。

 1970年代までは、多くの政治家が「地元のために」と主張して建設を目指したのは高速道路というよりローカル線でした。歴史は形を変えながら繰り返すのでしょうか。

 前置きが長くなりました。今回は、九州のほぼ中央と言ってよい場所を通っていた旧国鉄宮原(みやのはる)線を取り上げます。

 宮原線は、大分県玖珠郡九重町にある恵良駅(久大本線)から熊本県阿蘇郡小国町にあった肥後小国駅までの、26.6キロメートルの路線でした。但し、列車は全て、恵良駅の隣にある豊後森駅(久大本線)の発着です。宮原線は、大分県内を走る国鉄線では唯一、国鉄分割民営化という「国鉄改革」に伴って廃止された路線で、1984年11月30日を営業最終日として、翌日付で廃止されました。

 路線名は、肥後小国駅の所在地に由来します。宮原とは小国町の大字の名称で、ここに終着駅があった訳です。小国町には、もう一つ、北里駅がありました。名称から察しがつくという方もおられるかもしれませんが、有名な医学者、北里柴三郎博士の生誕地がこの辺りにあり、博士の生家や記念館などもあります。

 地図で確認していただけるとよいのですが、完全な盲腸線で、熊本県内には北里と肥後小国の二つしか駅がなく、同県の地図の上では宮原線だけが孤立して北東のほうを少しばかり走っている、というようにしか見えません。小国町は杉で有名な場所で、宮原地区には杉の集積場がありましたし、国道387号線も杉林の中を抜けていきますので、杉の運搬のために建設されたという側面はあるかもしれません。しかし、1972年7月31日に貨物営業が廃止されていますので、実際のところはどの程度の需要があったのか、疑問となる部分もあります。

 そこで同線の歴史をたどっていくこととします。すると、他の国鉄赤字ローカル線、とくに盲腸線と同じく、元来の形が完成することなく、中途のまま廃止されたことがわかります。

 以前、種村直樹編『国鉄・JR鉄道廃線カタログ(別冊歴史読本73)』(1996年、新人物往来社)という本を所持していました。その113頁によると、1937(昭和12)年6月27日、久大本線の恵良(えら)から宝泉寺までが開通しました。しかし、戦争が激化したため、1943年9月には営業を休止します。資材提供のため、線路も撤去されました。当時、軍によって不要不急の路線とみなされた所では、運転が休止され、さらに線路も供出されるというような事態が起こっています。

 戦時中、軍事の上で重要と判断された路線は、勿論存続し、強化されたりもしています。また、例えば南武鉄道(現在のJR東日本南武線)のように国に買収されて国鉄線となった路線もあります。その一方で、不要不急の路線として扱われた路線では資材供出のために休止とされたり、御殿場線のように単線化されたりしています。宮原線も、当時から需要が少なかったことがうかがわれます。それでも廃止にはならず、1948年4月に営業を再開し、1954年に肥後小国まで延長します。

 しかし、このような路線ですから、延長しても重要度は低いままであったのでしょう。1968年、既に赤字体質となっていた国鉄は、経営体質の改善を目指すべく、赤字ローカル線の廃止を計画し、全部で83の路線を対象としました。この中には宮原線も入っています。しかし、何とか生き残りました。宮原線に限らず、対象となった路線の多くは生き残っています。その背景には、田中角栄内閣時代に打ち出された列島改造論があります。鉄建公団が設立され、国鉄に代わって新路線を建設しては国鉄に引き渡すということがなされましたが、結局は国鉄の経営状況をさらに悪化させることにもなりました。そして、全国各地で、未開業のまま廃止された路線も多く発生したのです。宮原線も同じで、この路線には恵良~肥後小国という既存の開業区間とともに、未開業区間も含まれています。

 現在の全国新幹線鉄道整備法や国土開発幹線自動車道建設法のモデルというべき法律に、鉄道敷設法があります。大正11年4月11日に法律第37号として公布されたもので、第1条(昭和45年改正後のもの)は次のように規定しています。

 本邦ニ必要ナル鉄道ヲ完成スル為日本国有鉄道ノ敷設スヘキ予定鉄道線路ハ全国新幹線鉄道整備法(昭和四十五年法律第七十一号)ノ規定ニ依リ建設スヘキモノノ外別表ニ掲クル所ニ依ル

