■娘たちの誕生日を記念しての娘たちが生まれるまでのエピソード。
前回①の続き②です。
2003年夏。
妊娠中期に内地搬送となり、東京日赤医療センターに入院となった妻。
50日間の寝たきりの入院を経て、9月下旬にようやく妊娠36週となり、めでたく退院となりました。
これから希望していた助産院で出産を迎える為に新たな困難に立ち向かう事になります。
まず驚いたのが、病院を退院して地下鉄に降りる時に妻が
「か、階段が降りれない!!」
と呟いていました。
これには驚きました。
なんと基本、寝たきりで平たいフロアとエレベーターで移動していただけの50日間。
階段で降りる筋肉が驚くほど衰えていたのです。
そして今思えばそれは氷山の一角で、その後様々な影響を及ぼします。
ひとまず、なんとか出産する助産院近くの住まいに移動します。
場所は杉並区の高井戸でした。
今思うと、出産で内地に滞在した5か月の中で、一番平穏だったのがこの時期だった気がします。
当時は必至で分かりませんでしたが(#^.^#)。
■若くして結婚し、夫婦双方の実家にステイするのも難しい状況の私達。
入院中は僕も妻も病院にステイしていたので、問題ありませんでしたが、
退院後の住まいを助産院の近くで見つける必要がありました。
内地の勝手すら知らない超田舎者の僕。
しかし、若さというものは色んな事を物怖じなく突入させてくれます。
色々模索した結果、黄ーファンー助産院(成田西)と井の頭線で数駅隣の高井戸のマンスリーマンションを借りることになりました。
家賃は月16万円。
普通のワンルームマンションです。
結婚したばかりの22歳の若い僕にはべらぼーな金額ですが、
赤ちゃんと妻の命がかかっていると考えれば背に腹は変えられません。
赤ちゃんが生まれた後の鳴き声、
お風呂に入れることを考えて、
トイレとお風呂が一緒のユニットバスは避けて、
台所がしっかりあって、防音がしっかりした部屋を選ぶことになりました。
現在、小笠原で出産できない事への処置として、40万円のお金が村から支給されますが、
これも当時は20万円でしたし、(その後の活動で増額できました!)
結婚して1年経過した後の出産にしか適応されないので、私達はその恩恵すら受けれませんでした。
■そんなこんなで、ようやく搬送後初めての夫婦で寝れる日常が帰って来ました。
僕も広尾商店街の弁当屋の仕事は辞めて、本格的に出産に向けて夫婦で取り組んで行く事になりました。
今思うと、初めての結婚や妊娠、仕事で必死過ぎて、
ゆっくり向き合えなかった私達夫婦にとって、
とても大事な時間だったと思います♪
助産院での様々なレクチャー、
とにかく歩いて、出産に必要な体力、日常に必要な筋力の回復、
いいお産に繋げるための助産院で学ぶ食生活。
色んな新しい生活が始まりました。
最寄りの駅は富士見ヶ丘です。
少しさびれた商店街があり、小さいけど有名な「神田川」が流れる静かな閑静な住宅街です。
慣れてくれば、交通量の少ない裏路地を沢山見つける事ができて、
大きなお腹と、弱った筋肉を労わりながら、
できる限り歩いて、夫婦で過ごしました。
「人生に和菓子あり」と書かれた踏切近くの柳谷という和菓子屋さん、
何故かいつもかに玉ロール3つだけが棚に置かれているだけ(笑)の謎の総菜屋さん、
ただ皮ごとミカンを4つに大雑把に切って試食を提供する、商売する気もないようなSEIYU、
神田川を泳ぐ錦鯉たち。
どれも新鮮で愛おしい日々でした。
料理担当は基本的に僕でした。
有難いことにそれまでユースホステルで教わって来た料理もあったので、
何の抵抗もなくトライできました。
この部分も、ユースのペアレントの等史さんに本当に感謝です♪
当時はゆっくり夫婦一緒に食事できる日々を噛みしめていました。
仕事しながらの父島での生活に比べて、とてもゆっくりとした時間だった気がします。
当時得意だった野菜たっぷりのうどん。
これはチャンスとばかりに色んな料理に挑戦した気がします。
品数は今より全然多く(笑)、
なんというか、とても頑張っている感を感じます(#^.^#)
退院した日から使っていた手作りカレンダー。
1日1日を数えながら、お産の日に備えて行きます。
この時間とプロセスが、未熟な私達を親へと近づけていってくれた気がします。
今でもまともな親になれてるかは疑問ですが(笑)。
