中国の天安門事件から30年が経過した。
中国は天安門広場を中心として全土で海外メディアの取材を制限しているが、中国を逃れた当時の活動家を中心として香港や台湾で、天安門事件に対する抗議や犠牲者の追悼行事が行われている。事件における犠牲者数については300人~数万人と様々で、中には中国全土で100万人とする説もあるが現在まで確定されていないのが実情と思う。中国政府は、事件当初に人民解放軍の実弾射撃はなく志望者は0と発表したが、後になって天安門事件の犠牲者を319人とし軍の発砲は威嚇のための空砲使用であったと、現在まで一貫した主張を続けている。天安門事件を振り返れば、ソ連ゴルバチョフの開放政策に危機感を持った鄧小平が不満分子のあぶり出しによる国内引き締のために行ったとする見方が的を得ているとみられている。鄧小平は、胡耀邦に「百花斉放・百家争鳴」を再提唱させて言論の自由化の推進を匂わせた。百家争鳴の是認を「言論の自由に引き続く共産党独裁終焉」と期待した学生や文化人は、政治改革を目標にして種々の反体制活動を活発化させたが、結果的には戒厳令(政軍一体の中国ではおかしいが)での人民解放軍による鎮圧に発展した。天安門事件が鄧小平の演出とされる根拠は、国内騒擾にまで発展した施策の提唱・推進者である胡耀邦氏が失脚後も政治局委員の地位にとどまっていたことによるが、胡耀邦氏没後の名誉と胡耀邦派の冷遇から更に複雑な党内事情と権力争いが有ったのかもしれない。
中国政府は、天安門事件を終始「国民的な運動の結果ではなく一部の反体制活動家による小規模の動乱」としているが、その割には事件に対する研究や著述や教育を禁止するとともに、ネットでも事件を検索できないようにしているため、最早中国の若年層は事件そのものも知らない人が大多数といわれている。古来「人の口に戸は立てられぬ」といい「悪事千里を走る」と云われているが、人の口と耳に戸を立てて、悪事が一里も伝わらないようにする中国の情報統制には驚かされる。近代民主制前は「民に知らしむべからず、依らしむべし」が治世の基本とされてきたが、天安門事件を矮小化・変質させた中国共産党は中世の原則を忠実に伝承する文化遺産であるかもしれない。かって中国を収めた歴代王朝は、朝廷の出来事を忠実・克明に記録した国書を作る慣例を持っていたが、おそらく天安門事件を伝える資料は残されていないだろうし、西側の研究や提言に対して「内政干渉」と撥ねつける共産党独裁が続く限り天安門事件の真実が明らかになることはないだろう。