「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

岡本太郎の追憶

2006年08月05日 18時01分34秒 | Weblog
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/38485732.html からの続き)

 僕は岡本太郎には、二十歳を過ぎたころ、

 「今日(こんにち)の芸術」 という太郎の著書で 非常に感化されました。

 アバンギャルド(前衛芸術)について 熱筆を振るった本で、

 「芸術はうまくあっはならない、きれいであってはならない、快くあってはならない」

 という、あの岡本太郎の主張に 初めて触れたのでした。

 そのときの僕の感銘は衝撃的で、それまでの既成概念を打ち壊され、

 新しい価値観に 目を開かされたのです。

 僕にとっては岡本太郎は、ラジカルで驚異的な、天才芸術家でした。

 その後、彼はテレビなどにも 頻繁に出るようになり、

 「何だ、これは!?」 と連発する 変なオジサン、

 というような目で 見られていました。

 僕は内心、「本当の岡本太郎は違う」 と思ったりしていたものです。

 ピカソと並び称される 極めて高度な芸術家で、学術的な素養も 非常に深い彼は、

 人に好かれたり 評価されることを求めず、闘争や挑むことを好み、

 人に媚びるのを拒否していたのです。

 しかしながら岡本太郎は、お高くとまった 権威的な“芸術”ではなく、

 人間の日常の生活の中にこそ 生きた芸術があると考え、

 作品は 誰でもいつでも触れられるようにすべきだ と言っていました。

 「明日の神話」を 誰でもが目の前で観られるように、

 大衆に愛されることこそ、逆説的に 彼が欲していたことなのかも知れません。
 
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