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「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「精神」 (1)

2009年07月06日 22時03分50秒 | 映画
 
 久々に 映画の感想。

 想田和弘監督の  “観察映画” 第二弾です。

 前作では、 日本の選挙の実態を ありのままに映し出した ドキュメント

 「選挙」 が、 世界的な評価を受けました。

 今回は、 タブー視されてきた 精神病にカメラを向けました。

 岡山の片田舎の 精神科診療所の様子を、

 一切のナレーションや 説明などを排し、 ひたすらカメラに収めます。

 登場する人は全て 撮影を承諾してくれた人で、

 実名で モザイクもかけません。

 想田監督は 精神障害者と健常者との間にある、

 “カーテン” を 取り外したいと願うのです。

 モザイクは 相手のプライバシーを 守ると言いながら、

 実は 撮る人間の立場を 守っていると言います。

 クレームや訴訟を免れることで、 撮る方が楽になるというのです。

 しかし想田監督は、 それらのものも悉く引き受け、

 撮影が終わったあとも 患者さんたちと 一生の付き合いをしていく

 と言っています。

 そこまで覚悟を決めた 監督の姿勢には、 全く感服するばかりです。

 舞台は 診療所と言っても、 古ぼけた大きな民家。

 普通の和室が 診察室や受付、 薬局になっています。

 白衣やユニフォームを 着た人はおらず、 誰が何なのか分かりません。

 待合室は隣の棟で、 幾つかの畳の部屋に

 患者さんたちが 好き勝手にしています。

 机には ペットボトルや食べ物, 煙草などが散在し、

 ただの家に お客さんたちがたむろしている ようにしか見えません。

 ソファで寝ている人も、 よもやま話に 花を咲かせる人たちもいます。

 それらを見ていると、 障害者と健常者の 区別はつきません。

 誰もが 対等な人間です。

 患者さんの一人が 語っていたように、

 健常者にも 完璧な人間などいない、 誰しも欠陥を持っている、

 そこから自らも 偏見を取り除いていったといいます。

(次の記事に続く)
 
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「おくりびと」 (二度観)

2009年03月11日 23時42分43秒 | 映画
 
 今日、 新宿ピカデリーで 「おくりびと 」 を観てきました。

( メンバーズカードのポイントで。  (^^;) )

 僕は若いとき以降、 同じ映画を 劇場で2度観るのは 本当に久方ぶりです。

 平日の昼でしたが、 ほぼ満席でした。

 今回は 脚本の完璧さに唸りました。

 正にオスカーに値する シナリオです。

 様々な死のエピソードが、 テーマに合わせて 見事に構成されています。

 まず最初は、 目を背けたくなるような死で、

 この仕事の大変さを 見せつけられます。

 次に、 死を美しい旅立ちに変える 納棺師の貴重な技を 見せてくれます。

 一方、 妻たちの偏見や誤解, 死によるいざこざで、 主人公は先行き不安。

 その間に、 ユーモラスな死などを挿入し、

 死が自然なものとして 観る者の心に染み渡ります。

 突然の 共通の知り合いの 死によって、

 納棺師の 厳かさや優しさが伝わり、 誤解は解けていきます。

 そして、 父の死で 感動を誘うラストへ 向かうわけです。

 石文 (いしぶみ) などの小道具も 実に巧みに効いています。

 エピソードの 大波小波のリズムも秀逸。

 また、 いつも銭湯で 顔を合わせるおじさんの、

 職業が分かる瞬間も 絶妙です。

 1回目に観たときより 大分泣けました。

( 僕は以前は ドラマ性で感動していましたが、

 近頃はシーン (映像) を観ただけで 涙が出てくることがあります。

 音楽を聴いたり ダンス (舞踏) を観たときの 感動と共通します。 )

 人の死を送る映画が、 日本が世界に誇れる 作品の誕生となりました。
 
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「おくりびと」 (2) 〔再掲〕

2009年02月25日 08時16分45秒 | 映画
 
(前の記事からの続き)

