予期せぬ劇症肝炎、そして生体肝移植からの壮絶脱出劇!
がんばれ!肝臓くん。。
現実と非現実
最近、親子間の事件や子どもが犠牲になる事件・事故がやたらと多い。
それなりに原因はあるのだろうが、なんとも殺伐としている。
せっかく大切な命をもらったのに。生きたくても生きられない人がたく
さんいるのに。
残念ながら亡くなって、病室を出ていく人を何人か見た。
本人もさぞ悔しかっただろうが、見送る家族の泣き崩れる姿を見ると、
命の尊さをつくずく感じた。
今朝TVをみていて、事件で亡くなった方のお葬式で、喪主であるお父
さんの挨拶の映像が流れていた。
それを見ながら何も考えず、思わず妻に言ってしまった。
「パパがもし死んでたら、ママ、ちゃんと喪主できていたかなあ?」
「いきなり喪主にしないでよ!」
妻は軽く流してくれたが、言ってしまってから、何言ってんだ、と、
変なこと聞いちゃったな、と。
移植手術以降、現実と非現実がごちゃごちゃになることがある。
今になって納得することが結構あるのだ。
だから時々変なことを言ったりもする。
一度無くしたかもしれない命なんだから大胆に、という気持ちと、せっ
かく与えてもらった命なんだから大切に、という気持ち。
我々移植患者にとっては、前者は考えられない。犠牲にしたものが、あ
まりに大きいからだ。
最近、生きている喜び、元気になった喜びよりも、もう二度とこんな目
にあいたくない、悪くなったら・・・という不安が強いのだ。
その不安が無くなるまで、あとどの位かかるのだろうか。
----------------------------------
<・・・一年前>
・・・2005.9月
K病院での入院、一ヶ月間はすべて個室だった。
しかも個室から出られるのは、検査の時と透析の時だけ。
それも車椅子でだ。
意識ははっきりしていたが、さすがに体力の衰えは感じていた。
透析治療での限界もだんだんと感じてきた。
移植手術という現実と、自分だけはどうにかなるだろう、という非現実。
なんだか自分が自分でないような、不思議な感覚だった。
それなりに原因はあるのだろうが、なんとも殺伐としている。
せっかく大切な命をもらったのに。生きたくても生きられない人がたく
さんいるのに。
残念ながら亡くなって、病室を出ていく人を何人か見た。
本人もさぞ悔しかっただろうが、見送る家族の泣き崩れる姿を見ると、
命の尊さをつくずく感じた。
今朝TVをみていて、事件で亡くなった方のお葬式で、喪主であるお父
さんの挨拶の映像が流れていた。
それを見ながら何も考えず、思わず妻に言ってしまった。
「パパがもし死んでたら、ママ、ちゃんと喪主できていたかなあ?」
「いきなり喪主にしないでよ!」
妻は軽く流してくれたが、言ってしまってから、何言ってんだ、と、
変なこと聞いちゃったな、と。
移植手術以降、現実と非現実がごちゃごちゃになることがある。
今になって納得することが結構あるのだ。
だから時々変なことを言ったりもする。
一度無くしたかもしれない命なんだから大胆に、という気持ちと、せっ
かく与えてもらった命なんだから大切に、という気持ち。
我々移植患者にとっては、前者は考えられない。犠牲にしたものが、あ
まりに大きいからだ。
最近、生きている喜び、元気になった喜びよりも、もう二度とこんな目
にあいたくない、悪くなったら・・・という不安が強いのだ。
その不安が無くなるまで、あとどの位かかるのだろうか。
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<・・・一年前>
・・・2005.9月
K病院での入院、一ヶ月間はすべて個室だった。
しかも個室から出られるのは、検査の時と透析の時だけ。
それも車椅子でだ。
意識ははっきりしていたが、さすがに体力の衰えは感じていた。
透析治療での限界もだんだんと感じてきた。
移植手術という現実と、自分だけはどうにかなるだろう、という非現実。
なんだか自分が自分でないような、不思議な感覚だった。
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負けるものか!
