お笑い芸人渡部建氏の会見の顛末を民放各社が総力を挙げて報道している。
会見を開いた理由は、不行跡の謝罪とも番組復帰の地ならしとも云われるが内容はさておいて、本日のテーマは会見のアレコレに関する所感である。
まず、刑法犯ですらない1芸能人の不行跡にこれほどまでに報道する価値があるのだろうかという疑問である。集近閉(3密)自粛の世相に反してまで多くの報道関係者が一堂に会し、公共であるべき電波を膨大な時間消費した結果、国民は何を得たのだろうか。一握りのファンにとっては一大関心事であろうが、多くの視聴者にとっては井戸端会議のネタが増えた程度であるように思える。
次いで違和感を感じるのは、会見に参集した記者が異口同音に「説明責任」と云う言葉を使用することである。説明責任なる造語は何時頃生まれ、何時頃に市民権を得たのであろうかは不明であるが、一応説明責任なる概念が存在するとして筆を進めることとする。そもそも責任とは、明確な指揮関係、契約、法律によって生じるものと考えるので、総理は国民に説明する義務があるものの国務大臣は任免権者である総理にしか責任は無く、民間企業の経営者が国民に向けて説明するのは法律違反が国民に損害を与えた場合にのみ行われるべきではないだろうか。渡部氏の例では、渡部氏が説明責任を負うのは所属会社に対してのみであり、損害を与えた企業に対する説明責任の全ては約に則って所属会社が負うべきである。まして国民や記者に対して説明しなければならない理由などどこにもない。
さらに遺憾に思うのは、会見の場で渡部氏が回答に窮したり回答を拒否したことに対して記者が「リンチまがいの吊し上げ」宜しく執拗に迫ったらしいことである。記者の主張は「我々には知る必要がある」と云うものであるらしいが、取材相手の恥部を含めたすべてをあからさまにできる権利を誰も記者に認めていない。電話番号ですら個人情報として保護を求める一部の国民やメディアも、芸能人や取材相手に対しては丸裸になることを要求する矛盾をどのように折り合いをつけているのだろうか。かっては芸能レポータと呼ばれていた一団の肩書が、近年では芸能ジャーナリストに変化している。このことについては、タレント・芸能人がテレビのニュースショーでMCをすることに対して、ジャーナリストではないと辛口に批判した櫻井よしこ氏や木村太郎氏の分析・御意見を窺いたいと思っている。
軍事組織では指揮関係に厳格で、艦長よりも上位で経験豊富な司令が乗艦している護衛艦の航海中には艦橋に司令と艦長が同時にいることも多いが、例え困難な局面にあっても司令は操艦や個艦の作業に口を挿めない。一人の乗員の過誤で艦隊の行動に影響が出た場合にも、責任は全て艦長にあり過誤を起こした乗員が司令に説明を求められることもない。これが海難事故であったとしても、司令は行政処分を科されることはあっても、被告として罪に問われることは無い。このような環境を当然としている自分にとって、渡部氏が所属会社が同席しない会見を設けること、改憲の場で説明することは理解できないし、何等の指揮関係を有しない芸能ジャーナリストが説明責任と称して渡部氏個人を追及することに限りない違和感を感じるものである。
改めて書くまでもないが、本稿は渡部氏が清廉潔白というのではなく、報道の適否と説明責任なる概念のあいまいさを述べるものである。