glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

視覚障害者のエスペラントによる国際組織

2005-04-13 09:20:02 | Weblog
 しまい忘れたエスペラントの新聞を見つけた。昨年の7月号でした。目についたのは『LIBE』という文字です。LIBEとは『Ligo internacia de Blindaj Esperantistoj』(視覚障害者エスペランティスト国際組織)の略称です。そこには幾度か大会で話しをしたウクライナのエスペランティスト、オレナの名前がありました。彼女はこの組織の代表者です。チューリッヒ・エスペラント会に招かれた時のインタヴュー記事でした。

 私が数年間文通していたのは彼女の友人のもう一人のオレナですが、そのことは次ぎの機会に譲ります。

 彼女がインタヴーの中で語っているのは次ぎのような自分たちを取り巻く状況でした。

 ・視覚障害者にとってエスペラントは他の外国語と比較するとかなり覚えやすい言葉である。最近は他の言葉を学ぶ人も増えている。
 ・旧ソヴィエト体制の中で視覚障害者の職業は厳密に限定されていた。電気配盤工(電気の配盤を作る人)、音楽家、マッサージ師、教師、弁護士。
 ・現在は一般人と同様に他の職業につこうとする人たちもいる。法律に関するスペシャリスト(裁判官、検事など)、コンピュータ関係の仕事など。
 ・しかし、視覚障害者を雇用するためには特殊な機械を導入する必要がある場合があり、それを嫌がる人もいる。
 ・仲間の中には自分たちには特別な権利がると特別な報酬をプラスするように要求する者もいるが、多くのものは、一般人と同等に待遇して欲しいと望んでいる。
 ・今自分は7人ほど教えて得いるが、本等はとても高価のなので、読んでやったり、音の雑誌などはコ ピーして配布している。
 ・LIBE の公式加入者は現在500名ほどであるが、その周囲には正式加盟していないメンバーがかなり多くいるし、現在は運動に参加していないが、かってメンバーだった人々は数え切れないほど存在している。
 ・2004年ベオグラードで行われたLIBEの大会には100名が参加した。
 ・自分たちは他の障害を持つ人たちとも協力関係を持つように常に努力している。

 これが、インタヴュー記事の概要です。私たちも、障害を持つ人たちと連帯できることがあるだろうと感じました。古い新聞も時には良いもですね。忘れていた心を思い出させてくれます。

 
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ヨーロッパの魔女たち

2005-04-12 08:47:51 | Weblog
 私が初めてエスペラント世界大会に参加したのは、1987年、エスペラント100周年を祝うワルシャワ大会でした。二人部屋の宿泊希望は現在では、互いに了承した二人でないとできないのですが、当時は一人で申し込むと、違う国同士の人を組み合わせて相部屋にしてくれました。ですから、初対面の人が少なくとも8日間いっしょに暮らす事になります。私は相手も決めず二人部屋を申し込みました。私の相手はドイツ人のウルシュラでした。
 彼女は当時まだ若く、2才と4才の子どもがいました。ヨーロッパ人の話し方は非常に早いので、彼女が話しているときに口を挟むのは大変でした。

 彼女は『ドイツ人はポーランド人にどのような謝罪ができるのか考えなくてはならない。若い人と話したい。1階のバーは金持ちか、外国人用だけれど、4階に地元用のバーがある。そこには若い人が一杯来るから行きましょう』と私を誘い出かけました。
 暗いバーには若者たちがたむろしていました。彼女は数人の若者に話し掛け英語で議論しました。私のために、時にはエスペラント訳を試みながら。
 日本人と違って勇気があると驚きました。もしかしたら恨んでいるかもしれない人ばかりの所に入り込み、議論まで仕掛けるのですから。

 もう一つの彼女の話題はキリスト教で、彼女はキリスト教は嫌いだというのです。なぜなら、権力を得ると、自分と少しでも意見が違ったり、服従しない人を魔女として処刑したと、キリスト教の歴史を延々と話してくれました。中世の暗黒時代がとても身近になりました。

