大阪地裁が関西電力大飯原発に対する耐震基準の審査が不適切として、同原発への設置許可を取り消す判断を示した。
判断の根拠は、原子力規制委員会が耐震設計の基準に過去の揺れの平均値を採用しているが、「データのバラツキ」を考慮すれば1.4倍の揺れとすべきであるとしている。
昨年7月の九州電力川内原発運転差し止め訴訟に対して福岡地裁は、「破局的噴火(九州が全滅する規模)は原子炉等規制法の想定する自然災害に含まれず不合理とはいえない」と判決した。
現在、Go-To政策維持の是非について政府は不毛とも思える科学的(統計)エビデンスを求めて廃止時期を先送りしようとしている。
以上の3つの事象を並べてみると、物事に対する立法・行政・司法の3権・3様の違いや、裁判長の個人的な思想が如実に示されているようで興味深い(面白い)。何故に司法と行政が対立するのか、何故に判事間で司法判断が分かれるのかを考えたら、事象に対する人員被害(リスク)容認の幅が異なっているためであると思う。凡そ全てのシステムは故障・人員被害の危険性を内包しておりゼロリスクのシステムなど存在しない。行政はある程度の人員被害は覚悟して大多数の人が恩恵を享受できることを目指し、司法全体としては究極のゼロリスクを求めるものの、個々の判事では許容できるリスクにある程度の幅があることであるように思える。
絵空事であるかも知れないが、ハリウッド映画では軍事オプション選択の決断を迫られた大統領が、軍事行動を採らなかった場合の市民の被害と、軍事行動に因る軍人の死者予想を問う場面が多く描かれるが、多くの場合軍人を犠牲にして市民の被害を局限することを選択する。
おそらく日本政府の内部でも現在のコロナ禍においては、コロナによる死者と経済を回すことで生計を維持できる人間を冷徹に計算して諸施策を推進しているものと思いたい。英米にしても、極めて短時間にワクチンを承認する背景にはワクチンの副作用で失われるであろう人数と助かる人数を計算して早期接種に踏み切ったものと思う。
ダッカ事件でテロリストの要求に屈して坂東以下を釈放した日本が世界の指導者から白眼視された背景には、日本の指導者は国益や世界平和のために国民を犠牲にできない弱い指導者であると認識された結果であると思う。
コロナ第1波では国に先駆けて営業自粛と公的助成を行った小池都知事も、1兆円近い積立金を使い切った今ではGo-To東京除外を国に託しているのは、一部の都民に犠牲を強いてでも大多数の都民を長期的に守る覚悟が無かった・薄かったことの表れであるように思う。ワクチンも治療薬もない中国コロナに短期間(一撃)で勝利することができると考えたのであれば、都市(人口密集地)が感染症のパンデミックに弱い歴史を認識していなかったのであろうか。自分は第2・第3波には体力(国家経済)が続かないことを理由に私企業への公的支援は疑問と書いてきたが、不幸なことに的中しつつあるように感じられる。