 この条文に示されている通り、後の赤字ローカル線ともなる予定路線の多くが別表に記載されています。高速道路建設推進の根拠となっている国土開発幹線自動車道建設法も同じように別表で予定路線を示していますが、鉄道敷設法の場合は本体よりも別表のほうが長く、高速道路と同じく日本全国へのバラマキ政治を法律の形にしたとも言えます。そのことがよくうかがわれるのは、別表に予定路線が第一号から第百五十号まで掲げられており、枝番号もあるのでもっと数が多いのにも関わらず、重点をおくべき路線などが全く示されていないという部分、つまりメリハリが全くないという点です。

 そんな法律の別表を見ると、「九州ノ部」として「百十三 佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道」が掲げられています。宮原線の根拠はここに示されていたのです。厳密に言えば後半の部分、すなわち「隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道」で、熊本県の菊池市(隈府)から大分県の恵良までの路線として計画されていたことになります。菊池市には熊本電気鉄道菊池線が通っていましたので、予定通りに完成すれば鹿児島本線の上熊本駅までの路線が誕生していたかもしれません。しかし、肥後小国から菊池までの区間は、結局、建設されずに終わりました。なお、1986年2月15日には、熊本電気鉄道の御代志(みよし)~菊池も廃止されています。

 改めて読むと、第113号のルートは九州横断を目指しているとは言え、全通させるだけの意味がどれほどあったのかが疑わしいと考えられます。現在の視点からのみ思考してはならないのでしょうが、当時も問題視されていたのではないかと疑いたくなります。「佐賀」は長崎本線の駅、「矢部川」は鹿児島本線にある現在の瀬高駅(1956年に改称)、「隈府」は現在の菊池市、「肥後大津」は豊肥本線の駅ですが、佐賀または長崎から大分へのルートを目指していたのでしょうか。肥後大津から豊肥本線に乗り入れた上で、やはり中途半端に終わってしまった別表第119号の路線(一部が高森線および高千穂線として開業)へ直通して延岡や宮崎へ出るためのルートとしても想定されていたのでしょうか。

 しかし、実際には、細切れではあるものの、鉄道路線が建設されています。まず、佐賀駅から瀬高駅までの区間は国鉄佐賀線として開業しましたが、やはり赤字ローカル線であったため、1987年3月28日に廃止されています。次に、瀬高から熊本県の南関町までは、九州肥筑鉄道の路線が存在していました。この会社は菊池までの建設も目指していましたが、実現しないままに路線が廃止されてます(1938年のことです)。また、瀬高から山鹿市、菊池市を経由して肥後大津まで、国鉄バス山鹿線が営業していました。このバス路線はJR九州バスに引き継がれましたが、2006年に撤退しており、九州産業交通および熊本電気鉄道に移管されています(その後、一部区間が廃止されており、熊本電気鉄道も撤退しています)。そして、「森附近」の恵良から肥後小国までの宮原線です。

 さて、鉄道敷設法別表の実現がかなわなかった宮原線は、前述のように、田中角栄内閣のおかげでと言うべきか、赤字ローカル線のまま、何とか生き残ってきました。しかし、上記の種村直樹編の本によりますと、末期の同線は一両編成のディーゼルカーが全線(但し、始発は久大本線の豊後森駅)を一日3往復(但し、土曜日だけは4往復)するだけのダイヤだったそうです。沿線には一つも市がないので(大分県九重町と熊本県小国町)、沿線人口が少ないのですが、それを考慮に入れても少なすぎる本数です。人口の減少→利用者の減少と本数の減少の悪循環に陥っていたのではないでしょうか。モータリゼイションの勢いの強さもうかがわれます。

 国鉄は1970年代を通じて赤字を増大させ、サービスも悪化させてどうにもならない状態になっていました。ローカル線の維持などできず、まして新線建設など論外です。そこで、1980年に公布・施行された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法は、全国の国鉄路線を輸送密度によって区分けし、赤字ローカル線の中で輸送密度が一日あたり4000人未満の路線を特定地方交通線と位置づけ、原則として廃止し、バス路線などへの転換をすべきこととしました。廃止・転換に際しては第一次から第三次までに分けられましたが、1981年、輸送密度が一日あたり2000人未満で営業キロ数が30キロメートル未満の路線、または輸送密度が一日あたり500人未満で営業キロ数が50キロメートル未満の路線が第一次特定地方交通線として指定され、廃止の対象となりました。

