予期せぬ劇症肝炎、そして生体肝移植からの壮絶脱出劇!
がんばれ!肝臓くん。。
恋のマイアヒ
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<・・・一年前>
・・・2005.9月~
K病院では毎日毎日、透析の日々だった。
その所要時間は、通常6時間程、機械の不調で8時間以上にもなった事もあった。
一度始めると、ベッドの上でほとんど身動きができない。
眠るわけにもいかず、トイレにも行けない。
こんな状態でもなんとか一ヶ月間続けられたのは、なんとしてもこの透析で
治したい、移植をしないで済むようにとの、強い気持ちだった。
K病院に転院して間もなく、後に移植手術を行うH大病院のF医師から透析
治療で改善されない場合の説明を受けていたので、なんとしてでも移植手術
を回避しようと必死だった。
この気持ちが無かったら、とても続けられなかった、耐えられなかった、と
思う。
透析中はベッドでテレビを見るのも辛く、唯一の楽しみはラジオ。
しかし透析室の為か電波状況が悪く、空いている片手でチューニングをするのが
大変で、それでも必死になってチャンネルを合わせて、そうやって長い時間と
闘っていた。
♪まえあし~ まえあし~ まえあは~ うっふっふう~~♪
いつからか毎日かかるようになったこの曲、まえあし~、ってなんだこりゃ。
不思議に思いながらも、なんだか心地良い音色にいつの間にか、はまっていた。
”O-Zone”の「恋のマイアヒ」という曲であること知ったのは、しばらく
してからだった。
苦しいだけの透析、一ヶ月間だったが、この曲のおかげで少しだけ癒された。
今から考えてみると、一年間の入院生活で、一番心に残っているといえば、
コブクロでもミスチルでもなければ、この「恋のマイアヒ」。
でも、この歌の意味って何???
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生体肝移植手術に向かって PartⅡ
昨日、今日と北海道は一気に気温が下がった。
免疫抑制剤を服用している身にとってはこの季節、風邪などには特に
注意しなければならない。
自分でできる事といえば、手洗い、うがい、マスクの着用それに充分
な睡眠と栄養。
調子のあまり良くなかった頃は、結構適当だったりしたのだが、再手
術後、体調が回復してきてからは、逆に少し神経質な位、気にするよ
うになった。
そう、気持ちが守りに入っているのだ。
体のことを考えるとその位の方がいいのかとは思う。
今できる事はまだ限られている。思うようには体がついていかない。
でも、慎重に過ごしつつも、できる事はどんどんやっていきたい。
色々葛藤もあるけれど、悩みも不安もあるけれど、
----------------------------------
<・・・一年前>
・・・2005.9月20日
9月20日、K病院からH大病院に転院。
救急車が手配できないのと、日常の意識はまだはっきりしていたので
父の車でH大病院に向かった。
さすがにこの頃は体力的に相当きつくなっており、通常の入院手続き
をしている妻を待つ時間が、長く辛かったことを覚えている。
7階外科病棟の個室に入った。
K病院でも一ヶ月個室だったので個室には慣れていたが、それから向
かう現実を考えると、そこはかと無い不安感に駆られていた。
H大病院ではすぐ検査が始まり、毎日毎日検査の連続。
K病院でも考えられる検査は一通りしてきたが、やはりH大病院でも
一通りの検査。
MRI、CT、X線、脳波、心肺、呼吸器・・・
歯も手術に影響するので、歯科も受診した。
絶食ももちろん継続、点滴は24時間していたが、透析はやめていた
ので体調はどんどん悪くなっていった。
意識だけはそれまではっきりしていた(と自分では思っていた)が、
その意識もだんだん心細くなっていった。
移植手術日が10月4日に決まったのも、良く覚えていない。
妻は毎日来てくれて、身の廻りのことをやってくれていたが、今でも
良く思い出せない。
医師が何を言ったのか、看護士が何をしてくれたのか、顔さえも良く
覚えていない。
まったく自己判断ができぬまま、手術へと向かっていく。
あんなに移植手術を拒否していたのに、ドナーの姉に何も伝えられぬ
まま、妻に、家族に 「行ってくるよ」 とも言えぬまま、生体肝移植手
術の日を迎えることになる。
免疫抑制剤を服用している身にとってはこの季節、風邪などには特に
注意しなければならない。
自分でできる事といえば、手洗い、うがい、マスクの着用それに充分
な睡眠と栄養。
調子のあまり良くなかった頃は、結構適当だったりしたのだが、再手
術後、体調が回復してきてからは、逆に少し神経質な位、気にするよ
うになった。
