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ICUから病棟へ

予定では、今頃は、カラオケに通い一生懸命練習していたはずなのに・・・


あのステージ、あの雰囲気が妙に恋しい今日このごろ。。



突然ですが、

「のど自慢予選会」とかけて

・・・・・・・・・

「整いました!」

「のど自慢予選会」とかけて

(「のど自慢予選会とかけて」 ←合いの手)


「毎月24日ととく!」

(そのこころは ←合いの手)


「どちらも、かね(鐘)(金)がありません!」

   (金はいつも無いけど・・・)



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・・・2006年 8月 23日


人工呼吸器が外れた以上、早く病室に戻りたくなる。


でも、待てども待てどもヤマト運輸はやってこない。

やはり佐川急便にしとけばよかった、なんて事を考える余裕など毛頭無いが、この
時、痛みはあまり感じていなかったと思う。


痛み止めが強烈に効いていたんだろうけど。





しばらくして、確か病棟から来たのは二人、他に二人(ICUの人??)ぐらい
加わりベッド間の移動。超緊張。

ストレッチャーで病室まで運ばれる間は、無事手術が終わった安堵感と、何か
達成感のような高揚感に包まれる。



病室には、5、6人ぐらい看護師さんがいたような気がして圧倒された。

全員でシーツごと持ち上げベッド間の移動、こちらは、みの虫になったような気分。


なすがままだ。

でもうまいもんだ。




一通りベッド周りを整えたら、一人また一人と去っていき、妻と二人残された。

結局、話しかけられる事は無かった。


何も答えられないと思われているんだろうか。


麻酔が残ってボ~っとして、クラクラして目を開け続けられず、体の自由が利かず、
でもそんな状態でも耳だけは達者だ。






「手術がうまくいけば一ヶ月程度の入院です。」

との術前の先生のお言葉。


一ヶ月程度の入院なら全然平気、ようやく良い方向に向かい始め、多少の痛みは
気にならない。

と思っていたら、予想もしない方向に向かい始める。
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雨ニモマケズ

高校に入学し、部活を始め、始めたと思ったらケガをし見学、ボチボチ治りかけ、
先輩の3年生にとっては最後の高体連の応援に。

今週は全て応援で授業には出席できない次男。

今日も朝から大雨で、中止が分かっているにも関わらず出かけて行きました。


屋外競技は天候に左右される、それはしょうがいない事だけど、高校生活最後の
大会ぐらいは気持ちよくプレーさせてあげたいものです。







「雨にも負けず」

淡々とした詩に曲が付くと、それはそれで感動するものです。


雨にも雪にも負けない丈夫な体と、欲なく怒らず、いつも笑っている青年になって
欲しいと願うところではあります。

が、自分には無理だぁ~



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・・・2006年 8月 23日


気管挿管の人工呼吸器・・・移植時の記憶は無いので感覚としては初体験。

あれって、勝手にやってくれると思ったら、「しっかり呼吸をして下さいね!」
って言われるってどういうこと??

まさに人工。。



「いつ病棟に戻れるんだろうね。」

という妻の問いかけにも満足に答えられない。


だって口にチューブだし、こっちが聞きたいくらい。




そうしてるうちに、あまり見掛けない、たぶんICUの先生(?)らしき人が
やってきて何やら自分の周りをチェックし始めた。

暫く様子を見ていたが、妻が、


「あのぉ、いつ病棟に戻れるのでしょうか?」

と聞くと、

「あっ、今その為の準備をしていますから!」

って。言えよ!先に!

聞かれないと言わないんだから。



おそらく、寝たきりの患者って、看ている側からすれば、単なる「個」であって、
きっと話しかける対象ではないんだろうな。


でも、これは妻にもよく言うのだが、案外、そんな寝たきりの状態でも耳だけは
しっかり聞こえているもので、逆にそれだけ印象に残ったりする。



だから今寝たきりの祖母にも、極力話しかけるようにし、また、聞こえてないと
勝手に決めて言わなくてもいい事まで言わないように、と注意している。







「じゃぁ人工呼吸器、外しますねっ」

っていきなり言われた。

そして何のためらいもなく、まるで芋でも引っこ抜くように気管から抜かれた。



死ぬかと思った。




「じゃぁ、もう少ししたら病棟の看護師さんに迎えに来て貰いますから。」


まるで宅急便の荷物にでもなったような気分で待つ事に。




できればヤマト運輸で。。
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苦しくも壮絶な闘いから解放された瞬間

