小説を書き始めた頃、通っていた文学学校のチューターに、
「お前はなぜ喋ってる時のように書かれへんねん」
と言われたことがずーっと残っております。
喋ってる内容とは違うことを作品世界で書いていたので方向性は違うとも思っていたのですが、それはそれでチューターは私が書く作品世界よりも喋っている世界観の方がおもろいと感じて下さっていた訳ですね、第三者的に。
あ、ちょうど10年くらい前の話。
さて、実は落語を初めてからも自分の感覚の中でつきまとっていましたこの言葉。
人と喋っている時には受けるんですけど、それを落語のマクラでしても案外反応が少ないし、自分自身でも「喋っている」より「話している」感覚だったんですね。
いいなあと思う方のマクラの部分は軽やかでお客さんとの対話になっている。
しかし、私はやれどもやれどもその感覚が掴めない。
焦る訳でもない私は自分にはできへんねんなあ、と思うと件の言葉、
「お前はなぜ喋ってる時のように書かれへんねん」
が、浮かぶのですよ。ああ、落語も同じやなあ、と。
で、まいっか、と。
この頃、ちょっとだけこういうことなんかな、と感じる時がまれにある六年目。小説も書き続けていたら、その感覚が分かったかな?
「お前はなぜ喋ってる時のように書かれへんねん」
と言われたことがずーっと残っております。
喋ってる内容とは違うことを作品世界で書いていたので方向性は違うとも思っていたのですが、それはそれでチューターは私が書く作品世界よりも喋っている世界観の方がおもろいと感じて下さっていた訳ですね、第三者的に。
あ、ちょうど10年くらい前の話。
さて、実は落語を初めてからも自分の感覚の中でつきまとっていましたこの言葉。
人と喋っている時には受けるんですけど、それを落語のマクラでしても案外反応が少ないし、自分自身でも「喋っている」より「話している」感覚だったんですね。
いいなあと思う方のマクラの部分は軽やかでお客さんとの対話になっている。
しかし、私はやれどもやれどもその感覚が掴めない。
焦る訳でもない私は自分にはできへんねんなあ、と思うと件の言葉、
「お前はなぜ喋ってる時のように書かれへんねん」
が、浮かぶのですよ。ああ、落語も同じやなあ、と。
で、まいっか、と。
この頃、ちょっとだけこういうことなんかな、と感じる時がまれにある六年目。小説も書き続けていたら、その感覚が分かったかな?