そう、気持ちが守りに入っているのだ。
体のことを考えるとその位の方がいいのかとは思う。
今できる事はまだ限られている。思うようには体がついていかない。
でも、慎重に過ごしつつも、できる事はどんどんやっていきたい。
色々葛藤もあるけれど、悩みも不安もあるけれど、
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<・・・一年前>
・・・2005.9月20日
9月20日、K病院からH大病院に転院。
救急車が手配できないのと、日常の意識はまだはっきりしていたので
父の車でH大病院に向かった。
さすがにこの頃は体力的に相当きつくなっており、通常の入院手続き
をしている妻を待つ時間が、長く辛かったことを覚えている。
7階外科病棟の個室に入った。
K病院でも一ヶ月個室だったので個室には慣れていたが、それから向
かう現実を考えると、そこはかと無い不安感に駆られていた。
H大病院ではすぐ検査が始まり、毎日毎日検査の連続。
K病院でも考えられる検査は一通りしてきたが、やはりH大病院でも
一通りの検査。
MRI、CT、X線、脳波、心肺、呼吸器・・・
歯も手術に影響するので、歯科も受診した。
絶食ももちろん継続、点滴は24時間していたが、透析はやめていた
ので体調はどんどん悪くなっていった。
意識だけはそれまではっきりしていた(と自分では思っていた)が、
その意識もだんだん心細くなっていった。
移植手術日が10月4日に決まったのも、良く覚えていない。
妻は毎日来てくれて、身の廻りのことをやってくれていたが、今でも
良く思い出せない。
医師が何を言ったのか、看護士が何をしてくれたのか、顔さえも良く
覚えていない。
まったく自己判断ができぬまま、手術へと向かっていく。
あんなに移植手術を拒否していたのに、ドナーの姉に何も伝えられぬ
まま、妻に、家族に 「行ってくるよ」 とも言えぬまま、生体肝移植手
術の日を迎えることになる。
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生体肝移植手術に向かって。
今日は秋晴れ。天気がいいと心も落ち着く。
余裕があるから、去年の今頃は、なんてことを考えてしまう。
最悪だった頃と比べても仕方ないのだが、今の状態につくずく幸せを
感じつつ、不安感を押し殺しながらの毎日です。
ここ数日、体内から出ているドレン(チューブ)の出入り口が痛い。
3本のうち2本はクランプで止められ機能していないのだが、1本は
毎日450~500mL位の胆汁を排出している。
順調にいけば、今月末には抜けるそうなので、それまでの我慢かな。
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<・・・一年前>
・・・2005.9月20日
K病院での一ヶ月間は、驚きで始まり、希望と絶望、そしてあきらめ
で終わった。
何とか移植手術を回避しようと、絶食に耐えながら、検査に継ぐ検査、
24時間の点滴、透析、血漿板交換、血液検査の結果に一喜一憂し、
期待を持ち、そして落胆。
まさに医師と看護師さん、透析の技術者の方、もちろん家族、みんな
で闘った一ヶ月だった。
でも、悪いなりに維持はしつつも、やはり回復するまでには至らなか
った。
O医師、A医師、最大限の努力をして下さり、H大病院のF医師共々
本当に真剣に対処して下さった。
9月中旬、最終的に3医師の判断により、これが限界とされ、移植手
術への準備に向かう。
2人の姉が適合検査を受けてくれていて、次姉がドナーとして適合し
ている、ということは聞かされていた。
初めて生体肝移植について説明を受けた頃は、「健康な体に傷を付け
るなんて」とか「何でそうまでして」とか、移植というものに強い
抵抗感があって、否定ばかりしていたが、この頃になると、体力の衰
えに気力の衰えが加わって、移植というものを考える余裕すら無くし
ていた。
なすがままだった。
生体肝移植手術をすれば助かるのか、助からないのか、ドナーとなる
姉は大丈夫なのか、見守る家族の気持ちは・・・
こんな大事なこと、この時にしか考えられないこと、情けないことに
自分の中にそれらを受けいれるものが、もう残っていなかった。
9月20日、大きな不安を抱えたままK病院からH大病院に転院する。
余裕があるから、去年の今頃は、なんてことを考えてしまう。
最悪だった頃と比べても仕方ないのだが、今の状態につくずく幸せを
感じつつ、不安感を押し殺しながらの毎日です。
ここ数日、体内から出ているドレン(チューブ)の出入り口が痛い。
3本のうち2本はクランプで止められ機能していないのだが、1本は
毎日450~500mL位の胆汁を排出している。
