「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

把握できない 自閉症の人たち

2011年04月29日 20時44分43秒 | 東日本大震災
 
(前の記事からの続き)

 大船渡市のMさん (45才) は、 重い自閉症の息子 Yさん (19才) と、

 小さいころから 地元スーパーに通っていました。

 大きい建物に入るのを恐れる Yさんの訓練のためです。

 そのスーパーが 今回の津波で流されてしまいました。

 スーパーに通い始めた当初、 Yさんは店内でパニックになったり、

 他の買い物客を 突き飛ばしたりしたことがありました。

 でも 毎日通ううち、

 店員から  「元気?」 「今日は何買う?」 と 声がかかるようになりました。

 そんな姿を見て、 お客たちの間にも 理解が広まっていきました。

 「理解してもらおうと 10年以上必死に訴えた。

 そうした場も、 やっと根付いた地域も 失ってしまった」

 Mさんは涙ぐみます。

 避難所生活をする今は、 気苦労が絶えません。

 体育館を 「体を動かして遊ぶ所」 と 覚えていたYさんは、

 室内で飛び跳ね、 避難者の男性から注意されました。

 なぜ怒られたのか理解できず パニックになったYさんに、

 Mさんは毛布をかぶせて 押さえ込み、 頭を下げ続けました。

 Yさんはそれから数日間、 毛布をかぶって 出てこなかったといいます。

 Yさんから目を離せない Mさんは、

 炊き出しや掃除などの 輪番に参加することができません。

 迷惑はかけるのに、 手伝いはできない……。

 しかし、 避難所で見える家族は 一部だけです。

 行政に把握すらされない所に いる人も多く、 支援が届きません。

 こうした家族は、 極力 避難所を避けるからです。

 障害者や高齢者など、 必要な支援の種類に応じた 避難所を作るべきだと言われます。

 似た境遇の人同士なら、 避難所に入るためらいや 気苦労も減るでしょう。

 専門家の数も限られているので、 点在する避難所を回るより 効率的に支援できます。

 復興には こうした所へも 目を向けてほしいものです。

〔 朝日新聞より 〕
 
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自閉症の子  おいでよ

2011年04月28日 20時15分10秒 | 東日本大震災
 
 以前、 自閉症児が 被災地で被っている 困難を書いた、

 朝日新聞の記事を紹介しました。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61689939.html

 環境の変化が苦手で、

 大声を出したり パニックを起こしてしまう 自閉症のAくん (10才)。

 母親の0さんは、 周りの人に 迷惑をかけることを恐れて 避難所へ行けず、

 Aくんたちと車の中で 1週間過ごしました。

 「この先どうなるのか …… 長い時間でした」

 そんな0さんに 部屋を提供したいという 支援の声が、

 全国から朝日新聞に 多数寄せられたそうです。

 問題の深刻さを 理解してこそのことです。

 その中の一人、 松山市のNさんは、 8才の息子が自閉症です。

 「人ごととは思えなかった」

 自分が 避難生活を送ることを想像してみると、

 叱ることがよくないと 分かっているNさんでさえ、

 周囲を気にして、 きっと子供を叱ってしまうと 思いました。

 普段叱らない母親が 怒るのを見て、 さらにパニックになる 息子が目に浮かびます。

 新聞記事をきっかけに、 0さんと 手紙のやり取りを始めました。

 手紙には Aくんの字で、  「ありがとう」 と添えられていました。

 東京のSさんも 持ち家の提供を申し出ました。

 自閉症の娘 (29才) は、 人ごみで 過度なストレスを感じます。

 散歩は朝に限っていますが、 それでも 「うるさい」 と注意されます。

 「外見は人と変わらないので、 理解を得にくい。

 誰もが余裕をなくす 災害時はなおさらです」

(次の記事に続く)

