「砂の器」という小説を
若かりし日、読みました。
之は、豊かな家に育ちながらも
医師として、
戦場から無医村、そして、55歳で燃え尽きた
昭和初期の医師の、戦争に翻弄された時代を
精一杯生きた記録です。
時代の流れとはいえ
戦乱の中
うまれ故郷の東京に帰れるまでの、
人の心のうねりを、
幼い少女の記憶が捕らえたものです。
***
、明治生まれの昭和を生きた医師
戦前の時代には、「医師」は、数も少なく、
学士様も、政治かも、権力者も
「医師と、坊様に、知り合いをつくるのが、世渡り上手でもありました。」
先生も、医師も僧侶も
聖職であったころの話です。
健康保険制度が無い時代ですから、
世間に「広い顔」を持って生きている方ほど
プライドもあり、生き方に美学もあり
「釣りはいらないよ、、、と言わんばかりに、
寸志を置いていった時代がありました。」
一見すると、
医師への感謝とか、
尊敬とおもうでしょう!?
父は幼い私に申しました(^^ こんな顔をしてネ!
患者さんが、
「自分の命の危うさに対し、自分につけた値段なんだよ。」
一方、手術をして入院していたはずの患者さんが
ある日、入院室から消えていました。
診療の代金は踏み倒しなのです。
食事を担当した母は怒っていましたが、
父は何も口には出しませんでした。
ポツンと、、、
「貧しい、、、、んだよ、、、」。。。(--!
目が言っていました。
父と居ると、皆元気をもらいました。
知らないおばさんがニコニコして、
私にまで、何かを
くれようとしたことが、
頻繁にありました。
栗とか、、、手製の木綿の手提げとか、、、
之はね、
多くの患者さんの中で、
自分がかかっている病を、
医師とともに考えて、
安心したいからなんだよ。
特別の存在になることをアピールすれば
医師は他の患者さんより丁寧に診てくれると
勝手に勘違いをしているんだよ。
患者さんは *「命」という*
自分の
一番大切なものを、
医師が握っていると
思っているんだよ。
勘違いかも知れないよ。
病気は本人が治すものだからね。
病は医師が治すのではなく、
患者さん自身の中から、治す力を、
引き出すのが大切なのだよ、
父は常々申しました。
打ち勝つ力や
打ち勝つ生体環境に導いてゆき、
最後は患者さん自身が病気から
復活する力があるかどうかなんだよ!」
だから、、、
患者さんが
何かをくれようとされても、
受け取ってはいけないよ。
しかし、、、
母の場合は、
私のように行きません。
夫は、時には
「妻の顔を立てるものである」と言う事を知っています。
医師を、電話ひとつで時間外に使えるかどうかは、
奥さんの親友であるかどうかが、
大きな要素のひとつでした。
特に、
戦場から帰ってきた父が疎開した村は
あたり七か村無医村でした。
戦場で鍛えられた父は、
本来の外科以外に、
多岐にわたって村人の
健康を守る、
マルチな才能がありました。
少年が、、、!!!
トラックに轢かれて片足を切断した後
義足を創って、立ち上がらせました。
子供たちと
月夜の晩
弟を抱いた父が
村の子供たちと
影ふみをしました。
皆、まぶしいような笑顔で父を囲んでいました。
故郷に若き医師を連れてきた母は
村の功労者のように、
皆から
大切にされているかのように、
幼い私には思えた時期がありました。
私も、村人が、あたらぬさわらぬ微笑で
特別扱いされるという、、、孤独の中で
仲間に入るのが何かにつけてハードルがありました。
特別の父親を持った
「トクナ女の子」だったのです
決して生意気ではありませんが
妬みは半端なものではありませんでした。
*********!!!しかし、、、、、*****
3歳の私は、
目の前の「囲炉裏」に
両手をついて落ちたのです。
お手伝いの女性が
膝の上に居た私を抱えていた手を離したのです。
すぐには拾い上げてくれませんでした。
両手の皮膚が手袋のように脱げて
左手は指と手のひらが癒着しました。
その後、、、
17歳になるまで、、、
7回の形成手術を受けて
植皮の色の変わっている以外は
機能的にはほとんど治癒しました。
父が外科医であり、
毎日、毎日、根気よく、
骨の成長に合わせて、
皮膚を切開して、
タルクでマッサージしてくれました。
何よりも、
京都大学の「近藤鋭矢先生」が、
何かにつけて指導してくださいました、
父の「心も技も支えてくれた」ことが、
、
がんばれたのではないかと思うとき、
医師も、
孤独な戦いを強いられるとき、
援軍が必要だったことが、
成長してから
思い当たることがしばしばありました。
大学病院の教授であられた
近藤先生が、
「医学と言う日進月歩の技」を
わが身に携えられて、
汽車に乗って来られ
我が家に泊まられたのでした。
昔の医師の魂のようなパワーです。
無医村で孤軍奮闘する父にして思えば、、、
はるばる
京都から無医村まで来られ
父の前に現れてくださったことが
「神の手」に
思えたことでしょう。
同時に、、、教授も
無医村から医師の居ない時間をつくることを
避けられたのかもしれません。
2回目の手術のときは
私は少女期に入っていました。
母の腕から剥ぎ取った皮膚をつなぐ手術でした。
母子は、手と腕を縫い合わされたまま何週間か過ごしました。
しかし、、、植皮は
幼い私が動き回ったため
不成功に終わりました。
その後、私自身の大腿から
自分の右手に植皮することになり
先生は、
父を助手として執刀医として
手術をしてくださいました。
その後、、、一ヶ月の長期に渡って、
術後の私の植皮の状況を
診る為に、京都からとんぼ返りで来られて、
植皮手術の成功を
家族とともに喜んでくださいました。
その後、父は、
息子たちの戦後の教育を
生まれ故郷の東京で受けさせたいと
村に願い出ました。
父が村を出る日、
村中の人が涙で別れを惜しんでくれました。
いつも待合室で見かけた老女は
地べたに座り
泣きじゃくっていたのが、、、忘れられません、
敗戦後の戦争を知らないまま、
疎開地の無医村で生まれ、
「医者の家に男の子が生まれたぞー!!!!」
村は大騒ぎしてお祝いしてくれました。
弟はヨチヨチ歩きのとき、
村の伝統的な嫁入りの
「タルもち」などもさせてもらっていた。
戦争を知らない世代の誕生だった、
しかし、戦後の教育は国の復興にかかっている!