移植者の運命か、B型肝炎患者の運命か、はたまた結石だらけの物持ちの良さか
らか、移植から4年半経った今でも病気の話題には事欠かない。




だからというわけではないが、

現在と移植時の様子の同時進行で始めたこのブログ、のはずが、再手術翌日の朝
で止まっている。





なので、

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・・・2006年 8月 23日

手術後、ICUで目覚めたので、てっきり手術は失敗したのだろうと思っていた。



前々日の手術説明では、

「おそらく、何も無い(無事に手術が成功すること)限り、病棟に戻ります。」

と言われていたから。




ただ、それでも別に落胆するでもなく、不安もなく、とにかく人口呼吸器の苦しさ
だけを感じていた。

一年間の入院で多少の不便さにも慣れ、常に痛み、時に激痛に見舞われてきたもの
だから、どうでもよくなっていたのかもしれない。

きっと、何でもいいから「変化」を期待していたのだと思う。





何度か看護師さんに、

「しっかり呼吸をして下さいね!」

と怒られ(言われ)つつ、やがて朝(と感じる)に。





起き上がる事ができないので、ICU内にどれくらいの患者さんが寝かされて
いるのか、広いのか狭いのか、時間も何もわからない。

一番嫌だったのがいつまでICUに居させられるのかという事。



でも、

自由に話せないのでコミュニケーションも取れない。

医師らしき人も何度か来たので、簡単な説明ぐらいしてくれてもいいのに、担当
外ということか何の声も掛けてくれない。


失敗なら失敗で、何が問題なのかわかればすっきりするものを、まったくどうな
っているのかわからない。

いつわかるのかもわからない。





そんなこんなでボ~っとしていると、頭上から


「起きてた?」と明るい声。


妻だ。

やけに早い。


自分の顔を覗き込むように見るなり、



「全部上手くいったって。手術は成功だよ!」

「ホント?」

「うん。きっと何も分からなくて不安になってるんじゃないかと思って早く伝え
に来た!」





これが、前年8月に始まる、苦しくも壮絶な入院、手術生活から解放されようと
する瞬間でした。
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再手術~目覚めたのはICUだった

盛り上がってきたWBC、明日の韓国戦はダルビッシュ投手が先発、快刀乱
麻のピッチングを期待しています。



さて、再手術当日の朝で止まってしまっていた闘病記録・・・


病気ブログがいつの間にか「のど自慢ブログ」に?!





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・・・2006年 8月 23日


目覚めた時、すぐにそこがICUであることがわかった。

おそらく真夜中だというのに、明る過ぎるぐらいの照明と、鳴り続ける機械
音。


両手が固定されている。

身動きが取れない。




担当らしき看護師さんが一人こっちを見ている。

人口呼吸器が気になるようだ。



「しっかり呼吸して下さい!」


いきなり怒られた。

何故?? 何???



わけがわからぬまま、きっとスーハースーハーと意識して息をすればいいの
かなと、わからないなりに自己判断。



「あぁ、手術は終わったんだ」という安心感を覚えると同時に、どうしても
気になるのは、前夜の医師の話しだ。



「おそらく、何も無い(無事に手術が成功すること)限り、病棟に戻ります。」

「たぶんICUには行かないと思いますから。」



何も無い限り?ってことはやっぱり何かあった??

だって今いるのはICU。

前日までの説明でもあまりいい感じの説明は受けていない。



開腹してみないと・・・(どうなるかわからない)

繋ぎ目がすぐ探せるかどうか・・・(もしかしたら見つからないかも)

きっと癒着が激しいから・・・(移植ぐらい長時間になるかも)

調整弁を体外に出すことになるかも・・・(きっとそうなる)