 ワルシャワの出会いから数年後、彼女はヨガを始めたと便りをよこしました。3人目を出産して肥ったのでヨガをやったらとてもスリムになった、今度あったらわからないでしょうと書いてありました。最近も大会で会うのですが、昔の体形に戻っていました。
 スウェーデンのエーテボリであった時は、一番下の娘が大学資格試験に合格したお祝いに3週間イタリアのエスペランチストを訪ねとても良くしてもらった。そしたら、娘がエスペラントを始めたととても喜んでいました。

 
 数年前、息子たちとオランダのゴーダへ行きました。チーズで有名な町ですが、オランダではGの文字を発音しないのでゴーダとはいいません。でもここでは日本式に読んでおきます。この町でオランダの魔女で出会いました。

 
 ゴーダの町は馬蹄形をしており周りを大きな運河が取り囲み、小さな流れが町中を網の目のように流れています。町の中央には市役所があり、その迎いが繁街です。市役所の正面にはチ-ズ専門の店があり、2階が展示館になっていて、チーズの製造工程とか町の歴史が分かるようになっています。中央には昔の町の模型がありました。その模型の中にギロチンにかけられようとする黒い衣装の魔女がいたのです。驚く私たちに係員が笑いながら説明してくれました。

 昔、開拓時代のオランダには魔女法廷が10個ありました。ゴーダもその一つです。魔女の規定は次ぎの通りです。
 ・天秤にかけた20キロの牛乳桶を2個、肩にかけて持ち運びできない人。
 ・体重が38キロ以下の人。
 オランダの魔女はウルシュラが話してくれた魔女とは違いました。この国では体力のなく、働けない人が魔女だったのです。

 係員は背丈が180センチを超えていると思えるきれいな女性でした。彼女は私を見て何か言いました。『あなたは大丈夫!』と言ったとのことでした。

 この話しを疑う方は夏にゴーダを訪れてください。路地を入ると水に浮いたテラスで人々がゆっくりと午後を楽しんでいます。町の外の運河の周りにはコテージが沢山あり、人々は泳いだり、庭でバーベキューを楽しんでいます。オランダ人にとっては憧れの町の一つだそうです。

  
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とりとめもなく

2005-04-11 08:24:30 | Weblog
 昨日はエスペラントの会合があった。会議室の窓を覆う桜は満開で、靄のように空を隠していました。窓に近づくと川沿いの桜並木は春を楽しむ人でいっぱいでした。

今日は少々疲れています。


Jen senorde sendirekte (ィエン センオルデ センディレクテ)

ィエン センオルデ センディレクテ
Jen senorde sendirekte

カイ コンフーゼ カイ コムプリークテ
kaj konfuze kaj komplikte

ロンゲ ロンゲ ツィ ヤ プレンダス
longe longe ci ja plendas;

クヴァーザゥ ブランチョィン インテルプレクタ
Kvazau~ branc^ojn interplekta

ヴォルヴェ ヴィンデ ヴンデ ピィケ
volve vinde , vunde pike,

ロズ ソヴァーヂャ シン エテンダス
roz' sovag^a sin etendas -

ティエ ラ ブルヂョーノィ シュヴェーラス
Tie la brug^onoj s^velas

カィ アエーロ ィエン ミエーラス
Kaj aero jen mielas

  とりとめもななく

  とりとめもなく途方もなく
 ごたごたといりくんで
  ながながとぐちをいう
 ちょうど枝をもつらせて
  まきついたりからんだり
 ちくりときずをつけて
  野ばらがのびていくように
 そこにつぼみがふくらんでいる
  そして空気は密のようだ
  (作・訳とも 伊東三郎)
 
 夕べから小雨が降っています。年老いた友人に日本の春を見せたかったが写真は撮っていなかった。
 もう桜は散るのでしょうか。
   
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ブログは面白い!