団塊の世代を育てたのは、
敗戦の悔しさを知って
立ち上がろうとする
「父の時代の生き残りの魂」かも知れない。
村人に愛され、
仲間が別れを惜しんでくれているとき、
泣きじゃくる老女の前に立ち尽くして
言った言葉が
今も忘れられません。
「お姉ちゃん!医者ってすばらしいね!」
「僕も医者になるぞ!」
東京で教育を受けた弟は
幼い時の感動のまま
医師となりました。
父のように
外科の医局に入りましたが、
手術をしても手遅れの末期の患者さんに出会うたびに
初期のうちに
病気を直す方法はないか、、、
新開地を開拓する「夢に向かって」
出発した、
未知の未来の夢に向かって!
多くのジャンルの
学問や技術と医学の
一枚岩となる発想が
彼のすばらしいところでもあった。
もう、、、凡人の姉の私からは、
手の届かない夢に向かって挑戦してっ
夢を実現したのでした。
これからも、
検査によって
多くの方が
早期発見で、無駄な痛みも
無駄な医療費も
未然に防ぐシステムが
財政の漏れてゆく無駄を省くことが
歴代の首相が気がつき
今までよりも
さらに、
がんの初期を検診で見つけてゆく
「人命救助の早期診断」を、実行し
手遅れ手術を無くし
医療の無駄遣い防止にも役立ててゆくことでしょう、」
痛みの伴わない早期発見
治癒できる段階での手術!、、、
最後は、、、包帯も薬も、、、
何も無くなった、、、戦争。
スポーツも医学も、
一見無関係に思えても
表裏一体の本人の
真摯な研究努力の積み重ねが
子供の代、孫の代に
「金メダル」になって
多くの人の目に見える光となって
輝くのだろうね!
昨日、、、
室伏選手の親子二代の戦いの金メダルのTVを
夜明けまで、繰り返し見ていました。
ダンデイで
男っぽくて
かっこよくて
すばらしいね
スポーツマンは
見せる!
魅せる!
姿形もスコアー!
まさに「金メダルの本物!」
サラブレッド!
***一休み休息***
話を、、、もとの本題に戻しますが、、、
医学の中でも
「診断」
早期発見
早期診断が命を助ける時代が来ました。
大切な母親を
乳がんから救うことも
検診の「ピンクリボン」の運動が
快挙でした。
医療費の節約
医療費のエコライフは
重病の助からない段階の手術を
減らすことだと思いました。
育児手当穂延長は
両親が健康ということです、
医学を手段として
ビジョンに向かって
夢を追いかけ
実現させるのも
周りの環境や
すさまじくも
一途の夢に向かってゆく
研究熱心やがんばりや人柄
生まれながらの感性や素質が
多くのサポーターの力を
怒涛のように集めて
パワーとしてとりこんでゆくのだろう、、、
振り返れば、、、
弟が
姉と接するとき
いつも姉弟して如才なく
スポーツや、
アスリートの
四方山話で、
リラックスしていたことを思うとき
私には、優れたものが何も無い。
「何も無いことが、戦う戦士のストレス解消」に
無防備で話せる相手になれたのだとしたら、、、
私の天から命じられた事は
「何もしない、、、」ということだったのかもしれない。
薬剤師も、高校、中学の教員一級免許も
夢の実現には役に立たなかった。
息子が私立に入学したときの、
授業料ぐらいは何とか働けましたが、
稼いでるだけの、お話です。
オキュペイションは出来ません。
40歳デビューですから。
ここは、北海道。
小学校から大学卒業まで
私は東京都民。
北海道で受け入れてくれる条件は
「同職の仲間の動員」が出来ることが大切ですが、
私には出来ません。、、、
それををする必要の無い職種が有利。
当初ラジオのアナウンサーなどやってみた。
明治乳業提供の「ママと赤ちゃん」という
若い奥さんの「育児不安」をサポートする番組です。
楽しかったし、台本はほとんど任せてくれましたし、
育児と両立できました。
助っ人の無い、孤立した札幌で、見つけた花でした。
二番目がお腹に入りました。
次男が5ヶ月になったときやめてしまった。
いえに帰っても「家庭らしい家庭はないし、、、」
転勤の続く40歳前の大学の医師である夫は
博士号取得のため、実験、論文、臨床の毎日で
無給医の生活は貧困そのものだった。
しかし、一人は流産、、、、ごめんネ、、、、
せっかく2人授かった息子たちを
「北国おんちの母親」が一人で奮闘する。
単身赴任もあった、、、、
昔は、、、無給医だったんですよね。
独身であれば、、、何か!?
