花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

昭和38年頃の高校入試

2017-01-30 16:55:23 | Weblog

戦後の小学校教育は疎開地の南紀で受けました。

自然が豊かで、川と山と、大自然の植物や動物のチェーンの中で

お寺の和尚さんや、疎開してきた都会での先生の経験者や

かって、教鞭を執っていた経験者や、地元の名士と言われる土着の方。

先生は素晴らしい経験豊かな戦争の生き残り組でした。

小学校のお習字は、半紙が貴重品の時代に

教頭先生の夫人が、どこからか調達してくださり

筆も硯も振り返れば、小学生にはもったいないほどの

那智黒の石の硯でした。

夏休みには高野山に連れていただき、山頂から、素焼きのサラを

何枚も、意味も解らず投げました。

高野山には競書会のような事が行われていたのかもしれません。

私の、思い出箱には、裏に、高野山競書会の文字のあるバッチが残っています。

遊びに夢中で、机を持っている同級生の方が少なくて、

勉強は、学校でするだけで、教科書は、机の中に入れたまま帰宅しました。

お習字の上手な同級生が、ひときわ目立って、

皆、顔中真っ黒になりながら、筆を半紙からはみ出させては

「元気がいいね!」と、先生に褒められていたのが、記憶に残りました。

振り返れば、算数や英語や理科や科学の、いわゆる頭の中の学習は

高学年になってからでも、指導者の上手な人に出逢えれば

すぐに、上位にならますが、

習字など、日本の固有な学科は、

小学生時代に必修だったからこそ、

空間のセンスに目覚めさせてもらえたと、感謝しています。

難しい字も書けないし、とりわけ習字が上手なわけではありませんが、

点数で競う今日の受験予備校化した小学校から中学校は

先生方も、評価の高い高校や中学校受験に合格させたいと

本来の「気付き」の学習より

詰め込み、技巧、要領の授業になっていったと思うのですよね。

私の中学校時代は、戦後の「目指せ東大」時代にかかり

疎開地からも、新しい戦後の教育に遅れまいと、

疎開地は、過疎化して、皆、東京、大阪、神戸、京都を目指して

復興精神で、狂乱の受験戦争に向かってゆきました。

私たち兄弟の生き残りの4人は、

戦争で亡くなった、兄弟の二男三男、長女の位牌とともに、

父の生まれ故郷の、市谷新宿方面を目指して、帰還しました。

しかし、かっての実家も、土地も、すべてなくなっており、

江戸川の近くの、ドブが流れる下町に

お寺が焼け残っておりました。

知人が駅の線路の近くに産婦人科を開業しており

戦争の被害の生々しい陣地と呼ばれる、地区のゾーンの

医療や、お産を、ボランティア精神で、引き受けていました。

大学時代は基礎の実験室で親しかった友人が

下町に、ちらりほらりと、開業しているのが励みとなり、

勤務をしたいと希望していた父は、

勇気を奮って、子供たちの為に、下町で開業をしました。

父が開業したというより、戦争で焼け出された親戚一同が

医師である父の周りに集合して、

みんなでよってたかって、戦後の診療所を運営し始め、

其処に、疎開地に残っていた父が、

呼ばれて、大所帯の、親類ばかりが職員の

生き残り組の

第二の人生のノアの方舟の出船のようでした。

親戚筋の大学生が、眩しいような新生日本の輝きで

七輪で秋刀魚を焼いており、従妹の4人兄弟が同居しており、

学徒出陣で無事に運よく帰還した父の10歳以上離れた弟が

早稲田を受けて合格し、28歳の大学一年生が、詰襟に座布団帽子!

看護婦さんに、台所の婆やさん、、、

生き残りの我ら4人が、どこに身を置けばよいのか?

戦争は、特技を持った兵隊を造ったのだろう、

お寺を買い取ったために敷地が広い、

其処に、日大理工学部を中退して、兵隊に行ったまま

シベリアで、捕虜の生活をしていたという親戚が

大工さんもびっくりという器用な腕を披露した。

空き地に、相二階の横木の壁の、家を組み立てた。

同居人20人ぐらいが、寄ってたかって、棟上げをしました。

役所に届けて、神主に厄払いをしてもらい、

寺だか?神様の御膝なのか?

いろんな考えの方々が、開業を出発させました。

戦前は、

総合病院を開醫院で所有して、

まさに、名実ともに院長という座にあった父にとって

提灯のように膨らんだ袖の制服の日赤からの看護婦さんが

チームとなり、総合病院は、

外科の医局も手術室もなかったト言っていた。

父が院長だった総合病院は、当時の日本の政策上の

大切な役割を背負っていたと聞いている。

西洋医学の外科の指導と、診療、外科手術などの

ノルマを果たしても、戦争の続いた時代だけに

帰国命令は敗戦の直前まで、なかった。

海外からは東京の自宅に。

亡き母の後に、後添えをもらった祖父が

住んでいた時期もあった。

第二次世界大戦は、東京の爆撃の後

自宅も土地も、くにのものとして、賦活していった

 

市谷の自宅消失、土地の喪失、子供三人の命の喪失、

優秀だった、時分より、はるかに優秀だったと繰り返す弟の一人が

関東大震災の前後に無くなっている、、、

海で亡くなったという、、、

この弟は牛込小学校から、早稲田中学校に進んだと記憶している。

未来ある若者が、皆死んでいった、、、戦争。

数えきれない戦争中の喪失。

戦地には結婚指輪も、全ての物を置いてきたという母。

戦後13年で、マイナス人生から、復活し、

以前住んでいたの文人通りには戻れなくても、

生き残った同級生の居る東京に

第二の開業をした父には、いつも、うつろな瞳で、空を見ていた。

人生の浮き沈み激しい時代ではあったが、

父母の人生は、長男長女の子だくさんの時代だけに

産めよ増やせよ富国強兵の行き詰まりの敗戦は

玉音放送の「耐えがたきをたえ、、、:陛下の日本の国」をしっかりと

残してくださった、玉音放送が、今日の復活につながったと、、、

明治生まれの父母の心には、

「憂きことの 尚この上に積もれかし 限りある身の力試さん!」精神が

まるで、荷車一杯の居候を弾く牛さんのような寂しい大きな瞳で

黙々と復活の道を、荷物を背負いながら、歩み続けてくれました。

江戸川縁のドブの街は、日々に整理整頓復活の街にと変貌してゆきました。

中学三年になった長男の兄は、

兵隊から帰還してから早稲田の理工学部を卒業した叔父さんが

中学校の先生になって、運よく受け持ちとなり、

同級生らを集めては、課外時間に理科や数学の授業を受けていました。

進学高校の両国高校に受かり、頭の中は

「目指せ東大!」と、、、受験病の可愛そうな価値観の人生に向かってゆきました。

父の開業を継ぐべき長男に生まれたのですから、

出来たら、父の母校の慈恵会医科大学に進めれば

親子とも、万々歳となるはずですが、

戦後の、昭和30年代の勉強熱は、バルブのように

東京大学に向けて、熱病の受験生が出現していました。

駿河台予備校には、夏休みには

受験にうなされたような、受験熱病の高校生が

東大目指して集まって来ていました。

戦時中、大陸には西洋医学のできる外科医が居なくて

大陸の大学に、外科の教官として赴任した父のもとに

母が、長男を連れて後から合流したため、

8年にわたって、戦地の至近距離で、現地の学校教育を受けた長男は

国語の学習に、困難を極めた。

両国高校でも、東大合格と、太鼓判を押された割には

国語で大きく躓いた。

日本国内で、当たり前の空気の流れで会話を身に着けた同級生は

ちーちゃん(長男の愛称)は国語がネックだね!、、

受験勉強より、日本の名作の本を、一気に読んで、

日本語の行間の意味することを知らなければ、

東大の国語は、誰もが出来るところで、躓くよね、、、!