2005-04-10 09:25:04 | Weblog
 私がブログを始めた動機は単純でした。知人のブログを読んで、そこからエスペラントをを検索したら殆ど無いに等しいのです。がくっりしていたら自分で書けば良いと言われ、2ヶ月迷った後、ブロガーになりました。
  
 なんとその後、エスペラントに関する記述が現われ始め、10件も無かった記事がもう80件を超えました。嬉しいですね。
   

 最近は、日々の行事の相談だけでも時間が足りず、エスペラントについて話すことが無くなっていたのです。ここでは色々意見が交わせるのです。なんだかブログにはまりそうです。

  

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日本語のエスペラント化

2005-04-09 08:14:29 | Weblog
多分エスペラントだけではないと思いますが、日本語の固有名詞を他言語で表現するのは結構難しいですね。
  

 先日、こんにゃくはエスペラントでどういうのだろうかと日エス辞書を引きました。Amorofofal-aj^o (アモロフォファラージョ)とコンニャク大好きな私でも舌を噛みそう名前でした。その上、エス和辞典にもエスエス辞典にも出てないのです。
  

 これは、Amorphophallus/konjac という植物のラテン名から日本の学者が命名したようです。どうしてコンニャクの方を採用しなかったのでしょう。エスペラントで<Konjako(コニャーコ)>はお酒のコニャックです。でも、Konnjako(コンニャーコ)にすればわたしたちはすぐに説明できます。以前から私はKonnjakoといい、カロリーが無いとか、線維があるとか、腸をきれいにするとかの説明をつけていました。今後もコンニャーコと言い続けます。

 一週間前、外国のエスペランティストを鮮魚料理に招待しました。エビ、タコ、イカなどはすぐに名前が浮かぶのですが、魚の固有名詞は出てきません。ピクピク動いていたエビのヒゲを誰かが髭と表現したのでみんなで笑いこけました。これはやはり触角ですよね。
   

 最近、ニュージランドのエスペランティストたちに、日本人も中国人も自分達の固有文化に根ざす言葉をエスペラントに導入したらよいと言われました。そうすれば、エスペラントはヨーロッパ中心言語から少しは脱却することでしょうね。ただ、現在使われている言葉と競り合う必要もないと思いますが。

 日本で世界大会が行なわれる2007年までの私の目標は、日常食する物の名前ぐらい言えるようになることです。

  

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青い鳥と緑の星

2005-04-08 07:58:14 | Weblog
 いつのまにか高校3年生になっていました。高校は生徒500名くらいの女子高で、大学進学者は殆どおらず、受験戦争とはほど遠い楽しい毎日が過ぎていました。私は漠然と進学を決めていたものの、実際は何を学ぶか進路を決めかねていました。その時、再び緑の星とめぐり逢いました。

 11月始めの土日は高校の文化祭でした。各クラブの展示会と演劇部、音楽部を中心とた講堂での公演が主な内容でした。公演には各クラスも何か出し物を出すのです。2学期が始まると、文化祭で何をするかがクラスの話題にになっていました。

 2年生の時、私たちのクラスには演劇部員が5人もいました。かれらの意見に押し切られ演劇をする事になりました。ところが、部員たちはクラスの演劇には出演できない、自分たちは指導するだけと言うのです。彼らが選らんだのは若草物語でした。小学校の学芸会以外、舞台に立ったことがないと私は抵抗しましたが無駄でした。私には主役のジョーの役が割り振られました。演技ができない私たちに業を煮やしたかれらは、終には演劇部の顧問まで連れ出し、厳しく指導された私たちは、どうにか舞台に立つことができました。

 クラス会での討論の時、私は人形劇をしようと提案しました。舞台に立ちたくない大勢が賛成し、演劇部員の意見を押し切りましたが、すぐに難問に直面しました。人形作りと舞台作りです。本で読んだ紙粘土を作り、それで人形の頭を作ろうとしたのです。ミキサーなどありませんから、濡らした新聞紙をすり鉢ですりづぶし粘土にしました。この作業は正に重労働でした。この労働を人形何個分もするのかとみんなうんざりしました。その上、試みに一つ作った頭はとても重かったのです。みんなで、無い知恵を絞っているとひとりが朗報をもたらしました。
 12月に人形劇団プークがこの町で『青い鳥』の公演を行なうので、団員が宣伝にやって来る、そして隣の高校で懇談会を開くことになったと言うのです。その時出席してくれたら人形の作り方も教えるというのでした。喜んだ私たちは参加すると返事をしました。この座談会に私たちのクラスから10名ほど参加しました。