最近、同じような病気と闘っている人達のHPを見て、本当に勇気
付けられている。
皆、苦しい時間を過ごし、回復し、元気に活動している。
メールなどを頂くことも多くなり、たくさん励まされ、そして感動
を与えて下さる。
病気に負けない心と体、自分一人では得られないもの。
この先、どんな辛いことが待っていても、生きていれば何とかなる!
勇気や感動を自分が与えられるような存在になるまで、病気になん
て負けていられません!
----------------------------------
<・・・一年前>
・・・2005.9月
移植手術というものを強く意識させられ、それから逃れようとする
気持ちは日増しに強くなっていった。
辛い透析も自分の中では希望の光、毎日の血液検査の結果に一
喜一憂する毎日だった。
入院以来続いている絶食も、あまり苦にはならなかった。
食欲が無かったから、といってしまえばそれまでだが、今考えると
良く耐えたな、と。
結局、絶食期間は2ヶ月以上にも及んだ。
「Aせんせい、何とか移植しないですむように、これからも頑張り
ますから何とかここで治して下さい。Aせんせいだけが頼りです。」
9月中頃、医師にこうやって訴えたのを良く覚えている。
透析による治療がなかなか効果をあげず、(悪くもならなかったが)
自分なりに先が見え始めた頃だ。
「私達も全力を尽くしています。良い方向に向かうようにもう少し
頑張りましょう。」
Aせんせいは真剣にこの病気と向かい合ってくれていた。
前例がないことは積極的に調べ、H大病院とは常に連絡を取り合い、
いつも勉強をし、良く話しを聞いてくれた。
とにかくいつ病状が悪化するか分からない状態。自分では意識だけ
はハッキリしていたので、結構落ち着いてはいたのだが。
後で分かったことだが、移植手術をしたくてもできない人、又、保険
適用外で高額の医療費がかかってしまう場合があること、などで
移植そのものをあきらめてしまう人が多くいることを知った。
その時は、移植手術なんて考えられなかったのだが、姉の肝臓が幸運
にもドナーとして適合した事、この事実が、今自分がこうして存在し
ていること、そしてその後訪れる生体肝移植手術への始まりだった。
付けられている。
皆、苦しい時間を過ごし、回復し、元気に活動している。
メールなどを頂くことも多くなり、たくさん励まされ、そして感動
を与えて下さる。
病気に負けない心と体、自分一人では得られないもの。
この先、どんな辛いことが待っていても、生きていれば何とかなる!
勇気や感動を自分が与えられるような存在になるまで、病気になん
て負けていられません!
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<・・・一年前>
・・・2005.9月
移植手術というものを強く意識させられ、それから逃れようとする
気持ちは日増しに強くなっていった。
辛い透析も自分の中では希望の光、毎日の血液検査の結果に一
喜一憂する毎日だった。
入院以来続いている絶食も、あまり苦にはならなかった。
食欲が無かったから、といってしまえばそれまでだが、今考えると
良く耐えたな、と。
結局、絶食期間は2ヶ月以上にも及んだ。
「Aせんせい、何とか移植しないですむように、これからも頑張り
ますから何とかここで治して下さい。Aせんせいだけが頼りです。」
9月中頃、医師にこうやって訴えたのを良く覚えている。
透析による治療がなかなか効果をあげず、(悪くもならなかったが)
自分なりに先が見え始めた頃だ。
「私達も全力を尽くしています。良い方向に向かうようにもう少し
頑張りましょう。」
Aせんせいは真剣にこの病気と向かい合ってくれていた。
前例がないことは積極的に調べ、H大病院とは常に連絡を取り合い、
いつも勉強をし、良く話しを聞いてくれた。
とにかくいつ病状が悪化するか分からない状態。自分では意識だけ
はハッキリしていたので、結構落ち着いてはいたのだが。
後で分かったことだが、移植手術をしたくてもできない人、又、保険
適用外で高額の医療費がかかってしまう場合があること、などで
移植そのものをあきらめてしまう人が多くいることを知った。
その時は、移植手術なんて考えられなかったのだが、姉の肝臓が幸運
にもドナーとして適合した事、この事実が、今自分がこうして存在し
ていること、そしてその後訪れる生体肝移植手術への始まりだった。
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生きるために…