回りの学友も、叔父さんも、父母も、東大を一緒に受けた友人も、

いつも、心配してくれていたのは

「読解する、国語の行間の意味する事への受容器の無さ」であった。

本を読みなさい!

父も、母も、心配していた。

外国で育った8年間の日本語の欠落は、決して甘くはなかった。

箇条書きのような、質問には正解、

問題集に出ているような

作品名と作家の知識なども合格、、、

しかし、、

「恵」という漢字の意味に含まれた「愛する事」などの

国語の問題に選ばれた長文の空気が読めないのであった。

物理数学、社会世界史、歴史、、科目数満タンの東京大学の受験は

結局、自分の弱点を指摘されたような、

勉強では追いつけない、環境や、運の良さや、

努力では解決できない、どんな時にも、

中枢にいる環境の保証されたような

幸運の一握りが、合格の掲示板をうずめた。

可愛そうだった、、、不合格のみじめな、、、親子。

之が受験の認識の始まりでした。

目指せ!!!東大!、、、これでは劣等感に突撃する。

何をやりたいのか?

なにをしたいのか?

どんな夢があるのか?

自分の育ってきた環境から、

自分を含めて、自分の力で、

社会に参加するには

受験に踊らされるのではなくて、

自分を生み出す大きなチャンスが、受験という追分だとおもいませんか>

目的に向かってゆくというより、

自分の目的に気づき、自分を生み出す事の方が

自分の時間を、自分なりに、完成できるのではないですか?

私の受験のころは、一億総貧乏からの這い上がり目的の時代でした。

バブルも、今日の、経済格差も、受験合格の点数の内ですよね。

お金があれば、大統領にも成れる日が来ました。

しかし、、、お金がないのは、、、首の無いのと同じ時代でもあります。

大学を、お金儲けにつなげる社会のシステムに適応できるかどうか?

学生たちは、社会のシステムに大半は吸い込まれてゆくでしょう。

その中でも、欲を捨て、自分を見つけ、

明日の食べ物があれば、良しとして、

自分の一度きりの人生の自分の時間を手に入れれれば、

死ぬときに、これが自分だった!と

自分に出逢えるような、運命を引き寄せられるような受験をしたいと

おもいませんか?

此処で、、、中学校までの勉強は

がんばった人が、、、必ず勝てると思う量です。

大学受験前に、日本だけでも、自転車で走る番組を見て、

教育界、に関係なく、時間を止めたまま、

もしかしたら、、、これが、本当の日本の暮らしかもしれないと

芸大もかなわない、竹芸術や、彫刻、絵画、音楽が

マスコミの目に触れないで

源流の水のように奥深く存在するのを感じたいと思いませんか?

経済の流通に無関係なところで、

お金がいくらあっても、

東京大学を卒業しても手の届かない

深淵な自然体で、本人は、その輝きを自覚することもなく

穏やかに、明日のコメの文だけ頑張って

何百年も、ちょろちょろと

源流の水のように、流れ出していることを

日本人なら、、、これが、、、宝だと、、、

誰にも知られないように、心で受け止め、通りすぎている。

受験の造る知識の世界制覇。

受験の造る地獄だけは

考え方で、回避できるから、

東大にこだわると、風評にもてあそばれる劣等感の芽が

人生の多くの実りを、多くの感動の気づきを、覆い隠してしまいます。

受験のもたらす最悪の闇にうずもれるから、

その、こだわりのブラックホールだけは、

吸い込まれないように、

時に、自己愛の強い、早稲の為に、ちやほやと

回りから期待された、少年時代の天才は、

受験の、東大病になってしまっては

敗退が当たり前の学校だと思えずに

劣等感の塊が残り、自分の存在を手探りするあまり

小さい事でも、負けまいとする、、、アピーラーのような

自己の心の落ち着きどころを探して、一生、

目の前の幸せを、観るという事が出来なくなります。

幸せは、東大に入る事ではなくて

自分は、一度しかない人生の時間を、

何をしたいのか、、、気づくことでしょう?

大学に入ってから、自転車の旅をしながら

お寺に泊めてもらいながら、

人生は誰と出逢うかで、運命は開けてゆきますよね、

天地草木、星と出逢う事もあるし、

こだわりと、名誉や地位や、大学のこだわりは、捨てて、

自然体で、東大が夢の人は、夢の実現のためには

がんばってください。

でも、落ちてしまったら、夢から覚めて、

現実の、自分のやりたいことの為に、

惜しみない努力を、続けて、自分を発見してください。

Aがだねなら B、C.D,,,,と

自分が導かれてゆくままに、惜しみない努力をもって

自分自身を創り上げてほしいと、祈っています。

勝てる者には、東大は、踏み台になるでしょうね。

高い評価から ,社会も受け入れてくれるでしょうね。

でも、、、世界では、、、すでに20番目というから、

スマホや計算機、電子辞書も、良いけれど、

頭にそろばん玉が、位ごとに動かせる、、、そろばん

暗算、習字の空間の面白さ、炭の黒さを見ないで

残された雪の野原に、あなたの想像の世界の花園を心に描いて

日本は、経済や、教育知識のほかに、、、

凄いことに気が付く島国だという事が、

国土全体が、堀に囲まれたお城なんだから、、、

特殊な感性が人生の時間を止めているところもあります。

国土の時間は

場所によって、早さが違うという事に気づけば

君は200歳まで生きられる、100歳の人生が広がっている。

 

 

 

 


トランプ政権がスタートしました。日本人はなにをすればいいの?

2017-01-26 06:23:44 | Weblog

日本は、日本なのですから、

世界と仲良く

質実剛健に、働くことを惜しまないで

アメリカの動向をしっかりと観ながら

戦争にならない地球家族の構築に寄与してほしいものですね。

私は時代が読めなくなりました。

どうなるの?

これからは、想定外のことに備える必要もありますね。

 


本*幸せながん患者 * 自分の時間を生きる勇気に感動しました。

2017-01-22 14:31:48 | Weblog

医療の世界の歴史に興味を持ったのは、
ヨーロッパの病院を見学しながら、
病院の主宰するゼミナールに参加してからでした。

日本の病院の発祥と大きく違ったのは、
明治生まれの父が、
慈恵会医科大学で、
イギリス医学を取得した外科医であった事。

「パレ」が、

外科医は床屋のような時代から、
当時の外科医が瀉血などで、治療をしていた時代から

学問的に発展し、

ついに
医学の域まで、外科を発展させたと、
子供時代に話してくれました。

医師を舞台裏から観て育った私には

世間の風評は、
自分が病気になったとき、
初めて、医師の真摯な心に触れて、

病気を

自分と一緒に戦ってくれてる感謝が、
素直にかんじとれて、
医師を評価できると思うのですよね。

従兄弟の父上は、
内科医師で、ドイツ医学を学び
昭和の20年年代に、
遊びに行ったとき、

日本の病院では見たことのない

「レントゲン」の

大きな機械を目にしました。

その後、
従妹は内科医になり、
某大学の医局長をしていました。

本当は医者になりたくなかったそうです。

慶応大学のドイツ文学を専攻していたのが
親にばれて、勘当寸前で、我が家に来られ、
母が、彼のお母さんとは親戚で、親友だったことから、

「病院の「跡取り」と思わず、

医学の宇宙探検と考えて、
医学部転校して、
手塚治虫さんのように、森鴎外のように、

ゲーテを原書で読めばよいでしょう!

