貯鉱庫を右から見る。
鈍川温泉で生前葬??をやった翌日は、東洋のマチュピチ別子銅山。
東洋のマチュピチュは言い過ぎと思うが、実際に行ってみると凄い
勉強になり感激する、ただガイドさんがいないと無理だろう。
別子銅山は江戸の昔から掘って、昭和48年まで掘っていた記憶に新
しい銅山、しかし1000mを超える山地に数千人の関係者住んでいたの
は驚きだ。
我々が目指したマイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、大正5年
から昭和゜5年まで採鉱本部が置かれいていた場所。
右側の稜線に沿って鉱石が分布採掘されたそうだ。
貯鉱庫の一番上部、採掘した鉱石をここから入れて。
下のこの出し口から出して砕き、更に下の貯鉱庫にいれ。
これは 作業場の屋根を支えていた柱の遺構。
一番下の庫の出し口から出し、中央のケーブルで下の基地に降ろしていたそうだ、ケーブルのパケットは鉱石の自重で下り、反対側から生活物資を上げたそうだ。
そこには数千人の工夫とその家族・関係者が住み、小学校・中学校は
当然 劇場・映画館もあったそうで、地元新居浜より先に封切りされた
のだとか。
子供たちのために山の頂上に運動場を作ったり、少し下側にはプール
を造ったり標高1000mの山頂で戦っていたようだ、冬場とても寒ぶかっ
たようだ。
遺構は転々とはあるがメインは索道基地・貯鉱庫跡、重厚な花崗岩作
りの遺構が東洋のマチュピチュ称されている。
この遺構を見るだけでは何も理解できないと思う、山裾のマイントピア
端出場ゾーンからバスを予約して乗車するとガイドさんが同乗し説明して
貰える。
改めて全体を右から見るとこんな感じ。
これは社宅跡、玉重野レンガの切れ目が入口だった、この社宅の一段下が沢で共同浴場があったそうだ。
資料館にあった当時の写真、立派な設備でした。
最後に上部左側からの貯鉱庫。
2時間コースで1900円、危険な山道を自分で行くより安全しかもガイド
さん付きお勧めだ。
ただ今シーズは昨日で終わった12月~3月までクローズだそうだ、春に
行く方はネットでよく確認してください。
ともかく一見の価値十分でした。