順調にいけば、今月末には抜けるそうなので、それまでの我慢かな。
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<・・・一年前>
・・・2005.9月20日
K病院での一ヶ月間は、驚きで始まり、希望と絶望、そしてあきらめ
で終わった。
何とか移植手術を回避しようと、絶食に耐えながら、検査に継ぐ検査、
24時間の点滴、透析、血漿板交換、血液検査の結果に一喜一憂し、
期待を持ち、そして落胆。
まさに医師と看護師さん、透析の技術者の方、もちろん家族、みんな
で闘った一ヶ月だった。
でも、悪いなりに維持はしつつも、やはり回復するまでには至らなか
った。
O医師、A医師、最大限の努力をして下さり、H大病院のF医師共々
本当に真剣に対処して下さった。
9月中旬、最終的に3医師の判断により、これが限界とされ、移植手
術への準備に向かう。
2人の姉が適合検査を受けてくれていて、次姉がドナーとして適合し
ている、ということは聞かされていた。
初めて生体肝移植について説明を受けた頃は、「健康な体に傷を付け
るなんて」とか「何でそうまでして」とか、移植というものに強い
抵抗感があって、否定ばかりしていたが、この頃になると、体力の衰
えに気力の衰えが加わって、移植というものを考える余裕すら無くし
ていた。
なすがままだった。
生体肝移植手術をすれば助かるのか、助からないのか、ドナーとなる
姉は大丈夫なのか、見守る家族の気持ちは・・・
こんな大事なこと、この時にしか考えられないこと、情けないことに
自分の中にそれらを受けいれるものが、もう残っていなかった。
9月20日、大きな不安を抱えたままK病院からH大病院に転院する。
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現実と非現実
最近、親子間の事件や子どもが犠牲になる事件・事故がやたらと多い。
それなりに原因はあるのだろうが、なんとも殺伐としている。
せっかく大切な命をもらったのに。生きたくても生きられない人がたく
さんいるのに。
残念ながら亡くなって、病室を出ていく人を何人か見た。
本人もさぞ悔しかっただろうが、見送る家族の泣き崩れる姿を見ると、
命の尊さをつくずく感じた。
今朝TVをみていて、事件で亡くなった方のお葬式で、喪主であるお父
さんの挨拶の映像が流れていた。
それを見ながら何も考えず、思わず妻に言ってしまった。
「パパがもし死んでたら、ママ、ちゃんと喪主できていたかなあ?」
「いきなり喪主にしないでよ!」
妻は軽く流してくれたが、言ってしまってから、何言ってんだ、と、
変なこと聞いちゃったな、と。
移植手術以降、現実と非現実がごちゃごちゃになることがある。
今になって納得することが結構あるのだ。
だから時々変なことを言ったりもする。
一度無くしたかもしれない命なんだから大胆に、という気持ちと、せっ
かく与えてもらった命なんだから大切に、という気持ち。
我々移植患者にとっては、前者は考えられない。犠牲にしたものが、あ
まりに大きいからだ。
最近、生きている喜び、元気になった喜びよりも、もう二度とこんな目
にあいたくない、悪くなったら・・・という不安が強いのだ。
その不安が無くなるまで、あとどの位かかるのだろうか。
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<・・・一年前>
・・・2005.9月
K病院での入院、一ヶ月間はすべて個室だった。
しかも個室から出られるのは、検査の時と透析の時だけ。
それも車椅子でだ。
意識ははっきりしていたが、さすがに体力の衰えは感じていた。
透析治療での限界もだんだんと感じてきた。
移植手術という現実と、自分だけはどうにかなるだろう、という非現実。
なんだか自分が自分でないような、不思議な感覚だった。
それなりに原因はあるのだろうが、なんとも殺伐としている。
せっかく大切な命をもらったのに。生きたくても生きられない人がたく
さんいるのに。
残念ながら亡くなって、病室を出ていく人を何人か見た。
本人もさぞ悔しかっただろうが、見送る家族の泣き崩れる姿を見ると、
命の尊さをつくずく感じた。
今朝TVをみていて、事件で亡くなった方のお葬式で、喪主であるお父
さんの挨拶の映像が流れていた。
それを見ながら何も考えず、思わず妻に言ってしまった。
「パパがもし死んでたら、ママ、ちゃんと喪主できていたかなあ?」
「いきなり喪主にしないでよ!」
妻は軽く流してくれたが、言ってしまってから、何言ってんだ、と、
変なこと聞いちゃったな、と。
移植手術以降、現実と非現実がごちゃごちゃになることがある。
今になって納得することが結構あるのだ。