医師になってから、
もっと多くの事が出来るでしょう」

と説得して
彼は医学部に入学しなおしました。

従兄弟の兄は、医学の歴史にすこぶる詳しくて
エーザイから出版されている翻訳本などの
原書を読んでいました。

之は、私がウエルカム医師博物館の地下で手に入れた
貴重な一冊でした。


ウェルカム医療博物館に見学に行ったとき、
目からうろこの落ちる思いでした。

こんなヨーロッパのど真ん中に、

東洋の、漢方学のすべてのジャンルの歴史遺産や
東洋の、貴重な医療に使われた器具などが保存されていました。
勿論、最先端の医療機械であったと思われる

CTなどの展示もありました。

馬の医療分野の歴史的な貴重な手術器具なども、
わかりやすく展示してあり、
此処には、
政治的な権力のせめぎあいも、つぶしあいもなく、

医学に造詣の深くない経済観念のみ優れた政治家が
医師のビジョンをつぶしてしまうような、
短期の結論を出す、心の貧乏な人が、
居なかったということでしょうか?

500年単位で、古くからの病院が残っていたのでした。

父の卒業した慈恵医科大学の創立者の
高木先生が、留学されていた病院にも行きました。

医療関係者にとって、
時代とともに発展してきた医療が、素直に受け止められました。

又、船をそのまま実験室にと脚気のヴィタミン欠損の結果が出された
日本の医学の黎明期の話も交されました。

その後、この医歯薬医学の歴史の旅を企画された、
東京大学の教授をされていた先生が
留学されていたフランスに

飛行機で飛び、

パリ大学の中を案内していただきました。
ノーベル賞をおとりになった教授の教室が
そのまま歴史展示となって保存されていました。

引率の先生が、ニコニコしながら、額から、
ノーベル賞を。取り出して触らせてくれました。
何という、、、ラッキー!

いつか医薬歴史学会で、発表できたらと、
パリ大学の出版の本ももらってきました。

北海道では、日大出身の私は、
多くの資料を発表するチャンスを見いだせず、
そのうちに、、と思っているうちに
72歳になりました。
タイムアップ!!!

薬剤師会の会報に、連載記事を載せていただきましたが
当時は、北海道には
医薬史の会合が、ほとんど知られてないころでした、
ヨーロッパには、実に多くの歴史的な実績の有った教室が
そのまま、保存されて、
新たな時代に放たれた矢のような学生の夢を刺激していたことか!

パリ大学の付属なのでしょうか?
それとも、一部なのでしょうか?
今日の医学レベルまで発展するプロセスを
一目でわかるミュージアムがありました。

勿論フランス語のガイドブックには、
歴史に沿って、残されている器具や文献、写真。
当時の雑誌の記事や、
使われていた施設の縮図や、

初めての解剖学の授業の描写図。

戦場の野戦病院に、
万策尽きたぼろぼろの白衣の医師のそばに、
イエス様が現れている絵、、

忠実に、歴史を残し、
今日の病院に至るまでの
プロセスを保存している病院にも
先人達の心がそのまま存在して
目から鱗の想いでした。

ペニシリンを発見した、
セントメリーズホスピタルには、
入り口に、
アオカビのシャーレが展示されて、
エリザベス女王のお写真と、栄誉をたたえるコーナーがあり、

ペニシリン発見のタブレットが掲げてありました。
この病院の地下に
、巨大なスペースのある薬局があり
隅々まで写真記録を許可してくれました。

当時、すぐにでも、、、どこかに発表したかったのですが、、
チャンスが見出せませんでした。

実に、荘厳な先代の努力を
歴史としてたどれるように、展示していました。

又、創立550年になる古い石積みの病院は、
考えさせられる歴史に守られて

病院の発足が、「教会」だったことが見て取れました。

食事にも困る貧困の病人が、
頼るところは、教会であったことが見て取れました。

時代を超えて、
奉仕する、
マリアテレサのような修道女の姿が、
幻となって、

目の前に見えるようでした。
後々になって、
教会の敷地に病院が隣接して建立されたのでしょうか?

古びた教会と病院が、向かい合っていました。

ゼミに出席すると、建立当時からの資料が、
そのままスライドになって、紹介されました。

**********************

たとえば外科医の主人のアメリカ横断研修旅行のフィルムからですが、

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アメリカをめぐり、
ロチエスターをめぐり、「ボストン小児病院まで」、
研修旅行に参加した
外科医の夫のフィルムを
現像して整理し
アルバムにしながら、

アメリカの病院では、
歴代の病院長の写真がズラーと展示されており、

今は使われなくなった
「人工弁」なども保存され、
歴史の功労者の足跡を

現代から、未来に放つ矢の方向付けの
役に立ちそうな、足跡を保存し
時代を忠実に保存して
アメリカンドリームに一役買っている世代継承への心の遺産。

生きた医歯薬医療器具の歴史館に、
ごくごく、
自然に出来上がっている写真でした。

日本では、
昭和30年頃、派閥を超えたビジョンに萌えた
「国立がんセンター」が
築地に、
小さなビルから発足しました。

市川平三郎先生が、
「二重造影」の立体レントゲン写真を発表されてからは
父の診療所にも、鉛の部屋が増設され、
回転するレントゲンが入りました。


今までのかすんだ
白い陰影の中で、
がんを見つけなくても、
立体写真のように、
胃や腸や、内臓のがんがはっきり診断できる
秀逸の発展だと
外科医の父も、内科胃の兄も、興奮していました。

手遅れで見つかる患者さんの数は減り、
手術後の生存率は長寿まで期待できました。

その頃、
千葉大学の外科の医局に居た
「幸せながん患者」の著者は、

市川先生に出逢い、

外科の手おくれな手術を減らしたいという、、、
大きなヴィジョンの為に
市川先生の御誘いのまま、
一年半の無給のスタッフとして、
がんセンターに
夢を求めて行った事が、

「がんはどこまで治せるか」という

同じ著者の単行本に記述されていたのを読みました。

戦後のどさくさの東京は、
国も予算が無かったのか、

一人前の医師になっているにもかかわらず、

無給の妻帯者の医師が
夢に向かって貧困の中から、
ハスの花が開花するように

日本のCT開発の「コロンブスの卵」をやってのけました。

「がん回廊の朝」という柳田邦夫さんの単行本に出ていました。

師と仰いだ市川先生は
国立がんセンターの病院長になられてからも
都内の小学校で、児童に医学の夢を優しく、児童の目線で
授業されていたのをTVで拝見し、

日本の未来の医師達に光のようなエネルギーを
感じさせていました。

この本の「幸せながん患者」という意味は、

生涯を、
患者さんと一緒にがんと闘ってきた著者だから、

言えるし、書けるし、患者さんの心や看護師さんの心に
そしてまた。心ある医師の先生に

感動した体験を、うけとってもらえるのだな~~~~と!!!

