もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

8050問題に思う

2019年06月03日 | 社会・政治問題

 8050問題という言葉を知った。

 いわゆる80(高齢者)が50(中年の引きこもり者)を扶養する現状を捉えた表現であるらしい。川崎(登戸)では50代の引きこもり者がスクールバスを待つ父兄・生徒を殺傷し、東京(練馬区)では76歳の元農水省次官が44歳の引きこもり息子を殺害した。元農水次官は次男の家庭内暴力に悩んでいたが、自宅に隣接する小学校の運動会の賑わいに対して攻撃的な言動をする次男を見て、攻撃が社会に向けられることを恐れての殺害とも報じられている。昨今30~60万人とも言われる中高年の引きこもりが問題視されており、泥縄式ではあるが種々の対策が模索されているので対処療法は俟つとして、対象者の引きこもりが始まったであろうと推測する昭和時代末の世相を思い起こしてキーワードを探してみた。昭和時代末は、はじけたとはいえバブル景気の延長で、多くの家庭が無職の子供一人くらいは養育できる程度の経済力を持っていたとともに、親は十分でなかった幼少期を思って子供への経済的支出を惜しまなかった。更に、ゆとり教育で社会生活に順応できない若者を個性的として容認する先進的?風潮がある一方で、引きこもりや家庭内暴力は家族の問題であるとして行政や警察は民事不介入という旧弊の姿勢であった。また、教育現場で矯正のための体罰が否定されたこともあり、子供は、社会に適応しなくても叱られることはなく、勝手気ままにしても親は養ってくれるという誤解を持ったまま成長したのではないだろうか。翻って、自分の幼少期を眺めると、先生からは矯正の拳骨を食らい、寒村の貧農では大人になったら自分で食べる道を探さなければならないことは子供心にも自明の理で、第一、襖で仕切られた純日本式家屋には引きこもるスペースが無かった。両者の環境を比べてみると、子供に過度の人権を認めることと成人後まで扶育する(できる)ことが、果たして正しいのだろうかとの疑問をもつものである。

 動物の世界では生きる術を教えられた子供は群れを離れる(離れさせられる)のは一般的な生態である。結論とする引きこもり対策のキーワードは《社会や教育現場が”社会に適応しなければ生きていけないこと””社会生活では種々の強制があること””親の脛を齧り続けるのは罪悪であること””身内であっても司法や行政の適用を受けること”を共有する必要がある》とするものである。それにもまして重要なことは、子供に『我慢すること』を教えることであると考える。