〔 朝日新聞より 〕
 
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被災者の心

2011年04月25日 20時33分44秒 | 東日本大震災
 
 被災から一ヶ月半余り、

 避難所では 大人たちも怒りっぽくなったり、 不眠を訴える人が 多くなっています。

 子供は 急に甘えたり、 多弁になったりします。

 「地震ごっこ」 も、 言葉で表せない 内面の表現として 有名になりました。

 これらは、 異常な出来事に対する、 人間の正常な反応です。

 周りの人が それを理解して、  「大丈夫ですよ」 と 伝えることが大切です。

 被災者が 自然に力を回復するのを 見守り、

 「つながっている」 という 感覚を持ってもらうのです。

 うつ病やPTSD (心的外傷後ストレス障害) が 慢性化する心配もあります。

 どのように防ぎ、 どのように対処するかが 問われます。

 医師や臨床心理士など 心の専門家を増やし、

 彼らの連携による  「心のケア体勢」 を 地域に築くことが必要です。

 津波では、 人を助けようとして 犠牲になった例も少なくありません。

 喪失感に加え、

 自分だけ生き残ってしまった という罪悪感が、 人々の心を苦しめます。

 「津波てんでんこ」 という 三陸地方の言葉も、 よく知られるようになりました。

 「津波のときは 人に構わず てんでばらばらに逃げろ」 という意味です。

 この言葉によって 教訓を伝えると同時に、

 自責の念を和らげる メッセージにできないでしょうか。

 被災地が 力を取り戻し、 再建する長い過程を、 社会全体が後押しする。

 そのことが  「心の復興」 にもつながるでしょう。

〔 朝日新聞より 〕
 
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原発作業員の 劣悪な生活環境

2011年04月20日 20時50分47秒 | 東日本大震災
 
 福島第一原発で 復旧作業に奮戦している、

 東電や関連企業の関係者たちは、 劣悪な生活環境にさらされています。

 第二原発 (第一原発から約10キロ) の体育館では、

 二百数十人の作業員が 防護服を着たまま雑魚寝するなど、 過酷な状況です。

 冷たく固い床に アルミの断熱シートを敷いて、 毛布にくるまっています。

 汚染事故に巻き込まれないかと、 不眠を訴える人もいます。

 作業では 防護服に身を包み、 さらに全面マスクをして、 大変高温多湿です。

 しかし きれいな水がないため、

 作業から戻って来ても 手を洗うことすらできません。

 風呂にも入れず、 シャワーもなく、

 早急に 簡易の風呂を設けるべきだと 求められています。

 衛生面だけでなく、 精神的なリフレッシュも重要で、

 それがないと ヒューマンエラーに繋がってしまいます。

 食事は、 冷たいレトルト食品と 缶詰だけだった時より 少しは良くなり、

 1日3食で パンやソーセージ、 ゼリー飲料を 口にできるようになりました。

 また、 温かいみそ汁を 飲めるときもあるそうですが、

 一番不足しているのは 生野菜です。

 低い栄養価で、 精神的なダメージも受けており、

 作業員は皆 1回2回は倒れているといいます。

 作業員の8割は被災者であり、

 自身が家族を亡くしたり、 困難な状況を抱えているのです。

 にもかかわらず 復旧作業に従事し、 二重三重のストレスを感じています。

 作業員の人たちは、 自分の会社が 日本や世界に迷惑をかけてしまったという、

 加害者意識に駆られているのです。

 今はやるしかないと、 気を張りつめていますが、 長期のケアが必要です。

 現場は一生懸命やっているのに、 本店からの要求は、

 現場からすれば  「そんなのすぐには無理だ」 というものが、

 次々とやって来ます。

 できることとできないことがあるという、 現場の声を理解するべきです。

 東電の幹部はなぜ、 現場に 風呂や温かいご飯などを 配給しないのでしょう。

 それはやりようで いくらでもできるはずなのに、 一体 何を渋っているのか? 