 宮原線はこの第一次特定地方交通線の一つでした。輸送密度が一日あたりで200人未満であり、これより低い路線は北海道の白糠線(廃止第1号。白糠~北進)と美幸線(最悪の赤字路線として有名だった路線。美深~北見枝幸までの路線として建設されましたが、実際に開業したのは美深~仁宇布のみです)しかありません。驚いたことに、福島県の日中線よりも低かったのです。九州で他に第一次特定地方交通線として選定されたのは、添田線(香春~添田)、妻線(佐土原~杉安)、香月線(中間~香月)、勝田線(吉塚~筑前勝田)、室木線(遠賀川~室木)、矢部線(羽犬塚~黒木)、甘木線(基山~甘木)、高森線(立野~高森)です。このうち、甘木線と高森線は第三セクターに引き継がれましたが、残りは全てバス路線に転換されました。

 全国で3番目に輸送密度が低かった宮原線は、第三セクターに引き継がれるはずもなく、1984年12月1日付で廃止されました。大分県と熊本県に跨ること、過疎地域のみの路線であることからして、第三セクターの設立は難しかったでしょう。両県とも消極的であったのではなかったでしょうか。

 廃止後は大分交通のバス路線が営業を始めました。しかし、モータリゼイションの勢いは止まることを知りません。同社はバス事業を分割します。その結果、宮原線の代替バス路線は子会社の玖珠観光バスに引き継がれました。転換当時のバスの本数がどの程度であったのかはわかりませんが、私が大分大学教育福祉科学部の助教授となった2002年4月の時点でこれも一日10往復足らずでした。現在のダイヤがどうなっているのかを知りたくなったので、大分交通のサイトを見たところ、豊後森~小国の路線は、次のようになっています。

 月曜日~金曜日:3往復(豊後森8時15分、11時25分、14時25分/小国10時25分、13時25分、16時25分九重町役場経由)

 土曜日および休日:2往復(豊後森9時25分、11時25分/小国11時25分、13時25分)

 但し、大分県内ということであれば、豊後森~宝泉寺の区間では月曜日から金曜日まで14往復、土曜日および休日は8往復となっています。県境越えの需要は少ないということでしょう。廃止にならずに存続していることにも驚かされます。全国各地の様子を概観すると、代替バスでも廃止やコミュニティバスなどへの再転換の例が少なくないのです。

 さて、ここからは私が宮原線の跡を訪ねた日のことを記しておきましょう。

 大分大学時代の7年間、私は、よくドライブをしていました。一人で、行先も特に決めることなく、何となく運転することが楽しかったのです。

 私が初めて熊本県阿蘇郡小国町を訪れたのは、自宅にある日記によると1998年3月8日(日曜日)です。ただ、この時はあまり詳しく記していません。宮原線の跡をたどるということではっきりしているのは1999年12月11日(土曜日)で、国道10号線沿いにあった自宅から当時の愛車、日産ウイングロードXを運転し、国道57号線、国道442号線を通りました。久住高原の光景の素晴らしさに感嘆しつつ、最初から宮原線の跡を辿ることを目的としていました。小国町の市街地に入り、「ゆうステーション」のそばに車を止め、入ってみました。すぐそばに、ポイントなどのレール、腕木式信号機、転轍機などが残されています。つまり、「ゆうステーション」が肥後小国駅跡だったのです。実際に中へ入ると、宮原線の資料などが展示されていました。但し、写真以外のものはありません。小国町の中心地は比較的観光客も多いようでしたが、街が寂しいのは気がかりでした。肥後小国駅跡のそばで給油し、そこから国道387号線で跡をたどってみます。現在はどうなのかわかりませんが、実に走りにくい道路でした。肥後小国の次の駅であった北里は、北里柴三郎博士の生誕地で、ホームだけが残っていました。集落からは少し離れています。

 北里駅跡からは、おそらく宮原線の跡から離れた所を走りました。有名な竹筋橋を見ることもできなかったのです。案内板には出ていましたが、道路工事の関係で入れません。そのうちに大分県に入り、麻生釣(あそづる)に着きました。ここにも駅があったが、跡を見つけられません。さらに走ると宝泉寺温泉に着きますが、宝泉寺駅の跡を見つけられません。自家用車を運転しながらなので、簡単に見つけられるはずがないのです。