色々と言われていたので一応心の準備は出来ていた。

そのせいか、今自分がICUに寝かされている、という現実にもあまり悲感
的には考えなかった。



そんなことより何より、「手術が終わったこと」が心の底から嬉しかった。



それは、「何か」が変わるかもしれないから。

一年間、先がまったくみえない中、激しい痛みと闘ってきた現実から、「も
しかしたら」との思いが充満していた。

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再手術~スタート

天国で君に逢えたら
飯島 夏樹
新潮社

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映画「Life 天国で君に逢えたら」をTVで見た。

家族を支え、支えられ、友人に見守られ、天国へ旅だった飯島夏樹さんの
ご冥福を、改めてお祈りいたします。

飯島さんの著書「天国で君に逢えたら」の一節に勇気をもらった一人として。




さて、昨日、ある場所へ往復ハガキを出しました。

狭き門への挑戦のスタートです。




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・・・2006年 8月 22日


移植の時と違って意識はハッキリある。

体調も悪くはない。でも良くもない。


朝、妻が、そして父と姉が次々に来た。


シャントの閉鎖、そして胆管拡張、二つ同時手術のスタートだ。




安定剤と筋肉注射をして、歩いて手術室に向かうのは予定通り8時15分。


自分より年上と思われる男女の患者二名と一緒に手術室へ。

手術前ホールから各手術室に続く廊下は思ったより長かった。


案内してくれた男性助手の方が、

「ちょうど一年前、Mさんの移植の時も私が担当したんですよ。」

もちろんこちらは覚えているはずもないが、少し心が和んだ。



手術室に入ると女性看護師の一人が、これも又、移植の時のことを覚えて
いて話しをしてくれた。

執刀医師の姿は一人も見えない。


数人の看護師と麻酔医が淡々と準備を進めている。



いろんな方に言われていた通り、手術用ベッドの幅は本当に狭い。

仰向けに横たわり、体の横に両手を置くと、手がベッドから落ちそうになる。



そんなことを気にしているうち、

「それでは麻酔を入れていきますね。」

この一言の数秒後、眠りに落ちた。
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再手術~その朝

さて、っと、明日は3年目の検診、とはいっても結果は出ない。

朝の採血に始まり、一日がかりで検査だけする。


ドナーの姉は午後からのCT検査のみ。



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・・・2006年 8月 22日


手術を前にして、前夜眠れるかどうかというと、眠れる。

と、いうか眠れた。鈍感なんだろうか。



ただ、下剤を飲んで寝ているので、夜中に5回トイレへ。

でもこれも、それまで点滴や利尿剤の服用でいつもトイレが近かったので、
眠ってはトイレ、トイレに行っては眠って、又トイレ、の繰り返しはすっか
り慣れていた。


だから結構良い寝覚めだった。


いつものように6時の起床、でもいつもと違う朝だ。

こちらは一応腹を切るのでそれなりの緊張感があるが、看護師さんにとっ
てはいつもの事で、いつも通りの事務的な対応で準備は進められていく。



まずやらなければならないのは浣腸。

いきなり病院に行って、いきなり浣腸しますよ、と言われればさすがに
恥ずかしさも覚えるが、もうこれまで何度も、そう、座薬も何度もやって
もらっているので、こちらも看護師さんも慣れたものだ。


それにしても、移植の時、ドナーの姉が歩いて手術室に向かったと聞いて
いたが、今度の自分の手術も歩いて手術室に入室すると聞かされていた。



手術っていうと、ストレッチャーに寝かされて、みんなに見送られて、って
いうのを想像していたので、なんだか拍子抜けした気持ちでいた。



8時、いよいよ手術室に向かう。
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再手術前日

まもなく移植3年目を向かえる。

あっという間だった。

その間、8度の入退院、再手術もあって落ち着く暇は無かった。


それでも生きていることに感謝。



病気の子供を必死になって助けようと、わが身を捧げて尽くすお母さんが
いる。
反面、自分が産んだ子の首を絞めて殺す母親がいる。


人の生き死にを安易に語ることは憚られるけど、助けたくても助けられな
いお子さんを持つお母さんは、いったいどんな気持ちでニュースを見てい
るのだろう。




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・・・2006年 8月 20日


入院3日目、日曜日、再手術前々日、することは、何も・・・無い。


TVではあの、駒大苫小牧と早稲田実業、まーくん対ハンカチ王子の、
高校野球決勝が行われていた。

午後から妻と子供達が来て、夕方には帰っていった。



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・・・2006年 8月 21日


再手術前日、手術の前の日に何をするのか、移植手術の時の記憶は無いの
で、わからなかった。


・食事 ~ 朝と昼は「低残渣食」という消化に負担をかけない食事で、
夜はなし、21時まで水とお茶だけが許された。

・検査 ~ 手術前日といえど、検査はある。たくさん。
まずは朝のX線検査。

入浴を早めに済ませた後、麻酔科を訪問、麻酔方法の説明を受ける。

午後からは呼吸器検査と心電図検査。


そして14時より下剤(3種)を飲み始める。


もちろん自己測定はいつも通り行う。

血糖値は高め安定、血圧、体温は平常、体調は悪くない。



18時からは手術前最後の説明。

妻の他、父、2人の姉とともにF先生に手術方法についての説明を受ける。



ここまでくると全く開き直れるもので、恐いとか嫌だとか、憂鬱な気持ち
はほとんど無かった。



どうなるかわからない手術であっても、

「何か変わるなら」

この時思っていたのは、これだけだった。
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再手術ヘ向かって~入院2日目