 作業員は 自分には何の責任もないのに、

 文字通り命がけで 日本を守ってくれる救世主です。

 その人たちが このように無惨な条件の下で、 放射線に身をさらし、

 今も 懸命の作業を続けているのです。

〔 フジテレビ 「とくダネ!」, TBS 「ひるおび」 より 〕
 
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発達障害児の混乱

2011年04月19日 21時17分35秒 | 東日本大震災
 
 余震にパニックを起こしたり、 知らない人たちの中で じっとしていられなかったり、

 自閉症児や発達障害の子は、 環境の変化に混乱してしまいます。

 被災地以外の子にも ストレスが強まっていますが、 どう接したら良いのでしょう。

 それは発達障害児だけでなく、 不安になりがちな子供にも 参考になるものです。

 ある母親は、 5才の子供が地震の後、 一人で2階へ行けなくなった と訴えました。

 担当の精神科医は答えます。

 「地震で安心感が失われてしまった。

 落ち着くまで 一緒に行って、

 『お母さんがいるから大丈夫』 と、 何度でも伝えてください」

 この子は 遠足や運動会など 行事のたびに泣きっぱなしで、

 母親は  「なんで泣いちゃうの」 と問い詰めていました。

 ドクターから、  「この子の特徴」 と教わり、

 「泣いてもいい。 長い目で見よう」 と 思えるようになりました。

 自閉症, アスペルガー症候群, 注意欠陥・多動性障害 (ADHD) など

 発達障害の子は、 予期せぬ出来事への 不安や混乱が大きい 特性を持っています。

 しかし被災時でも、 接し方ひとつで ぐっと落ち着くことを 知るのが大切です。

1. 叱るのは逆効果。 怒らない。

2. 注意は  「~してはいけない」 と 否定的に言うのではなく、

  「こうしたらいいよ」 と 肯定的に伝える。

3. 先のイメージが はっきりすると安心する。

  絵や文字を使うと 伝わりやすい。

  言葉は短く、 一度に一つのことを 具体的に。

 カレンダーに絵を描いて 前もって予定を伝え、

 一日の流れも  「6時にお風呂に入るよ」 など 具体的に伝えるのがいいでしょう。

 親が変わることで 子供も変わるのです。

〔 朝日新聞より 〕
 
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福祉避難所  高齢者を守る

2011年04月18日 22時28分03秒 | 東日本大震災
 
 避難所には 介護が必要な高齢者も 大勢暮らしています。

 高齢者にとって 長引く避難所生活は 命に直結する問題です。

 「福祉避難所」 が その解決策のひとつとされています。

 福祉避難所とは、 災害時に、

 介護の必要な 高齢者や障害者を 一時受け入れて ケアする施設です。

 バリアフリー化され、 専門スタッフを配置した 介護施設や学校を、

 自治体が指定します。

 民間施設の場合は、 事前に協定を結んでおきます。

 石巻の中学の体育館は、 医師や看護師約20人が 24時間対応する避難所です。

 Yさん (82才・女性) は 認知症を患い、 足も不自由で 要介護度5ですが、

 ここに来て やっと落ち着きました。

 Yさんは最初は 別の中学に避難しましたが、 ストレスが高じて 症状が悪化。

 毎晩、 「火事だ、 逃げろ~」 と 声を上げ、 別の避難者から 苦情が出ました。

 そこで、 石巻に急遽開かれた 福祉避難所にやって来たのです。

 肺炎, 脱水, 床ずれが原因の感染症。

 体力の弱った高齢者は、 ケアを怠れば 死に至ります。

 この福祉避難所では、 1日2回のスタッフ会議で、

 気になる人について 情報を共有し、 ホワイトボードに書き込みます。

 Yさんはここに 1週間ほど滞在して、 地元の特別養護老人ホームに 戻りました。

 しかし 福祉避難所を指定している自治体は、 全国平均で34%。

 岩手, 宮城, 福島では 23%にとどまっています。

 どこも満杯の状態で、 待機者も出ています。

 そもそも 福祉避難所に辿り着けず、

 一般の避難所に残っている 要介護高齢者も多いと見られます。

