ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

「日本財団パラリンピックサポートセンター」―その支援理由―

2015年11月21日 02時36分01秒 | 障害者の自立

日本財団は、2020年のパラリンピックを全面的にサポートし、オフィスの提供、翻訳、通訳、経理事務等のバックアップをすることにした。今一つ知名度の低いパラリンピックを国民に啓蒙し、2020年を成功に導きたいと願っている。

ロンドンが良い例である。パラリンピックに力を注いだ結果、ロンドンは大成功した。今やパラリンピックの成功なくしてオリンピックの成功もはない。

日本財団は、何故100億円もの巨費を投じてパラリンピックを支援するのだろうかとの疑問の向きもあろうかと思う。

日本財団は、長く障害者支援活動を国内外で行ってきた。国内では福祉施設の建設、作業所支援、障害者の海外留学、手話言語法制定へ向けての活動、国際的には途上国の障害者学生の海外留学、義手・義足校の設立、障害者の組織化、職業訓練、障害者による文化・芸術祭の開催等々、枚挙にのぼる。

かつて日本財団では時代の要請の中で、日本の郊外に老人ホームや障害者施設を建設し、支援を行ってきた。その結果、町の中は健康な人だけの生活の場になってしまった。昔は盲人がいたら子供でも自然に手を引いたり道案内をしたものである。

近代化が進む中で、子供たちのみならず大人までが弱者に対する思いやりがなくなってしまったことに気付き、以来20年、箱物(施設)の建設支援は一切行っていない。かわりに障害者や老人の移動サービスのための自動車配備を徹底してきた。現在国内では約4万台の車両が日夜活動しており、クロネコヤマトに匹敵する台数である。6~7年使用された車両は二次活用として、整備と若干改造を経てミャンマー、スリランカ、ペルーなどで活躍しており、多くの病院で喜んで使っていただいている。

長々と日本財団の障害者支援活動を述べたのは、障害者と健常者が共に垣根なく生活できる環境を社会に定着させたいからである。その意味において、障害者スポーツ、文化・芸術活動、起業家の成功等は健常者に感動を与えるものであり、失意に落ち込んでいる健常者が障害者の成功を見て発奮する人もいるだろう。

又、障害者は常に国や地方自治体の援助で生活していると思っている人が多い。事実そのような方々も存在するが、安倍首相が推進する「一億総活躍社会」が実現すれば、障害者も納税者へと一変させることもできるはずであり、大規模財政赤字の改善にもつながる。

日本財団は今、国連の中にも障害者の活躍の場を作るべく活発に活動している。地球規模で障害者が夢と希望を持ち、健常者に感動と生きる力を与える存在になってもらいたいものである。

るる述べたことでご理解いただけたと思うが、日本財団は健常者も障害者も共にコミュニティーで生活できる社会の形成を目指している。今回のパラリンピックサポートが、夢の実現の大きなステップになるようにしたいものである。

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パラリンピックサポートセンター内部。窓側左はオープンで明るい25競技団体のスペース


障害児出産「減らせれば」と発言 茨城県教育委員、おわびし撤回

2015年11月21日 02時32分12秒 | 障害者の自立

 茨城県庁で18日に開かれた教育施策を検討する会合で、県教育委員会の長谷川智恵子委員(71)が、障害児らが通う特別支援学校を視察したことに触れ「妊娠の初期に(障害の有無が)分かるようにできないか。4カ月以降になるとおろせない」「茨城県では(障害児の出産を)減らしていける方向になったらいい」と発言していたことが19日、分かった。

 長谷川委員は東京・銀座にある日動画廊の副社長で、茨城県笠間市の笠間日動美術館副館長を務めている。取材に対し「障害を否定するつもりはなかった。障害児を持つ家族の負担を考えて発言したが、言葉足らずで不適切だった」と釈明した。その後、県教委を通じて「心からおわび申し上げるとともに発言を撤回する」とのコメントを発表した。

 母体保護法は、胎児の異常を理由に中絶することは認めていない。だが、実際には母体を守るためや経済的に苦しいなどの理由をつけて中絶が行われている。

2015.11.19    産経ニュース


障害児出産発言、茨城の教育委員が撤回 「配慮足りず」

2015年11月21日 02時24分02秒 | 障害者の自立

 18日に開かれた茨城県総合教育会議で「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などと発言した県教育委員の長谷川智恵子氏(71)は19日、「障害のある方やご家族を含め、多くの方々に多大な苦痛を与え、心からおわび申し上げます」とのコメントを出し、発言を撤回した。