洞爺湖サミットを控え、札幌市内もなんだか物々しくなってきました。

幹線道路の国道36号を車で走っていると、警察車輌の車列と並行して走
っていたりします。


サミットより福祉・医療、

海外支援より国内支援、

思いやり予算は米軍にではなく日本国民へ、

道路より暫定税率廃止を、

と願うかんぞうです。




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・・・2006年 8月 19日



入院2日目、土曜日ということもあり、ゆったりした一日。



・・・
3日後に控える手術、伸るか反るか、一か八か的な手術というのは問題点
が複数あったから。



大きなのはまず癒着。

過去に手術を経験している人は、ほとんどの人(90%と言われている)
が概当するが、本来着いてはいけない組織同士が手術によって勝手にく
っ付いてしまう。

その後の手術ではこれを剥がすのが厄介らしく、事実、その過程で出血
多量に陥り亡くなってしまう人もいる。




一番の問題がシャントの閉鎖。

移植時、移植した肝臓(大きさ的に充分ではない)に一気に血液が流入し
た場合の防圧の為に設けたものが、逆に肝臓へ充分な血液が行き届かない
こととなり、これを閉じなければならない。


しかしその方法論がずっと色々と語られてきたが、決定打が無い。


入院中、時が経つにつれ、近辺に血管の不具合が見つかったりして、
放射線科に委ねられたりしながら、レーザーを当てる方法とか、コイルを
使う方法とか、ステントと呼ばれる物を使うとか、それこそ何度も説明を
受けて、わけがわからなくなってきていた。


結局、血流を測りながら、弁のような調整材を使って体外に出し、閉腹後
除々に血流を調整していくことになった。


正直言って、シャントに関しては半年間ずっと説明を受けてきたが、最後
まで理解できなかった。
というより理解できる材料が無かった。




そして胆管拡張。

春に横っ腹に穴を開け、ドレンを挿入し胆汁を体外に排出してきたが、こ
れを体内で処理すべく、小腸と接合するという。

これも接合部分を探し出すのが極めて困難で、癒着の程度によってはでき
ないかもしれないということだった。




そんなこんなで通常であればちょっと避けたくなるような手術ではあった
が、(もし今の状態からだったら絶対にパスしたい)この時はそうでもな
かった。

こんな手術にでも、可能性があるなら喜んで賭けてみたいぐらい、それま
での状況にうんざりしていた。
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再手術ヘ向かって~入院

「田舎に泊まろう」のギャル曽根ちゃんを見て、泣きそうになっていた
かんぞうです・・・。


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・・・2006年 8月 18日



10時までに入院することになっていたが、元々第2内科と泌尿器科を受
診する予定になっていたこともあり8時には家を出る。



入院当日にもかかわらず、病院に着いてからは入院手続きを済ませてすぐ、
普通通りに第2内科を受診、更に午後からは泌尿器科も受診。

第1外科とは別に予定をこなさなければならない。


この時の入院は6回目、でもそれまでの入院と違い手術を控える。


シャントの閉鎖と胆管拡張の手術。



思えば移植した時点から決まっていた手術だったのかもしれない。

ずいぶんと回り道をしたけれど、行き付くところはここしかなかった。



「こんなことならもっと早く」とか、

「あんな痛いおもいをしなくても」とか、

「移植手術でもっと違う方法があったのでは」とか、

不思議と、この時は考えていなかった。


なんて言うか、妙に落ち着いた、というか、今考えるとなんだか変な感覚
だった。


今だから笑っていられるが、この時の時点では、伸るか反るか、一か八か
的な手術だったというのに。
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再手術へ向かって~入院前日

