川崎市で児童等19人を殺傷する事件が発生した。
犯行後に犯人が自殺したことから動機などの背景は不明であるが、まさに”気狂いに刃物”の所業である。現時点で犯人は、幾ばくかの近隣トラブルを起こしていたことと、幼少期に複雑な家庭環境に置かれていた程度しか伝えられていないが、何らかの要因が彼の狂気を掻き立てたのだろう。何らかの政治的な目的を達成するために暴力的手段を使用する組織や個人をテロリストと呼び、それらに対しては日常生活と行動を監視することによって、ある程度、直接的な行動を予防・局限・阻止することも可能であるが、社会の規範からチョット外れてはいるものの、狂気を内に秘めた人間が起こす犯行を予防する手段はない。先に”気狂い”という言葉を使用したが、現在ではIME辞書の変換候補にすら出てこない死語であり、”気違い”と書く方が多いようである。”気狂い”という言葉が忌避されるのは、精神異常者を指す場合にも使用されたからであるが、現在の〇〇依存症や××症候群に近い概念で使用されることの方が多かったように思う。そのため、△△気狂いのレッテルを張られた人物は隣組からの監視や興味の対象となり破滅的な行動までには至らなかったのではないだろうか。現在では隣人を監視することは悪いことで、特に隣人と没交渉であることの方が一般的である都市では、彼等の狂気を抑止したり彼等の凶行から身を守ることは不可能である。いきおい警備充実等の対処療法に依らなければならないが、全ての危険から身を守ることは物理的に不可能であると思わざるを得ない。欧米や誘拐ビジネスが横行する後進国では武器を携行するガードマンを雇って児童を保護したり、学校に武装警官を配置している事例もあるが、日本でも、そうせざるを得ない日が来たのだろうかと暗澹たる思いがする。
△△気狂いの悪しき面を取り上げたが、歴史上に名を遺す偉人は1時期において世間からは”△△気狂い”と評された人物が多い。今回の犯人のように社会に害をなす人間を早期に発見したり、将来大をなす人間を育てるためにも”気狂い”という言葉と概念を持ち続けることも重要ではないだろうかと感じた事件である。