 福祉避難所は あくまで一時的なものです。

 その後は 施設に戻ったり、 仮設住宅に移ったりすることが 想定されています。

 避難所を出たあとの 受け皿が大きな課題です。

 被災地以外での受け入れを、 広域でカバーすることが求められます。

〔 朝日新聞より 〕
 
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お年寄りを助け出した 高校生たち

2011年04月17日 21時42分57秒 | 東日本大震災
 
 津波にのまれた老人ホームから、 お年寄りたちを助けた 若者たちがいます。

 地元の高校の サッカー部員や野球部員です。

 日頃のランニングコースとして 馴染んでいる施設でした。

 部活中に地震に見舞われ、 高台の校舎から、

 町や施設が 津波にのまれる様子を 目の当たりにしました。

 「助けさ行くぞー!」

 第一波が老人ホームを襲うとき、 誰からともなく声が上がりました。

 両部員30人が 施設へと駆け下りました。

 膝まで波に洗われながら、 がれきをかき分けます。

 血を流している人、 息もできず青白くなっている人。

 28人を 校舎まで担ぎ上げました。

 夜は 寒さとの闘いでした。

 練習着や靴下をかき集め、 カーテンを引きちぎって お年寄りにかけました。

 懸命に体をさすりましたが、 朝までに 8人が息を引き取りました。

 「あと一人でも多く 助けたかった」

 1年生の部員は悔やみます。

 翌日からは 山を超えて、 水や米を探しました。

 避難してくる人は 500人に膨れ上がり、

 怪我人の治療や トイレの穴堀りも手分けしました。

 -- それから1ヶ月。

 今は 避難所の子供たちの 世話をしています。

 親が 炊き出しやがれき撤去で 忙しい間、

 子供たちに サッカー教室を始めているのです。

 サッカーをする前は ストレスで、 ケンカしたり叫んだりしていた子供たちが、

 今は毎日汗だくです。

 サッカー部員のH君は、 家や友だちを失いましたが、

 子供たちとの触れ合いの中で 見つけたものがあります。

 「先生になりたい」

 ふるさとを支えたいと思っています。

〔 朝日新聞より 〕
 
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2階難民

2011年04月14日 21時01分02秒 | 東日本大震災
 
 自宅の1階が被災し、 2階に避難している人たちに、

 支援の手が届かない 事態が続出しています。

 最初は 避難所へ行ったものの、 避難所生活のストレスに 耐えられなかったり、

 体調を崩したりして、 自宅に戻った人たちです。

 避難所では 支援物資を受け取るために、

 3階の教室と校庭を 往復しなければならず、 足が悪い被災者には 堪えます。

 床に座ったり、 和式トイレを使うのも 無理でした。

 止むなく 自宅に戻りましたが、

 ライフラインも復旧しておらず、 夜は 懐中電灯とろうそくが頼りです。

 炊き出しも来ず、 自衛隊にもらった水や、

 1時間以上歩いて スーパーで買った食べ物で しのいでいます。

 2階のトイレで用を足し、 津波で風呂にたまっている 水をくんで流す毎日です。

 台所のある1階が 津波に襲われ、 食事が満足にできない人も 多くいます。

 余震で家がつぶれるのではないかと、 怯えながら暮らしているのです。

 物資の配給など、 避難所で得られた 情報は入りません。

 同じような住宅が あちこちにありますが、

 1階部分を含む一帯が がれきに覆われていたため、

 救助の手が届かず、 存在が見逃されがちでした。

 行政は 避難所の救援だけで目一杯で、 自宅の被災者まで 手が回らず、

 全体の状況を 把握できていないのが実情です。

 目に見えない被災者の人たちが、 まだまだ大勢いるのです。

〔 朝日新聞より 〕
 
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日本の被災者の原点

2011年04月13日 21時45分11秒 | 東日本大震災
 
(前の記事からの続き)

 世界が驚いた、 日本の被災者の 冷静さや忍耐強さは、

 一体どこから来たものなのでしょう? 

