予期せぬ劇症肝炎、そして生体肝移植からの壮絶脱出劇!
がんばれ!肝臓くん。。
肝性脳症の恐怖 PartⅡ
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<・・・一年前>
・・・2005.10月10日~
<肝性脳症の恐怖 その2>
なんとか個室に戻ってくることができたが、やはりそれからのことはあまり覚えて
いない。
当時を覚えているのは、なんともいえない幻覚症状だけだ。
起ったことも、移動したことも、数え上げたらきりがない。
例えば、良く聞く話しだが、北朝鮮のミサイルが飛んでくるとか、韓国の軍隊が攻
めてくるとか。
日中、妻や家族と普通(??)に話している自分がいる。
ところが、夜になると異常なことが、自分の中では普通になるのだ。
自分では極々冷静なつもりでいるのに、看護婦さんを呼び出しては「早く逃げなきゃ」
「ミサイルの落下地点はこの病室なんだ」と言っている始末。
今考えるとバカな話しだが、当時は本等に冷静に、普通に思って話しているのだ。
当然のことながら看護婦さんは相手にしてくれないので、翌日、妻に「何を言っても
誰も信用してくれないんだよね」とか言っている。
「誰も聞いてくれないから、ここだけの話しだよ」と言っている自分を,しっかりと
今も覚えている。
そのせいなのか、今も、妻に何か変な事を言うと「頭、大丈夫?」と真顔で聞かれる。
ただの幻覚と違うのは、変な行動や言動が、自分ではとても冷静に把握している、
ということ。
幻覚でありながら、リアルなんですよ。
結局、肝性脳症の症状は除々には弱まっていったものの、10月4日の手術から
2ヶ月弱も続いた。
・我家が売りに出され、病院近くに家族が引っ越してきた事。
・何度も何度も病院を変わった事。
・中国の古代から刺客がやって来て、危うく殺されかけた事。
・病院の屋上で花火を見た事。
・元の実家が地震で被害を受けた事。
・病院のホールで歌を披露した事。
・家族がバラバラになってしまった事・・・etc。
どれも自分の中ではリアルな世界。
しばらくの間、病室から出してもらえなかった。
どこで何をするかわからなかったらしい。
それに反発し、病室の備品を投げつけて壊してしまったのは、現実か幻覚か、
今でもわからない。
最後には移動を感知する、特殊マットをベッドの脇に敷かれた。
精神科から借りてきたらしい。
これらが全て、肝性脳症という移植手術後特有のものである、という事を知ったのは
かなり回復してからのことだった。
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☆ 癒し PartⅡ ☆
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ダルビッシュ&ヤギ
肝生検の為、そのまま緊急入院となった。
久し振りの入院だったが、妙に病院に馴染んでいる自分が不思議だったり、
腹が立ったり。
これまた久し振りの看護士さん達には皆、「痩せたんじゃない?」といわれ、
「なかなか体重が増えなくて」 と何度返したことか。
薬でむくんでいたりもしたから、今の状態がスリムに見えるらしい。
肝生検というのは、肝臓の組織を直接採取して調べる検査で、入院が必要となる。
実際には右脇腹からピストルのようなものを(音だけ)打ち込んで、細胞をつま
んでくるような感じ。
しっかり麻酔をするので、その瞬間はあまり痛みを感じない。
ただその後、2時間程の安静時間が必要で、止血の為、挿入部を強く圧迫しながら
じっと横になっていなければならない。
結局、薬による脂肪肝が判明し、免疫抑制剤の量が減らされた。
次回検診まで様子見となるが、再手術後、調子が良かったので、少し心配。
なかなか自分の思うようにはいかない。
普段の生活や仕事などへの影響は少なからず有るが、家に居られることに満足しな
ければいけないのか。
まだまだ油断が許されない状況に、どっぷりつかっていることを改めて教えられた。
ps:帰宅時、アリオに寄り道。ダルビッシュと八木の両投手のサイン会に人・人。
近つ゛くことさえできませんでした。
来年も頑張ってね!!