 団員は3名程いたでしょうか。かれらがはじめに話したのは青い鳥の作者でもあるベルギーの文学者モーリス・メーテルリンク(1862~1949)についてでした。
 彼は日本のアジア侵略を非常に憎み、怒り、その遺言書の中で、自分の死後、50年間は自分の作品の日本での翻訳、上演を禁止しました。ですから、当然青い鳥の日本上演はできなかったのです。そこでプークの主宰は、未亡人に平和を愛するメーテルリンクの作品を是非日本の子どもたちに見せてくださいとエスペラントで手紙を書いたそうです。
 その時、貰った返事ですと回された手紙が私んの元にも来ました。薄いぺらぺらの紙で、そこには薄緑色の星のスタンプがありました。

 『緑の星』!

 それは、私が中学生の時に惹き付けられた緑の星でした。劇団の主宰受け取ってメーテルリンク夫人からの返事もエスペラントだったのです。エスペランティストのあなたならきっと平和を愛しているでしょう等々とあり、上演を許可しますという内容であると言う説明でした。
 メーテルリンク夫人がエスペランティストかどうかはわかりません。しかし、この言葉が実際に使用されているという感激がが私を突き抜けました。エスペラントと出会うためにやはり上京しなくてはと決心していました。
 エスペラントが現実に使用されているという喜びは、以後、私の支えとなりました。誰がどんなにエスペラントをけなしても、例えば役に立たないとか、死語であるとか、使用者が少ないとか言っても私はたじろくごともありませんし、エスペラントの実用性を確信しています。

 蛇足です。
 文化祭の人形は彼らの話からヒントを得て、新聞紙を丸めて頭の形を作り、和紙を貼り、乾いたところで新聞紙を抜き取るという手法で、軽くて見栄えのする人形を作る事ができました。当日は子どもたちが沢山見に来てくれて大盛況でした。ただ、手づくりの舞台は人形遣いがあまり動き回ったので最後には歪み、クラス総出で支えることとなりました。そして、幕が下りると同時に崩れ落ちました。

 私とエスペラントとの実際の出会いはこれから2年後のことです。その事についてはいつか話すことがあるかもしれません!

 また、プークとはエスペラントの PUPO KLUBO (人形クラブ)から頭文字をとったとその時言われました。つまり、PUKなのでしょう。

  
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緑の星に魅せられて 2

2005-04-07 07:52:43 | Weblog
 私は学校も勉強も大嫌いでした。でも本を読むのは好きでした。中学生になって一番嬉しかったのは図書室があったのです。本の数は大したものではありませんでした。自分の嫌いな分野、ドラマなどを除くと同じ本を年に数回読むことになるのです。それでも嬉しかったですね。
  

 講談社、岩波書店などの少年少女向けの本が大方を占めていましたが、当時少女小説家として名を馳せていた吉屋信子、小糸のぶ(?)などの本がありました。彼女たちの作品は今はやりの韓流ドラマに似ています。
 昼休みに借りた本は午後の授業2時間で読み終え、放課後借りた本はできるかぎり図書室で読み、読み終わらない時は家へ帰る途中読みながら歩きました。家への5キロ強の道のりは、踏切を除けば危険も無く、事故と言えば田んぼに落ちるくらいでしたので、本を読みながらでも歩調を変えずに歩けました。
  

 中学2年生だったでしょうか、同じ本を繰り返し読むのに飽きて学校劇の本を手にとりました。その中の一つのドラマに(題名は違っているかも知れませんが多分『緑の星の旗のもとに』)強く惹かれました。
 ドイツ軍に占領された小さな山村が舞台です。侵略者への抵抗として、ドイツ兵の目を盗み、子どもたちが教会の屋根に緑の星のついた旗を掲げるのです。朝になると旗は消えていました。そしてエスペラントを話すドイツ兵が子どもたちの前に現れ、命を大切にとかれらを諭すのです。
 私はとてもその緑星旗に惹かれました。それは本当に平和と友好の象徴なのか、また、実在するのか。大人になったら捜してみよう、緑の星とエスペラント必ず見つけ出そうと私は決心していました。

   
    