■黄ーファンー助産院は妻が妊娠初期で探し出した、とても有名な小さな助産院です。
妻が妊娠初期で体が辛い中、
島から何とか出産できる助産院を探しに内地に行っていました。
今は分かりませんが、
当時の訪問した助産院は、【妊娠初期からの経過が見れないから、お産を受ける事はできない】という回答ばかりだったそうです。
助産院としては医療機関なわけではなく、
正常分娩のみを扱うものだから、
妊娠の経過をずっと見れてないというのは、高リスクになります。
元助産師の妻としても、そんな事は分かっちゃいるけど、
子供が住めない島に住んでいるからといって、
自分が主体的に産む「アクティブ・バース」ですら選択できない理不尽に打ちのめされて絶望の淵にいました。
とにかく自分たちが子供が産めない遠隔離島に住んでいて、
とても困っているけど、大事な命の誕生を妥協したくない、その気持ちを分かってもらいたかったのだと思います。
内地からの電話越しに泣きながら「今日もダメだった…」と言われ、
島で必死で働いている僕にもその辛さが伝わって来ていました。(きっと現実的にはピンと来ていなかったと思います)
しかし、ファン助産院に訪問した時に院長の杉山先生が、
満面の笑顔で「いいでしょう。うちでお産を受けましょう」と一言で承諾してくださったそうです。
それまでの経緯や一般常識からすると信じられない言葉です。
聞くと「だってあなたがそうしたいと思ってるんでしょう?」と。
あまりの受け入れてもらえた嬉しさに、
助産院から泣いて帰って来た妻からの連絡を忘れられません。
その時は、まさかその後に搬送・入院になるとは夢にも思ってなかったのですが、
入院生活を通して、その先に「受け入れてくれる助産院がある」というのはとても有難い目標となりました。
妻が日赤に入院中も1度、僕が現状を伝える為に伺いました。
本当に親切で、「ああ妻が嬉しかったわけがわかった」と思いました。
その後も杉山富士子先生の笑顔には沢山救われました♡
■助産院で畳の上で好きな姿勢で産む。
フリースタイル出産というやつだそうです。
妻から聞いてはいたけど、僕にとってはまったくの想像以上の世界です。
出産に立ち会う事すら想像してなかった22歳の僕も、
次第に出産に立ち会わないのがあり得ない、と思えるほどになってきました(笑)。
・河合欄さんが提唱するイメジェリー
・幕の内さんの「粗食のススメ」
・大野明子さん「分娩台よさようなら」
・管理される出産でなく、自然の時を待つお産
もう17年も前の事なので、沢山抜けているとは思いますが、今思い出せるトピックはこんな感じです。
本当にすべてが新鮮で、若くて頭の柔らかい当時の僕(笑)は、どんどん吸収して行ったと思います。
■「イメジェリー」は出産ジャーナリストの河合蘭さんが日本に紹介した、
「誘導されたイメージ」のこと。つまりイメージトレーニングです。
非常に珍しい男性バースエデュケーター・カール・ジョーンズさん。
蘭さんによると、「男性なのに奇妙なくらいに妊産婦の心理が分かる人」と書かれています(笑)。
蘭さんはファン助産院の杉山富士子先生ともよく一緒に様々な著書、活動をしていて、
私達も1度一緒に食事したことがあります。
妻が目をつぶり、僕が読み上げる、お産に向けて色んなうまくいくイメージのトレーニングをしていきました。
自分にとって特別な場所ースペシャルプレイスーを想像し、
色んな想像をしていた日々を思い出します。
色んな事を考え込んで、色々心配になってしまう妻にとって、
このイメジェリーを夫婦で行うことはとても意味のあることだったと思います。
次女が生まれる頃は、もう長女の世話やらでそんな暇はありませんでしたが(笑)。
■その後の食生活の変化に大きな影響を及ぼしたのが、幕の内秀夫さんが書いた「粗食のススメ」です。
これもファン助産院で紹介してあって、さっそく購入しました。
日本人の根本となるその季節に採れる作物で、
その素材を生かした簡単な調理で食べて暮らす。
その粗食こそがまさに成人病の割合が低い、日本人の秘密だというのです。
欧米食化した若い現代人ではなく、
質素な和食で暮らしている高齢者がなぜ健康で長生きなのかに触れていました。
私達が食べるもの、子どもの食べさせるもので、
その子供の体が出来上がっていく、
そこに粗食というエッセンスが加わり、