する事ができた。
昨年の今頃は一番苦しかった時期で、屋外でサッカーを見て、改めて
健康の大切さを実感した。
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<・・・一年前>
・・・2005.8月下旬か9月上旬
「これは今すぐ移植手術をしましょう、という話しではありません。
今の治療(透析)を続けていくなかで、症状が急変した場合手遅れ
にならない為、又、今のままでは症状の改善がみられない場合の為
の準備と考えて下さい。」
K病院に転院し、少し経った頃、H大病院のF医師が来て下さり、
生体肝移植についての説明を受けたが、こんな話しで始まったような
記憶がある。
K病院のO医師、A医師がH大病院と連絡を取り合い、最悪の場合
を想定し準備を進めておいて下さっていた。
H大病院からはF医師の他、移植コーディネーターの方、こちらは
妻と父そして2人の姉が出席した。 ・
「生体肝移植」・・・
・ドナー(肝臓提供者)なくして手術はありえないこと。
・患者とドナーが、血液型と肝臓の大きさが合うこと
・患者とドナーが同時手術となるので、家族の負担が大きくなること
・ドナーは20歳以上で、2等身以内、もしくは配偶者であること。
・ドナーは健康であり、且つ検査をして適合しなければ行えないこと。
・患者はもちろん、ドナーも危険を伴うこと。
・身体に大きな傷を残してしまうこと。
・ICUについて
・そして移植手術後のこと(薬、入院期間etc)など
F医師からの説明はこのようなものだったと思う。
そして、そのドナーの条件を満たす者として2人の姉が最適であり、
各種検査を受ける必要と、その受け入れについても説明があった。
しばらくは当事者である自分の意思とは関係のないところで話しは
進んでいった。
「松本さん御自身はどうですか?」
F医師に振られ、何とも言えない気持ちで話しを聞いていた自分は、
しばらく言葉が出なかった。頭の中がパニック状態で、今置かれて
いる自分の立場があまりにも悲しかった。
「いやです。なんとか移植をしない方向で・・・」
涙をこらえて、そう声を搾り出すのが精一杯だった。
こんなことをして、生きる価値が自分にあるのか。
何よりも自分には何もできない、家族と医師達にすべてを委ねなけ
ればならない状況に、なんだか違う世界にいるような気がしていた。
「御家族の方から何かありませんか」
父は「私の肝臓じゃだめなんでしょうか」と訴えたが、「お父さん
の場合年齢的に無理があると思います。手術には危険も伴いますし」
妻は「私は・・・」、「奥さんは体格的に肝臓が小さすぎて」
そう、サイズが合わないと無理なのだ。
上の姉は次姉と「私達がドナーになるから」と、精一杯冷静に、そ
して必死に訴えてくれた。
こうなったら何が何でも、今の透析治療に託すしかない・・・。
自分にできるのは唯一それだけだと。
この時は、移植手術は自分の中では絶対にありえなかった。
少しだけ、”死”を意識した、生まれて初めての瞬間だった。
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希望と絶望
再手術から一ヶ月経った。お腹の具合はまだまだだけれど、全体的に
体調はいい。
内臓はツッパリ感があって、どうしても前かがみになる。
切った後は盛り上がり、中で硬くなっているようで痛い。
そしてドレンの出入り口を中心に違和感と軽い痛み。抜け防止の為、
縫ってある所もチクリと痛い。
もう少し時間が必要なのだろう。
----------------------------------
<・・・一年前>
・・・2005.8.19(金)
SH病院からK病院に転院。
SH病院では人手が足りず、より良い環境と透析設備の整ったK病院
に救急車で運ばれる。
救急車に乗せられ見上げると、空しか見えなかった。外の景色を見る心
の余裕はなかった。
入院後、最初の段階で各種の検査をしたはずだが、良く覚えていない。
とにかく透析治療の印象が強すぎるのだ。
週に3日か4日の割合で行われるのだが、1回通常6時間位、長くな
ると8時間以上かかる日もあった。
ずっと寝たままなのはもちろん、腕もほとんど動かせなかったので、
眠ることもできず、携帯ラジオを聴くことだけが、唯一の楽しみだった。
それでも、これを乗りきれば何とかなるだろう、という思いはあった
ので、希望だけは強く持つことができていた。
そう、あの話しを聞くまでは。
K病院に入院し、数日経った頃、H大病院のF医師が、わざわざ来て