寄り添う心のなし得た題目と思いました

ハーバード大学に留学しているときも、
頭の中は、
がんの早期発見の事でいっぱいだったのでしょう!

人生を

「がん患者さんと一緒にがんと闘う人生」に、

絞り込んで生きていたから、
周りは見えなくなっていたのでしょうね。

今回、私も、読者の一人として、
「幸せながん患者」という、この本のエッセンスの

どんな時にも、
何を優先させるかを大切に考えれるように

考え方で、
残りの人生が変わるだろうと思える。

「修験者がひと山越えた修行の果てに、諦観できる人の命」のごとく

自分の「命」でありながら、
がん細胞に占拠されて、
がんのままに苦しんで生きるより

**************************

自分の残された時間を
、自分の優先順位に沿って、
やりたいことをやってのける

*****************************

がんになったがゆえに、
「巨峰の登頂成功した患者さん」の、努力の結晶の文。

自分の時間を過ごす心への道しるべになるような、

実話が盛り込まれ、

72歳の私は、
残された時間は、

がんであろうと無かろうと、

人間は一度は死ぬ運命なのだから、、、
わが身に当てはめて、読破しました。


ピンクリボンの

乳がんの早期発見の
J.POSH(日本乳がんピンクリボン運動)を思わせる、

子供を育てる母親の健康を明るく、元気に、
見守るような、ピンクの想定の本です。

健康なお母さんであってほしい祈りの中で
乳がんにかかる、お母さんもいらっしゃいます。

若き乳がんの患者さんが
夫に、
「おっぱいのない自分と別れてほしい」という文がありました。

僕は、おっぱいと結婚したのではない、、、!

この文を読んだとき、
万感の想いで「夫婦愛」の強さに感動しました。


     ***********************

心の持ちようで、
一日一日を幸せに生きることが、
どんなに大切な事か知りました。

一気に読める感動の実体験の、
医師の貴重な体験談です。

著者の真摯に生きた
がんセンターでの一生と、
がんセンターに居たからこそ、

患者さんに役立つ、

「ヘリカルCT]や、
数々のコロンブスの卵のような

未来の医療界に
貢献できる仕事をできたのではないかと思います。

著者は、
父親も外科医、
兄も、義兄も、いとこも医師という
医療家族の中で、
質実剛健に
、無給で始まったがんセンターの研究から
数々の実績を残し、ご自分の夢を見つけました。

若き日には

「がん回廊の朝」「明日への挑戦」など、


柳田邦夫さんの単行本で、
私は、日本の画像診断の黎明期の
眩しいような、医師達の頑張りのロマンを読んでいました。

日本のがんを、此処まで早期発見に導いたのは

がんセンターの創世記の担い手であることは、
わたしも、多くの患者さんも知るところです。

第二の創世記として、
このような創世記の歴史を、
上塗り保存のように

独立何とかの???組織にして
がんセンターのなじみの薄い人の旗に代わってしまって

検診のファイトが、折れてしまいました。

50周年に、歌舞伎の幕が降りて、
主役が再び出てきて下さるように、

なじみの先生が、
いきなりいなくなってしまうのは
寂しい限りです。

創立から、50年間の現場の功労者の先生方を
削除してしまう、
政治家の考える
独立法人のがんセンターは

患者さんも、心のよりどころの、偉大な巨木を失いました。

医の心をどのように、して
未来の医師の卵に伝え

突き放された患者さんの
物言わぬ医療の共有者の嘆きを伝えたらよいのかと

残念に思います。
日本には、CTも、知らない人の多い時代から、
改良されてきたのですから。

いきなり力づくで、でんぐりかえってしまったような
組織の変わり方で、
日進月歩の積み上げられた、医師と、患者さんの
組み合わせばかりではなく、、、

市川先生や、崎田先生や、
CT開発の「幸せながん患者」の著者の先生は

がんセンターの、医学遺産だと、、、コロンブスだと、、、

医薬史の好きな私は、、もったいない、、、もったいない、、と

思うのです。

パスツール研究所では
ツル首のフラスコが保存されていましたが、

スタッフの油絵や、研究所と一緒に、夫人の椅子まで保存してありました。

誰が、ここまでの医学の進歩に貢献したか?
その、足跡を見て、
若き人の夢も、損得抜きで、経済を考える前に
無給でも、集まって、夢を追うのではないのでしょうか?

ヨーロッパで訪問した、歴史ある病院の数々を、
回想してしまうのです。

第二の創世記は、第一の創世記という
土台の上に花が咲くのであって、
医学は経験の学問であるだけに、
四代中医学院を実習して回った中国も、

トラの骨の生薬まで展示していました。
西暦500年前後の名医の
ソンシバク先生の診療所や、
治療された患者さんの奇病の石像まで
長い石段の欄干に相当する部署に保存されていました。
医学の文献は、本物は、洞穴に保存されていたそうで、

一部は

持ち出され、「養生集」として
日本で本になっていました。


がんセンターを
素晴らしい築地の病院に育て上げ
世界を相手に、医学戦争で生き残ってきた実績が

着実に、創世記の土台に敬意を払って
第二の創世記が積み上げられるのでなければ、

木曽の蝮の言ったように
時代が主という
戦乱の医学世界になってしまい、

あの、、、時を超えて
医薬の歴史が囁く、、、感謝の心が
置き去りになってしまいます。

こういう、、、一般人の私には理解しがたい
政治の力が優位に働くのは、
第二の創世記のリーダーとなる
サポーターとしての、立場から、
内容を大切にしてほしいと思いました。

温故知新
温故知新
いきなりのショックは、
患者さんも置き去りです。

繋がってこそ、重なってこそ

ビジョンに萌えた夢に向かう未来の
心のある医師をそだててゆくのだろうと思い込んでいました。?

私も患者の一人として、
卵巣腫瘍を診断してもらった一人ですが、
15年が過ぎました。

日々、雪搔き、買い物、家事、をこなしています。
思い返せば、あの時、考える暇を持たないように

仕事に戻ったのが、
その後の幸せな日々を感謝できる剣ヶ峰だったと
今更のように、振り返ります。

手術後は、一か月後に、
公立の、大学病院薬局で調剤の仕事に戻りました。

60歳で仕事を辞めて、家事に専念しています。

がん患者さんを担当している、
ドクター、ナース、コメディカルの皆さん

がん患者さんに寄り添うとき、

がん一筋に築地の第一線で経験を積んだ
現場の体験談を胸に
患者さんと接するとき、
きっと何かが違うと確信しました。

医歯薬史の話から、
「幸せながん患者」の、
心の本の話になりましたが、

この素晴らしい実績を残した、

創世記の国立がんセンターは、

第二の創世記に入り、
かっての功労者の先生の実績をHPで知ることはできませんが、

市川平三郎先生と入力すると、
検索で、WIKIページに、
過去の、
がん医療の発展が一部知ることが出来るので、

医歯薬史に余生を送っている友よ!