 大悟は 妻の美香 (広末涼子) に 自分の仕事の内容を言えず、

 冠婚葬祭関係とごまかしていました。

 ところがある日、とうとう美香に 仕事のことがばれてしまい、

 美香は 「けがらわしい!」 と言って 実家に帰ってしまいます。

 友人からも 「まともな仕事に就け」 と言われ、

 内心反発しながらも、きちんと 言葉にできない大悟。

 人は誰でも 必ず死ぬ、死ぬことは 普通のことなんだ。

 納棺師は 悲しい別れを、優しい愛情で 満たす仕事なんだ……。

 美香は 妊娠したことが分かって 戻ってきますが、

 「自分の仕事を 子供に誇れる?」 という質問に、

 大悟はまだ 言葉に詰まってしまいます。

 しかし、知り合いの 銭湯のおばあちゃんが急死して、

 納棺式に立ち会った 美香は、厳粛な夫の仕事に 圧倒されるのでした。

 そして、生前おばあちゃんが 愛用していたスカーフを 首に巻いてあげる、

 夫の優しさに 心を打たれます。

 誰でもが 「おくりびと」 になるし、「おくられびと」 にもなるのです。

 でも 日常から死が遠ざかっている 現代人は、死を忌避してしまいがちです。

 映画は、旅立ちの静謐さを 改めて教えてくれます。

 それは本来、自然で穏やかに 迎え入れるべきものでしょう。

 故人の在りし日の 面影を取り戻し、送別のお手伝いをするのが 納棺師の勤めです。
 

 大悟の父親は、大悟が幼いときに 女を作って家を出て行き、

 大悟は父親の顔を 覚えていません。

 母親も2年前に 世を去りました。

 大悟は 父を憎んでいますが、そこへ突然、父の訃報が舞い込みます。

 父を引き取る気もない 大悟ですが、

 じわ~っと感動する クライマックスへと 話は進んでいくのです。

 大悟が奏でる チェロの音色、

 「石文 (いしぶみ) 」 と言われる、自分の気持ちを表した石を

 相手に渡すというエピソードも、映画のキーポイントになっています。

 監督は滝田洋二郎。

 「名作」 と呼ぶのに相応しい、

 ユーモアと感動に溢れた 日本映画が、新たに誕生しました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55208477.html
 
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「おくりびと」 (1) 〔再掲〕

2009年02月24日 09時16分13秒 | 映画
 
 米アカデミー賞外国語映画賞を  「おくりびと」 が受賞しました。

 昨年試写会を観て 深く感銘した僕は 大いに期待していました。

 日本映画として 本当に喜ばしいことですね。

 昨年のレビュー記事を 再掲します。

-------------------------------------

 納棺師 (のうかんし)。

 遺体を清めて 柩に納める仕事の 映画です。

 ちょっと辛気臭くて、敬遠されそうな職業のように 感じられてしまいます。

 しかし、親族の目の前で行なわれる 納棺の儀式は、

 静謐で、厳かで、死者に対する 敬意に満ちていました。

 故人の肌を 遺族に一切見せないように、遺体を清拭し、

 寝間着から白装束に着替えさせる 一連の手技は、一糸乱れぬ職人技です。

 生きていたときのように 死に化粧を施す指先は、

 何よりも亡き人への 愛情が溢れてます。

 遺族にも一人一人 清拭をしてもらいます。

 それが 旅立つ人と残される人の、最後の心の交流になるでしょう。

 合掌の仕方など、ひとつひとつの所作が 厳格に定められていますが、

 時には臨機応変に、個人的な心尽くしが 振る舞われます。

 ルーズソックスを履きたいと言っていた おばあちゃんのために、

 足袋の代わりに ルーズソックスを履かせたり、

 大往生のおじいちゃんの顔一杯に 娘たちがキスマークを付けて 送ったり。

 悲しみのなかに 微笑ましさが漂います。

 映画の舞台は田舎でしたが、東京では納棺式など あまり知られていないでしょう。

 納棺は、元々は親族が 行なっていたそうですが、葬儀屋が執り行うようになり、

 さらに納棺の業者が 下請けするようになったということです。
 

 主人公の大悟 (本木雅弘) は、「旅のお手伝い」 という求人広告を見て、

 旅行会社だと思い 面接に行きます。

 ところが、出てきた社長 (山崎努) は、「旅立ちのお手伝い」 の誤植だな

 と言って、大枚を差し出して 大悟を雇ってしまいました。

 大悟の初仕事は、孤独死した 老人の遺体。

 死後2週間経っていて、悲惨な現場は 大悟にとって余りにショッキングでした。

 でも大悟は、社長の納棺の儀式を目にして、

 次第に納棺師の仕事に 気持ちが傾いていきます。

 ある遺族は、死に化粧を施された妻が 「今までで一番きれいだった」 と言って、

 涙を流して 社長に頭を下げました。

 ときには 遺族の喧嘩に巻き込まれたり、

 女性だと思った故人が ニューハーフで “あれ” が付いていたり。

 悲喜こもごものエピソードを、映画はユーモラスに描いていきます。

(次の記事に続く)
 