下さった。生体肝移植の説明をする為に。
家族も集められた。
透析治療で何とかなるだろうと、勝手に思いこんでいたので、F医師
のお話しはあまりに衝撃的だった。生まれて初めて味わうショックだ
った。
こんなことが自分に振りかかってくるなんて。
自分の置かれている立場を考えると、一晩中涙が止まらなかった。
体調はいい。
内臓はツッパリ感があって、どうしても前かがみになる。
切った後は盛り上がり、中で硬くなっているようで痛い。
そしてドレンの出入り口を中心に違和感と軽い痛み。抜け防止の為、
縫ってある所もチクリと痛い。
もう少し時間が必要なのだろう。
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<・・・一年前>
・・・2005.8.19(金)
SH病院からK病院に転院。
SH病院では人手が足りず、より良い環境と透析設備の整ったK病院
に救急車で運ばれる。
救急車に乗せられ見上げると、空しか見えなかった。外の景色を見る心
の余裕はなかった。
入院後、最初の段階で各種の検査をしたはずだが、良く覚えていない。
とにかく透析治療の印象が強すぎるのだ。
週に3日か4日の割合で行われるのだが、1回通常6時間位、長くな
ると8時間以上かかる日もあった。
ずっと寝たままなのはもちろん、腕もほとんど動かせなかったので、
眠ることもできず、携帯ラジオを聴くことだけが、唯一の楽しみだった。
それでも、これを乗りきれば何とかなるだろう、という思いはあった
ので、希望だけは強く持つことができていた。
そう、あの話しを聞くまでは。
K病院に入院し、数日経った頃、H大病院のF医師が、わざわざ来て
下さった。生体肝移植の説明をする為に。
家族も集められた。
透析治療で何とかなるだろうと、勝手に思いこんでいたので、F医師
のお話しはあまりに衝撃的だった。生まれて初めて味わうショックだ
った。
こんなことが自分に振りかかってくるなんて。
自分の置かれている立場を考えると、一晩中涙が止まらなかった。
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現在、そしてこれから
昨年のこの日は、透析治療を受けていたK病院から移植手術を受け
ることとなるH大病院に転院した日。
透析治療に希望を持って、一ヶ月間頑張ったので、その治療の限界
とその後に控える生体肝移植手術への不安で、何とも言えない気持
ちだった。
でもまだこの頃は意識もはっきりして、救急車ではなく父の車で転
院したぐらいだった。
それから一年・・・
・最初の入院から1年1ヶ月と3日(昨年8月17日入院)
・移植手術から11ヶ月と16日 (昨年10月4日施術)
・最初の退院から7ヶ月と3日 (今年2月17日退院)
・2度目の手術から29日 (今年8月22日施術)
・最後の退院から18日 (今年9月2日退院)
そして現在の状況
●血液検査結果
・おおむね標準値になりつつある。
入院中、なかなか下がらなかったアンモニアも30前後。
ビリルビン値も0.8にまで下がった。
●体重・血圧等
・体重: 今日は51.2Kg 入院前は70Kgあったので、20Kg
減ったことになる。
最近の検診では「とにかくあとは体重を増やすこと」と言われ
るが、まだなかなか増えてこない。
・血圧: 血圧は110-70位でほぼ安定している。
これは入院中から変わらない事のひとつ。
・体温: これもほぼ平熱。入院中も一番高かった時で37.8℃
で、高熱で困ったことはほとんど無かった。
●血糖値
・やはり免疫抑制剤を服用しているので、血糖値は高くなる。
手術後、大変だったことの一つである。
病院では看護師さんが測定、インスリンを管理してくれるが、
退院時は自己管理が必要になる。測定器をレンタルし、インス
リンを自分で注射、慣れるまでは本当にいやだった。
しかしこれも免疫抑制剤の量が減り、時間と共に安定してきて
いる。最近ではインスリンを打つこともほとんど無くなった。
●薬
・薬は今の状況を支える大きな力。
一番多い時では20種類位飲んでいたが、今は7種類。
薬の量が減るのと同時に体調も回復してきた。
ただ、一生のみ続けなければならない薬があるので、油断禁物。
●食事
・特別な食事制限はない。少し前潰瘍になったので、油っこい物
は控えている。ただ、一回の食事でたくさん食べられないので、
少しずつ数回に分けて食べることになる。
あとは良く言われるように
・調理後、時間の経った物は食べない。