森山紀之というキーワードで
検索すると、

「がんはどこまで治せるか」

「幸せながん患者」そのほか、

ハーバード大学の教授が、思わず、、

Dr.森山は私の先生です!と
笑顔で喜ばれたという

、肝胆膵の医学生向け教科書も、
ネットで取り寄せることが出来ますよ。

それにしても、
あの、
創世記のビジョンにもえた
50年の
がんセンターの歴史を、
なんで、

歴史学者の為にも、

今日までのプロセスを、
HPに残してくれないのでしょうか?

私は、
築地にがんセンターが出来た頃は、
兄と見学に行きました。
崎田先生の、内視鏡の発展の話は、
オリンパスの胃カメラの発展と

日本の消化器のがんの
早期発見を実現したと、
研修の若き医師が
話してくれました。

東京大学の、大学祭に行ったときは、

まだ、、かなり太い、先端も回転しない胃カメラが展示してあり、


日進月歩に改良される
胃カメラを次々と買い換えて、
パソコン時代と同様、機会に食われた診療所は、
閉鎖することも多くなり、

機械の発展に追いつけない
経済負けしない病院への勤務医は、
自分の技術を磨き続ける


「専門医」「指導医」「認定医」が、
「博士号」に代わって
臨床力を証明するパテントになったようですね。
博士号は。大学からの、貴重な、同朋の力の証明なのでしょうか?

しかし、
がんセンターはそれらのパテントの
さらに新しい時代を
独自に開拓していたので、
患者となって、受付に行ったときは、
東洋の国の王妃クラスの人の
御付きの人が、検診を申し込んでいたことが
印象に残っています。


国立がんセンターの歴史と
入力すると、
政治家の方が、
独立法人化に提案されたようで、

50年の、
血と涙の努力の、CTの開発や、
医師が見て、
必要な箇所が撮影される画像に表現されるように
技師と医師、東北大学の教授となられた方々との、
東芝メディカル?ですかね?
機械担当の寝る暇も惜しんだ
努力を

医学の歴史として残すべきだと、思います
医歯薬史学の研究のためにも、、、



未来の医学の発展に残すのは、
やはり、
政治家の考える合理的なシステムではなくて、

「医の心」を

未来の医師の卵に伝える、
先人の、本当に、
現場で担当していた医師や
スタッフの足跡を、

しっかりと、
心の糧として引き継ぎ、
経済的に担当する部署は

医師の心と、
近代化の機械、

たとえばダヴィンチが果たした前立腺がんの手術の後の
尿漏れなどを解決してゆくプロセスには、

ヒントとなったコロンブスの卵を
やってのけた
創世記の時代の先生方を
師として、
大切にしてほしいと思いながら、

「幸せながん患者」の本を一気に読みました。

現場の医師は、、、
患者さんの心に永遠に生きています。

あたたかな、
寄り添う心を、私も、薬剤師として、
この本から
学ばせていただきました。

親しき友よ、私の、医薬歴史への想いと
感動の一冊を読だ観劇を
聴いてくださってくれてありがとう、

まだ気持ちは若い私です。
又、、、逢いましょうね!!!

日記帳のような、未公開のブログですが
熱気が入りました。

親しいあなたへ、私の個人的な気持ちを
知ってほしくて書きました。




日本史の中にも「時代が主」と、荒々しく生きた人物がいた

2017-01-22 04:47:18 | Weblog




オバマさんの大統領最後の挨拶を聞きました。

ニュースシャワーで、英語でも、繰り返されました。

NHKでは。同時通訳で聴きました。

演説は、シカゴで、Yes we can.

彼が、広島に来られたことは、地球の、核戦争の空しさを

全世界に、隅々まで、伝えてくれることだと信じています。

阿部首相は、世界平和への大きな呼びかけをできたと思います。

真珠湾での、慰霊に行かれたことも、

オバマ大統領と、阿部首相の、世界平和へのご努力は

胸を打つものがあります。

黒人大統領として、人種差別のないアメリカの時代の

先頭を、身をもって駆け抜けた、オバマさんに

日本国民は、感謝しています。

お疲れ様でした。

そして、、、どんな時代がやってくるのか???

トランプさんという、70歳代の高齢の大統領が誕生しました。

娘さんの御婿さんが、弁護士という、
若き知恵袋が側近にいらっしゃるのは

頼もしい限りですが、

トランプさんは、どのような政治をするのか

私たちのような主婦も、

ストップモーションで、時代からのメッセージを

受け止めようと、緊張しています。

とりあえず、、、、車のガソリンを、満タンにしてきました。






歴史は、造られてゆくものだから、年齢の語る事に耳を傾けたい72歳の私。

2017-01-20 05:06:34 | Weblog



日本に残されてゆくもの

残ってゆくもの

残っているのに気が付かないもの

残さなければならないもの

、、、、、、、

アメリカの歴史はすごいものがあると思います。

西部劇に観る原住民との攻防戦

西部開拓史

コロンブスの大陸発見から

ピューリタンの上陸

法の下に人種を超えて州が出来てゆくプロセス、、、

ワシントンからオバマ大統領まで

サウスダコタ州の山には
初代  ワシントン     57歳
3代  ジェファーソン    57歳
26代  T,ルーズベルト  42歳
16代  リンカーン     52歳

巨大な人物が巨大なマスクを残している。

****************************

親子で大統領を務めたアダムス

***************************

40歳代で大統領になったスーパーマン
11台のポーク
14代のピアス
18代のグラント
20代のガーフィールド
22代のクリブランド
26代のT,ルーズベルト
35代のケネディ
42代のクリントン
44代のオバマ

以上の9人
****************************

50代が25人


60代が10人


70代はいませんね。。。。?

****************************

終戦の時の原子爆弾が投下されたときの

33代   トルーマン大統領は    60歳
*****************************

ベトナム戦争の時は
36代  L,ジョンソン      55歳
37代  ニクソンが        56歳
38代  フォードが        61歳

*******************************

米国の貿易ビルのテロ事件の時が   

ブッシュ大統領で、    64歳


TVでは、小学校にいらした大統領が
びっくりされて、一瞬表情が静止されていたのが忘れられません


**********************************

そして、YES WE  CAN!

初の黒人大統領の     
44代  オバマ大統領    47歳

アメリカにおいては

人種差別は、これで終わったと思いました。
しかし、女性大統領がまだ生まれていません。

男女差別や、社会の構造が、男女差別を超えられません。

さて、、、年齢を軸に考えてゆきますと
ドナルド トランプ氏は   70歳です

実に、、、アメリカでは初の70歳代の大統領が誕生したことになります。

共和党が   70歳という年齢の大統領を生み出したのは、
歴史を まきもどすのでしょうか?
それとも、長寿社会においては、
70歳は40代?  50代?  60代?の若さである時代に
長寿社会が、頭脳を若がえらせたのでしょうか?

アメリカの大統領選挙をTVで観た時は
あの、広大なアメリカ大陸を飛び回る70歳には、敬服しましたが、
舞台裏には、若い力のサポートが、氷山のようにささえているからでしょうか?

明日は 70歳代の  高齢者の大統領が就任します。

若者よ、老人を、どのように支えるのか?!?