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緑の星に魅せられて 1

2005-04-06 08:24:22 | Weblog
 なぜ私がエスペラントにのめり込んでしまったのかを語るには、私がどんな子ども時代を送ったのか書かなければならないでしょう。
 1945年戦争は終わりましたが、当時は子どもを学校へ通わせるにしても、何を持たせ、何を着せ、何を食べさせるか、親の心配は際限がありませんでした。鉛筆、ノート、消しゴム、弁当、洋服、靴など全て品薄でした。手に入ったノートも鉛筆で書くと紙が破けてしまうし、鉛筆は削ると木部が欠けるし、芯は中で折れていると言うありさまでした。

 戦後まだ配給制度が続いていました。小学校1年生の時、洋服の配給切符がくじ引きであたりました。多分秋だったと思うのですが、せっかく手に入れたのその服は紺色の薄地の半袖のワンピースでした。翌年、母は『この色はあなたには合わない・・』と下の姉に着せました。私はいつもお下がりか、兄たちの洋服を作り直したものでした。時代が落ち着きだしてから、12才年上の姉は自分の給料で買った布でワンピースとかスカートなど夏物を作ってくれました。

 外では労働争議、姉が働いていた発電所の職員の誰と誰が共産党員になったとか、転向したとか言う話も子どもにも言い知れない不安を抱かせました。小学5年生の時には朝鮮戦争勃発、中学1年生の時に自衛隊の基礎となった警察予備隊ができました。そのような世界の激動は田舎の子どもである私にも伝わっていました。

 長崎で被爆した永井隆博士のエッセー『この子らを残して』が新聞に掲載されていました。母はそれを小さい私たちに読んでくれました。『お嬢さんの茅野さんはあなたと同い年、本当に不憫ねと』と。
 自分でも中学に入ってからこの本を読みましたが、この頃戦争に関する実録本が多くでました。記憶に残っているのは『原爆の子』、『基地の子』など、子どもの経験や苦しみを描いたものでした。中学生の時はすっかり反戦主義者になっていました。

 大人たちは国を守るために軍隊は必要である、平和憲法の枠では軍隊が作れない、警察予備隊と名前を変えても軍隊は持つべきだと言いました。
 中学生の私は、日本もスイスのような永世中立国になれば良い、もし平和のために戦う必要があるのら国民全員を訓練したらよいと主張し、社会科の時間に先生を困らせていました。
 私はウィリアム・テルやロビンフッドが好きでしたので、自由と平和のために戦うのは素晴らしいと思っていました。

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1945年8月14日。そして、アイスキャンデー

2005-04-05 08:25:51 | Weblog
 1945年8月14日。その日の午後、大人たちは落ち着きを失っていたのでしょう。夕方近くに、私たち子どもも、今夜大空襲があると知りました。実際に空襲がどんなものか知っていたわけではありません。ただ空襲になったらあの防空壕に逃げなさいと教えられていました。
 友人たちと防空壕の下見に行きました。他の顔見知りの子どもたちも数人来ていました。私たちはまるで夕方からキャンプやハイキングに出かけるように興奮していました。別れる時には、『また夜ね!』などと言ったような気がします。

 夕食後、兄たちと防空壕に行きました。防空壕は人でいっぱいでした。私たちを入り口に押し込んで、兄がほかの防空壕の様子を見に行きました。どこも人でが一杯だったようです。 
 町内ごとに、入る防空壕は旗の色で区分されていました。小さな町でしたが、三つの防空壕に町民全員が避難できるはずは無かったのです。ふと、ご真影の防空壕を思い出しました。あそこは空っぽなのにどうして人が入ってはいけないのだろうと。

 やがて父が来て言いました。『ここで死んだら、家族の骨も拾えない。死ぬ時はみんな一緒だ!家に帰ろう。』兄弟が多かったので、二人の兄は、ひとりはまだ中学5年生でした、軍隊に行っていましたし、姉も他の地方の赤十字病院で看護婦をしていました。
 家に帰ると玄関の土間にムシロを敷き、その上に敷布団が敷いてありました。灯火はありませんでしたがとても明るい夜でした。時間はわかりません。空襲警報がなりました。両親はわたしたちを寝かせ、上から掛け布団を掛けました。暑いので頭を出すと無理やり布団の中に押しやられました。飛行機のプロペラ音が響き渡りました。
 緊張に耐えられなかったのか、2才の弟が『オシッコ!』と騒ぎ出しました。困った母はいきなり私を起こし、『オシッコさせおいで!あなたは小さいから、敵から見えないかも知れない。』と、弟と一緒に外を押し出しました。その時、爆撃機B29がその銀色の機体を煌めかせながら、編隊を組んで頭上に飛んで来ました。恐怖に震えながら、私は弟にオシッコをさせていました。