・生物は食べない。生野菜は加熱してから。
・グレープフルーツは厳禁。
・生卵、酒類などは一生だめかな。
●体調
・門脈の手術のおかげで、血流がすべて肝臓に向かい、肝臓自体
が大きくなってきた。
アンモニア値が下がってきたので、意識は以前に比べ鮮明にな
り、疲れやすさもかなり良くなってきた。
今は体内から3本のドレンが出ている状態。うち2本はクラン
プで留められているが、1本は排液バックを付け、胆汁を体外
で処理している。
結構気にはなるが、術後の、5本も6本もチューブが出ている
状態に比べれば、苦にはならない。
気になる事といえば、
・視力が落ちたこと(老眼もあるかな)
・お腹が定まらないこと(術後だから仕方ない?)
・字が書きにくい
・明け方どうしても、眼が覚めてしまう(4時とか)
・体重がなかなか増えない(結構食べてはいるが)
・やはり体力は移植前の10%位か。筋肉という筋肉がなくな
ってしまった。
そしてこれから・・・
自分は運良く新しい命を与えてもらった。
でもこれからの生活が、より大変で、重要なことである、というの
も分かっている。多くの犠牲の元、生かされているということの重
みをいつも感じている。
これから先、身体がどうなっていくのか分からない。
どこかに症状となって現れるかもしれないし、万が一、又手術とい
うこともあるかもしれない。
だからこそ、一日々を大事に楽しく過ごしていきたいと思う。
この一年で得た最大の宝物・・・
「優しさと思いやり、そして感謝の気持ち」
以前の自分に一番欠けていたものでもある。
ることとなるH大病院に転院した日。
透析治療に希望を持って、一ヶ月間頑張ったので、その治療の限界
とその後に控える生体肝移植手術への不安で、何とも言えない気持
ちだった。
でもまだこの頃は意識もはっきりして、救急車ではなく父の車で転
院したぐらいだった。
それから一年・・・
・最初の入院から1年1ヶ月と3日(昨年8月17日入院)
・移植手術から11ヶ月と16日 (昨年10月4日施術)
・最初の退院から7ヶ月と3日 (今年2月17日退院)
・2度目の手術から29日 (今年8月22日施術)
・最後の退院から18日 (今年9月2日退院)
そして現在の状況
●血液検査結果
・おおむね標準値になりつつある。
入院中、なかなか下がらなかったアンモニアも30前後。
ビリルビン値も0.8にまで下がった。
●体重・血圧等
・体重: 今日は51.2Kg 入院前は70Kgあったので、20Kg
減ったことになる。
最近の検診では「とにかくあとは体重を増やすこと」と言われ
るが、まだなかなか増えてこない。
・血圧: 血圧は110-70位でほぼ安定している。
これは入院中から変わらない事のひとつ。
・体温: これもほぼ平熱。入院中も一番高かった時で37.8℃
で、高熱で困ったことはほとんど無かった。
●血糖値
・やはり免疫抑制剤を服用しているので、血糖値は高くなる。
手術後、大変だったことの一つである。
病院では看護師さんが測定、インスリンを管理してくれるが、
退院時は自己管理が必要になる。測定器をレンタルし、インス
リンを自分で注射、慣れるまでは本当にいやだった。
しかしこれも免疫抑制剤の量が減り、時間と共に安定してきて
いる。最近ではインスリンを打つこともほとんど無くなった。
●薬
・薬は今の状況を支える大きな力。
一番多い時では20種類位飲んでいたが、今は7種類。
薬の量が減るのと同時に体調も回復してきた。
ただ、一生のみ続けなければならない薬があるので、油断禁物。
●食事
・特別な食事制限はない。少し前潰瘍になったので、油っこい物
は控えている。ただ、一回の食事でたくさん食べられないので、
少しずつ数回に分けて食べることになる。
あとは良く言われるように
・調理後、時間の経った物は食べない。
・生物は食べない。生野菜は加熱してから。
・グレープフルーツは厳禁。
・生卵、酒類などは一生だめかな。
●体調
・門脈の手術のおかげで、血流がすべて肝臓に向かい、肝臓自体
が大きくなってきた。
アンモニア値が下がってきたので、意識は以前に比べ鮮明にな
り、疲れやすさもかなり良くなってきた。
今は体内から3本のドレンが出ている状態。うち2本はクラン
プで留められているが、1本は排液バックを付け、胆汁を体外
で処理している。
結構気にはなるが、術後の、5本も6本もチューブが出ている
状態に比べれば、苦にはならない。
気になる事といえば、
・視力が落ちたこと(老眼もあるかな)
・お腹が定まらないこと(術後だから仕方ない?)
