父母と 遊びし茂木の 枇杷太く
中村 梅士 Baishi
叔母から立派な茂木枇杷をいただいて、半年ぶりほど
に電話をした。
元気そうで何よりだった。
懐かしい茂木の風景が蘇る。
遠く天草に面した野茂半島の北部に位置する狭い漁港
町である。
叔母は養女にもらわれ、茂木で育った。
街の印象は険しい海岸線の斜面に広がる枇杷農園と、
長崎の奥座敷のような鄙びた料亭の街である。
窓際まで波音が聞こえ、器の中で小エビが跳ねている。
奥座敷ならではの物語も豊富である。
黄金の茂木枇杷の出自を物語るようである。
さて、NYに流布した世界終末の予言を手品のように期
待したが、NYダウは値を戻して終わった。
終末の予言が流行るのは末法の世である。
フェークニュースこそは人類を死の淵に追い詰めるウ
ィルスの本質であり、守銭奴的欲望に憑依する悪魔の正
体であろう。
まあ、そんな危うい時代にも、積小為大の一日がある。
明日の授業準備に追われる一日でもある。
朝のクラシックはメンデルスゾーンのバイオリン協奏
曲である。
音楽室の響きである。
我那覇さんのアルメニア紀行動画を楽しみにしている。
大学前での学生への路上インタヴューで興味深かったの
は、国のためにという意識が高く、政治に無関心な日本の
学生とは対照的だったことである。
男子は兵役の義務があり、領土紛争で若者の戦死が絶え
ず、国家財政も民間の経済も厳しい国情を10代の若者でも
自分たちの責任と感じて進路を考えているのである。
コロナを恐れてなどいられないのである。
しかし、それが主権国民の普通の姿であるはずなのだ。
民主主義とはそういうものだ。
日本は自己中心主義の国である。
政治の主役は公務員でも政治家やマスコミ権力者が主役
なのではない。
政治とは、国民が、国家のために、アジアのために、世
界のために何をなすべきかを考えて行動することである。
その手段としての国家や政党の組織の在り方が問われる。
こう考えると、「統治」という考え方は愚民をどう治め
るかという上から目線の権力志向である。
教育が愚民を再生産しているからそうなるのだ。
実際、民主主義を支える国民教育であるべき義務教育に
おいて、法律も政治も哲学も断片的知識のかけらでしかな
く、選挙権を18歳から与えるとしたところで、教育がない
のだから何のためだろうと疑わざるを得ない。
教育を変えなければならない。
そのためには、公務員教員制度を廃止するべきである。
教育は国家の権利ではなく、民間に委ねるべき国民の権
利だからであり、公務員では質が悪化するからである。
教育の標準は、民間教育者の代表者に任せる方がよい。
すると、文科省はいらない。
教育内容は、透明性を持たせるとよい。
国家の義務は、学校施設の建設と補修を予算化すること
である。
学校法人制度も民間教育の自由への差別である。
学校法人でなければ学生は交通機関の学割定期ももらえ
ない。
学校法人の基準にそうした合理的差別の理由はないとい
うべきであろう。
学校選択の自由が保障されることの方が大切である。
もっとも悪質な差別は、幸福の科学大学を学校法人とは
認めない文科省のやり方である。
そもそも認可制であろう。
実態は、文科省関係者の恣意的な許可制である。
こうしたことが、マスコミでも、裁判所でも違法とは認
められていない現実は、アメリカ大統領選挙のあからさま
な不正とよく似ている。
日本国民も、日本の政治権力も、民主主義を偽装してい
るだけなのだ。
この点も中共とよく似ている。
天罰と革命が必要であろうと思う理由である。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party