 爆弾は落ちて来ませんでした。8月14日、日本は無条件降伏していたのです。しかし、爆撃機は日本が降伏する前に基地を飛び立っていました。爆弾を積んだままでは燃料不足になるので、飛行機が基地に帰ることは不可能でした。B29は海に向かっていたのです。全ての爆弾を海に投下して帰って行ったそうです。


 8月15日、戦争は終わりました。その日、大人たちは、ほっとしたような、気が抜けてしまったような表情をしていました。でも、私たちの生活に特別な変化は無かったように思います。
 翌日であったか、翌々日であったか記憶は定かではありません。アイスキャンデーが売り出されたと聞いて、母からお金を貰い買いに行きました。代金は多分、10銭か20銭です。母はなんと高いアイスキャンデーだと嘆きました。きれいなピンクと空色の2種類がありました。

 その味は? ― 冷たいだけ!!ただの氷でした。甘くありませんでした。

 砂糖は高価で一般には出回っていませんでした。この色水を凍らしただけのアイスキャンデーが私の初めての買い物でした。
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ご真影と防空壕

2005-04-04 10:02:38 | Weblog
 ご真影という言葉知っている方が、ブログを読む人の何パ-セントを占めるか想像できません。ご真影とは天皇の写真です。第2次大戦に負けるまで、天皇は神格化され、その肖像は礼拝の対象でした。

 戦時中、私はまだ幼児でした。母の生家がとなり町にあり、母は2才の弟を連れて、時々自分の母を訪れていました。そんな時、父が働いていた学校の教員室が、私の託児所となりました。私が学校にいると聞くと、教師を父に持つ二人の友達もやっ来るのです。学校とその周囲は私たち3人には安全な遊び場でした。クラスのある棟への出入りは禁止されていましたが、2階には標本室とか、柔道や棒術をする畳みの大広間があり、いつも私たちの好奇心を駆り立てました。3人は自分自身の足音に怯えながら、息を殺し、あちこちと歩き回り、不思議な緊張に耐え切れず、われ先にと逃げ出したりするのです。これも子どもにとって楽しい遊びでした。
   

 講堂も私たちの遊び場でした。ステージにはビロードの幕が垂れ下がっていて、そこは進入禁止の場所でした。ある時、幕が引かれていました。艶やかに光る木製の大きなケースが同じ色の台の上に乗っているのが見えました。
 私たちはステージに上がり、協力して観音開きの戸を引っ張りました。なんと扉が少し開き、紫の垂れ幕が見えました。3人は怖くなり、外へと逃げ出しました。
 後で父に聞くと、ここに天皇の写真、ご真影が保管されていたのです。3人ともひどく叱られました。父親3人は、私たちのした事を誰も見ていなかったことを知り安心したことでしょう。これは多分親の監督不行届き、もし、私たちが大人なら不敬罪に相当する犯罪だったでしょう。
   


 1945年初夏、町の人たちが校庭に防空壕を4個作りました。それぞれの防空壕の上に違う色の旗が立てれました。記憶違いでなければ、紫、青、緑、黄色の旗です。私たちは、すぐに防空壕を見に行きました。その広さは、学校の教室の半分より狭い感じでした。

 紫の旗の立つ防空壕の前には縄が張られ、大人たちはここは入ってはいけないといいました。私たちは、大人たちの目を盗んで、縄の下を潜り抜け、その中に入りました。特別なものがあるわけでもなく、荒削りの板で急いで作ったと思われる粗末な台が、中央にあるだけした。