・字が書きにくい
・明け方どうしても、眼が覚めてしまう(4時とか)
・体重がなかなか増えない(結構食べてはいるが)
・やはり体力は移植前の10%位か。筋肉という筋肉がなくな
ってしまった。
そしてこれから・・・
自分は運良く新しい命を与えてもらった。
でもこれからの生活が、より大変で、重要なことである、というの
も分かっている。多くの犠牲の元、生かされているということの重
みをいつも感じている。
これから先、身体がどうなっていくのか分からない。
どこかに症状となって現れるかもしれないし、万が一、又手術とい
うこともあるかもしれない。
だからこそ、一日々を大事に楽しく過ごしていきたいと思う。
この一年で得た最大の宝物・・・
「優しさと思いやり、そして感謝の気持ち」
以前の自分に一番欠けていたものでもある。
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真夜中の出発
これが小学校での最後の遠征になるだろう。
眠たい目をこすりながらも張り切ってバスに乗り込んだ次男。
前日から「あ~楽しみだ。」と言っていた。
お父さんは行けないけど、お母さんがしっかり応援してくれる。
ビデオもデジカメも、寒さ対策も万全だ。
できれば優勝してきてくれると最高だね!
でも全力を出し切って良い思いでを作ってきてくれることが一番!
応援のお父さんお母さん、夜の宴会・・・
うらやましいいいいいいいいい~
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再会
予定ではまだ病院に居るであったろうこの日。
以前同じ病室だったSさんが定期検診だったので、様子を見に来てくれる
予定だった。
予想に反して早く退院してしまったものだから、しばらく会えないのかと
思っていたら、自分も検診の日だった。
ということで病院でお互い外来で再会。
とかく病人は、病気自慢というわけではないが、自分の病気につては良く
語りたがる。他人に話すことで、ストレスを発散させるというのもある。
その結果、あまり他人の話しは聞かないというのも良くあることだ。
Sさんは、自分なんかよりも厳しい状況でありながら、良く話しをしてく
れたし、なにより良く話しを聞いてくれた。「根が前向きだから」という
が、気持ちが強くなければなかなか。
とても勇気づけられ、元気をもらった。
長く入院していると、色々な患者さんと出会う。
広い意味で運命共同体のような、お互い励まし合い、知識を伝え合い、文句
を言い合う、これもとても良い経験だ。
病院でしか味わえない経験、でもSさんと二人、しみじみと言った。
「もう二度と入院したくないよね」
「お互い家族に囲まれて幸せ者ですよね」
以前同じ病室だったSさんが定期検診だったので、様子を見に来てくれる
予定だった。
予想に反して早く退院してしまったものだから、しばらく会えないのかと
思っていたら、自分も検診の日だった。
ということで病院でお互い外来で再会。
とかく病人は、病気自慢というわけではないが、自分の病気につては良く
語りたがる。他人に話すことで、ストレスを発散させるというのもある。
その結果、あまり他人の話しは聞かないというのも良くあることだ。
Sさんは、自分なんかよりも厳しい状況でありながら、良く話しをしてく
れたし、なにより良く話しを聞いてくれた。「根が前向きだから」という
が、気持ちが強くなければなかなか。
とても勇気づけられ、元気をもらった。
長く入院していると、色々な患者さんと出会う。
広い意味で運命共同体のような、お互い励まし合い、知識を伝え合い、文句
を言い合う、これもとても良い経験だ。
病院でしか味わえない経験、でもSさんと二人、しみじみと言った。
「もう二度と入院したくないよね」
「お互い家族に囲まれて幸せ者ですよね」
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The サッカー ~頑張る次男へ
昨日、今日と秋のサッカーの大事な試合。
昨日は会場が近かったこともあり、久し振りに観戦する
事ができた。
兄の影響でサッカーを始めた訳だが、体が小さくキック
力もおぼつかない。それでも持ち前の足の速さと瞬発力
で頑張ってきた。