 香山リカさん。

 「横並び意識が 良いほうに働いて、 今回は 命を救うかたちで機能している。

 自己中心的な生き方では 結局 共倒れになってしまう。

 それよりも お互いが思いやりを持って、 私よりも人様をと。

 ある時期までは 日本人の多くが 持っていた特徴だと思う」

 日本人の自然観や死生観を 指摘する声もあります。

 アメリカのノーベル賞受賞作家・ パール=バックは、

 「つなみ」 という小説の中で、 長崎県雲仙で聞いた話を 書いています。

 津波によって 多くの人の命が奪われたあと、 子供の問いかけに 父親が答えます。

 「日本で生まれて 損したと思わんか?」

 「生きる限りは 勇ましく生きること、 命を大事にすること。

 わしら日本人は幸せじゃ。

 わしらは 危険の中で生きとるから、 命を大事にするんじゃ」

 自然と共に生き、 その悲劇をも落ち着いて受け止める 日本人の姿に、

 パール=バックは 強い感慨を覚えたといいます。

 自ら里山に身を置き、 日本のあり方を考える、 里の哲学者・ 内山節さん。

 「日本の人たちは、 絶えず自然災害に遭いながら 生きてきた。

 自然の凄さに対して、 ある種畏敬の念を持つ 生き方をしてきた。

 大変辛いけれども、 そこにしか 生きる世界がないということを、

 人間の精神の奥の方に 脈々と受け継いできた。

 そういうものは消えそうで消えない」

 仏教研究を通じて 日本人の心を問い続ける、 文化人類学者・ 上田紀行さん。

 「苦しみの状況に向かい合ったときに、 皆で助け合って、 支え合って、

 耐え忍んでいくというメンタリティが、 日本人の中には深く流れている。

 第二次世界大戦の 焦土と化した日本が、

 これだけ復興できたという メンタリティと、 とても近いものがある。

 苦しみを いかに支え合っていくかという 共同体の姿があった。

 だが その後の経済発展の中で、 我々は 苦しみを共に分かち合って、

 助け合って生きるという部分を 忘れていたと思う」

〔 TBS 「サンデーモーニング」 より 〕
 
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日本の被災者の 誇るべき心

2011年04月12日 22時02分59秒 | 東日本大震災
 
 日本人の被災者の姿は、 海外メディアから依然として 驚異の目で見られています。

 米・ クリントン国務長官

 「日本人が この震災にあたって見せた  “忍耐” の精神に、

 敬意を覚えざるを得ません」

 米・ ロサンゼルスタイムズ

 「巨大地震も、 日本人の 非の打ち所のないマナーを 変えることはなかった」

 英・ フィナンシャルタイムズ

 「日本はこの危機を前に、 驚くべき落ち着きと、

 堅忍不抜の精神を持って 臨んでいる」

 中国・ 第一財経日報

 「日本は国民の間に、 自助・ 共助・ 公助の意識が 身に付いている」

 イスラエル医療チーム

 「日本人は痛みを我慢し、 文句も言わず、 静かに治療を受けていました」

 「ここまで悲惨な災害に 直面した人たちが、

 冷静で秩序を保ち、 他人に配慮している様子は 見たことがありません」

 米・ CBSリポーター

 「海外メディア関係者は 被災者の姿に ショックを受けました。

 家を失い 何もかもありませんでしたが、 失っていないものがありました。

 それは人間としての 尊厳です」

 2005年のハリケーン・ カトリーナや 去年のハイチ大地震で 見られたように、

 極限状態では 水や食料を求める混乱や、 略奪・ 凶悪犯罪などが頻発します。

 ところが 今回の震災では、

 一部で 車からガソリンが抜き取られたり、 物が盗まれた被害はありましたが、

 全体として 被災地の治安の良さが 言われています。

 世界が驚いた 冷静さや忍耐強さは、 一体どこから来たものなのでしょう? 

(次の記事に続く)