自分のことが出来たかもしれなかった、、、
しかし、土台の下の砕石のような
砕かれたような女性の時間の「捧げ物」無くして
子供も夫も、夢は追う事が出来ないみたいでした。
外科医師の妻には
現実逃避の甘い時間は無い。
メスを持つ手には
雪を掻くスコップは持たない。
医療以外には時間を割くことの無い
現場の医師は
肉体労働者でもある。
科学の洗礼でも受けたかのごとく
EBMの世界の割り切った反応である。
自分の仕事以外に一切の関心は無い。
時間的にも肉体的にも余裕は無い。
家内は自分の手のひらの上で
子供を育てて、鶏のように、
家の周りをうろうろしていてくれれば
精神的に落ち着いて
医療に専念できるようであった。
社会的に生きているのは医師である夫だけであった。
家内が自立して、独立した動きは
精神を苛立たせるだけであった。
最後の最後の一瞬まで
医師の仕事をしながら
昇天するのが幸せな人たちであると思った。
50歳までは借金経済をしながら、
要るものはどんどん使って頭脳の中に設備投資をする。
一生、受験生を抱えた家庭のように、
家の中はどの部屋も夫の物で埋まっている。
10年ごとに
不要な時代遅れの医学書を捨てるが、
紙も上等、印刷も上等、写真も上等!
何より値段が上等すぎるが、
時代遅れの医学書はごみ処理する。
頭脳は大食いであるが、
勤務医の頭脳の維持費は
税務署には物的なものでないだけに
控除の仕様が無い。
必要な学会も、
研究も、
手術もてんこ盛りの
外科医の可愛そうな舞台裏を家内だけが見る。
それでも、親に余裕がなければ、
一生学問を必要とする医師になろうとは考えないだろう。
多くの医師の生い立ちは
生まれながらの
坊ちゃま、
お嬢さんが多いのが、私たちの生きた昭和時代。
医師の仲間は
留学し、無給の研究所で研究を続け、
50歳前後で、いきなり指導者として
高級を得る。
実家は、お金以外のステータスを
生きがいに、人生マラソンの縦走をしてくれた。
しかし、、、まれには
先祖からの医師の血が、医師を目指させる。
敗戦で一文無しになったときでさえ
後先考えず夢は「医師になり、医療に生きること」
夫の場合がそうであった。
高校、大学。大学院と奨学金でひた走った。
結婚と同時に
妻が返済を始めた。
次に、医師を目指す学生が
奨学金を必要とする戦後だったからである。
税金は、「今年稼いだお金にかかってくる。」
指導者になるまで
「つぎ込んだ借金」はローンのように
「一生返済」しながら、
何食わぬ様子で税金を払い、
奨学金を次の学生が受け取れるためにも
全額支払、終わるころ、
成長した息子たちの大学入学の
7年間の学費と、住居代、食費。
本代。、、、
友人に人生勉強で同行する行動費が
追いかけてくる
大学への学費の稼ぎ手となり
さりげなく「家にいても、
時間を有効利用できないからと」
妻の私は働きに出る。
何食わぬ顔で、日々を過ごし
現在の地位のステータスで生きねば、
チームを乱すことになる。
一人前になるのが遅い職業は
サポーターが強いモノが
圧倒的に勝ち残り
オキュペイションしてゆく。
大学を出てから、大学院はアルバイトが出来ない。
勤めと、研究は時間的に体力的に
過剰労働になる。
息子たちの時代は
結婚のリスクのほうを省く。
独身で、仕事主体に生きてゆく。
しかし、夫の時代は
妻がリスクを背負う。
雪かきも女性の仕事である。
そういう意味では
親戚兄弟が東京にいる私
小学校から大学までの人脈を
北海道では使えない私。
サポーターとしては
失格だったかもしれない。
もともとは、
東京で広すぎる屋敷に一人で住んでいた未亡人の母が
主人が、博士号を取得したら、
父の残した医療施設を
兄弟と一緒に経営し
病院を継いでくれて、
内科医の兄と従兄弟の耳鼻科医とで
病院を大きくする計画で
母と主人の約束で、
「3年たったら東京に帰る」という約束で
私は、兄と母の夢の実現の賛同者として
実家も、夫も利害が一致するので
橋になれることを、幸せと勘違いしてしまった。
未亡人になった母がピアノを続ける環境には
私も、夫の助けが必要だと
当時は思っていた。
今と違って、「二人の出逢い」より
生きることは、ステータスを維持することだと
刷り込まれたような価値観が、
結婚観となっていた。
親孝行、、、などという言葉があったのですよね!