田中将大ヒーローのすべて
黒田 伸
北海道新聞社

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・・・2006年 8月 17日



午前10時、H大病院より電話があり翌日10時までに入院手続きをする
旨を伝えられた。

6回目の入院。


6回目とはいえ、それまで落ち着いて、段取り良く入院したことはあまり
無かったので、予定通りとはいえ緊張するのかと思ったら、そうでもなか
った。

なんだろう、この頃の心境は。。




午前中はTVで高校野球観戦。
「かんせん」は「かんせん」でも、「感染」ではなく「観戦」。

再手術を控え、運が良かったのは「駒大苫小牧高校」の活躍。
この日の準々決勝も5‐4で東洋大姫路を退け、19日の準決勝へ駒を進
めた。

この後、球史に残るあの早稲田実業との激闘へと向かうのだが、この事が
かなりの部分で自分の気持ちを支えてくれることになる。




入院前日でも忙しかった。

朝は道の保健福祉部に電話、認可が遅れている特定疾患医療受給者証
の発行日を確認。

そして、入院中に切れてしまっていたHPサーバーの再契約の事で電話。

更に午後は入院に備えて携帯電話によるブログ投稿を試してみたり。


夜は、これもPCのリカバリーで消えてしまったサイトのセットアップ。
ぎりぎり間に合った。


心の準備さえできていれば、結構いろんな事ができるもんだ。




くしくも前年の8月17日は、発症して最初の病院であるSH病院に入院、
B型肝炎の疑いが判明した日。

今でも思い出すのは、血液検査を手にした医師が、何事が起こったのか、
というふうに目を見開いてこちらを見ていたこと。



その時から一年も経っているのに、まだ先が見えずに、どうなるかもわから
ない再手術を目前に控えていた。
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再手術へ向かって~入院2日前

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・・・2006年 8月 16日



再手術の為の入院を翌々日に控えても、気持ちは落ち着いていた。

どうなるかわからない、という心配よりも、どうなったとしても現状から
逃れられる、という変な希望の思いの方が強かったから。


不思議なもので、移植手術後、再手術なんてとんでもない、絶対嫌だ、
とずっと思ってきたのに、このままではどうすることもできないという現実
を徐々に知ることになり、いざ再手術が決まってしまうと、もうこれに掛け
るしかないと、むしろ再手術が遅すぎたかな、ぐらいに考えてしまっている
のだから都合の良い話しだ。



まぁそれでもこの時期になっても、夫婦の会話はいつも

「今のうちに美味しいもの食べておこうね、又いつ食べられるかわからな
いから」


ということで、この日の夕食は家族揃って近くのお好み焼き屋さん「風月」
へ。


真夏のド真ん中、あっつ~いお店の中で熱いお好み焼きを食べたのは、
今でも強烈な印象が残っている。
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再手術ヘ向かって~目が離せない


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<・・・一年前>

・・・2006年 8月 14日



「病人から目を離してはいけない」とよく言われるが、移植手術後ずっと
自分が「目が離せない」人間だった。

廻りの人達からすれば迷惑極まりない存在だったのだと思う。



ICUから一般病棟に戻ってからは、かなりの期間ずっと個室だった。
しかもナースステーションのまん前。

いつでも24時間、看護師さん達の監視下にあるということか。

通常、移植手術をしてもある程度落ち着いて、少しずつ自分で行動できる
ようになると、大部屋に移される。


数値がなかなか回復せず、肝性脳症が長く続いた事もあり、個室生活が
通常より長くなってしまったのだ。


ただそれでも、入院中は常に看護師さんが管理してくれるから、自分と
しては余計な心配は不要だった。
(でも妻をはじめ、家族は大変だったようだが)



ところが一旦外泊したり一時退院の時は大変だ。


まず薬の副作用による血糖値の問題がある。

すっかり乱高下が激しくなってしまっていた血糖値、高い時は計測器が測
定不能(600以上)になるまで上り、低い時は40近くまで下がる。

高くなる時はインスリンの自己注射である程度抑えられるので問題ないが、
恐ろしいのは低血糖になった時。


いざ低血糖になると、めまい、頭痛、動悸などに襲われ、ひどくなると、
いきなり倒れて気を失なう事もある。

入院中も一日最低3回、測定し続け、その値に一喜一憂してきた。

退院にあたっても一番問題になったのが、血糖値の管理だった。


我が家は二世帯住宅で両親と同居のため、日中一人になる事はほとんど
無かったので、その点では助かった。



更にいつ起こるかもわからない腹痛もある。
いつも痛いことに変わりはなかったのだが(どこも何も痛みが無い期間は
皆無だった)、どうにもならない痛みというのが、突然起こる。