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「誰も守ってくれない」 (2)

2009年01月22日 18時50分18秒 | 映画
 
(前の記事からの続き)

 自分は何もしていないのに、 次々と降りかかる 災難と悲劇、

 15才の沙織には とても受け止めることのできない 激動です。

 気丈な沙織ですが、 志田未来の涙の訴えは 峻烈に胸に迫り、

 涙を禁じ得ませんでした。

 特に後半では、 ネットの 偏執的な書き込みによる、

 プライバシーの暴露や 外野席からの糾弾を、

 荒々しい映像で 畳みかけていきます。

 自分たちは安全地帯にいて、 無謀な攻撃を広げる 傍若無人さは、

 人間の恐ろしい性 (さが) でしょう。

 ネットの被害は 僕も受けたことがあるので、

 その言いようのない脅威は 身に沁みて分かります。

 無責任に人を傷つける 匿名の誹謗も、 決して許されない 犯罪です。

 しかし、 人のプライバシーを知りたい,

 悪い奴を必要以上に 取っちめたいという気持ちは、

 誰の心にも あるものでしょう。

 そういう気持ちが、マスコミやネットの暴走を 招く要因になっていると思います。

 これは 日本で起きている現実です。

 我々自身も 戒めなければならない ことではないでしょうか。


 沙織は 自分の母親を助けられなかった 勝浦を憎み、

 決して 心を開きませんでしたが、

 身を挺して 沙織を守る 勝浦の姿に、 心が動かされていきます。

 そして 沙織もまた 兄を守ろうとしていたのでした。

 沙織が最後に見せる 勝浦への心情。

 口には出さず それを受け止める勝浦。

 印象深い ラストシーンでした。


 家族が罪を犯したばかりに、 いつまでも 激しく付きまとう 中傷や嫌がらせ。

 そのために 自殺してしまう家族もいます。

 しかし警察は それを公に認めず、 マスコミも取り上げてきませんでした。

 恐らくこれは人知れず 沢山起きている 悲劇でしょう。

 そこに着目し、 サスペンスフルな 人間ドラマに仕上げた、

 君塚良一の意欲と 手腕に敬服します。

〔* 映画が公開される 1月24日(土)、

 映画の 4ヶ月前のできごとを描く ドラマが放送されるそうです。

 フジテレビ 「誰も守れない」  午後9時~11時10分〕
 
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「誰も守ってくれない」 (1)