老人に振り回されないで、立派に支えてこそ

70歳代の大統領を、立派な業績に結び付けられるのは

若者の、しっかり度合いにかかっていると思います。

オバマさんと阿部さんが、世界平和の一歩を踏み出され、

広島と、パールハーバーの

核戦争の空しさを、表現されました。

トランプさんも、核戦争の撲滅に貢献されて
ノーベル賞を、70代の初の大統領が受けられますように

亀の甲羅より、、、年の甲羅を期待しています。

オバマさんと、阿部さんの、地球的な功績を完成させてください。



講談社発刊 幸せながん患者  一気に読み終わり感動の涙あり

2017-01-18 17:44:22 | Weblog

雪に埋もれて外出も控えて、春待つ72歳には、

サイドブレーキをひいたままの運転のごとく、

気が重たく焦っていた。

そんな日のポストに、

一冊の本が送られてきた。

発刊されて一か月ほどしか過ぎていない新刊だ!

時代についてゆくのに、
ネットしか見れなかったこのごろ!

水を得た魚のように、

掃除機を途中でほっぽり出して、
読み始めた。

一気に

おしまいのページまで、

時間を感じない実話と

著者の人生丸ごとの

「生き様の、あたたかな人柄」が、

投影されていて

私のような、、、

普通のおばちゃんをしていたものが

高度な

「人間の、命の終わりに立ち会ってきた人々の心」に触れて

最後のページをめくったとき、感動でフリーズしていた。

    **************

幸せな患者とは
まさに自分らしく
がんを生き抜くことのできる人の事なのでは
ないでしょうか。

最後のページの一業である。

    **************

本を閉じてから、
初めて、
一流の仕事をしてきた医師には

一流の師匠と仰ぐ先生が存在したのだと痛感した。

神と仰いだ若き日の師匠が、検査に来られた時

著者が、支えて、
手助けしようとするとき

かっての師匠が言った言葉に、

著者は、、、又、深い心を教わる、、、
読んでいる私は、詳しく述べるのは控えますが、、、

中途半端にお偉い先生だったら
このような、、、教え子は世に出なかったろうと、、、

今更ながら、「教えとは足下にあると、、、」
敬服しながら、ページをめくった。

これからは、
孫にさえ、
偉そうに道を説く、、
あほな婆さんになるのは辞めよう!





あまりにも、人の心の軌跡が

がんという病気の現場から

多くの感動となって、深い、静かな重みで

伝わってくる、

   **************

患者さんと医師の物語は

実体験から出ている一言一言であるだけに、
この本は、多くのがん患者さんの

  ***************

「人生の優先順位自覚する」救いの本になるのではないでしょうか。

  ***************

取材では書けない、文章です。
直木賞も、芥川賞も
評価の出来ない、、、真実の重さに

人は「命を意識するとき、、、」
このようになるのか、、、と

72歳になっても、未知の心に、無言の感動がありました。

著者の医師が若いころ、

私の主人の上司ががんにかかり

当時は、北海道のがんの医療レベルよりも
国立がんセンターの研究や臨床の発表が

その先生の心を、東京へと突き動かした。

勿論、札幌で手術を受けた先生がたも
おいでですが、、、
その先生は、築地を選ばれました。

お子さんが、まだ小さくて

「今は死にたくない!とおっしゃられていた。」

東京のがんセンターで手術を受けられ

「私はもう、、、生きてはここを出られないのですね。。。」と

涙されていた、、、。

お元気になられ、
学会活動にも復帰されて、
幼かったお子様が大人になっても、

お元気でいらっしゃいました。

バス停でお会いすると
元気に手を振ってくださいました。

そのことがあってから、私も、友人も、

札幌からも、
がんセンターに検診に行くようになっておりました。

平成13年のころだったと記憶しています。

私自身も、
がんセンターで
卵巣腫瘍を診断していただき、

その日のうちに手術室予約をして、

自覚はなかったのに、
15センチ×14センチの
巨大な卵巣腫瘍を手術しました。

Drは

診断したその机から
札幌へ電話してくれました。

主人の病院の手術予約をしてくれて、

飛行機で札幌へ帰り


手術室直行という、
命拾いの思い出もあるのです。


幸い悪性腫瘍になる前に切除しました。

ボウルのようにお腹に浮いていたそうで
丸いままの腫瘍が摘出されて、
主人はその大きな卵巣腫瘍を
写真に撮ってくれました。

之が破れたら脾臓に転移したかも?

主人は、胸をなでおろしながらも、
がん専門医と外科医の
がんに対する姿勢を反省していました。


あれから15年、
私は、いまだに健康な事もあり
検診に行っていないので、
今年は行こうかと考えています。

72歳と言えば、
がんでなくても
寿命を覚悟して毎日生きていますので

この本から得られることは
貴重な人生の案内のように思えました。

人生の限られた時間で、、、何を優先するか?

残りが計算される年になり、
何を優先して生きるのか、、、大切にしたい。

病院を親子3代で経営している同級生にも

この本はぜひ、薬剤師のあなたが読んで、

入院患者さんに、寄り添えるヒントがあると思うので
役立つとおもう、、、と。

日大時代の思い出話とともに、本の話をしました。
彼女は、「がんはどこまでなおせるのか」(徳間書店)の本を
ご主人が読んでいて、その本の話にもなりました。

感動した心が電話になって拡がった。

彼女から、

「これから、本屋さんに行って
うちの病院の患者さんに役立つように
すぐ読んだら、又電話するから。」。。と

何人も、自分の病院で見つけたがん患者さんが
がんセンターに世話になっているという
彼女は
著者のDrが、TVに出ていたと、教えてくれた。


私は欣也さんの出ている「水戸黄門」とか、
美男美女の水戸黄門の女優俳優を観て、
息子たちの、家を出てゆく前の
ほのぼのとした、男の若さに見とれている。
勧善懲悪の結果にスキーと気分さわやかになる
たわいもない、おばちゃんですが、、、。、

後は深夜のBSのNHKプレミアム。

ゴールデンタイムは
pm9時過ぎてお帰りの主人の食事に

ラジオに切り替えている。
ラジオが、、、又、別の良さがあって
画面に頼らない、間合いを味わい深く話す話実は
TVのように、攻めてこないのが良い。
話術に引き込まれるのだ!、、、こちらから、、、ね。

これからは、夜の遅い主人の夕食は作り置きして
ゴールデンタイムの医療番組もしっかり見るつもりだと
友人に答えて、電話を切った。

為になる番組を、これからは、
バランスよく観ることにしようと思います。

TVの番組も、

がん患者さんが、
心が救われるような視点で
経験豊富な医師の意見を
謙虚に取り上げることが
何をさておいても
、観ようかと思う番組になると思いますよ。

経験豊富。人生をがんにささげた医師の
言葉は
   **********************

取材では書けない一言が、重く、深く感動を誘いました。

   **********************

今日一日、本当に新鮮な一日でした。

「幸せながん患者」 幸福と不幸の分かれ道で、、、、」
若き患者がおっぱいを切除して、悲しみのこころなのだろう、、、
夫に向かって
「おっぱいを失った自分と離婚してほしい、、、」というような

文章も入っていた。

夫が「おっぱいと、結婚したんではない、、」と答えるあたり

涙が出てきた。

         ありがとう、、、一冊の「本」




TV番組に振り回されている豪雪に閉ざされた日

2017-01-15 10:14:24 | Weblog

窓のがらすの外は日差しが春

嬉しくなって、薄着で飛び出した。

マイナス11度は、、、甘くない!!

頭はキーン
指先は痛い、、、
金属のドアの取っ手には、
手がくっつて、、、おーちめたい!