家も無い、
各自一間だけの宿舎に、
4-5人の医師が宿泊する共同台所と共同トイレ。
ギシギシと海風にゆれる古い番屋のような木の家屋。
2月なのに、石油が無い。
お風呂の煙突はもげている。
トイレはマイナス10度以下の海風が吹き上げてくる。
戦争から帰還したおじさんが話していたシベリアみたいだった。
知らぬが仏で、南国産まれの医者の馬鹿娘は
世間を知らぬまま、
北海道の留萌の真冬にやってきた。
しかし、、、途中で医学の勉強に目覚めた夫は
仕事を選んだ。
男の子を育てるうちに、
いえに帰っても、わざとやってるのかと思うほど
子供とはすれ違った、出会わない家庭だった。
父親として、働いているんだから、、、。
夫は合格だし
北海道の
本物の自然の厳しさと魅力に気がつき
子育てには、
東京よりはるかに恵みを受けている。
お金にこだわらなくても
幸せは原野、山野、自然にある。
私は、地球の手厳しさに
恋をしてしまったのかもしれなかった。
スキーを習い
息子たちと
国際スキー場のテッペンから滑降した。
夫はスキーは出来ないが、
息子たちはうれしそうに山と遊んでいた。
夫を待つのは辞めた。
息子たちは、社会のイベントや
ホームステイに出すことで
他人様のご家庭の
正常な夫婦の姿を見て
一ヶ月ではあったが
家庭って、
男も参加すると楽しいことを体験させる事で、
息子たちには我が家の欠損を
客観的に感じてもらえたと思っている。
夫にひたすらマイペースを守ってもらえるように
すべての夫の時間は
病院優先、仕事優先、家庭には無関心でも
大筋のことが判っていればよい。
孤独で、
寂しい心の貧困は
育児には良い影響を与えないと思っていたが、
子供はスクスクト
勝手に大人になってくれた。
50歳から、夫もしっかり月給をいただける医師となった。
一人前になるのは
実に遅い。
一生の総収入にすると
決して高給取りではない勤務医だから、
老後は心して、生きてゆかないと
孫子に迷惑をかけることになるから
必要最低限のことが整えば
幸せと思うことにして、
「欲は捨てる。」
「コンスタントにお金のかかることははじめから目をつぶる。」
税務署は「今年稼いだお金に税をかけてくるから、」
一人前になるまでの見えない借財には考慮は無い。
支えてもらった学びの人生の後半は
今度は支える番で在る
、
いつしか、気がつくと、
40年も住んでいるのだが
時間貧乏な医師の晩年は
相変わらず「働くことです。」
それが、唯一支えてくれた多くの借財を
感謝に変えて、お返しすることかも知れません。
夫婦というより、家政婦のようだった。
二人のための時間は後、少しである。
夫にとっては「便利な都合のよい
自立した給料の要らない
家政婦が必要だったのかもしれない。」、、、、
いいえ、医師になるより、医師を続けることが
いかに、、、リスクがあるかということかも知れない。
愛より、EBMをとらねば、医療は続かないのだろう。
ふと、、、苦笑いが出る。
社会的に一応、指導者になる男という生き物は
自分の社会的な義務を果たすことや、
仕事にしか目もくれない。
それ以外は
考える時間を持とうと
努力しないのかも知れない。
正月も盆も暮れもなく、
何十年も里帰りできなかった。
飛行機が高額だったせいかもしれない。
母の方で、80歳近くになって
函館まで来てくれたのに、
夫の都合で、会いに行けなかった。
母が亡くなったときも、
私一人で、葬式に出席した。
20年以上里帰りしなかったせいか
「いきなり老女になった母の亡骸」に出会った。
さびしかった、、、、、
幼い「弟の娘」が
「おばあちゃまが目を覚ますから、皆!静かにして!」と
大きな声で叫んだ。
母は起きては来なかった。
弟がすべて立派に葬式をしてくれた。
弟の仲間の先生方も皆お手伝いをしてくれていました、
死ぬ直前まで、ピアノの先生をしていた母は
多くのお弟子さんが、まるで多くの娘のように、
母の亡骸をとりかこんで、泣いてくれていた。
夫は母との約束を守れなかったという
「学閥のせいに出来ない後ろめたさがあったのかもしれない。」
それとも、北海道では、「よそ者だった妻」が
40年も住んでいるのに、孤立し
役に立たなかった歯がゆさがあったのかもしれない。
(><!