 1999年と言えば、夏に宮崎県と鹿児島県を走り回りました。その際に国鉄志布志線や鹿児島交通南薩線の跡を見ています。日記には、宮原線について次のように記しています。

 「過疎地を走る鉄道が赤字のために廃止されるのは仕方がないとしても、廃止された後、さらに過疎化が進んでいるような気がする。悪循環なのだろうか。宝泉寺温泉も、観光地にしては活気がない。次の町田も同様である。代替バスとすれ違うが、客が少ない。」

 2001年5月26日から2003年4月30日まで日記をつけておらず、細かいことを覚えていませんが、次に小国町を訪れたのは2002年5月6日(月曜日)です。その年の4月に私のホームページで「待合室」を始めており、宮原線のことを記事にしています。

 ゴールデンウィークの最終日、私は、愛車を運転して挾間町、庄内町(どちらも現在は由布市)を走っていました。そのうちに、何故か熊本県の小国町へ行きたくなりました。そこで、現在は竹田市の一部である直入町と久住町(高原が美しい所です)を走り、熊本県に入って黒川温泉で有名な南小国町を通り、小国町に入りました。おそらく、大分県道30号線を走って長湯温泉のそばを通り、国道442号線を走って瀬の本高原、黒川温泉を通過したのでしょう。私は当時も今もあまり温泉に興味がないので通過し、ひたすら日田往道の国道442号線を走りました。

 小国町に入ると、宮原線と並行していた国道387号線との交差点に着きます。ここで左に進めば肥後小国駅跡、右に進めば北里駅跡です。どちらに向かったのか、記憶が曖昧です。「待合室」では北里駅跡のほうを先に取り上げましたが、おそらく、その日は先に肥後小国駅跡へ向かったはずです。

道の駅と「ゆうステーション」となっている肥後小国駅跡に再び車を停めました。線路や信号、そして転轍機を見ました。写真もこの時に撮影したものです。

肥後小国駅跡を離れ、北里駅跡に向かいました。ホームが残されており、不思議な気分になります。

  それ以上に、私が見たかった物があります。日本でもここにしか残されていないのではないかと思われるほど珍しいものです。1999年に訪れた際に見ることができなかったので、今度こそと思っていました。

 北里駅跡から県道を使い、宮原方面に少しばかり戻ります。すると、一見、何の変哲もない、古くて苔が蒸しているような橋があります。しかし、実はこれが珍しい橋なのです。小国町以外に、どこにどの程度存在するのでしょうか。JTBパブリッシングから発売されている、宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩く』151頁にもこの橋の写真が掲載されています。

 何が珍しいのかと言えば、構造です。普通、橋の骨格である筋には鉄を使うのですが、ここの橋の筋は、鉄ではなく、竹を使っているのです。そのため、竹筋橋(ちっきんばし)と言われています。竹は丈夫で、色々なものに応用されていますが、重い車両が走る鉄道の橋梁に用いられた例はあまりないのではないでしょうか。まして、現存するものとしては、小国町に残されている国鉄宮原線の跡くらいでしょう。

 国鉄宮原線には、この竹筋橋がかなり多く、とくに、大分県側にあった麻生釣(あそづる)駅から北里駅までよく見られたようです。いずれも現存しています。今、列車は走りませんが、こうして保存されています。第二次世界大戦後の資材不足のために、鉄筋ではなく、竹筋の橋が造られた、という訳です。

 さらに走っていくと、大分県に入ります。県境に近い麻生釣も通りましたが、上記の本で写真に載っていた駅舎(本当に馬小屋のような格好をしています)もなくなっており、土産屋になっていました。

 上記から10年以上が経っています。どのように変化したのか、非常に気になるところです。とくに大分県側では、跡も風化しているか全く別の物に変えられているか、いずれにせよほとんど残されていないのではないでしょうか。

 最後に、鉄道敷設法の別表から、大分県に関わる部分のみを掲げておきましょう。実際にどのようになったかについては、別の機会に取り上げます。

 「百十五 大分県中津ヨリ日田ニ至ル鉄道」

 「百十六 大分県杵築ヨリ富来ヲ経テ宇佐附近ニ至ル鉄道」

 「百十七 大分県幸崎ヨリ佐賀関ニ至ル鉄道」

 「百十八 大分県臼杵ヨリ三重ニ至ル鉄道」

コメント (3)
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