 長谷川氏の発言を「問題ない」などと話していた橋本昌知事も同日夜、「私の発言が障害のある方々あるいは関係者に苦痛を与えたとすれば、誠に遺憾」として、自身の発言を撤回する談話を発表した。

 長谷川氏は東京・銀座の日動画廊副社長。19日の取材に対し「配慮が足りず言葉足らずだった。障害のある人を差別する気持ちで述べたものではない」と話した。一方で、「(特別支援学校の)生徒さんたちの作品を見て、多様な才能があると理解した。美術の世界でお手伝いができればと思う。失言で迷惑をかけたが、茨城の国際化や美術・文化の振興をするために頑張りたい」などとして、教育委員を続投する意思を示した。

 県庁や県教育委員会には19日夕までに電話やメールで100件超の意見が寄せられた。「障害者や家族が不幸だという思い込みや偏見がある」「教育委員をやめるべきだ」「知事が擁護するのは問題」など、長谷川氏や橋本知事に対する批判的な内容が多かったという。

 ツイッター上では、「優生思想の正当化だ」「親が大変そうだからというなら、負担を減らすために社会ができることを考えるべきでは」といった批判のつぶやきが相次いだ。「五体不満足」の著書がある作家で東京都教育委員の乙武洋匡さんもツイッターに「私も生まれてこないほうがよかったですかね?」と書き込んだ。

 脳性まひの当事者である長野大学の旭洋一郎教授は「私たち障害者とその家族は、絶えず『かわいそう』『家族や社会の負担になる』という形をまとった優生思想によって、自分自身を否定される恐ろしさに脅かされながら暮らしている。世間にそのことを知らしめることに力を尽くすのが、教育委員という立場のはず。撤回すればいいというものではない」と話した。

2015年11月20日   朝日新聞


老人ホームで虐待?苦情や相談はどこに言う?

2015年11月21日 02時20分37秒 | 障害者の自立

あれ?これってもしかして…

大切なご家族が入居する老人ホーム。快適な生活が送れるようにと、いろんな施設を見比べて入居を決められる方が多いでしょう。ですが、実際に暮らしはじめてみると、職員の対応に不満や不信感を抱くことがあるかもしれません。

この状況をどうにかしたい!そんなときに頼れる苦情・相談窓口をご紹介します。

まずは市区町村!

本来なら老人ホームと入居者側の話し合いで解決したいところ。ですが、そこで解決できないことや直接は言いづらい話だって少なくありません。

そんなときは、老人ホームがある市区町村に話しましょう。苦情相談窓口、あるいは利用されているサービスを担当する課が窓口です。介護保険なら介護保険課、障害者福祉なら障害者福祉担当課や福祉事務所ですね。苦情や相談の内容に応じ、関連機関と協力して調整や問題解決に動きます。弁護士などに専門的な相談をできるよう、取り次ぎを行うところもあります。

出典:http://www.fukunavi.or.jp/

市区町村がだめなら国民健康保険団体連合会!

各都道府県に1か所設置が義務付けられている「国民健康保険団体連合会」。市区町村では解決できない問題や取り扱いが難しい場合は、こちらに相談を行いましょう。中立的な立場で事業所の調査を行い、必要に応じて指導や助言を行ってくれます。

運営適正化委員会もあります

介護保険制度が適応されないサービスについての相談はこちら。各都道府県社会福祉協議会による設置が義務付けられている委員会です。国民健康保険団体連合会と同様に、中立な立場で相談や苦情の対応を行います。

高齢者虐待の窓口!地域包括支援センター

老人ホームに限らず、高齢者に対する虐待やその可能性を見かけたとき、地域包括支援センターがその相談・通報窓口となります。
支援センターに在籍する社会福祉士が中心となり、必要に応じて自治体や警察と連携して対応します。

あれ?と思ったその気持ちを大切に

「虐待を受けているかもしれない」と思っても、証拠がなければ「もしかしたら思い過ごしなのかも…」と相談をためらうかもしれません。
ですが、「あのとき相談しておけばよかった」と後悔するよりも、その違和感を大切に行動してもらえたらと思います。
虐待の通報や相談にはっきりとした証拠は必要ない、と法律でも定められています。不満や不信感を抱いたままケアを任せるのは避けたいもの。もし思い過ごしだったとしても、「虐待はなかった」と確認できるだけで安心できますよね。心に抱いたモヤモヤを解消させ、スッキリした日々を過ごしていきましょう。