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また入院。
・・・・
また入院。でも明日退院。
入院といっても肝生検の為の一泊入院。規定で入院が必要なのだ。
ドレンが外れて最初の検診。
GOTとGPTの値が上がってしまったのでそのための一泊入院だ。
肝臓が増大していく過程の拒絶反応であれば良いのだけれど。
やはり病院は居心地が悪いので、早く帰らなければ。
またもうすぐクリスマスが…!?
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粉雪
妻にとってはあまり聞きたくない曲らしい。
「去年のちょうど今頃、ヒットしていた曲でね、病院からの帰り道、ラジオで
良くかかっていたのさ。」
「もう少し、もう少し、って思ってた時期でね。聞いてたら悲しくなるんだわ。」
今日、車の中で聞きながら、なんともいえない気持ちになった。
助けられたり、勇気付けられたり、そして悲しくなったり、音楽にはいろんな
要素があるんですね。
・・・
今日は定期検診の日でもあった。
相変わらず血液検査の結果は標準値より高目だったが、造影検査は良好なので、
最後に残っていたドレン(胆管チューブ)をはずしてもらうことができた。
7ヶ月振りだ。
又、もとに戻ってしまうかもしれないが、とりあえずその痛みや違和感からは
解放される。
精神的に結構辛かったので、今晩は少し安心して眠れるかな。
ドレンがはずれたので、ドナーになってくれた姉へTEL.
少しだけ安心してくれた。
姉だって一生残る体の傷と共に生きていかなければならない。
自分が元気になっていくいことで、その気持ちを軽くしてあれるのかはわからな
いが、なんとか頑張らねば、と思う。
少しずつ回復していくなかで、この一年の闘病生活で、移植手術で、失ったもの、
犠牲にしたものの大きさが、自分のなかに膨らんでいく。
正直、プレッシャーに感じることもあるが、その何十倍もの感謝の気持ちが、
心を前向きにしてくれる。
生きられる限り、常に全力で、そして楽しくやっていこう、と思う。
せっかくもらった命だからね。
生きていれば楽しいことがたくさんあるからね。
辛さを乗り越えれば、その何倍も楽しいことが待っているからね。
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ICUから個室へ
・・・
昨日はタイヤ交換をした。(北海道ではこの時期、夏タイヤからスタッドレス
タイヤに交換しなければならない。)
いつも30~40分程でできていたのだが、昨日は何と2時間弱もかかってし
まった。
筋力が無くなってしまったものだから、タイヤを運べない、持ち上げられない、
ナットは回せない、腰に力は入らない、と散々だったが、パワーが無いと、頭
で考るもので、段々と要領良くできたような、できないような・・・。
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<・・・一年前>
・・・2005.10月10日
ICUでは、とにかく苦しかった印象だけが残っている。
音は器械音だけ。常に照明が点いているので昼夜の区別が分からない。
面会時間も少なく、人工呼吸器のせいか、思う様に話すことができない。
肝性脳症の知識が少しでもあったなら、幻覚を幻覚として受け止められたの
かもしれない。
でもそんな余裕は無かった。
10月10日、ICUから病棟の個室に移る。
この日は妻の誕生日でもあった。
やっぱり、この時のことも覚えていない。
色々な管や点滴がつながれていたので、両手はベッドに縛り付けられたまま
で、眠たくて眠たくて起きていられなかった。
ずっと眠ってばかりいたそうだ。
移植された肝臓との拒絶反応がかなり強かったらしく、アンモニア値も高か
ったので、自分の意識はかなり低かった。
ただ、医師から「肝臓の相性が悪いので、日数はかかるが、必ず自分を取り
戻し、状態は戻ってくる」と妻は説明を受けていたそうで、安心はしていた
そうだが、この時の様子を見て、それが本当なのか、妻はとても信じられな
かったそうだ。
再手術の時もそうだったが、外科手術というものが、いかに計算され、高い
医療技術で計画通りに進められた場合、人間の回復力の素晴らしさを教えて
くれるものであるか、つくずく感じさせられました。
この後、意識の回復と共に、肝性脳症による恐怖がまた始まる。
12月初旬までの2ケ月、いろんな世界を経験した。
現実と幻覚が混同したり、昼間は普通(のつもり)でいられるのに、夜に
