[写真]つえでのプレーとは思えないようなジャンピングボレーを放つ選手
片脚のない人が ロフストランドクラッチと呼ばれる医療用のつえを使って、フィールドプレーヤーとして6人。片腕のない人がGKを務める、7人制。障害者といえど、熟練者のプレーは圧巻だ。クラッチを支えに脚を後ろに持ち上げ、振り子のようにフォロースルーを入れ、強烈なシュートを放つ。クロスやセットプレーからは、片脚と思えないような高い打点のヘディング。体を投げ出すダイレクトボレーやオーバーヘッドキック。片脚でボールをまたぐフェイントや、エラシコ。スピード豊かなドリブルは2本の脚で立つ健常者さえ抜き去る。トラップ動作を補うためのダイレクトプレーは美しさすら覚える。
接触プレーは茶飯事で、11人制同様、正当なプレーであれば相手が倒れても反則を取られない。プレーの華麗さ、激しさ、戦術。高レベルの対戦では、彼らを障害者、などと呼ぶのがためらわれるほど、エキサイティングな競技だ。
1980年代、アメリカの負傷兵のリハビリとして考案され、日本に"輸入"されたのは2008年。日本選手権は11年から開かれている。たった1人から始まった国内の選手人口は、今では7クラブ、約80人に。まだ普及途上だが、年ごとに着実に裾野を広げている。
ピッチの広さは通常のサッカーの3分の2ほど。6人のフィールドプレーヤーでカバーするにはあまりに広い。選手交代が自由とはいえ、25分ハーフを つえで走り回るきつさは想像を絶する。体験し「走るだけでも無理」と悟り、二度とピッチに立たない人も多い。加えて、ドリブルやシュート、トラップ、パスは全て片脚で、GKも片腕でセービングやキャッチしなければならない。 つえや残ったもう片方の脚(GKは残った腕)でボールを触ると「ハンド」の反則を取られる点も含め、ボールの扱いはサッカーより明らかに難しい。
プレーヤーの中には、義足を使えばフットサルやサッカーを難なくこなせる選手も。Jリーガーを輩出する九州の名門高サッカー部で、義足を着けて3年間戦った選手もいる。パラリンピックの陸上種目出場者もいる。なのに、彼らは義足を脱ぎ、あえて不自由で、過酷な戦いに挑む。何がそこまで彼らをとりこにするのか。日本アンプティ界の5年の歩みを振り返りつつ、魅力を探る。
元ブラジル代表が日本に「輸入」
この男に触れずに、日本のアンプティは語れない。エンヒッキ・松茂良・ジアス(26)。日本王者クラブ「FCアウボラーダ川崎」 の点取り屋で、日本代表の絶対的エース。競技を持ち込んだ伝道師でもあり、国内アンプティサッカーの象徴的存在だ。
ブラジル育ちの日系ブラジル人3世。5歳の時の交通事故で右脚を失ったスポーツ少年は、10歳で競技に足を踏み入れる。当時、アンプティサッカーW杯王者だった母国の代表に魅了された。練習を重ねて18歳で憧れのブラジル代表入りし、W杯出場。「もう一つの夢だった」と語る日本移住を果たすため、19歳で就職を機に日本へと渡った。
「来日直後からいろいろ調べて、日本では誰もアンプティサッカーという単語を聞いたことがないと知った」。まずはプレーの場を模索。職場の同僚の杉野正幸(42)がコーチを務めていた、知的障害者のサッカースクールに参加する。その時、取材を受けた動画がネット上に残っている。
杉野「自分の常識の枠を超えるプレーにびっくりしました。体をひねって全体重をボールに乗せて、こんなにインパクトのあるボールを蹴れるのか、つえに何か仕掛けているんじゃないかと疑いました。どんな手順で広めればいいのか分からないけど、とにかく、この競技に携わりたいと決意しました」
杉野は後に日本代表監督となり、日本アンプティサッカー協会の立ち上げにも貢献。国内での競技の普及や強化に大きな役割を果たす。
競技を広めるため、エンヒッキが杉野の他に大きく頼った のは、義足の製作、調整などに携わる「義肢装具士」。彼らのネットワークを通じて体験者を募り、10年4月に国内初の練習を実施する。日本初のアンプティサッカークラブ「FCガサルス」の誕生の瞬間でもあった。勧誘と練習を重ね、メンバーも増え始めた夏ごろに、W杯出場の話が飛び込む。会場はアルゼンチンだった。