しかし、、、正解は
「仕事が先」「生き仏が先」という事であった。
いつからか、、、一人に強くなった私である。
49日が過ぎる前に母の家は
ブルトーザーで壊され駐車場になっていた。
弟が、走り書きのような、2行の手紙をくれました。
「みんなが子供のころ囲んだ赤絵の大皿が庭に刺さっていた。」
「涙が出てきた。」、、、
母の愛用のグランドピアノはお弟子さんのもとに形見として
もらわれてゆきました。
象牙のキイの黄色くなった古いピアノは
老人ホームに寄付されました。
「愛」に出会いたいとき
一方通行かもしれないが、、、
今は、孫とひたすら遊んでいる。
孫の未来が幸せな日本であることを
日々祈りながら、、、。
若かりし日、読みました。
之は、豊かな家に育ちながらも
医師として、
戦場から無医村、そして、55歳で燃え尽きた
昭和初期の医師の、戦争に翻弄された時代を
精一杯生きた記録です。
時代の流れとはいえ
戦乱の中
うまれ故郷の東京に帰れるまでの、
人の心のうねりを、
幼い少女の記憶が捕らえたものです。
***
、明治生まれの昭和を生きた医師
戦前の時代には、「医師」は、数も少なく、
学士様も、政治かも、権力者も
「医師と、坊様に、知り合いをつくるのが、世渡り上手でもありました。」
先生も、医師も僧侶も
聖職であったころの話です。
健康保険制度が無い時代ですから、
世間に「広い顔」を持って生きている方ほど
プライドもあり、生き方に美学もあり
「釣りはいらないよ、、、と言わんばかりに、
寸志を置いていった時代がありました。」
一見すると、
医師への感謝とか、
尊敬とおもうでしょう!?
父は幼い私に申しました(^^ こんな顔をしてネ!
患者さんが、
「自分の命の危うさに対し、自分につけた値段なんだよ。」
一方、手術をして入院していたはずの患者さんが
ある日、入院室から消えていました。
診療の代金は踏み倒しなのです。
食事を担当した母は怒っていましたが、
父は何も口には出しませんでした。
ポツンと、、、
「貧しい、、、、んだよ、、、」。。。(--!
目が言っていました。
父と居ると、皆元気をもらいました。
知らないおばさんがニコニコして、
私にまで、何かを
くれようとしたことが、
頻繁にありました。
栗とか、、、手製の木綿の手提げとか、、、
之はね、
多くの患者さんの中で、
自分がかかっている病を、
医師とともに考えて、
安心したいからなんだよ。
特別の存在になることをアピールすれば
医師は他の患者さんより丁寧に診てくれると
勝手に勘違いをしているんだよ。
患者さんは *「命」という*
自分の
一番大切なものを、
医師が握っていると
思っているんだよ。
勘違いかも知れないよ。
病気は本人が治すものだからね。
病は医師が治すのではなく、
患者さん自身の中から、治す力を、
引き出すのが大切なのだよ、
父は常々申しました。
打ち勝つ力や
打ち勝つ生体環境に導いてゆき、
最後は患者さん自身が病気から
復活する力があるかどうかなんだよ!」
だから、、、
患者さんが
何かをくれようとされても、
受け取ってはいけないよ。
しかし、、、
母の場合は、
私のように行きません。
夫は、時には
「妻の顔を立てるものである」と言う事を知っています。
医師を、電話ひとつで時間外に使えるかどうかは、
奥さんの親友であるかどうかが、
大きな要素のひとつでした。
特に、
戦場から帰ってきた父が疎開した村は
あたり七か村無医村でした。
戦場で鍛えられた父は、
本来の外科以外に、
多岐にわたって村人の
健康を守る、
マルチな才能がありました。
少年が、、、!!!
トラックに轢かれて片足を切断した後
義足を創って、立ち上がらせました。
子供たちと
月夜の晩
弟を抱いた父が
村の子供たちと
影ふみをしました。
皆、まぶしいような笑顔で父を囲んでいました。
故郷に若き医師を連れてきた母は
村の功労者のように、
皆から
大切にされているかのように、
幼い私には思えた時期がありました。
私も、村人が、あたらぬさわらぬ微笑で
特別扱いされるという、、、孤独の中で
仲間に入るのが何かにつけてハードルがありました。
特別の父親を持った
「トクナ女の子」だったのです
決して生意気ではありませんが
妬みは半端なものではありませんでした。
*********!!!しかし、、、、、*****
3歳の私は、
目の前の「囲炉裏」に
両手をついて落ちたのです。
お手伝いの女性が
膝の上に居た私を抱えていた手を離したのです。
すぐには拾い上げてくれませんでした。
両手の皮膚が手袋のように脱げて
左手は指と手のひらが癒着しました。
その後、、、
17歳になるまで、、、
7回の形成手術を受けて
植皮の色の変わっている以外は
機能的にはほとんど治癒しました。
父が外科医であり、
毎日、毎日、根気よく、
骨の成長に合わせて、
皮膚を切開して、
タルクでマッサージしてくれました。
何よりも、
京都大学の「近藤鋭矢先生」が、
何かにつけて指導してくださいました、
父の「心も技も支えてくれた」ことが、
、
がんばれたのではないかと思うとき、
医師も、
孤独な戦いを強いられるとき、
援軍が必要だったことが、
成長してから
思い当たることがしばしばありました。
大学病院の教授であられた
近藤先生が、
「医学と言う日進月歩の技」を
わが身に携えられて、
汽車に乗って来られ
我が家に泊まられたのでした。
昔の医師の魂のようなパワーです。
無医村で孤軍奮闘する父にして思えば、、、
はるばる
京都から無医村まで来られ
父の前に現れてくださったことが
「神の手」に
思えたことでしょう。
同時に、、、教授も
無医村から医師の居ない時間をつくることを
避けられたのかもしれません。
2回目の手術のときは
私は少女期に入っていました。
母の腕から剥ぎ取った皮膚をつなぐ手術でした。
母子は、手と腕を縫い合わされたまま何週間か過ごしました。
しかし、、、植皮は
幼い私が動き回ったため
不成功に終わりました。
その後、私自身の大腿から
自分の右手に植皮することになり
先生は、
父を助手として執刀医として
手術をしてくださいました。
その後、、、一ヶ月の長期に渡って、
術後の私の植皮の状況を
診る為に、京都からとんぼ返りで来られて、
植皮手術の成功を
家族とともに喜んでくださいました。
その後、父は、
息子たちの戦後の教育を
生まれ故郷の東京で受けさせたいと
村に願い出ました。
父が村を出る日、
村中の人が涙で別れを惜しんでくれました。
いつも待合室で見かけた老女は
地べたに座り
泣きじゃくっていたのが、、、忘れられません、
敗戦後の戦争を知らないまま、
疎開地の無医村で生まれ、
「医者の家に男の子が生まれたぞー!!!!」
村は大騒ぎしてお祝いしてくれました。
弟はヨチヨチ歩きのとき、
村の伝統的な嫁入りの
「タルもち」などもさせてもらっていた。
戦争を知らない世代の誕生だった、
しかし、戦後の教育は国の復興にかかっている!