そしていよいよ今年、最終学年を迎え小学校時代の集大
成、という時。自分の身に降りかかった大病。
病気を患うまでは、リフティング、パス、トラップ、一
緒に走り、汗を流し、地方の応援に出かけ、声をからし、
ビデオ、写真撮影、と、共に成長して来たような気がし
ていた。
でも、昨年夏の入院以来、試合を見ることはできず、いや
自分のことなどはどうでもいい、次男のせっかくの最後の
一年まで犠牲にしてしまった。さいわいKさん始め、たく
さんの方のご協力で送り迎え等、本当に助けられた。
でも入退院を繰り返し、手術を2回受け、妻を拘束し、子
供に負担を掛けてしまっていたのも事実だ。
本当にかわいそうなことをしてしまった。
○○○、ごめんね。でも良く頑張ったね。
昨日も良く走っていたね。
良いチームメイトに恵まれたね。
サッカーしている時は本当に楽しそうだね。
そして、この大変な時にサッカーを続けさせてくれたお母
さんに感謝だよ。
サッカー少年団卒団まであと少し。
勉強も大事な時期だけど、あんな時があったなあと、後で
思いだせる様な、素敵な時間を造って欲しいと思う。
体にむち打って、いっぱいいっぱい応援するよ。
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抜糸
術後16日目、今日は定期検診。少し早かったけれど抜糸された。抜糸といっても今回はホチキス。あっという間だったがかなり痛かった。でもそれまであった痛みや突っ張り感はかなり軽くなった。 だんだんと回復していく身体。でも今まで散々なめにあってきただけに、何か心に引っかかるものがある。何って具体的なものではないのだが…。
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今になって思うこと。
昨晩、TVドラマ「手の上のシャボン玉」を見た。
生体肝移植にまつわる、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(移植患者)の関係が描かれていた。
結局、手術を受けるまでで終わり、かなりドラマチックで、自分の時と比べてちょっと・・・という感じだった。
自分の時・・・ 一年前、透析治療を受けているK病院にH大病院のF医師が最悪の場合を想定し、生体肝移植の説明をしに来て下さった。
この時の説明で自分の置かれている立場を始めて理解し、大きなショックを覚えたことを鮮明に覚えている。
「生体肝移植」・・・
・何よりドナーなくして手術はありえないこと。
・20歳以上であること。
・日本の場合、2等身以内、もしくは配偶者であること。
・検査をして適合しなければ行えないこと。
・患者はもちろん、ドナーも危険を伴うこと。
・身体に大きな傷を残してしまうこと。etc・・・
昨晩のドラマではないが、そうまでして生きる価値が自分にあるのか。必死で透析治療による根治を訴えた。
父:「私の肝臓じゃだめですか」、医師:「お父さんの場合年齢的にちょっと」
妻:「私は・・・」、医師:「奥さんは体格的に肝臓が小さすぎて」
もういいよ、もう、心でそう思いつつ・・・
2人の姉も「私が、私が」と必死に訴えてくれた。
こうなったら何が何でも、今の透析治療に託すしかない・・・。
でもだめだった。
結局、姉2人が適合検査を受けてくれ、次姉が運良く適合。
次姉に大手術の恐怖と大きな傷と、そして次姉の2人の娘に大きな不安を与えてしまいながらも、私は命を救われた。
今思うと、”死”に対して、当時より現在のほうがはるかに恐怖心が強く、移植に対して、当時はなんの知識も無く、絶望感だけが支配していたような気がする。
”家族の総意” ・・・
昨晩のドラマ「私たちみんなそろって家族なんだよ、3人いて始めて家族なんだよ」
そうなんだ、自分も”家族の総意”で助けられたんです。
姉たちは、術前も術後も常に明るく振る舞ってくれた。
父や妻をいっぱい励ましてくれた。
父は姉たちに移植をお願いしてくれた。
妻がいなかっら、術後の回復はありえなかった。
二ヶ月近く脳機能が変な自分に毎日々話しかけてくれなかったら。
のちに妻に聞かされた。移植手術直後、ドナーとなってくれた姉がおぼろげな意識の中で最初の言葉、
「肝臓足りた?、小さくなかった?」
足りたよ~~~! 今こうして生きてるよ~~~!