2009年01月21日 21時52分25秒 | 映画
 
 「犯罪者の家族を守る」 という、

 これまで 光が当てられなかったテーマを 描いた秀作です。

 脚本・ 監督は 「踊る大捜査線」 の君塚良一で、

 殺人犯の家族を マスコミや世間の攻撃から守る 刑事・勝浦を 佐藤浩市、

 犯人の妹・沙織を 志田未来が熱演しています。

 東野圭吾原作の 「手紙」 でも、

 犯罪者の家族が受ける 被害や苦悩を描いていましたが、

 本作品のほうが 事件直後の生々しい 緊迫感や迫真力があります。

 そして 現代ならではの、

 ネットの書き込みによる 実害の恐怖も描かれています。

 未成年の長男が 容疑者として逮捕されるやいなや、

 マスコミや野次馬の群れが 騒々しく自宅を取り囲み、 刑事が押しかけます。

 また 裁判所の人間がやって来て、 夫婦に離婚を迫ります。

 実名報道がされると 苗字から犯人の家族だと 分かってしまうので、

 それを防ぐため 夫が妻の籍に入って 苗字を変えるというのです。

 両親は訳も分からないまま、 差し出された書類に署名し、

 あっという間に 離婚・再婚が成立します。

 長男だけが籍から外れ、 その場で 沙織の就学義務免除の 手続きも取られ、

 中学生の彼女には 事態を呑み込むこともできません。

 マスコミの無遠慮な詰問や 執拗な追跡が、 幼い沙織に襲いかかります。

 3人は別々に 保護されることになり、

 勝浦は 沙織の警護を任され、 逃避行が始まるのです。

 そして勝浦自身も 家族の危機的な問題を抱え、

 過去に 心の深手を負っています。

 勝浦はかつて 助けられる被害者を殺してしまった、

 それなのに今度は、 反対の立場の 犯人の家族を保護している。

 マスコミは それを無情に追及し、

 加害者の家族など 守る必要はないと 責めたてます。

 勝浦は 自分の過去とも 闘わなければなりませんでした。

 加害者, 被害者, それぞれの家族, 刑事、

 それぞれの立場の苦悩や、 癒されない傷が交錯します。

 どの立場の人間にも、どうしようもない痛みがあるのです。

 それを理解できない 人間たちが、 偽物の “正義感” を振りかざし、

 不心得な好奇心で 傷ついた人の心を 無惨に踏みにじります。

 あくどい新聞記者, 不謹慎で残酷な大衆, 信じていた人間の 裏切りなどが、

 彼らをさらに 窮地に追い込んでいくのです。

(次の記事に続く)
 
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「ブタがいた教室」 (2)

2008年10月23日 21時13分25秒 | 映画
 
(前の記事からの続き)

 皆で育てたPちゃんは、 ペットであり、 友だちです。

 最初は 「臭い」 と言っていた子供も、 Pちゃんの糞尿の始末はもちろん、

 嵐の日には誰ともなく 豚小屋に集まってきて、 Pちゃんを風雨から守りました。

 一緒にサッカーをしたり 楽しい想い出を重ね、

 トラブルも皆で 乗り越えてきたのです。

 “情が移る” というのは 全く自然な感情で、

 家族同然になったPちゃんを、 まさか 食べることなんてできるのか?

 卒業を控えて子供たちは、 初めの約束通り Pちゃんを食べるのか、

 大論争が引き起こされます。

 初めは 「食べない」 が多かったものの、

 意見は 真っ二つに分かれていきます。

 後輩のクラスに Pちゃんの世話を引き継いでもらう という案も有力になり、

 子供たちは自ら働きかけ その準備もします。

 でも 引き継ぐ名乗りを上げたのは 3年生で、

 今や すっかり大きくなったPちゃんを

 小さい子たちが世話するのは 危険が伴います。


 この映画では、 子供たちに渡された台本は  「白紙」 だったそうです。

 彼らは 自分自身の頭と心で考え、 Pちゃんをどうするか、

 自分の言葉で 本気の議論を交わしていくのです。

 「かわいいPちゃんを食べるなんて 信じられない」

 「他のブタならいいのかよ」

 「Pちゃんとは 想い出が一杯できた。 これからも 生きていってほしい」

 「ブタは食べられるために 生まれてきたんだ」

 「食べるのは 殺すってことよ」

 「殺すんじゃなくて、 命を引き継ぐっていうことだよ」

 「Pちゃんに 最後まで生きてもらうのが 私たちの責任でしょ」

 「3年生が ちゃんと世話できるように 教えていく」

 「自分たちに解決できないから 問題を先のばしにするのは、 責任じゃない」

 「もし 最後に食べてしまうとしたら、 自分たちで最後にするのが 責任だと思う」

 どれもこれも 正しい意見であり、 聞き流せることは ひとつもありません。

 子供たちは 全員が涙を流しながら、 時には 取っ組み合いのけんかもし、

 必死で 思いを述べていきます。

 白熱の議論のシーンは 必見に値します。

 妻夫木聡も演技というより、素でやっているようにも 見えました。

 果たして クラスが出した答は……?

 正しいひとつの答はなく、 これだけ懸命に、 皆で真剣に 取り組んだ体験は、

 それこそが子供たちの 一生の宝になるでしょう。

 何にも替えがたい、 この上なく貴重な  「命の授業」 だと思います。
 
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「ブタがいた教室」 (1)

