■今から50年前の1968年6月26日、小笠原諸島はアメリカから返還されました。
今年は返還50周年の節目の年です。
そして
6月30日に父島でパレードと式典、
7月1日には母島でパレードと記念セレモニーが行われました。
小笠原の父島・母島合わせて住んで15年。
この50年に一度の節目をこの目で見て、
感じるために母島から父島の式典を見に行きました。
その中で、この50年の月日に思いを馳せるとともに、やはり色々と感じることがありました。
■一番気になっていたのは、小笠原の航空路の問題です。
よく島民の悲願と言われ、報道されますが、
僕の周りの友人は空港を望んでいない人がほとんどです。
以前行われたアンケート(7年前だったかな?)で
賛成、条件付き賛成(環境を守っての空港ならありなど)を合わせて7割だったのですが、
その後の報道では「賛成が7割」と書かれ、いつもながらに酷いものだなと思っていました。
間違いなく“全島民の悲願”ではないのです。
マスコミの偏った報道にもいつも疑問があります。
小池都知事はあいさつの中で、
島民生活の安定と国境離島である小笠原の自律的な発展、
島民の安心、安全を守る観点から必要と考えているとのこと。
以前からの空港案の洲崎案、硫黄島案、飛行艇案のうち、
実現性の高い洲崎案に的を絞り、集中的に検討を進めていくとの事でした。
その際には自然環境に対して最大限配慮することが重要であり、
これまで検討していた滑走路案より短い1000m以下の滑走で運航できる機材を検討していくとのこと。
おそらく水上飛行艇とAW609などのティルトローター機(いわゆるオスプレイと呼ばれている機)で検討しているのでしょう。
それらのあらゆる可能性を追求し、前に進めていく意向のようです。
ハッキリと空港と作るという名言は避けました。
が、以前から言われている
滑走路を伸ばすために焼場の波がなくなるかもという心配や、
離陸、着陸時に邪魔となる中山峠の切り崩しなど、
島民が心配している自然改変、
島の観光はもちろん、雰囲気の変化など、
多くの不安があることは事実です。
観光目線ではなく、
生活航路として、介護や通院、出産など、確かに島の暮らしで必要なのは理解できます。
しかし、空港建設で失ってしまうものも確実にあります。
僕自身は空港を作るよりも、
医療や介護、出産など医療福祉面の充実を図り、
島で生れることも死ぬことも選択出来る島になることが理想と思っています。
知事の挨拶で予想外に嬉しかった事は、
G7のサミットで日本がサインをしなかった海洋プラスチック減少の問題に対し、
美しく恵み豊かな小笠原の自然を守るためにも
東京都はG7の提唱を強く支持し、
活動を進めていくと明言した事でした!
これにはハッキリ言って驚きましたし、とても嬉しかったです!
ドック中の代替え船に関しても、都が動いてくれているのもとても助かったと思います。
■そして返還と聞いて、まず初めに頭に浮かぶことは戦争です。
太平洋戦争がなければそもそも占領・返還などなかったのですから。
2年前に訪れた激戦の地、硫黄島。
今もなお1万を超えるご遺骨が埋まったままです。
73年前、『楽園』と呼ばれた硫黄島は爆弾と火炎放射器、銃弾が飛び交い、
日米合わせて2万人以上の命を落とす玉砕の島へと姿を変えてしまったのです。
墓参や遺骨収集、訪島事業で年間数百名が硫黄島を訪れています。
しかし、父島・母島の年間観光客数を遥かに超える10万人の米国人が毎年、硫黄島の観光に来ている事実もあります。
そんな中、今も硫黄島の旧島民の帰島は叶っていません。
返還50周年を迎えても硫黄島の戦後は終わっていないのです。
島の人も文化も断裂させた戦争がなければ、この小笠原はどうなっていたのでしょうか?