その後、無農薬や在来の野菜をその土地、その気候に合った時期に食べることの意味を意識するようになりました。
人参の葉っぱも大根の葉っぱも食べるようになりました。
その後、家族で自給自足を学びに旅に出たのも、この食生活の学びがあったからだと今でも思います。
■とても有名な著書「分娩台よ、さようなら(大野明子・著)」。
これは分娩台が当たり前と思っていた僕には衝撃の考えでした。
お産と言えば夫は手術中のランプを見ながら廊下で待機、
「おんぎゃあ~!」の鳴き声で生れたことに気付くものだと思っていました(思いっきりTVのイメージ)。
本来、人はずっと分娩台ではなく、何かに掴まったり自由な姿勢で子どもを産んできたそうです。
それがいつの日か、分娩台という明るいライトに照らされて、いきみにくい仰向けで、産むのが主流になっていきます。
しかも誘発剤などで出産日ですらコントロールさせる場合もある、現代のお産。
でもそれは赤ちゃんや妊婦の為ではなく、
すべて医師の為の管理である場合が多いというのです。
よく考えれば分かる事なのですが、
現代では疑問すら持たずにそれが当たり前にまかり通っていると。
その現代に痛烈にメッセージを与えた本だと思います。
妻は落ち着いた照明の畳のお部屋で、
自分と赤ちゃんの自然なタイミングで、
丁寧にお産をする事が出ました。
その事を理解するには十分な本だと思います。
ちなみに著者の大野明子先生は産科の医師であり、
なんと当時僕たちがステイしていた高井戸で「お産の家 明日香医院」をやっています。
元助産師の妻曰く、
「現代医療の中で究極の自然が残されているのがお産の世界だと思う」というコメントがとても響き納得できました。
そんな色んなご縁のお蔭で、当時はこんな食生活になっていきました。
独り暮らし用のお部屋なので、足りない食器は100円ショップで揃えました。
そんな今でも続く、色んなご縁を頂いて、
全ては初めてばかりの中、新しい夫婦の僕たちは一生懸命に、
来たるべきお産の日を待っていました。
10月中旬のとある日の朝早くに、妻が叫びました。
「起きて!破水した!!」
そこからついにフィナーレともいえるお産が始まりました。
続きの③長女誕生編 は次回をお楽しみに(#^.^#)
前回①の続き②です。
2003年夏。
妊娠中期に内地搬送となり、東京日赤医療センターに入院となった妻。
50日間の寝たきりの入院を経て、9月下旬にようやく妊娠36週となり、めでたく退院となりました。
これから希望していた助産院で出産を迎える為に新たな困難に立ち向かう事になります。
まず驚いたのが、病院を退院して地下鉄に降りる時に妻が
「か、階段が降りれない!!」
と呟いていました。
これには驚きました。
なんと基本、寝たきりで平たいフロアとエレベーターで移動していただけの50日間。
階段で降りる筋肉が驚くほど衰えていたのです。
そして今思えばそれは氷山の一角で、その後様々な影響を及ぼします。
ひとまず、なんとか出産する助産院近くの住まいに移動します。
場所は杉並区の高井戸でした。
今思うと、出産で内地に滞在した5か月の中で、一番平穏だったのがこの時期だった気がします。
当時は必至で分かりませんでしたが(#^.^#)。
■若くして結婚し、夫婦双方の実家にステイするのも難しい状況の私達。
入院中は僕も妻も病院にステイしていたので、問題ありませんでしたが、
退院後の住まいを助産院の近くで見つける必要がありました。
内地の勝手すら知らない超田舎者の僕。
しかし、若さというものは色んな事を物怖じなく突入させてくれます。
色々模索した結果、黄ーファンー助産院(成田西)と井の頭線で数駅隣の高井戸のマンスリーマンションを借りることになりました。
家賃は月16万円。
普通のワンルームマンションです。
結婚したばかりの22歳の若い僕にはべらぼーな金額ですが、
赤ちゃんと妻の命がかかっていると考えれば背に腹は変えられません。
赤ちゃんが生まれた後の鳴き声、
お風呂に入れることを考えて、
トイレとお風呂が一緒のユニットバスは避けて、
台所がしっかりあって、防音がしっかりした部屋を選ぶことになりました。
現在、小笠原で出産できない事への処置として、40万円のお金が村から支給されますが、
これも当時は20万円でしたし、(その後の活動で増額できました!)
