検察審査会制度施行10年が経過し、制度を総括する特集記事を読んだ。
これまで検察審査会が強制起訴したのは9件13人であるが、判決前の1件3人(東電福島事故関連)を除いて判決が確定した8件10人のうち、有罪とされたのは2件2名である。プロである検察が捜査して犯罪を立証できなかった事案に対して素人である検察審査会が強制起訴できる制度は、検察の「起訴独占」に対して風穴を開けるとともに裁判員制度と相俟って国民の処罰感情を優先する制度として法制化されたものと理解している。検察審査会が最初に強制起訴したのは「明石市花火大会の歩道橋事故」の県警明石署警備担当者であるが、起訴当初から事故は警備担当者の想定を遥かに超える群衆が警備員の統制を無視して無秩序に行動したことが原因とみられ、強制起訴は検察審査会の行き過ぎと非難する声が多かった。判決では免訴となったものの免訴確定まで6年間を要し、その間は被告であり続けたために、彼が被った公私にわたる不利益は想像を超えるものであったと思う。その他の無罪判決を得た方々についても、「社会的に抹殺され、生活が破綻した」方がいるとも記事は伝えている。検察審査会が強制起訴した人は拘留されることなく在宅のまま裁判に臨むため、検察が拘留して無罪となった場合に支払われる刑事補償の恩恵も受けられず、彼等の不利益は国家補償されていないと報じられている。このような不十分な制度が存在し続ける背景には、日本弁護士連合会の検察審査会に関する委員会の副委員長が「公開の法廷で裁くことが制度の主眼で、無罪判決が多発することは織り込み済みであった」とするコメントや、「審査員が検察官が説明する不起訴理由には耳を貸さない」という事実に端的に表れているように感じられる。権力に対する検察の阿りを排除しようとする法の精神は尊重すべきであるが、検察審査会の審理が未公開であり法的責任も問われないことから恣意的に運用されているように感じられることには改善の必要があるように思う。検察審査会が強制起訴した福島原発事故についても間もなく判決が出るが、未曾有の惨禍であるものの学会ですら予想できなかった規模の災害に対する経営責任はどのように判断されるのだろうか。
小沢一郎氏と彼の資金団体である陸山会の金庫番が強制起訴された事件も象徴的である。東京地検が捜査したものの犯罪を立証できなかったものであり裁判の過程でも違法行為は立証できなかった。自分も陸山会の金の流れについては大いなる不信感を抱いていたが、適法に会計されていたのだろう。証拠主義に基づく現代法治社会にあっては情治は許されるべきではなく、検察審査会の強制起訴が人民裁判であってはならないとも思うものである。