僕は小笠原村の封筒の裏に書かれている平和都市宣言が大好きです。
【~小笠原村平和都市宣言~
平和で豊かな自然の中で暮らす我々小笠原村民は、
世界中の人々が平和を分ちあえることを願う。
この願いは、小笠原の生い立ちが物語つている。
我々の先人が築いた文化を、歴史的に分断した強制疎開。
今なお一般住民の帰島が許されず、遺骨収集も
ままならぬ玉砕の地硫黄島。
このような地小笠原に生きる者として、戦後50年を迎えるにあたり、
不戦と恒久平和を誓い、豊かな自然を後世に残すために、
小笠原村が平和都市であり、またその使命を全うすることを宣言する。
平成7年8月15日 小笠原村】
この言葉を胸にこの返還の日を迎えました。
戦争というものがこの世界からなくなるまで、
この気持ちは忘れてはならないし、
平和に向けての行動もしていかなけばと思います。
■式典の少し前に遡ります。
6月30日16時に母島からに父島に着いたら丁度パレードが始まっていました♪
南洋踊りは踊りながらずっと進み、
いつも楽しそうなちびっこクラブはシャボン玉を発射しまくりながら行進、
保育園は水鉄砲で周りに水を飛ばしながら行進(笑)!!
いや~父島の子どもたちもほんと元気ですね!
親の気合の入り方ももちろん、なんか振り切り方が圧巻です(笑)!
ウクレレ会も演奏しながら進み、
なんとLove&Peaceとしてマーメイドも車に乗って参加していました!!
これは意外な知人も混ざっており、結構驚きました(笑)!
中学生や大人女子のフラも美しく更行進していました!!
他にもスティールパン、スイングブロウ、消防団など多数のチームが参加していました!
翌日の母島の一体となるこじんまりとしたパレードも好きですが、
父島の島民が思いっきり参加しまくるパレードのパワーはさすがだなと思いました♪
■こうして50年かけて再生してきた小笠原の返還は大きな節目を迎えました。
これからも50周年のイベントが目白押しです(多すぎるっ!)。
僕も母島で運営として関わることも多いので、
楽しいし、嬉しい事なのですが、
あまりにイベント続きなのも少し疑問です。
今年に限っては、いつも恒例の行事ですら開催が危ぶまれていて、
大事にしたいのは一体なんなのか、
きちんと見据えてやっていかなければいけないなと強く思う場面も多くあります。
返還50周年。
間違いなく素晴らしいことですし、盛り上げたい気持ちもわかります。
多くの人が関わり、頑張ってくれています。
その中で自分たちの暮らし島をどうしていきたいか、
どうあるべきなのかを考えるきっかけになるといいなと思いました☆
今年は返還50周年の節目の年です。
そして
6月30日に父島でパレードと式典、
7月1日には母島でパレードと記念セレモニーが行われました。
小笠原の父島・母島合わせて住んで15年。
この50年に一度の節目をこの目で見て、
感じるために母島から父島の式典を見に行きました。
その中で、この50年の月日に思いを馳せるとともに、やはり色々と感じることがありました。
■一番気になっていたのは、小笠原の航空路の問題です。
よく島民の悲願と言われ、報道されますが、
僕の周りの友人は空港を望んでいない人がほとんどです。
以前行われたアンケート(7年前だったかな?)で
賛成、条件付き賛成(環境を守っての空港ならありなど)を合わせて7割だったのですが、
その後の報道では「賛成が7割」と書かれ、いつもながらに酷いものだなと思っていました。
間違いなく“全島民の悲願”ではないのです。
マスコミの偏った報道にもいつも疑問があります。
小池都知事はあいさつの中で、
島民生活の安定と国境離島である小笠原の自律的な発展、
島民の安心、安全を守る観点から必要と考えているとのこと。
以前からの空港案の洲崎案、硫黄島案、飛行艇案のうち、
実現性の高い洲崎案に的を絞り、集中的に検討を進めていくとの事でした。
その際には自然環境に対して最大限配慮することが重要であり、
これまで検討していた滑走路案より短い1000m以下の滑走で運航できる機材を検討していくとのこと。
おそらく水上飛行艇とAW609などのティルトローター機(いわゆるオスプレイと呼ばれている機)で検討しているのでしょう。
それらのあらゆる可能性を追求し、前に進めていく意向のようです。
ハッキリと空港と作るという名言は避けました。
が、以前から言われている
滑走路を伸ばすために焼場の波がなくなるかもという心配や、
離陸、着陸時に邪魔となる中山峠の切り崩しなど、
島民が心配している自然改変、
島の観光はもちろん、雰囲気の変化など、
多くの不安があることは事実です。
観光目線ではなく、
生活航路として、介護や通院、出産など、確かに島の暮らしで必要なのは理解できます。
しかし、空港建設で失ってしまうものも確実にあります。
僕自身は空港を作るよりも、
医療や介護、出産など医療福祉面の充実を図り、
島で生れることも死ぬことも選択出来る島になることが理想と思っています。
知事の挨拶で予想外に嬉しかった事は、
G7のサミットで日本がサインをしなかった海洋プラスチック減少の問題に対し、
美しく恵み豊かな小笠原の自然を守るためにも
東京都はG7の提唱を強く支持し、
活動を進めていくと明言した事でした!