2008年10月22日 21時50分41秒 | 映画
 
 1990年、 大阪の小学校であった 実話です。

 新米教師の星先生 (妻夫木聡) は、 命の大切さを学ぶ 実践教育として、

 クラスで豚を飼って 皆で育て、 最後に 自分たちで食べるという、

 驚くべき授業を始めました。

 食育や 教育のあり方が問われる はるか前のできごとです。

 言葉で教わるだけではなく、実際に 自分の体で体験して、

 命の重さを実感してもらいたい というものです。

 子豚は Pちゃんと名付けられ、

 子供たちは 力を合わせて小屋を作り、Pちゃんの世話を していきました。

 この実話は1993年、 ドキュメンタリーとして テレビ放送され、

 ギャラクシー賞や 内閣総理大臣賞を受賞して 大反響を呼んだそうです。

 残酷だ、 そんなのは教育じゃない という批判が飛び交うなか、

 教師の情熱と 子供たちの一生懸命な姿に 感銘し、 支持する人たちもいました。

 僕は この番組は見ませんでしたが、

 ニュースか何かで見て、 本当に心が 動かされました。

 自分だったら 食べるのか、 食べないのか、 あまりに難しい問題です。

 「人間が食べるもので、 水と塩 (生命の母たる海) 以外に

 生き物でないものはない。」

(化学調味料なんてのは ありますけど。)

 これは僕の “持論” ですが  (^^;)、

 生きるということは、 他の命をいただいて 生かせてもらうということです。

 昔は 家畜を裂く光景を、子供たちも日常で 見ながら育ってきたのです。

 現代は “残酷な” 場面は 日常から切り離され、

 スーパーでパックされた 肉しか見られません。

 出演者の子供たちの半数は、 豚肉がどこから来るのか 知らなかったといいます。

 グルメが隆盛を極め、 我々はおいしい料理を 満喫します。

 きれいなところだけを 見て味わい、

 “” という言葉は 差別用語にもなっています。

 昔は このような他の 「命」 をいただいているという 実感があったからこそ、

 食事の時に 心から感謝の気持ちが 生まれたのでしょう。

 今は 「いただきます」 も言えない 子供が増えているとか。

(次の記事に続く)
 
