田の蛙 夜通し唄い 雨祭り
馬糞 Bafun
湿度76%、カタツムリも蛙と一緒に鳴きたくなるよ
うな梅雨の季節とはなった。
田の水を喜び、雨を喜んでいるかのようである。
雨祭りは、蛙たちがにぎわう、田の祭りである。
祭りの本質は神事である。
観光のためとはいえ、バールの祭りにしてはならない。
バールとは拝金主義の悪魔である。
イベントは、人の都合で人寄せをする集団活動である
が、祭りは違う。
祭りとは、神に感謝をささげ、神との交流を願う神降
ろしの神事である。
ちなみに、かつて、生贄を捧げる神事が行われていた
ところがあった。
しかし、神が、そうした犠牲を求めるだろうか。
求めるとしたら、それは、悪魔であろう。
善悪を知らなければ、悪魔にだまされる。
《善悪の根拠》
神も仏もない人、
神も仏もない学校、
神も仏もない家庭、
神も仏もない企業、
神も仏もない官僚たち・・・。
それが日本の標準であろう。
神も仏もないとは、救いようが無いということでもあ
る。
信仰とは神を師と仰ぐという師弟関係でもある。
学問をしない自由、信仰をしない自由も尊い人権だと
いう。
何が尊いのか。
信仰がたたないということは、人として恥ずかしいこ
とである。
これを恥ずかしいことだとは思わない教員やリーダー
たちが、日本を恥知らずの国に堕落させているのである。
信仰を忘れ、宗教の善悪もわからない無教養の国日本。
退廃的でだらしない若者が目立つことと無関係ではな
い。
信仰とは神への自由を意味するが、不信仰の自由とは、
神からの自由を意味する。
神からの自由とは、すなわち堕落である。
その堕落を、尊い人権といってはばからない愚かな公
務員憲法学者が権威を競っているのだから、まさに救い
ようが無い。
信仰のない者には、神も仏もなく、祈りもなく、願い
もない。
誰に願うというのか・・・。
信仰がなり立たなければ、善悪の区別も便宜上のもの
に過ぎない。
ルール違反ではあっても悪とはいえないのである。
善悪とは、普遍的な価値判断である。
善とは、自他の尊さを知って、生かしめる努力である。
人はみな、魂の向上を目指して、この試練の世に生ま
れ出ている。
魂の向上とは、他人のためによい影響を与える意思と
力量を培うことである。
悪とは、自他を害することである。
人生修行の目的に反する破壊だからである。
神も仏もないならば、社会は偶然生まれてきた者たち
の偶然の関わりにすぎない。
モラルは、自我の交通整理にすぎないことになる。
自己中心の人々の集合が、社会であることになる。
何とおぞましいことか。
それをよしとするか否か、ごまかしてはならないこと
である。
Bafun