〔 TBS 「サンデーモーニング」 より 〕
 
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店に広がる 義援金の輪

2011年04月10日 21時34分32秒 | 東日本大震災
 
 東京の各地で、 東北へ義援金を送る 店舗が沢山出てきています。

 八重洲にある 福島の観光物産店は、店先で福島の青果を 2割引で販売しています。

 売上は 全て義援金になります。

 出荷制限がされていない農産物なので、 利用客は 「気にしていない」 と言います。

 開店からわずか15分で 完売しました。

 港区の創作料理の店では、 1500円のリゾットの売上を 青森の義援金に。

 さらに このリゾットが注文されるごとに、 店から1500円を募金します。

 また、 福島の農家から預かった 米粉ときな粉で 試作のパンを作り、

 販売すると 次々に売れていきました。

 「福島県産だから 買いに来ました」 という お客さんたち。

 渋谷のボーリング場では、 ストライクが1回出ると 100円を寄付します。

 1ゲーム600円なので、 6回ストライクが出ると 店は赤字です。

 このボーリング場は 地震当日、 帰宅困難者に避難所として開放しました。

 食べ物や飲物を 無料で提供したそうです。

 赤坂の神社は、 地震で屋根瓦が落ちるなど、 自らが被災しました。

 賽銭箱の隣の募金箱は、 賽銭箱より ずっと多くのお金が 入っているといいます。

 住職は ありがたいことだと言い、 募金を日赤に送ります。

 元スーパーウェルター級チャンピオン・ 輪島功一さんが営む 団子屋さん。

 50円以上寄付した人は、 70円のみたらし団子が ただで食べられます。

 輪島さんは、 頭先行はだめ、 心先行、 そして行動だと言っています。

 赤坂の飲食店は、 東北の食材で 義援金メニューを作り、 全てを義援金に。

 オープンするとき 三陸の漁師に助けてもらったので、 その恩返しなのだといいます。

 多くの人が 互助の気持ちで、 被災地に手を差し伸べたいと 思っているのですね。

〔 テレビ朝日 「スーパーJチャンネル」 より 〕
 
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古い設計を見直さなかった 福島第一原発

2011年04月07日 00時12分39秒 | 東日本大震災
 
 「福島第一原発は、 他の原発と比べても 極端に津波に弱いんです」

 原子力安全委員の一人は そう指摘しました。

 福島第一原発では、 非常用ディーゼル発電機が タービン建屋内に設置され、

 海水ポンプ (冷却用の海水をくみ出すもの) も むきだし状態で置かれています。

 一方 第二原発は、 非常用発電機は 機密性の高い原子炉建屋に 設置され、

 海水ポンプも建屋に覆われています。

 その結果、 第一では発電機もポンプも ほぼ使用不能になったのに対し、

 第二では機能が維持されたのです。

 第一原発は 国内では最も古い部類で、 60~70年代に建設され、

 70~80年代に 耐震性が強化されましたが、

 発電機の設置場所や ポンプの建屋は 検討されませんでした。

 移設をすると 大規模な工事になってしまい、

 多額の費用が かかってしまうからだったといいます。

 そもそも 第一原発の原子炉の設計図は、 当時アメリカから まるまる買っただけで、

 設計図通りに作ることが 当時の命題でした。

 試行錯誤しながら学ぶ 練習コースのようなもので、

 日本には 改良する技術の蓄積がありませんでした。

 しかしアメリカは 地震や津波への警戒が少なく、

 スリーマイル以前の 古い設計思想で作られていました。

 その後 第二原発は、 経験を積みながら 改良されていきましたが、

 第一原発にその安全思想は 還元されなかったのです。

 想定以上の津波の危険性は 元より指摘されており、

 防波堤を高くすることは 東電内部でも言われていました。

 ところが東電幹部は、

 「後から高くすると、 当初の津波対策は甘かった と指摘されてしまう。

 それを避けたかった」 と言うのです。

 安全が大切なのか、 自分の面子が大事なのか、 全くもって話になりません。

 設計思想を 根本的に変える必要があります。

〔 朝日新聞より 〕
 
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再会を待つ亡骸(なきがら)