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「宮廷画家ゴヤは見た」

2008年10月21日 21時42分29秒 | 映画
 
 タイトルは 「家政婦は見た」 みたいですが、 さにあらず。

 「アマデウス」 のミロス・フォアマン監督が、

 18~19世紀のスペインの 波瀾を描いた秀作です。

 ゴヤは宮廷画家として 王たちの肖像画を描く一方、貧しい庶民の姿を 描き続け、

 権力の腐敗を鋭く風刺する 版画などを創っていました。

 ゴヤにとって絵画は、 社会や人間の真実を伝える 武器でもありました。

 この映画では、 きのうの記事にも書いた ナタリー・ポートマンが、

 過酷な汚れ役を 力演しています。

 裕福な商人の娘として 天使のような輝きを放ち、

 画家としての ゴヤの目を射止めた イネスの役ですが、

 教会の異端尋問にかけられ、 無実の罪で 囚われの身になってしまうのです。

 全裸で拷問を受け、15年の牢獄生活で 精神も病んでしまいます。

 全身皮膚病のようになって、 顎もゆがみ、 老婆のような風貌で、

 「スターウォーズ」 アミダラ姫の 面影はありません。

 イネスは獄中で 身ごもらされます。

 しかし 産まれた娘は すぐ孤児院に移され、

 その後 逃げ出して 娼婦になりますが、

 ポートマンは一人二役で この娘も演じています。

 天晴れな女優魂を 見せられた思いです。

 イネスを妊娠させた ロレンソ神父は、

 「ノーカントリー」 で 不気味な殺人鬼役で アカデミー賞を獲得した

 ハビエル・バルデム。

 威厳の下に 邪心を隠し持つ 宗教者を好演しています。

 スペインは フランス革命の影響や ナポレオンの侵攻を受けて、

 権力者が二転三転します。

 そのたびに 裁く人間と 裁かれる人間が 一挙に逆転する構造は、

 実に残酷なものです。

 自由と平和の名の下に、 庶民を強奪し犯す 軍隊や権力者たち。

 ゴヤは それらを克明に 書き留めていきます。

 デフォルメによって 物事の本質を表現する ゴヤの絵画は、

 美術史の革命である 印象派の先駆けであったのでしょう。

 フォアマンは ゴヤの目を借りて、現代にも通じる 社会問題を写し取りました。
 
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「ブーリン家の姉妹」

2008年10月20日 21時46分59秒 | 映画
 
 16世紀のイングランド、 ヘンリー8世には 王妃との間に男児ができず、

 世継ぎをもうけることが 最大の関心事になっていました。

 新興貴族ブーリン家の長女・ アン (ナタリー・ポートマン) が、

 王の側室に 差し出されます。

 しかし ヘンリー8世が見そめたのは、

 アンの妹のメアリー (スカーレット・ヨハンソン)。

 アンは妹に 結婚も側室という立場も取られ、 嫉妬と復讐心に 駆られます。

 そして 凄まじい策略で、 アンは 王の寵愛を奪い、

 さらに 王妃までをも追放して、 自分がその座に 座るのです。

 ナタリー・ポートマンは、

 「スターウォーズ」 アミダラ姫の 清楚で凛とした 役柄から、

 打って変わって 我の強いアンの 役どころです。

 意志が強く 才気あふれながらも、 狡猾で非情、

 目的のためなら 妹を裏切り、 悲境におとしめることを 何とも思わない。

 国家の存続よりも 自分の野心を 選ぶ女性を、 壮烈に演じています。

 一方メアリーは 純真で心優しく、 ヘンリー8世を愛していましたが、

 本当は 田舎の穏やかな生活を 望む女性でした。

 これまで 歴史に顔を出したことは ありませんでしたが、

 映画は歴史というより、 女性たちの生きざまを 描いています。

 アンは 女の子を一人 産みますが、

 その後は 身ごもった子を 流産してしまいます。

 それを王に知られたら 愛を失ってしまうと 恐れおののき、

 取り乱したアンは、 流れた子の代わりに 実弟との間で 子供を妊娠しようと……。

 恐ろしい……。

 最後の一歩で 踏みとどまったものの、 アンは 不貞と近親相姦の罪で 極刑に。

 そのときメアリーは 自分の身の危険も省みず、 アンの助命を 嘆願したのでした。

 対照的な二人の姉妹。

 メアリーは 歴史の表舞台には 残らなかったとはいえ、

 最後は望み通り、 田園での平和な家族生活を 手に入れたのです。

 何が勝ち組、 負け組と言えるでしょう? 

 世継ぎを巡って 骨肉の争いが繰り広げられ、

 多くの悲劇が 生じてしまいましたが、結局 男児は誕生しませんでした。

 ところが、 ヘンリー8世の跡を継いだのは アンの一人娘、

 のちのエリザベス1世。

 その後 45年間にわたり、

 「ゴールデンエイジ」 と呼ばれた 国家統治に君臨するのです。

 壮観な歴史の皮肉を 見せつけられた気がしました。

 それにしても 英国王室のスキャンダルは、

 何百年も前からの  “伝統” だったのでしょうか。
 
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「ICHI」

2008年10月19日 21時44分03秒 | 映画
 
 あの座頭市を、なんと 綾瀬はるかが演じるという 異色作です。

 市は、盲目の三味線引きの 旅芸人・ 瞽女 (ごぜ) という設定です。

 瞽女一座から破門され、離れ瞽女となった 天涯孤独の市。

 人との関わりを断って 心を閉ざし、人を探して さすらっています。

(盲目の 居合斬りの達人という その男は、 市の父親なのか? )

 「なに斬るか 分かんないよ、 見えないんだからさ」

 そんなキャッチコピー、

 仕込み杖の逆手一文字で 男たちを斬り捨てる 綾瀬はるかは、 滅法かっこいい。

 リサ・ジェラルドの 切々たる音楽で展開する、

 市の悲運な過去の 回想シーンは、 「砂の器」 を思わせ 涙腺を刺激します。

 従来の 男の座頭市には 見られなかった、市の悲しい内面が 描かれています。

 愛されたことがなく、愛することも知らずに 生きてきた市。

 彼女のセリフには、まるで ボーダーの人を象徴するような 言葉がありました。

「 目の見えない人間には、 境目が分からない。

 今が昼なのか、夜なのか。

 いま歩いている 道の境目が いつなくなるのか。

 いい人と悪い人の 境目なんて、 どこにある? 

 生きてるのか 死んでるのかさえ、 私には はっきり見えない……!