3分でUターン、
帽子、手袋、キルティングモンペ。
極め付きは中布の長靴!
着装して、再度外出に挑戦、、、

30分でUーターン

マスクをすると眼鏡が曇る
眼鏡をとると、
雪の凍ってるとこが見えなくて滑る、、、
肺に冷気が直接流入する、、、マイナス11度!!!

結局、部屋で、
雪掻きに備えて
スキー手袋の裂けた親指の内側を
スポンジタワシを切って入れて、
小物のツギ宛てしながら、
テレビの前に座る。

欣也ちゃんの若き日と、
高倉健と、加山さん、、、他、、いっぱいの

哀しすぎる「八甲田」を、
俳優見たさに観ながら、
よけいに冷えた。

欣也ちゃんは生きていてほしかった。

日露戦争に備えての
雪の行軍に、
多くの命を落とした兵隊さんがいたことは
子供のころから知ってはいたが、

TVをスイッチオフするには
怖いもの見たさで、切れず
おしまいまで見て

戦争は、本当に罪だと思った。
紅顔の青年、少年が、
訓練段階で死んでゆくなんて、

父も叔父さん二人も、
軍隊に入って
シベリアまで行ったなんて、、、

今更、、、ぞーとする。

寒いからって、、、引き返せない。

男の番組だと思った、

夜になってNHKにチャンネルを合わした。

八甲田で冷えた体が「吹き飛んだ!」

原爆の投下のプロセスに「冷や汗を流しながら観た。」

さすがに、瞼に濡れハンカチを置いて
充血するぐらい疲れた目を覆い

爆睡した。

かって、、若き日は、
テレビに振り回されたことはない。

いつも、観た後は、、、さーあ!働くぞ!って、元気をもらえた。

今回の「原爆投下と、トルーマン大統領と、京都の事、
広島が、軍事基地があると、、、報告された事、、、

背筋が寒くなった、

原爆で黒く炭になった写真は

息子たちが小学校に行ってるとき

親の義務だと思い

広島と長崎に連れて行った、

その時、胸の軋る思いで観たことを思い出した。

茶の間の映像としては、、、強烈にえぐられる写真だった。

今日は、、、この番組に振り回されて、、、

背筋が寒くなった。

雪に閉ざされた北海道の、72歳の婆が

昨日の事のように

ノックアウトされる強烈なショックは

アメリカ人の中には、

ナチスにも似た

無差別殺人を何とも思わないという

ひとりの軍人が、

広島、長崎を木端微塵に追いやったという

人間が開けてはいけないパンドラの箱を

開けた、瞬間を、原子爆弾の映像が増幅した番組だった。

地球は、、、このままでは、、、人間が住めなくなる未来を暗示させた。

スイッチを押す、元素の塊のような人間が

どこかで育っているという恐怖だった

「ここら辺で、、、やめておく」

「ここら辺で、自然の絶妙なバランスに」

敬意と共存を示したい。

世界中の人間だと、自称、、、生身の人間だと思う人々に

もう、、、戦争だけは

負の遺産になり事は、、、やめようと、、

渾身の力で叫びたくなる想いの番組でした。


謹んで、歌会始の、TVを拝聴

2017-01-14 02:53:27 | Weblog

歌会始めがTVで放映されるようになってから

毎年、拝聴しています。

この、不思議な静寂は、御歌に光が反射して

茶の間に春の息吹となって届けられてきます。

御歌の流れる空間に

光が反射して、私のような茶の間の母さんたちも

一瞬蒸気になって

御歌の輝きに反射する水滴が虹になって

不思議な、、、不思議な、、、御歌の通り道になって

心地よい静寂に、

呼吸をするのも忘れてしまいます。

宮中の歌の流れが、はるか万葉の時代からの光を

お茶の間に届けてくれるのですから

日本の不思議な空間を

日本の不思議な

静止でもなく、緊張でもなく、厳格な空気でもなく、、

過去から未来への光の一瞬の停止が

御歌になって、春がおりてくるようです。

私ごときが、宮中の空気に吸い込まれては

畏れ多い事ですが、

過去から未来への光の御通りのように

雪に閉ざされた厳寒の北国で、

春の始まりの一瞬に

立ち枯れし足元から新芽のはじく音が聴こえるような

歌会の光でした。


真夜中の幸田露伴 NHKのTV

2017-01-13 03:05:18 | Weblog

いつ、、、70歳をすぎたのか?

私の中には、昭和30年前後の、少女のままの自分が居る。

人生の大河を流れて、40歳半ばにして

生まれ故郷の東京に帰ってこられた父の瞳が思い出される。

明治生まれの父が、青春時代

東京大学に入学したかった、、、と言っていた。

「東大に入学して、何をやりたかったの?」

「私の父は、医学者になるようにと言っていたが、

私は、農学部に行きたいと思った。」

学歴のなかった牧野博士に、

植物の研究の世界から、自然をクローズアップさせた

あの分類を観ていると、
懐の広さが、魅力だった、と言った。

結局東大受験は失敗で、
医師になって、
「外科医」になったばかりに、、、
戦地の近くの医学校で、イギリス医学を指導するようになった。
研究生活とは程遠い、激務の臨床の生活は
戦場の傷病兵の真っただ中で、
キリストが立っていた幻を見たと、、、話していた。

父の父は、、つまり、、お爺ちゃんは宮内庁に勤めていた。

「東大に入学して、お国の為に役立つスケールになるか、

さもなくば、医師となり、人々の命にかかわりながら、

銃後のご奉仕に徹せよと、、言った???とか。

富国強兵は、部隊に医師が居るのと居ないのでは

戦う気力が違ったと言っていた。

明治生まれの大人の言う事は、私には難解であった。

父はもともとは、
今でいう
「丸ノ内線の中の屋敷町に産まれている。」

早稲田中学の頃の話をしばしばした。

徳富蘆花、幸田露伴、与謝野晶子、有島文学、、、

まだ、中学一年生の私に、同級生のような語り口で

多くの事を話してくれた。
祖父が貸していた家には
有島武郎が住んでいたそうである。

当時としてはモダンなベレーをかぶった「波多野さん」が
原稿を取りに来ていた、」と、話してくれた。

父は、
自然と一体の「農学部」に進学して、
地球規模の大自然の医師になれたら面白かったかもしれないね」と言っていた。

露伴の住んでいた北海道で
夢は宇宙の現象と
植物や生命体の不思議と、
地球という自然連鎖に興味があったと言っていた

不如帰、五重塔、、独歩の武蔵野などの話を

折に触れては話してくれた。

当時は子供だったので、
露伴の文は、観念的に思えて理解するには未熟すぎました。

72歳になった今、

冬になって、雪が降る季節になると、

雪を搔きながら、
父が言っていた「武蔵野の小鳥の声の駆けわたる林の中」の
匂いが思い出される。

露伴は、北海道から、東京に出て行った。

東京で、隅田川で釣りにウツツヲ、、、

露伴と父が重なったりしながら、
疎開地で、途切れることのない七か村無医村の
唯一の、医師として、忙殺されそうな日々の中で、
真夜中に、村人さえ恐れる「深の淵」という、
昼でも暗く、深さの為に水は緑に見える川で
夜釣りをしていた父。

患者さんも、怖くて父を迎えに行けないで、
夜明けまで、
水枕をして、父の還りを待っていた待合室の長椅子。

露伴の「我を立ざれば、自殺也」という、、、生き方とは
180度違う、他人の健康にひたすらつくす臨床医だったが



病人に追い掛け回されていた父が、
ふと、、我にかえったように

露伴や、独歩や
徳富蘆花の本の話をするときは
遠くを見つめる目がきらきらしていた。

本当は、深い、洞察のある、自分のための
自分の時間を過ごせる人生を持ちたかったのだと
戦争体験の真っただ中で
我が子を3人も亡くした父が、
何を思って、東京の生まれ故郷まで
帰れたのだろうか?