2015.11.20    介護のほんねニュース


アンプティサッカー5年(上)“片脚のサッカー”ゼロからの日本代表誕生

2015年11月21日 02時09分04秒 | 障害者の自立

[写真]つえでのプレーとは思えないようなジャンピングボレーを放つ選手

 片脚のない人が ロフストランドクラッチと呼ばれる医療用のつえを使って、フィールドプレーヤーとして6人。片腕のない人がGKを務める、7人制。障害者といえど、熟練者のプレーは圧巻だ。クラッチを支えに脚を後ろに持ち上げ、振り子のようにフォロースルーを入れ、強烈なシュートを放つ。クロスやセットプレーからは、片脚と思えないような高い打点のヘディング。体を投げ出すダイレクトボレーやオーバーヘッドキック。片脚でボールをまたぐフェイントや、エラシコ。スピード豊かなドリブルは2本の脚で立つ健常者さえ抜き去る。トラップ動作を補うためのダイレクトプレーは美しさすら覚える。

 接触プレーは茶飯事で、11人制同様、正当なプレーであれば相手が倒れても反則を取られない。プレーの華麗さ、激しさ、戦術。高レベルの対戦では、彼らを障害者、などと呼ぶのがためらわれるほど、エキサイティングな競技だ。

 1980年代、アメリカの負傷兵のリハビリとして考案され、日本に"輸入"されたのは2008年。日本選手権は11年から開かれている。たった1人から始まった国内の選手人口は、今では7クラブ、約80人に。まだ普及途上だが、年ごとに着実に裾野を広げている。

 ピッチの広さは通常のサッカーの3分の2ほど。6人のフィールドプレーヤーでカバーするにはあまりに広い。選手交代が自由とはいえ、25分ハーフを つえで走り回るきつさは想像を絶する。体験し「走るだけでも無理」と悟り、二度とピッチに立たない人も多い。加えて、ドリブルやシュート、トラップ、パスは全て片脚で、GKも片腕でセービングやキャッチしなければならない。 つえや残ったもう片方の脚(GKは残った腕)でボールを触ると「ハンド」の反則を取られる点も含め、ボールの扱いはサッカーより明らかに難しい。

 プレーヤーの中には、義足を使えばフットサルやサッカーを難なくこなせる選手も。Jリーガーを輩出する九州の名門高サッカー部で、義足を着けて3年間戦った選手もいる。パラリンピックの陸上種目出場者もいる。なのに、彼らは義足を脱ぎ、あえて不自由で、過酷な戦いに挑む。何がそこまで彼らをとりこにするのか。日本アンプティ界の5年の歩みを振り返りつつ、魅力を探る。

元ブラジル代表が日本に「輸入」

 この男に触れずに、日本のアンプティは語れない。エンヒッキ・松茂良・ジアス(26)。日本王者クラブ「FCアウボラーダ川崎」 の点取り屋で、日本代表の絶対的エース。競技を持ち込んだ伝道師でもあり、国内アンプティサッカーの象徴的存在だ。

 ブラジル育ちの日系ブラジル人3世。5歳の時の交通事故で右脚を失ったスポーツ少年は、10歳で競技に足を踏み入れる。当時、アンプティサッカーW杯王者だった母国の代表に魅了された。練習を重ねて18歳で憧れのブラジル代表入りし、W杯出場。「もう一つの夢だった」と語る日本移住を果たすため、19歳で就職を機に日本へと渡った。

 「来日直後からいろいろ調べて、日本では誰もアンプティサッカーという単語を聞いたことがないと知った」。まずはプレーの場を模索。職場の同僚の杉野正幸(42)がコーチを務めていた、知的障害者のサッカースクールに参加する。その時、取材を受けた動画がネット上に残っている

杉野「自分の常識の枠を超えるプレーにびっくりしました。体をひねって全体重をボールに乗せて、こんなにインパクトのあるボールを蹴れるのか、つえに何か仕掛けているんじゃないかと疑いました。どんな手順で広めればいいのか分からないけど、とにかく、この競技に携わりたいと決意しました」

 杉野は後に日本代表監督となり、日本アンプティサッカー協会の立ち上げにも貢献。国内での競技の普及や強化に大きな役割を果たす。

 競技を広めるため、エンヒッキが杉野の他に大きく頼った のは、義足の製作、調整などに携わる「義肢装具士」。彼らのネットワークを通じて体験者を募り、10年4月に国内初の練習を実施する。日本初のアンプティサッカークラブ「FCガサルス」の誕生の瞬間でもあった。勧誘と練習を重ね、メンバーも増え始めた夏ごろに、W杯出場の話が飛び込む。会場はアルゼンチンだった。