 ………別に、生きていたいとも 思いませんけどね……」

 何故 この作品に 「境目」 という 言葉が使われたのか、

 不思議で 因縁を感じます。

 これは 綾瀬はるか自身も、最も印象に残っている セリフだそうです。

 そんな市が 旅の途中で出会った、

 刀を抜けない剣士・ 藤平十馬 (大沢たかお) や、 その他の男たち。

 彼らと関わり、賊党と渡り合うなかから、

 市は次第に 人との触れ合いを求めていきます。

「 境目が、見えてきた気がする……」

 そう言って市は、心のぬくもりを 取り戻していくのでした。

 監督は 「ピンポン」 の曽利文彦、

 脚本は ドラマ 「ラストフレンズ」 の浅野妙子です。
 
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「12人の怒れる男」

2008年09月03日 22時46分19秒 | 映画
 
 法廷劇の不朽の名作 「十二人の怒れる男」

 (1957年.シドニー・ルメット監督)を、

 ロシアの名匠 ニキータ・ミハルコフ監督がリメイクしました。

 話の骨格は そのまま踏襲しながら、

 舞台を 現代のロシアに変え、ロシアが抱える 様々な社会問題も糾弾していきます。

 チェチェンの少年が、養父であるロシア人将校を 殺害したという事件で、

 明らかに有罪と 思われていますが、少年は否認しています。

 評議に入った陪審員たちは、議論の必要もないと 早々に切り上げようとしますが、

 一人の陪審員が おずおずと、少年の一生がかかっているのだから

 話し合いだけでもしようと 異論を挟むところから、話は展開していきます。

 有罪無罪は 全員一致でなければならず、

 有罪に対して 少しでも 「合理的な疑い」 があれば、無罪にしなければなりません。

 またロシアでは 死刑が廃止され、

 最高刑が終身刑であることも、最後のどんでん返しに 繋がっていきます。

 オリジナル版は 子供のとき テレビで見た覚えがあります。

 評議室だけの密室劇だったと 記憶していますが、

 リメイク版は 少年の痛ましい生い立ちや 拘置所の少年の姿などを、

 カットバックで挿入します。

 評議室は改築中のため、臨時に学校の体育館で 評議が行なわれ、

 それも作品に 膨らみを与えています。

 各陪審員の体験談が語られ、他の陪審員の 心を動かして、

 一人 また一人と、有罪から無罪へと 転じていくのです。

 感情論や一般論が 目立って、事件の個別の 検証が少ないのが 歯がゆいのですが、

 それでも 画面は緊迫感に満ち、卓抜した演出に 引き込まれました。

 有罪に 「合理的な疑い」 があれば、無罪を証明する 必要はありません。

 少年は放免されて、捜査がやり直されるのです。

 映画は 綿密な真相解明よりも、現代ロシアの諸問題

 --チェチェン紛争,人種差別,公共事業の杜撰さ,権力の腐敗など--

 を訴えているようです。

 俳優でもある ニキータ・ミハルコフ監督が 陪審員の進行役になり、

 最後の一番おいしいところを 持っていっちゃってますが、

 法の厳粛さを超えた 人間の慈愛を描いています。

 
 日本でも来年 裁判員制度が始まりますが、

 人を裁く場に立つことの 参考になるかもしれません。

(関連記事: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54174871.html )

 ところで 「十二人の怒れる男」 の日本版には、

 1991年の 「12人の優しい日本人」 (中原俊監督) があります。

 日本に陪審員制度があったら という仮定の話ですが、

 いかにも 日本人ならこうなるだろうという 傑作でした。

 ユーモアたっぷりの映画ですが、脚本は 三谷幸喜が書いていました。

 この頃から 才気を発揮していたんですね。
 
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「ダークナイト」

2008年08月23日 21時20分07秒 | 映画
 
 「バットマン」 シリーズ最新作です。

 「Dark Night」 かと思ったら、

 「Dark Knight」 (暗黒の騎士) でした。

 アクションとCGも 見応え充分で、一筋縄ではいかない ストーリー運びです。

 ただ 無類の正義漢である 検事のデントが、

 ジョーカーの手にかかって 悪に転落してしまうのは、

 心理的にも物理的にも 無理がありましたが。

 バットマンの葛藤も描かれて、アクション映画としては 上出来だったと思います。

 特筆すべきは 何といっても、

 異彩を放っている ジョーカー (ヒース・レジャー) の存在です。

 バットマン (クリスチャン・ベール) も 決して真昼のヒーローではなく、

 闇のにおいを漂わせていますが、ジョーカーは出色です。

 前作のジョーカーを演じた ジャック・ニコルソンは、

 陽気な異常者 という面持ちでしたが、

 ヒース・レジャーのジョーカーは、

 どこか陰があり、偏執的で、ユーモラスでもある モンスターを体現していました。

 メイクは相当崩れ、活舌もおかしく、

 ヒース・レジャーの役作りは 周到に練り込まれたものだろうと 想像されます。

 役者魂に脱帽です。

 そして、この映画の撮影後、ヒースが急死したというのは、

 何とも ショッキングなできごとです。

 死因は公表されていませんが、睡眠薬の多量摂取か とも言われています。

 非常に繊細な 青年だったといいますが、

 享年28才という あまりに惜しい 才能の損失でした。

 同性愛者の “純愛” を描いた 「ブロークンバック・マウンテン」

(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34019511.html#34019511) でも、

