(前の記事からの続き)
僕もクリストフと同じように 苦しみの中から あるとき突然、
いかずちに打たれたように 凄まじいインスピレーションが 降りてきました。
苦しんでいるのは 自分だけではない、
自分は 全ての魂と繋がっていると 体得したのです。
「 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、
僕のできなかったことを やっていってくれる。
僕は魂によって 彼らと繋がっている。
自分は一人ではないのだ。 」
それは啓示であり、 宗教体験と 言っていいものでした。
思想や理論ではなく、 明確なイメージで 感知することができたのです。
手塚治虫さんの 「火の鳥」 の コスモゾーンのようなものかもしれません。
本当は 決まった形などないのでしょう。
ただ人間は イメージがないと理解できないため、
自分に捉えられる形で 認識するのだと思います。
「 あらゆる魂は ひとつに繋がっている。
全ての命は ひとつのものである。 」
( 「ジャン・クリストフ」 )
「 悲しみも その極度に達すれば、 救済に到達する。
人の魂を 挫き悩まし 根底から破壊するものは、
凡庸なる 悲しみや喜びである。 」
「 よしや我、 神の御手に 殺さるるとも、
我はなお、 神に希みを かけざるを得ざるなり。 」
この一節の 「神」 を、 僕は 「人生」 に置き換えました。
「 もし僕が 人生に殺されたとしても、 それでもなお、
僕は人生に 希みをかけずにはいられない。 」
「 人生はいつかまた 僕を裏切るだろう。
しかし、 僕こそはもはや 人生を裏切ってはならないのだ。 」
「 幸福なときにではなく、 最も苦しいときに、
それを感じ取ることができた。
感じ取れるものが 自分の中にあった。
自分はもう 生涯幸せになることはできないだろうと 苛まれていたなかから、
(正にそのとき) 絶望ではなく希望が、 憎しみではなく愛が、
自らのうちに甦ってきた。
この底知れない希望は、 果たして何なのだろうか?
一体どこから やって来たものなのだろうか?
これはもはや 『あるもの』 から 自分のうちに与えられたのだ、
としか、 僕には思えない。
与えてくれたもの、 信じさせてくれたものの 存在を、
僕は 渇仰しないわけにはいかない。 」
(次の記事に続く)