団塊の世代を育てたのは、
敗戦の悔しさを知って
立ち上がろうとする
「父の時代の生き残りの魂」かも知れない。
村人に愛され、
仲間が別れを惜しんでくれているとき、
泣きじゃくる老女の前に立ち尽くして
言った言葉が
今も忘れられません。
「お姉ちゃん!医者ってすばらしいね!」
「僕も医者になるぞ!」
東京で教育を受けた弟は
幼い時の感動のまま
医師となりました。
父のように
外科の医局に入りましたが、
手術をしても手遅れの末期の患者さんに出会うたびに
初期のうちに
病気を直す方法はないか、、、
新開地を開拓する「夢に向かって」
出発した、
未知の未来の夢に向かって!
多くのジャンルの
学問や技術と医学の
一枚岩となる発想が
彼のすばらしいところでもあった。
もう、、、凡人の姉の私からは、
手の届かない夢に向かって挑戦してっ
夢を実現したのでした。
これからも、
検査によって
多くの方が
早期発見で、無駄な痛みも
無駄な医療費も
未然に防ぐシステムが
財政の漏れてゆく無駄を省くことが
歴代の首相が気がつき
今までよりも
さらに、
がんの初期を検診で見つけてゆく
「人命救助の早期診断」を、実行し
手遅れ手術を無くし
医療の無駄遣い防止にも役立ててゆくことでしょう、」
痛みの伴わない早期発見
治癒できる段階での手術!、、、
最後は、、、包帯も薬も、、、
何も無くなった、、、戦争。
スポーツも医学も、
一見無関係に思えても
表裏一体の本人の
真摯な研究努力の積み重ねが
子供の代、孫の代に
「金メダル」になって
多くの人の目に見える光となって
輝くのだろうね!
昨日、、、
室伏選手の親子二代の戦いの金メダルのTVを
夜明けまで、繰り返し見ていました。
ダンデイで
男っぽくて
かっこよくて
すばらしいね
スポーツマンは
見せる!
魅せる!
姿形もスコアー!
まさに「金メダルの本物!」
サラブレッド!
***一休み休息***
話を、、、もとの本題に戻しますが、、、
医学の中でも
「診断」
早期発見
早期診断が命を助ける時代が来ました。
大切な母親を
乳がんから救うことも
検診の「ピンクリボン」の運動が
快挙でした。
医療費の節約
医療費のエコライフは
重病の助からない段階の手術を
減らすことだと思いました。
育児手当穂延長は
両親が健康ということです、
医学を手段として
ビジョンに向かって
夢を追いかけ
実現させるのも
周りの環境や
すさまじくも
一途の夢に向かってゆく
研究熱心やがんばりや人柄
生まれながらの感性や素質が
多くのサポーターの力を
怒涛のように集めて
パワーとしてとりこんでゆくのだろう、、、
振り返れば、、、
弟が
姉と接するとき
いつも姉弟して如才なく
スポーツや、
アスリートの
四方山話で、
リラックスしていたことを思うとき
私には、優れたものが何も無い。
「何も無いことが、戦う戦士のストレス解消」に
無防備で話せる相手になれたのだとしたら、、、
私の天から命じられた事は
「何もしない、、、」ということだったのかもしれない。
薬剤師も、高校、中学の教員一級免許も
夢の実現には役に立たなかった。
息子が私立に入学したときの、
授業料ぐらいは何とか働けましたが、
稼いでるだけの、お話です。
オキュペイションは出来ません。
40歳デビューですから。
ここは、北海道。
小学校から大学卒業まで
私は東京都民。
北海道で受け入れてくれる条件は
「同職の仲間の動員」が出来ることが大切ですが、
私には出来ません。、、、
それををする必要の無い職種が有利。
当初ラジオのアナウンサーなどやってみた。
明治乳業提供の「ママと赤ちゃん」という
若い奥さんの「育児不安」をサポートする番組です。
楽しかったし、台本はほとんど任せてくれましたし、
育児と両立できました。
助っ人の無い、孤立した札幌で、見つけた花でした。
二番目がお腹に入りました。
次男が5ヶ月になったときやめてしまった。
いえに帰っても「家庭らしい家庭はないし、、、」
転勤の続く40歳前の大学の医師である夫は
博士号取得のため、実験、論文、臨床の毎日で
無給医の生活は貧困そのものだった。
しかし、一人は流産、、、、ごめんネ、、、、
せっかく2人授かった息子たちを
「北国おんちの母親」が一人で奮闘する。
単身赴任もあった、、、、
昔は、、、無給医だったんですよね。
独身であれば、、、何か!?