 心を揺さぶる 演技を見せたのが とても印象的です。
 
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「ハンコック」

2008年08月22日 21時14分02秒 | 映画
 
 スーパーマン並の 超絶的なパワーを持ち、

 ロサンジェルスの犯罪を 解決するハンコック (ウィル・スミス)。

 ところが彼は ロス中の嫌われ者で、クズ呼ばわりされています。

 犯罪者を捕まえる時、必要以上に ビルや道路などをぶっ壊し、

 交通事故を巻き起こしても お構いなし。

 いつも飲んだくれて、暴言を吐いては ひんしゅくを買っているのです。

 アンチヒーローどころか、全く “新しい” タイプの スーパーマンです。

 肉体は超人でも、脳細胞は人並み以下 ということなのですね。

(だから 記憶喪失にもなるのかと、妙に納得してしまいました。)

 PR会社のレイは ハンコックに命を救われて、

 ハンコックが人々から好かれるように イメージチェンジを図ります。

 初めは渋っている ハンコックですが、次第に 言動をわきまえていきます。

 このまま 良いヒーローになってしまったら 話にならない、と思っていると、

 レイの妻メアリー (シャーリーズ・セロン) の 秘密が明らかになる所から、

 ストーリーは二転三転し、予想もできない 展開になっていきます。

(前半と後半が 別の話になってしまっている、という印象はありますが。)

 ラストには 感動をそそるシーンも 用意されています。

 今までになかった アクション娯楽作品で楽しめました。
 
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「シティ・オブ・ゴッド」, 「シティ・オブ・メン」

2008年08月21日 23時50分00秒 | 映画
 
 1960年代、国際的な観光地である リオデジャネイロ。

 高級ホテルが立ち並ぶ 美しい海岸から わずか数百メートルの丘には、

 ファヴェーラと呼ばれる 貧民街があります。

 ギャングが横行し、ブラジル人であっても 近づかず、

 隔絶された 裏社会になっています。

 しかし ブラジル人特有の活発さと、サンバのリズムに乗った スラム街は、

 世界一陽気な地獄 と言われるのです。

 登場するのは 少年や青年たち。

 文字も読めない彼らが 強盗を働き、銃を乱射し、麻薬を売買し、

 抗争が繰り広げられます。

 快活な笑顔と 容赦ない残酷さ、そのギャップに 付いていけないほどでした。

 「シティ・オブ・ゴッド」 は、2002年の フェルナンド・メイレレス監督作品。

 衝撃的なバイオレンスで、カンヌを震撼させたといいます。

 鮮烈な映像と 絶妙なリズム,緻密な構成,ユーモアを交えた語り口で、

 観る者を引き付けてくれます。

 メイレレスの手腕は、2005年の 「ナイロビの蜂」 へと 結実していきます。

(「ナイロビの蜂」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/35889275.html )

 「シティ・オブ・メン」 は2007年、メイレレスが制作に回り、

 監督は メイレレスのパートナーである パウロ・モレッリが務めました。

 同じくファヴェーラを舞台した 全く別の話ですが、

 「シティ・オブ・ゴッド」 の 暴力的描写に加えて、

 友情や親子の情を テーマに描いています。

 ブラジルの知られざる一面を 見せてくれた、刺激的な映画でした。

 でも 黒人のスラム街を 舞台にした作品では、

 2006年 アカデミー賞 外国語映画賞を受賞した

 南アフリカの 「ツォツィ」 (ギャヴィン・フッド監督・脚本) のほうが、

 僕は 遥かに感動的でした。

(「ツォツィ」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46674911.html)

 暴力の中で 育てられた子供は、暴力しか 生きる方法を知らず、

 人の愛情を知ったとき、初めて自分も 愛することができる。

 そのテーマが ボーダーにも通じ、特に僕には 響くものがあるのですね。
 
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