そしてそして、もっともっと生きてやるよ~~~!
生体肝移植にまつわる、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(移植患者)の関係が描かれていた。
結局、手術を受けるまでで終わり、かなりドラマチックで、自分の時と比べてちょっと・・・という感じだった。
自分の時・・・ 一年前、透析治療を受けているK病院にH大病院のF医師が最悪の場合を想定し、生体肝移植の説明をしに来て下さった。
この時の説明で自分の置かれている立場を始めて理解し、大きなショックを覚えたことを鮮明に覚えている。
「生体肝移植」・・・
・何よりドナーなくして手術はありえないこと。
・20歳以上であること。
・日本の場合、2等身以内、もしくは配偶者であること。
・検査をして適合しなければ行えないこと。
・患者はもちろん、ドナーも危険を伴うこと。
・身体に大きな傷を残してしまうこと。etc・・・
昨晩のドラマではないが、そうまでして生きる価値が自分にあるのか。必死で透析治療による根治を訴えた。
父:「私の肝臓じゃだめですか」、医師:「お父さんの場合年齢的にちょっと」
妻:「私は・・・」、医師:「奥さんは体格的に肝臓が小さすぎて」
もういいよ、もう、心でそう思いつつ・・・
2人の姉も「私が、私が」と必死に訴えてくれた。
こうなったら何が何でも、今の透析治療に託すしかない・・・。
でもだめだった。
結局、姉2人が適合検査を受けてくれ、次姉が運良く適合。
次姉に大手術の恐怖と大きな傷と、そして次姉の2人の娘に大きな不安を与えてしまいながらも、私は命を救われた。
今思うと、”死”に対して、当時より現在のほうがはるかに恐怖心が強く、移植に対して、当時はなんの知識も無く、絶望感だけが支配していたような気がする。
”家族の総意” ・・・
昨晩のドラマ「私たちみんなそろって家族なんだよ、3人いて始めて家族なんだよ」
そうなんだ、自分も”家族の総意”で助けられたんです。
姉たちは、術前も術後も常に明るく振る舞ってくれた。
父や妻をいっぱい励ましてくれた。
父は姉たちに移植をお願いしてくれた。
妻がいなかっら、術後の回復はありえなかった。
二ヶ月近く脳機能が変な自分に毎日々話しかけてくれなかったら。
のちに妻に聞かされた。移植手術直後、ドナーとなってくれた姉がおぼろげな意識の中で最初の言葉、
「肝臓足りた?、小さくなかった?」
足りたよ~~~! 今こうして生きてるよ~~~!
そしてそして、もっともっと生きてやるよ~~~!
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今日…
退院の朝を迎えた。 今まで何度も入退院を繰り返したが、今朝は特別かな。 今まで…常に何かを残して。特に今回の手術。結石の激しい痛みもそうだった。腹痛もそうだ。オマケに潰瘍。 でも今回は、全部とはいかないがそれらをクリアして。素直な喜びと、新たな希望と、少しの不安を抱えて…、今日…退院します。
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