自分のことが出来たかもしれなかった、、、
しかし、土台の下の砕石のような
砕かれたような女性の時間の「捧げ物」無くして
子供も夫も、夢は追う事が出来ないみたいでした。
外科医師の妻には
現実逃避の甘い時間は無い。
メスを持つ手には
雪を掻くスコップは持たない。
医療以外には時間を割くことの無い
現場の医師は
肉体労働者でもある。
科学の洗礼でも受けたかのごとく
EBMの世界の割り切った反応である。
自分の仕事以外に一切の関心は無い。
時間的にも肉体的にも余裕は無い。
家内は自分の手のひらの上で
子供を育てて、鶏のように、
家の周りをうろうろしていてくれれば
精神的に落ち着いて
医療に専念できるようであった。
社会的に生きているのは医師である夫だけであった。
家内が自立して、独立した動きは
精神を苛立たせるだけであった。
最後の最後の一瞬まで
医師の仕事をしながら
昇天するのが幸せな人たちであると思った。
50歳までは借金経済をしながら、
要るものはどんどん使って頭脳の中に設備投資をする。
一生、受験生を抱えた家庭のように、
家の中はどの部屋も夫の物で埋まっている。
10年ごとに
不要な時代遅れの医学書を捨てるが、
紙も上等、印刷も上等、写真も上等!
何より値段が上等すぎるが、
時代遅れの医学書はごみ処理する。
頭脳は大食いであるが、
勤務医の頭脳の維持費は
税務署には物的なものでないだけに
控除の仕様が無い。
必要な学会も、
研究も、
手術もてんこ盛りの
外科医の可愛そうな舞台裏を家内だけが見る。
それでも、親に余裕がなければ、
一生学問を必要とする医師になろうとは考えないだろう。
多くの医師の生い立ちは
生まれながらの
坊ちゃま、
お嬢さんが多いのが、私たちの生きた昭和時代。
医師の仲間は
留学し、無給の研究所で研究を続け、
50歳前後で、いきなり指導者として
高級を得る。
実家は、お金以外のステータスを
生きがいに、人生マラソンの縦走をしてくれた。
しかし、、、まれには
先祖からの医師の血が、医師を目指させる。
敗戦で一文無しになったときでさえ
後先考えず夢は「医師になり、医療に生きること」
夫の場合がそうであった。
高校、大学。大学院と奨学金でひた走った。
結婚と同時に
妻が返済を始めた。
次に、医師を目指す学生が
奨学金を必要とする戦後だったからである。
税金は、「今年稼いだお金にかかってくる。」
指導者になるまで
「つぎ込んだ借金」はローンのように
「一生返済」しながら、
何食わぬ様子で税金を払い、
奨学金を次の学生が受け取れるためにも
全額支払、終わるころ、
成長した息子たちの大学入学の
7年間の学費と、住居代、食費。
本代。、、、
友人に人生勉強で同行する行動費が
追いかけてくる
大学への学費の稼ぎ手となり
さりげなく「家にいても、
時間を有効利用できないからと」
妻の私は働きに出る。
何食わぬ顔で、日々を過ごし
現在の地位のステータスで生きねば、
チームを乱すことになる。
一人前になるのが遅い職業は
サポーターが強いモノが
圧倒的に勝ち残り
オキュペイションしてゆく。
大学を出てから、大学院はアルバイトが出来ない。
勤めと、研究は時間的に体力的に
過剰労働になる。
息子たちの時代は
結婚のリスクのほうを省く。
独身で、仕事主体に生きてゆく。
しかし、夫の時代は
妻がリスクを背負う。
雪かきも女性の仕事である。
そういう意味では
親戚兄弟が東京にいる私
小学校から大学までの人脈を
北海道では使えない私。
サポーターとしては
失格だったかもしれない。
もともとは、
東京で広すぎる屋敷に一人で住んでいた未亡人の母が
主人が、博士号を取得したら、
父の残した医療施設を
兄弟と一緒に経営し
病院を継いでくれて、
内科医の兄と従兄弟の耳鼻科医とで
病院を大きくする計画で
母と主人の約束で、
「3年たったら東京に帰る」という約束で
私は、兄と母の夢の実現の賛同者として
実家も、夫も利害が一致するので
橋になれることを、幸せと勘違いしてしまった。
未亡人になった母がピアノを続ける環境には
私も、夫の助けが必要だと
当時は思っていた。
今と違って、「二人の出逢い」より
生きることは、ステータスを維持することだと
刷り込まれたような価値観が、
結婚観となっていた。
親孝行、、、などという言葉があったのですよね!