なると脅迫概念が強くなるのだ。
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肝性脳症の恐怖
・・・
今日は家族4人、インフルエンザの予防接種を受けた。
自分にとっては初めての予防注射だ。
免疫抑制剤を服用しているので、ウィルスに対する防御は弱い。
移植の医師に確認すると、皆さんに受けてもらっているといことだが、抑制剤
を飲んでいることによって、予防注射が効きにくいということもあり、なんと
も皮肉なことだ。
とにかく、いつも子ども達がお世話になっている少児科で注射してもらった。
そこのせんせいのお父さんがやはり劇症肝炎を患い、42歳で亡くなっている
という話しをお聞きし、複雑な思いを抱きつつ帰宅した。
当時の医療では、どうすることもできなかったそうで、これも自分の運命か、
医療の進化に感謝するしかない。
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<・・・一年前>
・・・2005.10月4日~10日
<肝性脳症の恐怖 その1>
手術室からICUに移ってどれ位で意識が戻ったかは覚えていない。
覚えているのは恐ろしい幻覚だけだった。
肝性脳症という言葉さえ当時は知るよしもなく、それはまさに超リアルな世界。
・・・ICUのベッドの周りに医師・看護士らしき人が4~5人立って、こちら
を覗き込みながら何か話しをしているのがわかる。
話しの内容は、その時は理解できた。ただ、その表情や誰が居るかなどは、目の
前に、もやがかかっているようでわからない。
しかしとても息苦しく、それを必死に訴えようとするのだが届かない。
今にも息が止まりそうなのだ。
そうこうしているうちに周りには誰一人いなくなり、疲れて寝てしまうのだが、
本当の恐怖はここから始まった。
それから何度も目覚め、息苦しい状態はずっと続くのだが、なんと目の前の状況
がさっきと同じなのだ。
何度眠りにつき目覚めても、周りの人間、会話、時間までもが同じなのだ。
それが実際、どの位の時間の中での出来事なのかはわからないが、自分の中では
一週間近くに感じられた。
そう、自分の中では一週間、時間が進まなかったのだ。
何度も日にちを聞いたのを覚えているが、時には時間が逆戻りしていることも
あった。
あまりの息苦しさの為か、これは幻覚というよりもおそらく夢だったのだろうが
三途の川まで見てしまった。
きっとこの時、気を強く持っていなかったら、そのまま引き込まれていたような
気がする。
目覚めると、リアルな状態で、時間が進まない恐怖、どうですか?
なんとかこの状況を乗り越え、10月10日、ICUから個室へ戻ることができた。
しかし、肝性脳症による恐怖は、まだまだ始まったばかりだった。
色々な医療器具による肉体的痛みを忘れるような、精神的な恐怖に次々と襲われる
ことになる。
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初雪とクリスマスツリー
去年の初雪はまったく覚えていないので2年振りの感覚。
寒いし道路も渋滞するし、例年だと「又、長い冬の始まりか」と思ってしまう
のだが、今年は何か違う。
一面に広がる雪景色、これから迎えるクリスマス、年末年始、それらを我家で
みられるのだ。
当たり前のことが去年はできなかった。
病室のベッドから見えるのは、高い空だけだった。
クリスマスツリー、去年、一時外泊に間に合うように妻が希望を込めて購入し
たもの。
今日、横になっているうちに、せっせと妻が楽しそうに飾り付けていた。
ふとその姿を見ていて思った。去年はどんな気持ちで飾っていたのだろう。
肝性脳症の呪縛からは解放されていたとはいえ、先行きがまったく見えない
状態。
結局、クリスマスに帰宅することはできず、ツリーを見たのは今日が初めて。
そんな状態だったのだから、きっと複雑な思いで飾っていたのだろう。
妻は一年分の疲れが一気に出たのか、体調を崩している。
自分がベッドで寝ている間も、気を張り詰め活動していたのだから・・・
まだまだ自分のからだは不安だらけだけど、大黒柱として妻として母として、
頑張ってきた妻からバトンタッチして、これからは少しずつ、不安から希望へ、
引き継いでいかなければ。
一日も早く、なんの心配もなく、「ご苦労さまでした。ありがとう」と言える
ように。
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生体肝移植手術 PartⅡ
私だけ? 最近自分が 小梅太夫に似てる、と思ったのは・・・私だけ?