これにはハッキリ言って驚きましたし、とても嬉しかったです!
ドック中の代替え船に関しても、都が動いてくれているのもとても助かったと思います。
■そして返還と聞いて、まず初めに頭に浮かぶことは戦争です。
太平洋戦争がなければそもそも占領・返還などなかったのですから。
2年前に訪れた激戦の地、硫黄島。
今もなお1万を超えるご遺骨が埋まったままです。
73年前、『楽園』と呼ばれた硫黄島は爆弾と火炎放射器、銃弾が飛び交い、
日米合わせて2万人以上の命を落とす玉砕の島へと姿を変えてしまったのです。
墓参や遺骨収集、訪島事業で年間数百名が硫黄島を訪れています。
しかし、父島・母島の年間観光客数を遥かに超える10万人の米国人が毎年、硫黄島の観光に来ている事実もあります。
そんな中、今も硫黄島の旧島民の帰島は叶っていません。
返還50周年を迎えても硫黄島の戦後は終わっていないのです。
島の人も文化も断裂させた戦争がなければ、この小笠原はどうなっていたのでしょうか?
僕は小笠原村の封筒の裏に書かれている平和都市宣言が大好きです。
【~小笠原村平和都市宣言~
平和で豊かな自然の中で暮らす我々小笠原村民は、
世界中の人々が平和を分ちあえることを願う。
この願いは、小笠原の生い立ちが物語つている。
我々の先人が築いた文化を、歴史的に分断した強制疎開。
今なお一般住民の帰島が許されず、遺骨収集も
ままならぬ玉砕の地硫黄島。
このような地小笠原に生きる者として、戦後50年を迎えるにあたり、
不戦と恒久平和を誓い、豊かな自然を後世に残すために、
小笠原村が平和都市であり、またその使命を全うすることを宣言する。
平成7年8月15日 小笠原村】
この言葉を胸にこの返還の日を迎えました。
戦争というものがこの世界からなくなるまで、
この気持ちは忘れてはならないし、
平和に向けての行動もしていかなけばと思います。
■式典の少し前に遡ります。
6月30日16時に母島からに父島に着いたら丁度パレードが始まっていました♪
南洋踊りは踊りながらずっと進み、
いつも楽しそうなちびっこクラブはシャボン玉を発射しまくりながら行進、
保育園は水鉄砲で周りに水を飛ばしながら行進(笑)!!
いや~父島の子どもたちもほんと元気ですね!
親の気合の入り方ももちろん、なんか振り切り方が圧巻です(笑)!
ウクレレ会も演奏しながら進み、
なんとLove&Peaceとしてマーメイドも車に乗って参加していました!!
これは意外な知人も混ざっており、結構驚きました(笑)!
中学生や大人女子のフラも美しく更行進していました!!
他にもスティールパン、スイングブロウ、消防団など多数のチームが参加していました!
翌日の母島の一体となるこじんまりとしたパレードも好きですが、
父島の島民が思いっきり参加しまくるパレードのパワーはさすがだなと思いました♪
■こうして50年かけて再生してきた小笠原の返還は大きな節目を迎えました。
これからも50周年のイベントが目白押しです(多すぎるっ!)。
僕も母島で運営として関わることも多いので、
楽しいし、嬉しい事なのですが、
あまりにイベント続きなのも少し疑問です。
今年に限っては、いつも恒例の行事ですら開催が危ぶまれていて、
大事にしたいのは一体なんなのか、
きちんと見据えてやっていかなければいけないなと強く思う場面も多くあります。
返還50周年。
間違いなく素晴らしいことですし、盛り上げたい気持ちもわかります。
多くの人が関わり、頑張ってくれています。
その中で自分たちの暮らし島をどうしていきたいか、
どうあるべきなのかを考えるきっかけになるといいなと思いました☆