 W杯は30か国・地域が加盟する「世界アンプティサッカー連盟」がほぼ隔年で開催。直近14年にあった第10回大会は過去最大となる21カ国・地域が出場した。同連盟の副理事も務める杉野らによると、近年はウズベキスタンやロシア、トルコなどが強豪で、エンヒッキの母国ブラジルは、選手の高齢化などでかつての強さを失いつつある。

エンヒッキ「僕からW杯の話をしたときに、誰も来てくれないかと不安だった。自腹で1人30万円出して、会社を休んで、よく分からない大会のためだけに地球の反対側まで来てくれるか。みんなが行くって言ってくれて、すごくうれしかった」

初の実戦がW杯アルゼンチン戦

 当時、大分県から練習のため上京していた加藤誠(32)は振り返る。「Youtubeで見たエンヒッキの映像が、あり得ない迫力だったんですよ。それと、自分が日本代表になれるんだ、って」。小中高とサッカー部で、社会人になってからもフットサルを楽しんでいた加藤。交通事故で左脚を失った彼にとって、サッカーができること、世界で戦えることは、アルゼンチン行きを決意させるには十分すぎる魅力だった。選手10人、紅白戦すらできず、実戦未経験の日本代表は10月、南米へと旅立った。

 W杯初陣、どころか、エンヒッキを除く9人にとっては人生初の試合。相手はホームのアルゼンチン。観衆は「少なくとも数千人」(加藤)「1万人はいた」(杉野)と振り返る大アウェー。「もちろん勝てるとは思ってなかった。とにかく緊張の表情で、パスを要求しても何も聞こえてない選手もいた」(エンヒッキ)。初戦を0-8で落とすと、1次リーグ、順位決定戦も全敗。5戦5敗、得点1、失点28が日本の船出になった。

 金も時間もかけて乗り込んだ結果。「もう二度とやりたくないと思うのでは」。エンヒッキらの心配は杞憂だった。大観衆に囲まれてのプレー経験は、勧誘活動へ選手たちを駆り立てた。加藤は地元・九州で選手を集め「FC九州バイラオール」を立ち上げ。神奈川では「TSA FC」も発足していた。のちのち他の代表選手も、地元や転勤先で次々とチームを結成することになる。

[写真]第2回日本アンプティサッカー決勝。空中戦や激しい接触プレーも見られた

 世界の舞台での苦い経験を思い出だけにしたくない――。たどり着いた答えは国内大会。選手人口の拡大、競争を生み実力を底上げすべく、関係者は動く。強くなるために、目標を持つために、とにかく試合の機会が足りなかった。W杯から1年後の11年12月、3チーム、約30選手を集め、記念すべき第1回日本選手権開催に至る。

杉野「W杯は行ってしまえば、主催国の運営にのっとって試合をするだけですけど、未経験の自分たちが大会を運営するのはとてつもない労力でした。お金を持ってくる、会場を設営する、運営する、スタッフを募る、集客する、という全ての要素を一気にやらないといけない。それだけに達成感は大きかった。何よりもうれしかったのは、大会がメディアに取り上げられて、やりたい、見たいと行ってくれる人が増えたことです」

 実はもう一つ、主催者の大きな仕事があった。選手集めだ。九州は第3回大会まで7人の選手がそろわず、第1回は当日だけの助っ人を加えて戦った。杉野も勧誘に関わった。

 「出場できない、と言っていた人に電話して、『仕事が忙しいんだったら僕が上司に手紙を書くから、名前を教えてくれ』とお願いしました。そしたら、『僕が社長なんです』との返事で(笑)。『せっかくの機会なので、観客の前でやってみませんか』とさらにまくしたてて、口説き落としました」。「社長」とのあだ名でも呼ばれるその選手は、その後誕生した「関西セッチエストレーラス」に所属し、主力として活躍している。

 翌12年の第2回大会ではさらに参加クラブ数、選手数ともに増加。大会後、前回は全員参加だったW杯へ、約40選手から13人を選ぶ初めての代表選考を経て、日本はロシアへと出陣する。世界を知るエンヒッキから見ても、海外と遜色ないレベルの選手も複数加わった。「日本のベストメンバー」「負けて当たり前だった前回とは違う」。

 だが、代表に漂う自信は、あっさり打ち砕かれた。(続く)

※後編は11月20日に配信し

2015.11.19    THE PAGE