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<・・・一年前>
・・・2005.10月4日
生体肝移植手術の日。
執刀は第一外科のベテラン医師達。
朝8時の手術開始予定に合わせ、ICUから手術室へ。
個室からICUに移った頃から意識はほとんど無かったので、当然、手術前後
のことは、覚えてはいない。
ドナーになってくれた姉は、手術前日に入院。
歩いて手術室に向かったそう。
翌朝、2時30分頃手術終了。18時間以上に及ぶ大手術だった。
ドナーの姉も当日午後5時頃終了、9時間に渡る手術だった。
その間、家族は7階デイルームにて待機。
妻や姉、父を始め、親戚等たくさんの方が見守って下さった。
自分のからだが切り開かれ、内臓に対して、究極の外科手術が施されていたこ
とに、今でも信じられない気持ちで一杯で、体の傷を見ない限り、現実のもの
と理解できないでいる。
しかも、何も病を持たない、ドナーの姉が、同じような傷を負い、危険に身を
さらし、痛みを受けなければならない生体肝移植ということに、何かやるせない
思いを抱き、そしてそれは今も感じ続けている。
そしてきっと、ずっと死ぬまでそのわだかまりは持ち続けていくと思う。
手術後、姉は個室へ、そして自分はICUへ。
ICUと、そして個室に戻ってからも、意識がはっきりとせず、本当に恐ろしい
幻覚に見舞われることになるが、姉が順調に回復し、思ったより早く退院できた
ことが,何よりの救いとなった。
術後、肝性脳症 との闘いが始まるのである。
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三頭身???
ただ、まだGOTとGPTの値が高いのでドレンははずしてもらえなかった。
しかし「拒絶反応の可能性が高い」ということで一安心。
肝臓くんとドレンくんは相当仲が良い。
17日の定期検査まで、確実に腹には穴が開いたままだ。
体調は少しずつ回復してきているが、体重はなかなか増えない。
今だに51~52kgを行ったり来たり。
服を脱ぐと手も足も体も骨と皮だけのように見えてしまう。
あばら骨もクッキリと見えている。
でもなぜか顔だけはあまり痩せない。
体とのバランスを考えると、三頭身とまではいかないが、五頭身位??
まるで宇宙人のよう。
まっ、元々顔がデカイんだからしょうがないか。
これから体を鍛えて、筋肉を戻して、夢の八頭身を目指そうか。
比例して顔もさらにデカクなったりして!
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★今年のクリスマス★
真っ先にする事はクリスマスツリーを飾ること。
ちょっと早いかもしれないけれど、今年は気合を入れて飾ろうと思っている。
・・・去年の今頃は、術後の病状も定まらず、自分が自分ではなく、訳の分か
らないことばかり言っていた。(らしい?!)
クリスマスの時期はもう自分を取り戻していたが、状態が安定せず、病院で
その時を過ごすことになってしまった。
外泊に備え妻が用意していてくれたチキンも、子ども達と一緒に食べることが
できなかった。
だから今年こそ、いっぱい飾ってみんなで喜んで、健康の大切さを思う存分、
満喫したいと思う。
つらっかた去年の分まで、家族ばらばらだった去年の分まで。
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生きてみようよ!
それにもしても毎日悲しいニュースを耳にする。
子ども達が自らの命を絶ってしまうこと。
家庭で学校で、親子で友達同士で、悲しくて苦しくて辛くて、きっと他人には
想像さえできない、誰にも相談できない深い思いがあるのだろう。
自分が病気になって死に直面したから言うのではないが、生きたくても生きら
れない人がたくさんいるのに、と言ってしまうのは簡単だ。
確かに自分もそう思っていた。
しかも良くテレビのコメンテーターなどは決まり文句のように言っている。
でも死を選ぶ子ども達だってそんなことは当然分かっているはず。
死を簡単に考えている子などいないはずだと思う。思いたい。
6年生と中学2年の子を持つ自分にとっても、決して他人事ではないのだ。
うちの子に限って、と思っているのも確かだが。
学校ではイジメが問題になっているようだ。
イジメの定義や種類は知らないが、30数年前、自分の子どもの頃にも少なか
らずそれはあった。
今はどうか分からないが、イジメの分だけ正義の味方もいた。
理解しようとする”ともだち”は必ず存在していたような気がする。
今だって、こんなオジンになった今だって、世の中の全員敵にまわしても、
たった一人の理解者さえいれば生きていける自信がある。
思い悩んでいる人、子ども達! 、しぶとく生きてみようよ!