実際、入退院を繰り返したのも、突然の激痛によるものが多かった。


こうなると一人ではどうにもならない。


廻りにたくさんの人がいてくれた私は環境的に恵まれていた方だと思う。



廻りに手を差し伸べてくれる人がいない環境の中で闘病生活を送っている
人は本当に大変だと思う。

「目が離せない」人を見守る「目」が無かったら・・・、今の日本には
こういった人達がどのくらい居るのだろう。
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再手術ヘ向かって~食欲

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<・・・一年前>

・・・2006年 8月 13日



前年8月に発症して以来、一年間に渡って満足に食事をしていなかった。


入院直後から絶食が始まり、絶食が解けても食欲があろうはずもなく、
病院食を完食した覚えが無い。


腹痛やら体調不良やらで入院する度、まず絶食から始まるので、一年間
の入退院生活の中で、一応食事といえる食事をしていたいたのは、2、3
ヶ月位だっただろうか。



再手術が決まり、7月中旬に一時退院してからも、相変わらず食欲は無い。

食べる事というか食べる事による腹痛を恐れて食べる事ができない、とい
うのもあったし、胃が小さくなっている為か、手術による胃の変形の為か、
少し食べただけで苦しくなり、量が食べられない。


一度、思いきって外食に出かけ無理して食べたところ、苦しくなって暫ら
く動けなくなり、更に夜中、腹部の痛みがより強くなってしまった事もあ
った。


それでもこの日、近所の居酒屋へ家族で出かけた。

月末の手術時には又絶食が始まる、そしてそれがいつまで続くかも解らな
い、しかも「もう二度と満足に食事ができないかもしれない」という気持
ちも頭の片隅にあったので、今のうちに食べられるものは食べておけ、と
そんな心境だった。
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再手術ヘ向かって~説明

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<・・・一年前>

・・・2006年 8月 11日



この頃の定期検診は毎週金曜日。

この定期検診の他に泌尿器科と放射線科の診察があり、一時退院中でも
頻繁に病院に通っていた。

普段自宅に居て「病院に行く」、というより、たまに自宅に行って「病
院に戻る」といった感じだ。


この日の定期検診で、手術予定日の前日、21日に手術説明がある事と、
家族の同席を求められる。



病院側として、万が一の事態に備えて術前説明は欠かせないもの。

移植の時からそうであったが、説明時に同席を求められるのは、妻はも
ちろんだが、その他に姉だった。


父ではなく姉であり、それは、より判断力や記憶力を求められた為なの
か。


入院中、手術以外にも色んな局面が何度もあって、なにかに付けて二人
の姉が呼ばれ、そのたびに迷惑をかけてしまった。

幸わい、二人の姉共に札幌市内在住だったのでまだ良かったが。


そしてもっと助かったのは、二人共嫌な顔を全くせず、こういった事を
最優先してくれた事だった。


おかげでかなり救われた気持ちでいられた。

こういったことが、病気と闘う上でどんなに力になるか、もしいつか逆
の立場に立たされた時が来るとしたら、その時は
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再手術ヘ向かって~忙しさって

仕事の合間をぬって、昨年末から続けている新サイトの作成

と、既存サイトのHTMLの見直しと、各サイト登録と、SEO対策と、

同時進行でやっていたら、頭がウニになってしまいました。





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<・・・一年前>

・・・2006年 8月 10日



この年の11月には、仕事上の資格の更新の為の講習会に出なければなら
なかった。

11月というと、運良く手術が成功し、予定通り退院できたとしても、お
そらく一日がかりの講習会には出られない日程だ。


で、主催する協会に連絡すると、これが又、融通が利かない。

もしかしたら、まだ入院している可能性がある事などを伝えても、どうに
もならないの一点張り。


この講習を受けなければ資格は更新してもらえない。

一応救済措置はあるのだが、まったく現実に則していない。


こうなると病人には対処のしようがないのだ。



「特定疾患医療受給者証」のそれとまったく同じ構図だ。


それでも、なんとか回復していることに希望を託し、申込み書を発送した。




待ってくれないのは子供も同じ。

夏休みの自由研究だ。

子供は最初から自分一人で作ろうなどと思ってない。


こんな状態で、手術を控え落ち込みそうな気持ちが、色んな忙しさや
煩わしさで紛れていく。

こんな時だけは、忙しさを恨むことは無いのだと、今だからそう思う。
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