だから時々変なことを言ったりもする。
一度無くしたかもしれない命なんだから大胆に、という気持ちと、せっ
かく与えてもらった命なんだから大切に、という気持ち。
我々移植患者にとっては、前者は考えられない。犠牲にしたものが、あ
まりに大きいからだ。
最近、生きている喜び、元気になった喜びよりも、もう二度とこんな目
にあいたくない、悪くなったら・・・という不安が強いのだ。
その不安が無くなるまで、あとどの位かかるのだろうか。
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<・・・一年前>
・・・2005.9月
K病院での入院、一ヶ月間はすべて個室だった。
しかも個室から出られるのは、検査の時と透析の時だけ。
それも車椅子でだ。
意識ははっきりしていたが、さすがに体力の衰えは感じていた。
透析治療での限界もだんだんと感じてきた。
移植手術という現実と、自分だけはどうにかなるだろう、という非現実。
なんだか自分が自分でないような、不思議な感覚だった。
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希望と絶望
再手術から一ヶ月経った。お腹の具合はまだまだだけれど、全体的に
体調はいい。
内臓はツッパリ感があって、どうしても前かがみになる。
切った後は盛り上がり、中で硬くなっているようで痛い。
そしてドレンの出入り口を中心に違和感と軽い痛み。抜け防止の為、
縫ってある所もチクリと痛い。
もう少し時間が必要なのだろう。
----------------------------------
<・・・一年前>
・・・2005.8.19(金)
SH病院からK病院に転院。
SH病院では人手が足りず、より良い環境と透析設備の整ったK病院
に救急車で運ばれる。
救急車に乗せられ見上げると、空しか見えなかった。外の景色を見る心
の余裕はなかった。
入院後、最初の段階で各種の検査をしたはずだが、良く覚えていない。
とにかく透析治療の印象が強すぎるのだ。
週に3日か4日の割合で行われるのだが、1回通常6時間位、長くな
ると8時間以上かかる日もあった。
ずっと寝たままなのはもちろん、腕もほとんど動かせなかったので、
眠ることもできず、携帯ラジオを聴くことだけが、唯一の楽しみだった。
それでも、これを乗りきれば何とかなるだろう、という思いはあった
ので、希望だけは強く持つことができていた。
そう、あの話しを聞くまでは。
K病院に入院し、数日経った頃、H大病院のF医師が、わざわざ来て
下さった。生体肝移植の説明をする為に。
家族も集められた。
透析治療で何とかなるだろうと、勝手に思いこんでいたので、F医師
のお話しはあまりに衝撃的だった。生まれて初めて味わうショックだ
った。
こんなことが自分に振りかかってくるなんて。
自分の置かれている立場を考えると、一晩中涙が止まらなかった。
体調はいい。
内臓はツッパリ感があって、どうしても前かがみになる。
切った後は盛り上がり、中で硬くなっているようで痛い。
そしてドレンの出入り口を中心に違和感と軽い痛み。抜け防止の為、
縫ってある所もチクリと痛い。
もう少し時間が必要なのだろう。
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<・・・一年前>
・・・2005.8.19(金)
SH病院からK病院に転院。
SH病院では人手が足りず、より良い環境と透析設備の整ったK病院
に救急車で運ばれる。
救急車に乗せられ見上げると、空しか見えなかった。外の景色を見る心
の余裕はなかった。
入院後、最初の段階で各種の検査をしたはずだが、良く覚えていない。
とにかく透析治療の印象が強すぎるのだ。
週に3日か4日の割合で行われるのだが、1回通常6時間位、長くな
ると8時間以上かかる日もあった。
ずっと寝たままなのはもちろん、腕もほとんど動かせなかったので、
眠ることもできず、携帯ラジオを聴くことだけが、唯一の楽しみだった。
それでも、これを乗りきれば何とかなるだろう、という思いはあった
ので、希望だけは強く持つことができていた。
そう、あの話しを聞くまでは。
K病院に入院し、数日経った頃、H大病院のF医師が、わざわざ来て
下さった。生体肝移植の説明をする為に。
家族も集められた。
透析治療で何とかなるだろうと、勝手に思いこんでいたので、F医師
のお話しはあまりに衝撃的だった。生まれて初めて味わうショックだ
った。
こんなことが自分に振りかかってくるなんて。
自分の置かれている立場を考えると、一晩中涙が止まらなかった。
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