 なぜ台があるのかと父に聞くと、私たちの侵入に呆れ顔の父は、もうすぐ大空襲がくる。あそこはご真影を避難させる防空壕だと教えてくれました。ご真影は、とても大切なものだなと、私は感じたのでした。

    
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初めて使った外国語は

2005-04-03 08:20:19 | Weblog
 私が初めて使った外国語は "No thank you" 英語でした。 それは終戦の翌年の三月の下旬のことでした。私の住んでいた田舎町にも進駐軍の兵士が学校視察というか、教育状況を監査するためにやって来ることになりました。先生も生徒も大変でした。みんな教科書のあちこちを墨で塗りつぶしていました。私の父も友人たちの父も、殆ど教師でしたので、進駐軍来るという日の数日前から私たち子どもも興奮しきっていました。私たちは、大人たちが話していた進駐軍が来る時間に合わせて、アメリカ人を見物に行こうと約束していました。

 3才の弟を連れて出かけようとすると母は行ってはいけないと引き止めました。母は、進駐軍は子どもたちにガムをくれると言うのです。子どもたちが嬉しそうにガムを貰う姿を見るのは我慢できないと言うのです。
 戦争が終わってもう半年以上経っていました。映画館が営業を開始し、エノケンの‘たぬき御殿’とか戦前の映画を上映していました。その時に短いニュースがあって、進駐軍の映像はもう上映されていたのです。
 頑固な私に母は条件付きで折れました。ガムは決して貰わないこと。ガムを差し出された "No thank you" と丁寧に断ること。

 1945~6年の冬は積雪が多く、雪は門柱の上部に達するほどに積っていました。アメリカ人は背が高いと聞いていたので、彼らが良く見えるように、私たちは門柱に上ることにしました。弟を押し上げて私たちも上りました。数人反対側の門柱に上っていました。学校の校門は通りに面していたのですが、学校は奥まった所にあり、校門は教員室から見えませんでした。例え門柱に上ったとしても誰も私たちを引きずり下ろす心配はありませんでした。
 やってきたアメリカ人は4~5人いたのでしょうか、私たちの前に立ったアメリカン人は、白い紙に包まれたチューインガムを差し出しました。私と弟は両手を後ろに回し、"No thank you" "No thank you" と叫んでいました。
   

 あれから59年経ちました。あの"No thank you"は、敗戦国国民であるが、民族としての誇りを失いたくない、母の小さな示威表現だったと,今、私は思っています。
 
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青い鳥の歌

2005-04-02 09:08:10 | Weblog
 青い鳥の歌をご存知ですか。メーテルりンクの『青い鳥』の歌なのです。古いものだろうと思います。メロディも単調単純で今の子どもの歌とは比べられません。

  夢のお国の青い鳥
  おまえの生まれはどこの国
  オランダ、イタリア、スペインか
  南の南の熱い国

  夢のお国の青い鳥
  おまえの生まれはどこの国
  チルチル、ミチルいましたら
  母さんどこへ行きましょう
  

  1946年、終戦の翌年父の転勤で山のふもとにある村に引越しました。貸家が見つからず小さな山の山腹に住みつきました。すぐ近く、下の方にツタに覆われた発電所がありました。戦前は白亜の建物だったそうですが、爆撃を逃れるために、ツタを這わせたということでした。
 夜の電灯は、当初は点いていたのですが、世の中が落ち着くに連れ、電球のタングステンが赤くなるだけで、電球の存在を示すだけのものとなりました。銅線の方が方が電気を良く通すのだそうですが、当時の電線の多くは鉄線でした。お金儲けをした人が、自分の家への配線を銅線に変えていったのです。ですから、配線が鉄線の家には、余裕がある時以外は、電気が来なくなっていったのです。
 発電所を目の前にしながら、我が家では、夜はランプとか、カーバイトとかを点けました、そして家族は、ストーブや灯火のそばに集って、父や母の話しを聞きました。
 母が話してくれた物語、青い鳥、レ・ミゼラブル、グリム童話、アンデルセンの童話、日本の昔の話、アイヌの物語等々、記憶にあるものだけでも数えきれません。父は歴史が中心でした。世界史、日本史の断片を楽しく話してくれました。食べ物は無かったけれど、テレビゲ―ム漬けの今の子どもたちと比べると、心豊かに育ったように思います。
   