2011年04月05日 07時51分21秒 | 東日本大震災
 
 「会えてよかった……」

 静まり返った体育館で、 遺族が 物言わぬ亡骸に語りかけています。

 行方知れずの家族を 見つけることさえ困難な状況で、

 愛する人が 亡くなった悲しみよりも、

 やっと会えたという 安堵感が溢れてくるのだといいます。

 体育館の床には、 緑色のシートが敷かれ、

 袋にくるまれた遺体が 整然と並んでいます。

 遺体が多すぎて、 棺に入ることができないのです。

 遺体は 顔が膨れ上がるなどして、 確認しにくいものが 半数ほどだといいます。

 それでも遺族は その前でじっと目を凝らし、 踏みとどまっています。

 普通なら 直視できないような光景ですが、 遺族は必死に捜しているのです。

 運良く探し出せても、 抱きしめることはもちろん、 触れることさえできません。

 感染症の恐れがあるため、 警察から止められているのです。

 顔を近づけて 感情を吐露することしかできません。

 きれいな状態で発見され、 身元が分かる 持ち物があるのに、

 いつもでも引き取られない人もいます。

 恐らく家族全員が 帰らぬ身となってしまったのでしょう。

 身元が特定できない遺体は、 発見場所の市町村に 引き渡されることになりました。

 遺体は 家族の元に戻ることなく、 葬られることになります。

 遺留品などを確認、 DNA資料や写真を保管して、

 担当課長が用紙にサインし、 遺体引渡し手続きが行なわれます。

 市内の火葬場だけでは とても対応しきれませんが、 土葬にするのは忍びなく、

 遠方の火葬場に運ぶということです。

 あくまでも仮埋葬、 いずれ永代供養しますと、 住職は話しました。

〔 朝日新聞より 〕
 
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原発をPRした、 つらい世話役

2011年04月04日 07時34分49秒 | 東日本大震災
 
 福島第一原発で働いていた 社員たちが、 避難所で 被災者の支援をしています。

 原発のそばで生まれ育ち、 原発の安全性を PRしてきた人たちです。

 自らも被災しながら、 事故の重さを背負って、

 隠れるように働いているのだといいます。

 第一原発広報部のリーダーだった 社員Sさんは、 避難所支援に名乗りを挙げました。

 「原発の町」 大熊町に 生まれたSさんにとって、

 原発は 「あこがれの職業」 でした。

 広報を担当して7年、  「原発は安全安心」 と説明し続け、

 「津波がきても大丈夫です」 と 百回も言いました。

 「みんなに石をぶつけられても、 ののしられても仕方ない」 と 思いました。

 ところが 避難所の人たちは、

 「よう手伝いに来てくれたなあ。 あんたは大丈夫か」 と 声をかけてくれます。

 「とても温かいのが、 かえってつらいのです」

 町の 「臨時役場」 に寝泊まりし、 支援作業をする 東電広報部の社員もいます。

 東電との連絡役として 朝夕2回、 町に 第一原発の現状を伝えます。

 手の空いた時間には 掃除を手伝っています。

 ずっと見学者らに  「原発は安全」 と説明してきました。

 「事故のことを どう説明すればいいのか。 言葉が見つからない」

 東電原子力立地本部の部長は、 各地の避難所や自治体を訪ねて 謝罪をする日々です。

 首長に 面談を断られることもあります。

 「地域への貢献を原点に 仕事をしてきたつもりだった。

 非常に申し訳ない 気持ちで一杯です」

 原発で成り立つ 町のために尽くしてきた、 東電の社員たちに 罪はないのです。

 彼らもまた被災者であり、 被害者です。

〔 朝日新聞より 〕
 
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「命がけ」 の作業

2011年04月03日 16時46分12秒 | 東日本大震災
 
 「作業員の安全」 か、 「原発事故の収束」 か--。

 究極の選択が迫られています。

 ある厚労省幹部は 心情を漏らしました。

 「仕事に 『命がけ』 が あっていいわけがない。

 でも 原発を抑え込む重要性は、 労働政策の域を超えている。

 労働者の安全と どちらが優先されるべきか、 自信が持てない」

 「原発の危険を収束させてほしい」 という 国民の期待が大きく、

 労働者の安全確保に 影響することが懸念されています。

 平時と比較すると、安全管理は機能マヒと言えます。

 深刻なトラブルが 連鎖的に起こり、 その対応に追われて、

 作業の安全管理まで 把握できなかったということです。

 3月24日には、 作業員が 放射線の線量計を持たずに 水に浸かって、

 被曝しました。

 東電は高レベルの放射線量を 確認していたにもかかわらず、

 作業員に伝えていませんでした。

 人手が足りず、 正規の作業手順が省略されることが 続出していたといいます。

 ケーブル敷設や水の除去など 作業は山積みですが、

 作業時間が長くなれば 被曝量は多くなります。

 一人の放射線量が増えないよう 人海戦術が必要ですが、

 作業員の安全な作業のために 環境を細かく把握しなければなりません。

 しかし、 作業員たちが危険を覚悟で 臨んでいることも事実です。

 作業員は、 「とにかく自分たちで 何とかするしかない」 という 思いでいます。

 ある協力会社は社員に、

 「作業を拒否できる」 ことや、 「拒否しても査定に影響しない」 ことを

 明示しましたが、 全員が 「行きたい」 と答えたそうです。

〔 朝日新聞より 〕
 
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