参院石川選挙区の補欠選挙で、自民(公明推薦)候補が勝利した。
保守王国とされる石川選挙区であれば当然の結果とされるが、野党敗因の一つとして「野党候補の一本化ができなかったこと」が挙げられている。
今回選挙に限らず、「野党候補の一本化」については素直に頷けない。
同一選挙区で、同一政党候補が乱立することでの共倒れを防ぐために候補者を一人に絞ることは選挙戦術として仕方のないところかと思うが、「主義・主張が異なるために袂を分かって政治活動している政党」が、例え自公政権打倒という共通の目的があるにせよ候補者を一本化することは有権者無視の所業で許されるべきでないように思う。
例えば、100の選挙区で立民と共産が候補者の一本化を実現したと仮定した場合、立民と共産の候補者配分はどうなるのだろうか。現有勢力を基にした比例配分か、はたまた両党党首の駆け引きの結果であろうか。いずれであっても、それは「票の貸し借り」であり、そこには有権者を人格のない「票」としか見ない政治家の驕りが見て取れる。
経済活動では、企業の生き残り・共生のためにする「談合」が自由な経済活動を損なう行為と厳しく罰せられるが、政治の場面では「談合」が許されてはいるものの、有権者の自由意思を制限する側面と被害者の多さを考えれば「選挙談合」はより罪が重たいように思う。
軍事では「戦略の過ちは戦術では挽回し得ない」とされる。例えば、大東亜戦争で「対米戦断行」とういう戦略過誤は「真珠港急襲」という戦術勝利では挽回できなかったというように使用される。
国民の多くが何らかの対処を求める憲法や安全保障に関して、今も時代錯誤の懐メロ政策という戦略を持つ立憲民主党は、それらを根本的に見直さない限り、選挙協力という戦術では党勢を挽回できないと思う。
政権を担える野党(自論では「ゆ党」)を持ち得えないのは日本の不幸であり、このまま立憲民主党が負け続けるならば自公政権に対するチェック機能は弱体化してしまうが、そんな事態になっても有権者は国政を「夢見る夢子ちゃん」である現在の立民に託そうとはしないだろう。
選挙協力という戦術が成果を挙げなかったことを自覚してであろうか、「泉代表は選挙の顔として相応しくない。野にある辻元清美氏を代表として選挙の顔に」と云う新戦術が党内で囁かれているともされるが、戦術としても未熟であるように思える。
立憲民主党は、心情左派のクラブ・サロンではなく、ましてや個人のファンクラブではないことを自覚して欲しいものである。