 お話は私を見知らぬ国に駆りたてました。青い鳥の物語は幸せは家庭にあるということを教えているのですが、私は歌の中の熱い国、オランダ、スペイン、イタリアへぜひ行きたいと願っていました。
 本当はオランダは熱い国ではないのです。歌の作者も外国など行ったことは無く、想像で書いたのでしょう。
 1993年、バレンシアで開かれた世界エスペラント大会の後、8日間の旅行に参加しました。同室者がオランダ人でした。がっしりとした体格で背も高く、杖をついていました。そして大きな旅行カバンを持っていました。そのカバンの中には大判のバスタオル3枚と部厚いレインコートが入っていました。
 彼女が言うには、スペインは暑いと聞いたけれど、こんなに暑いとは思わなかった。オランダは雨が多くて気温も上がらないので、ぬれた時の用心にバスタオルも沢山持ってきたというのでした。バス内の気温表示は時には49度Cになっていたのです。   


 彼女は70才でした。クリスマスカードだけの付き合いでしたが、もう2年カードを受け取っていません。
 もうひとりフランス人の女性が杖をついていました。私が、このように体が不自由になった時、果たして家族は、海外への旅行を許すだろうかと考えました。もしも家族を説得しても、世間が家族や私を嘲笑うでしょうね。
 日本の社会は障害のある人には生き難いですね。ミィユンヘン空港でのできごとです。私は息子とアテネ行きの飛行機を待っていました。自閉症らしい、8~9才の子どもが、慣れない環境の中で不安に駆られ、飛び上がり、泣き喚いていました。家族も近くの人たちも平静で何事も起こっていないような態度でした。日本なら親はオロオロと困惑し、周囲の人たちは避難し、遠巻きに眺める事になるでしょう。
 話は青い鳥からそれてしまいました。

   
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ブローニュ・チェ・マル

2005-04-01 13:34:09 | Weblog
 3月29日付けのラジオ・ポロ―ニャの放送を聞いていると、アナウンサーのバルバーラ・ペィチャックさんとフランスのエスペランティスト達の弾んだ声が聞こえてきました。ブローニュ・チェ・マルからのレポートでした。
     

 ブローニュ・チェ・マルは、1905年8月5日~13日、第一回世界エスペラント大会が開かれた町です。それから100年、エスペランティストたちは、2回の世界大戦のある時期を除いて各国持ち回りで同じ時期に世界大会を開いてきました。今年は第90回で、リトアニアのビリニュスで開かれます。
 今年はその大会から100周年にあたります。フランスのエスペランティストたちが、記念大会を開いたのです。期間は3月25日(金)~30日(水)で、参加者500人に制限しています。1905年に使用したホールを使用するのですが、そのホールの収容人員が500名なのです。

 1905年、フランスのこの小さな町に、ヨーロッパ各地から500人のエスペランティストたちが集りました。世界大会への参加者たちでした。当時のヨーロッパ人にとって世界とはヨーロッパでしたから、彼にとってこの大会は、正に世界大会した。当時のエスペランティストたちは、いま以上に各地に点在しており、手紙を書くことはあっても、エスペラントで話すことは殆どありませんでした。500人ものエスペランティスとが一同に会して話すという事は初めてでした。会って見ると、自分の意見や意思をきちんと伝えることができたのです。同時期に、エスペラントの読み方の手本として録音された。、創始者ザメンホフの声が蝋管に残っていました。再生されたその声を、現在でも聞く事がでができます。それから想像すると、当時のエスペラントの会話今のように溌剌としておらず、間延びしていたように思えます。ですが、互いに理解し合えているという実感は、初期のエスペランティスとたちに、この言葉の機能性への自信を深めさせたことでしょう。
 ザメンホフの演説を読むと、出会いの喜びを感じ、私の心も躍ります。
   

 今回の大会の内容については、残念ながら放送しませんでした。でも。大会開催者たちの開催の喜びと今後に繋がる自信を聞く事ができました。そのうち、バルバーラさんが、内容について報告してくれることでしょう。楽しみにしています。

  
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