W杯は30か国・地域が加盟する「世界アンプティサッカー連盟」がほぼ隔年で開催。直近14年にあった第10回大会は過去最大となる21カ国・地域が出場した。同連盟の副理事も務める杉野らによると、近年はウズベキスタンやロシア、トルコなどが強豪で、エンヒッキの母国ブラジルは、選手の高齢化などでかつての強さを失いつつある。
エンヒッキ「僕からW杯の話をしたときに、誰も来てくれないかと不安だった。自腹で1人30万円出して、会社を休んで、よく分からない大会のためだけに地球の反対側まで来てくれるか。みんなが行くって言ってくれて、すごくうれしかった」
初の実戦がW杯アルゼンチン戦
当時、大分県から練習のため上京していた加藤誠(32)は振り返る。「Youtubeで見たエンヒッキの映像が、あり得ない迫力だったんですよ。それと、自分が日本代表になれるんだ、って」。小中高とサッカー部で、社会人になってからもフットサルを楽しんでいた加藤。交通事故で左脚を失った彼にとって、サッカーができること、世界で戦えることは、アルゼンチン行きを決意させるには十分すぎる魅力だった。選手10人、紅白戦すらできず、実戦未経験の日本代表は10月、南米へと旅立った。
W杯初陣、どころか、エンヒッキを除く9人にとっては人生初の試合。相手はホームのアルゼンチン。観衆は「少なくとも数千人」(加藤)「1万人はいた」(杉野)と振り返る大アウェー。「もちろん勝てるとは思ってなかった。とにかく緊張の表情で、パスを要求しても何も聞こえてない選手もいた」(エンヒッキ)。初戦を0-8で落とすと、1次リーグ、順位決定戦も全敗。5戦5敗、得点1、失点28が日本の船出になった。
金も時間もかけて乗り込んだ結果。「もう二度とやりたくないと思うのでは」。エンヒッキらの心配は杞憂だった。大観衆に囲まれてのプレー経験は、勧誘活動へ選手たちを駆り立てた。加藤は地元・九州で選手を集め「FC九州バイラオール」を立ち上げ。神奈川では「TSA FC」も発足していた。のちのち他の代表選手も、地元や転勤先で次々とチームを結成することになる。
[写真]第2回日本アンプティサッカー決勝。空中戦や激しい接触プレーも見られた
世界の舞台での苦い経験を思い出だけにしたくない――。たどり着いた答えは国内大会。選手人口の拡大、競争を生み実力を底上げすべく、関係者は動く。強くなるために、目標を持つために、とにかく試合の機会が足りなかった。W杯から1年後の11年12月、3チーム、約30選手を集め、記念すべき第1回日本選手権開催に至る。
杉野「W杯は行ってしまえば、主催国の運営にのっとって試合をするだけですけど、未経験の自分たちが大会を運営するのはとてつもない労力でした。お金を持ってくる、会場を設営する、運営する、スタッフを募る、集客する、という全ての要素を一気にやらないといけない。それだけに達成感は大きかった。何よりもうれしかったのは、大会がメディアに取り上げられて、やりたい、見たいと行ってくれる人が増えたことです」
実はもう一つ、主催者の大きな仕事があった。選手集めだ。九州は第3回大会まで7人の選手がそろわず、第1回は当日だけの助っ人を加えて戦った。杉野も勧誘に関わった。
「出場できない、と言っていた人に電話して、『仕事が忙しいんだったら僕が上司に手紙を書くから、名前を教えてくれ』とお願いしました。そしたら、『僕が社長なんです』との返事で(笑)。『せっかくの機会なので、観客の前でやってみませんか』とさらにまくしたてて、口説き落としました」。「社長」とのあだ名でも呼ばれるその選手は、その後誕生した「関西セッチエストレーラス」に所属し、主力として活躍している。
翌12年の第2回大会ではさらに参加クラブ数、選手数ともに増加。大会後、前回は全員参加だったW杯へ、約40選手から13人を選ぶ初めての代表選考を経て、日本はロシアへと出陣する。世界を知るエンヒッキから見ても、海外と遜色ないレベルの選手も複数加わった。「日本のベストメンバー」「負けて当たり前だった前回とは違う」。
だが、代表に漂う自信は、あっさり打ち砕かれた。(続く)
※後編は11月20日に配信し
2015.11.19 THE PAGE