結婚して1年経過した後の出産にしか適応されないので、私達はその恩恵すら受けれませんでした。
■そんなこんなで、ようやく搬送後初めての夫婦で寝れる日常が帰って来ました。
僕も広尾商店街の弁当屋の仕事は辞めて、本格的に出産に向けて夫婦で取り組んで行く事になりました。
今思うと、初めての結婚や妊娠、仕事で必死過ぎて、
ゆっくり向き合えなかった私達夫婦にとって、
とても大事な時間だったと思います♪
助産院での様々なレクチャー、
とにかく歩いて、出産に必要な体力、日常に必要な筋力の回復、
いいお産に繋げるための助産院で学ぶ食生活。
色んな新しい生活が始まりました。
最寄りの駅は富士見ヶ丘です。
少しさびれた商店街があり、小さいけど有名な「神田川」が流れる静かな閑静な住宅街です。
慣れてくれば、交通量の少ない裏路地を沢山見つける事ができて、
大きなお腹と、弱った筋肉を労わりながら、
できる限り歩いて、夫婦で過ごしました。
「人生に和菓子あり」と書かれた踏切近くの柳谷という和菓子屋さん、
何故かいつもかに玉ロール3つだけが棚に置かれているだけ(笑)の謎の総菜屋さん、
ただ皮ごとミカンを4つに大雑把に切って試食を提供する、商売する気もないようなSEIYU、
神田川を泳ぐ錦鯉たち。
どれも新鮮で愛おしい日々でした。
料理担当は基本的に僕でした。
有難いことにそれまでユースホステルで教わって来た料理もあったので、
何の抵抗もなくトライできました。
この部分も、ユースのペアレントの等史さんに本当に感謝です♪
当時はゆっくり夫婦一緒に食事できる日々を噛みしめていました。
仕事しながらの父島での生活に比べて、とてもゆっくりとした時間だった気がします。
当時得意だった野菜たっぷりのうどん。
これはチャンスとばかりに色んな料理に挑戦した気がします。
品数は今より全然多く(笑)、
なんというか、とても頑張っている感を感じます(#^.^#)
退院した日から使っていた手作りカレンダー。
1日1日を数えながら、お産の日に備えて行きます。
この時間とプロセスが、未熟な私達を親へと近づけていってくれた気がします。
今でもまともな親になれてるかは疑問ですが(笑)。
■黄ーファンー助産院は妻が妊娠初期で探し出した、とても有名な小さな助産院です。
妻が妊娠初期で体が辛い中、
島から何とか出産できる助産院を探しに内地に行っていました。
今は分かりませんが、
当時の訪問した助産院は、【妊娠初期からの経過が見れないから、お産を受ける事はできない】という回答ばかりだったそうです。
助産院としては医療機関なわけではなく、
正常分娩のみを扱うものだから、
妊娠の経過をずっと見れてないというのは、高リスクになります。
元助産師の妻としても、そんな事は分かっちゃいるけど、
子供が住めない島に住んでいるからといって、
自分が主体的に産む「アクティブ・バース」ですら選択できない理不尽に打ちのめされて絶望の淵にいました。
とにかく自分たちが子供が産めない遠隔離島に住んでいて、
とても困っているけど、大事な命の誕生を妥協したくない、その気持ちを分かってもらいたかったのだと思います。
内地からの電話越しに泣きながら「今日もダメだった…」と言われ、
島で必死で働いている僕にもその辛さが伝わって来ていました。(きっと現実的にはピンと来ていなかったと思います)
しかし、ファン助産院に訪問した時に院長の杉山先生が、
満面の笑顔で「いいでしょう。うちでお産を受けましょう」と一言で承諾してくださったそうです。
それまでの経緯や一般常識からすると信じられない言葉です。
聞くと「だってあなたがそうしたいと思ってるんでしょう?」と。
あまりの受け入れてもらえた嬉しさに、
助産院から泣いて帰って来た妻からの連絡を忘れられません。
その時は、まさかその後に搬送・入院になるとは夢にも思ってなかったのですが、
入院生活を通して、その先に「受け入れてくれる助産院がある」というのはとても有難い目標となりました。
妻が日赤に入院中も1度、僕が現状を伝える為に伺いました。
本当に親切で、「ああ妻が嬉しかったわけがわかった」と思いました。
その後も杉山富士子先生の笑顔には沢山救われました♡
■助産院で畳の上で好きな姿勢で産む。
フリースタイル出産というやつだそうです。
妻から聞いてはいたけど、僕にとってはまったくの想像以上の世界です。
出産に立ち会う事すら想像してなかった22歳の僕も、