家も無い、
各自一間だけの宿舎に、
4-5人の医師が宿泊する共同台所と共同トイレ。
ギシギシと海風にゆれる古い番屋のような木の家屋。
2月なのに、石油が無い。
お風呂の煙突はもげている。
トイレはマイナス10度以下の海風が吹き上げてくる。
戦争から帰還したおじさんが話していたシベリアみたいだった。
知らぬが仏で、南国産まれの医者の馬鹿娘は
世間を知らぬまま、
北海道の留萌の真冬にやってきた。
しかし、、、途中で医学の勉強に目覚めた夫は
仕事を選んだ。
男の子を育てるうちに、
いえに帰っても、わざとやってるのかと思うほど
子供とはすれ違った、出会わない家庭だった。
父親として、働いているんだから、、、。
夫は合格だし
北海道の
本物の自然の厳しさと魅力に気がつき
子育てには、
東京よりはるかに恵みを受けている。
お金にこだわらなくても
幸せは原野、山野、自然にある。
私は、地球の手厳しさに
恋をしてしまったのかもしれなかった。
スキーを習い
息子たちと
国際スキー場のテッペンから滑降した。
夫はスキーは出来ないが、
息子たちはうれしそうに山と遊んでいた。
夫を待つのは辞めた。
息子たちは、社会のイベントや
ホームステイに出すことで
他人様のご家庭の
正常な夫婦の姿を見て
一ヶ月ではあったが
家庭って、
男も参加すると楽しいことを体験させる事で、
息子たちには我が家の欠損を
客観的に感じてもらえたと思っている。
夫にひたすらマイペースを守ってもらえるように
すべての夫の時間は
病院優先、仕事優先、家庭には無関心でも
大筋のことが判っていればよい。
孤独で、
寂しい心の貧困は
育児には良い影響を与えないと思っていたが、
子供はスクスクト
勝手に大人になってくれた。
50歳から、夫もしっかり月給をいただける医師となった。
一人前になるのは
実に遅い。
一生の総収入にすると
決して高給取りではない勤務医だから、
老後は心して、生きてゆかないと
孫子に迷惑をかけることになるから
必要最低限のことが整えば
幸せと思うことにして、
「欲は捨てる。」
「コンスタントにお金のかかることははじめから目をつぶる。」
税務署は「今年稼いだお金に税をかけてくるから、」
一人前になるまでの見えない借財には考慮は無い。
支えてもらった学びの人生の後半は
今度は支える番で在る
、
いつしか、気がつくと、
40年も住んでいるのだが
時間貧乏な医師の晩年は
相変わらず「働くことです。」
それが、唯一支えてくれた多くの借財を
感謝に変えて、お返しすることかも知れません。
夫婦というより、家政婦のようだった。
二人のための時間は後、少しである。
夫にとっては「便利な都合のよい
自立した給料の要らない
家政婦が必要だったのかもしれない。」、、、、
いいえ、医師になるより、医師を続けることが
いかに、、、リスクがあるかということかも知れない。
愛より、EBMをとらねば、医療は続かないのだろう。
ふと、、、苦笑いが出る。
社会的に一応、指導者になる男という生き物は
自分の社会的な義務を果たすことや、
仕事にしか目もくれない。
それ以外は
考える時間を持とうと
努力しないのかも知れない。
正月も盆も暮れもなく、
何十年も里帰りできなかった。
飛行機が高額だったせいかもしれない。
母の方で、80歳近くになって
函館まで来てくれたのに、
夫の都合で、会いに行けなかった。
母が亡くなったときも、
私一人で、葬式に出席した。
20年以上里帰りしなかったせいか
「いきなり老女になった母の亡骸」に出会った。
さびしかった、、、、、
幼い「弟の娘」が
「おばあちゃまが目を覚ますから、皆!静かにして!」と
大きな声で叫んだ。
母は起きては来なかった。
弟がすべて立派に葬式をしてくれた。
弟の仲間の先生方も皆お手伝いをしてくれていました、
死ぬ直前まで、ピアノの先生をしていた母は
多くのお弟子さんが、まるで多くの娘のように、
母の亡骸をとりかこんで、泣いてくれていた。
夫は母との約束を守れなかったという
「学閥のせいに出来ない後ろめたさがあったのかもしれない。」
それとも、北海道では、「よそ者だった妻」が
40年も住んでいるのに、孤立し
役に立たなかった歯がゆさがあったのかもしれない。
(><!
しかし、、、正解は
「仕事が先」「生き仏が先」という事であった。
いつからか、、、一人に強くなった私である。
49日が過ぎる前に母の家は
ブルトーザーで壊され駐車場になっていた。
弟が、走り書きのような、2行の手紙をくれました。
「みんなが子供のころ囲んだ赤絵の大皿が庭に刺さっていた。」
「涙が出てきた。」、、、
母の愛用のグランドピアノはお弟子さんのもとに形見として
もらわれてゆきました。
象牙のキイの黄色くなった古いピアノは
老人ホームに寄付されました。
「愛」に出会いたいとき
一方通行かもしれないが、、、
今は、孫とひたすら遊んでいる。
孫の未来が幸せな日本であることを
日々祈りながら、、、。