本日は、日本の存立を主張すべく米英に宣戦布告した大東亜戦争の開戦記念日であるが、本日の報道を見る限りメディアもこのことを伝えてはいないように思う。
開戦は1941(昭和16)年で、既に79年が経過しており大東亜戦争自体が歴史となったことを示すものであるということもできるであろうが、敗戦後の東京裁判を現代史の始点と捉える人も開戦に至る背景を見直すために、考察されてしかるべき日であるように思う。何故に多くの学者・識者がが現代史の始点を東京裁判に置くかを考えれば、それが最も手軽な方法であるからであるからと思っている。明治維新以降の近代化・富国強兵政策によって人口は毎年1%増加する半面、国内での雇用が頭打ちとなった昭和初期では海外進出以外の打開策は無かったと思っている。当然のことながら、後発国である日本の海外進出は先発国である白人諸国との軋轢を生んで開戦に至ったものと考える。
戦争回避の手段として満州国の放棄と支那事変の終結を説く議論は多いが、その際、日本の地勢的な弱点を勘案しつつ増加する国民に職と糧を与える施策はどうあるべきであったか、就中、その場合の国勢や国民生活にまで踏み込んだ総合的は研究は行われているのか疑問である。東京裁判を現代史考察の始点とする人は、開戦に至る経緯の全てを悪として無視若しくは否定すれば仮定や数字に触れることなく論文が書けるために、思考停止を決め込んでいるように思えてならない。閑話休題
一つの事柄が「歴史」となるためには何年が必要なのだろうか。韓国人にとって日韓併合(1910(明治43)年は100年以上経た今も歴史ではなく、アラブ民族の反ユダヤ感情は3000年続いている。戊辰戦争における会津・薩摩の確執は150年過ぎた今も話題となり、京都人が「さきの戦争」という場合は応仁の乱を指しているとされる。「降る雪や 明治は遠く なりにけり」という俳句が浮かんだ。この句は、30歳の中村草田男が昭和6(1931)年に母校である東京青山の青南小学校を20年ぶりに訪れた時の発句とされているので、20年前の明治期で10歳当時からの変転を述懐する心象であるらしい。多情な俳諧師にとっては20年前も歴史であるのだろうが、40年前の不行跡を折に触れてチクリと刺す女房殿に煎じて飲ませたいものである。
主題の開戦記念日に戻ると、急速に増えた国民に糧を与えるために海外進出を図るのは歴史の必然であり、現在の中国が尖閣を狙い、一帯一路政策で経済的領土拡張を狙うのは日本が歩んできた道のトレースであるように思える。当時の日本よりも中国が巧妙なのは、(修正)社会主義という理念を伴ったハイブリット戦略を採っていることで、中国語教育支援という名目で心情中華を指導層に浸透させる戦術は各所で成功しており、文科相がチャイナチルドレンに牛耳られているのは周知の所である。これを防ぐためにも、開戦前の状況を理解しておくことは大事であり、開戦記念日を風化させてはならない様に思う。東京裁判史観に縛られた人は終戦の日に重きを置くが、開戦記念日以前をこそ現代史の原点とすべきではないだろうか。