次第に出産に立ち会わないのがあり得ない、と思えるほどになってきました(笑)。
・河合欄さんが提唱するイメジェリー
・幕の内さんの「粗食のススメ」
・大野明子さん「分娩台よさようなら」
・管理される出産でなく、自然の時を待つお産
もう17年も前の事なので、沢山抜けているとは思いますが、今思い出せるトピックはこんな感じです。
本当にすべてが新鮮で、若くて頭の柔らかい当時の僕(笑)は、どんどん吸収して行ったと思います。
■「イメジェリー」は出産ジャーナリストの河合蘭さんが日本に紹介した、
「誘導されたイメージ」のこと。つまりイメージトレーニングです。
非常に珍しい男性バースエデュケーター・カール・ジョーンズさん。
蘭さんによると、「男性なのに奇妙なくらいに妊産婦の心理が分かる人」と書かれています(笑)。
蘭さんはファン助産院の杉山富士子先生ともよく一緒に様々な著書、活動をしていて、
私達も1度一緒に食事したことがあります。
妻が目をつぶり、僕が読み上げる、お産に向けて色んなうまくいくイメージのトレーニングをしていきました。
自分にとって特別な場所ースペシャルプレイスーを想像し、
色んな想像をしていた日々を思い出します。
色んな事を考え込んで、色々心配になってしまう妻にとって、
このイメジェリーを夫婦で行うことはとても意味のあることだったと思います。
次女が生まれる頃は、もう長女の世話やらでそんな暇はありませんでしたが(笑)。
■その後の食生活の変化に大きな影響を及ぼしたのが、幕の内秀夫さんが書いた「粗食のススメ」です。
これもファン助産院で紹介してあって、さっそく購入しました。
日本人の根本となるその季節に採れる作物で、
その素材を生かした簡単な調理で食べて暮らす。
その粗食こそがまさに成人病の割合が低い、日本人の秘密だというのです。
欧米食化した若い現代人ではなく、
質素な和食で暮らしている高齢者がなぜ健康で長生きなのかに触れていました。
私達が食べるもの、子どもの食べさせるもので、
その子供の体が出来上がっていく、
そこに粗食というエッセンスが加わり、
その後、無農薬や在来の野菜をその土地、その気候に合った時期に食べることの意味を意識するようになりました。
人参の葉っぱも大根の葉っぱも食べるようになりました。
その後、家族で自給自足を学びに旅に出たのも、この食生活の学びがあったからだと今でも思います。
■とても有名な著書「分娩台よ、さようなら(大野明子・著)」。
これは分娩台が当たり前と思っていた僕には衝撃の考えでした。
お産と言えば夫は手術中のランプを見ながら廊下で待機、
「おんぎゃあ~!」の鳴き声で生れたことに気付くものだと思っていました(思いっきりTVのイメージ)。
本来、人はずっと分娩台ではなく、何かに掴まったり自由な姿勢で子どもを産んできたそうです。
それがいつの日か、分娩台という明るいライトに照らされて、いきみにくい仰向けで、産むのが主流になっていきます。
しかも誘発剤などで出産日ですらコントロールさせる場合もある、現代のお産。
でもそれは赤ちゃんや妊婦の為ではなく、
すべて医師の為の管理である場合が多いというのです。
よく考えれば分かる事なのですが、
現代では疑問すら持たずにそれが当たり前にまかり通っていると。
その現代に痛烈にメッセージを与えた本だと思います。
妻は落ち着いた照明の畳のお部屋で、
自分と赤ちゃんの自然なタイミングで、
丁寧にお産をする事が出ました。
その事を理解するには十分な本だと思います。
ちなみに著者の大野明子先生は産科の医師であり、
なんと当時僕たちがステイしていた高井戸で「お産の家 明日香医院」をやっています。
元助産師の妻曰く、
「現代医療の中で究極の自然が残されているのがお産の世界だと思う」というコメントがとても響き納得できました。
そんな色んなご縁のお蔭で、当時はこんな食生活になっていきました。
独り暮らし用のお部屋なので、足りない食器は100円ショップで揃えました。
そんな今でも続く、色んなご縁を頂いて、
全ては初めてばかりの中、新しい夫婦の僕たちは一生懸命に、
来たるべきお産の日を待っていました。
10月中旬のとある日の朝早くに、妻が叫びました。
「起きて!破水した!!」
そこからついにフィナーレともいえるお産が始まりました。
続きの③長女誕生編 は次回をお楽しみに(#^.^#)
泣いた…