生きてりゃそのうち、きっと良いことがあるさ。
一年間の入院生活、辛い時悲しい時、頭から離れなかった言葉がある。
ある身内の悲しい死の数日後、義父がポツリと言ったこと、
「kちゃんな、どんな事があっても親を残して死ぬなよ。たとえ病気になっても
だぞ。これだけは頼んだよ」
何度も絶望感を味わった闘病の過程で、この言葉がどんなに重かったか。
親より先に死ぬことが、どんなに親不幸なことか。
親だけでなく、どれだけ多くの人を悲しませることになるか。
だから、どんなことがあっても、生きられる限り生きてみようよ!
最後までしぶとくね!
子ども達が自らの命を絶ってしまうこと。
家庭で学校で、親子で友達同士で、悲しくて苦しくて辛くて、きっと他人には
想像さえできない、誰にも相談できない深い思いがあるのだろう。
自分が病気になって死に直面したから言うのではないが、生きたくても生きら
れない人がたくさんいるのに、と言ってしまうのは簡単だ。
確かに自分もそう思っていた。
しかも良くテレビのコメンテーターなどは決まり文句のように言っている。
でも死を選ぶ子ども達だってそんなことは当然分かっているはず。
死を簡単に考えている子などいないはずだと思う。思いたい。
6年生と中学2年の子を持つ自分にとっても、決して他人事ではないのだ。
うちの子に限って、と思っているのも確かだが。
学校ではイジメが問題になっているようだ。
イジメの定義や種類は知らないが、30数年前、自分の子どもの頃にも少なか
らずそれはあった。
今はどうか分からないが、イジメの分だけ正義の味方もいた。
理解しようとする”ともだち”は必ず存在していたような気がする。
今だって、こんなオジンになった今だって、世の中の全員敵にまわしても、
たった一人の理解者さえいれば生きていける自信がある。
思い悩んでいる人、子ども達! 、しぶとく生きてみようよ!
生きてりゃそのうち、きっと良いことがあるさ。
一年間の入院生活、辛い時悲しい時、頭から離れなかった言葉がある。
ある身内の悲しい死の数日後、義父がポツリと言ったこと、
「kちゃんな、どんな事があっても親を残して死ぬなよ。たとえ病気になっても
だぞ。これだけは頼んだよ」
何度も絶望感を味わった闘病の過程で、この言葉がどんなに重かったか。
親より先に死ぬことが、どんなに親不幸なことか。
親だけでなく、どれだけ多くの人を悲しませることになるか。
だから、どんなことがあっても、生きられる限り生きてみようよ!
最後までしぶとくね!
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また・・・
血液検査の結果は、
ビリルビン=1.4、GOT=68 GPT=91 γ―GTP=163
先週金曜日の定期検診よりも若干良くなっていたが、再手術以来ずっと
安定してきていたので、少し心配だ。
やはり、肝臓が大きくなっていく段階での拒絶反応ではないか、という
話しなので取りあえずは安心だが、免疫抑制剤を増やして、一週間様子
をみる、ということで来週明けにまた再検査。
ただCT影像を見せていただき、手術前より肝臓がかなり大きくなって
いるのが確認でき、一安心できた。
ここまで来るのに、一年間かかったのだから、全てがすぐうまくいくと
は思っていないし、期待もしていない。
少しずつ、少しずつ、確実に良い方向に向かっていければそれが何より。
もう少し、体のチューブ(胆管ドレン)とのお付き合いは覚悟かな?
外れたら外れたで、寂しかったりして。
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