焼夷弾や爆弾で焼け野原になった故郷に
13年後に還れたのは
子供のころの自然との共存共栄の眩しさが
科学や人間の破壊した自然を
再び信じようとしたからだろうか?

いつの間にか雪かきが終わる。

真夜中、

冷えて体を温める。

インスタントコーヒーを飲む。

BSのスイッチを入れる、

真夜中は、BSが面白い、

たまたま、、、幸田露伴の番雲を観た。

父の時代の、祖父から、
精神を学んだ「渾身」。

懐かしい響きである。

戦後の疎開先の南紀の山奥で、

槇割をしていた風景の中で

ひときわ目を引いたのは

懐かしい、、、鉈。

空手の板割のように

いとも簡単に、
真っ二つに割れていた風景が甦る。

露伴の番組では「渾身」

*************

72歳になっても、
胸の高さまで圧縮された雪の積もる屋根に登り

半ば氷塊と化けた
レンガのような雪を割ってゆき

屋根から滑り落とす作業は

もしかしたら
「渾身」の力を込めている状態かもしれません。

「渾身」これは、
幼いころ父が言っていた言葉であった。

弟は、テニスが上手かった。

長男は「両国高校」に進学して、

予備校のような、闘争的な高校時代を送っていた。

弟は、テニスが大好きで、
テニスの強い高校に行きたいと言った。

国体のテニス選手の出場権が夢だと、
テニスに明け暮れた高校時代だった。
弟の卒業した「隅田川高校の校歌が、
幸田露伴の作詞だったのを知って
歴史の古い、隅田川沿いの豊かな高校と知りました。
隅田川の橋の下をくぐり
東京湾に出る船に、30年前
北海道の小学校に在籍していた息子たちを乗舟させた事が有った。
今と違って、まだ、ドブのようなにおいがしていた隅田川だった。
大学生になった息子と、再び隅田川の舟に乗った。
水は美しく甦り、匂いはほとんどなかった。

私は、当時は府立第七女学校から、
男女共学になって、間もない
荒川沿いにある「小松川」高校」に進学した。

女性の数が圧倒的に多くて、

男子生徒は、おっとりとした、高校生らしい
おとなしい生徒が多かった。

暇さえあれば、登山とか、川でボートを漕いでいた。

小松川高校の良いところは
蓼科山のふもとに
「夏の山荘」がありまして、
近くには牧場もありました。

つまり、露伴の愛した「自然」がそろっていました。

露伴は谷中の大工さんの多い地区に住んでいて

あの名作の「五重塔」を書き上げました。

小松川界隈も、父の生まれ育った市谷文人通り界隈や
早稲田界隈とかなり違った人々が住んでいた。

スカイツリーにかかわっているような、職人さんもいた。
町工場では、月ロケットの部品を作っていたりした。

女性としては気の強い生徒が多かった。
同級生の一人と、大学卒業まで一緒に過ごした、

彼女は、学生時代から、
「男社会で、女性が対等に評価されて
対等に、生きてゆくには、
今の日本では「結婚」してはだめよ。

彼女の口癖だった、

「仕事も、家庭も、両立させようというのは、、、甘えている!」
大学卒業後、独身で人生を、男性並みに生きた彼女は、

自然の摂理に沿う事はなかったが、

ヤフーで、彼女の名前を入力すると
研究者ナンバーと
研究論文が出てくる。

小松川で、荒川を愛し、水を愛し、読書家だった彼女は
男社会の日本で

「我を立ざれば、、、自殺也」と言った露伴と同じぐらい
女の大きな天与の恵みである「愛」を捨てて、生きた。

去年までは、スケールの大きな文面の年賀状が来ていたが、
今年は、来なかった。

又、一回り大きくなって、
私は、、、置き去りになってしまったのかもしれません。

大きな大自然からのラブレターの雪!

絶え間なく自然で埋め尽くす北海道の雪を搔いて

かれこれ47年。

雪を搔いたことのない主人。

今年も400枚はあろうかという年賀葉書を
大切に読んでは、何か言っている主人。

年賀状を結婚以来主人に任せて、
出さなかった自分の人生。

孫と正月のお参りに
北海道神宮に行ったとき、

子供と孫を、観るにつけ、

日本の主婦は、生きた証はなんですか?、、と、、、訪ねられたら、

孫子です。、、、という時代は、

そろそろ終わると思いませんか?





札幌の冬は雪ばかり、、、タクシーの運転手さんは大変ですね。

2017-01-12 14:57:13 | Weblog



待ちどうしい、、、桜見物。

吹雪よ!花吹雪に代われ!!


今朝も5時に起きて、玄関、あプロ^地の階段、車庫前と除雪。

結婚してから、車の免許を、留萌での暇な時間をつぎはぎに使い

やっと、免許書を取得した主人は、

車が珍しく楽しく思えた5年ぐらいは

10丁ほど離れた、大学に、

研究に通っていたから、

深夜の帰宅には便利なので

マイカー通学だった、

子供が熱を出しても、

私が風疹になっても、

そんな状態じゃ、人は死なないから、大丈夫、、、

車を育児に提供してくれることは一切なかった。

マイカーを満喫していた40歳ごろまで。

、*************

単身赴任した主人は、

少し可愛そうでしたが、

私は札幌に残り、これ幸いと、、、正職員として

勤務しました。

勤務を口実に、単身赴任先には一度も行かなかった。

もともと、独身で、薬剤師を続ける同志たちと

独身グループ結束のような、仕事に夢を見ていた。

久しぶりの、、、独身が戻ってきたような単身赴任。

一日たりとも無駄には出来ない束の間の独身感覚。

そのお給料で、自分名義の車を買いました。

(^^

あれから、まだ、、、その時の愛車に乗っています。

間もなく、単身赴任を解消して、

勤務先が、大学から、札幌の新設病院への
転勤命令をいただきました。

私の、花の独身時代は、、、おしまい!
再び主婦に戻って、
雪掻き、食事、選択の毎日。

給料も出ません。

かといって、患者さんの事しか頭にない主人の帰宅合流は

奥さんが勤めていられる暇はない。

何が?こんなに?忙しく、雑用が増えるのか謎である。

主人の車はさすがに、5万キロしか、、、
5万キロも?

通勤に使ったので、3年ほど前に

買った店に
20000円ほど支払って
引き取ってもらいました。

*******************

アトランダムに、適当な中古車店に頼んで

印鑑と印鑑証明を、相手の言うままに提出すると、

名義変更されないまま。海を渡ることもあるそうで

回収、事故予防の手続きなど

後後大変だった事もあり、

買った店に頼むことにしました。

かなりの被害が予想されますので、

目の前で、書類を仕上げ、

デジカメで、渡す相手に持ってもらって
写真記録をしてから、

万一のトラブルが後からあった場合、
今日、今、現時点より、会社の責任において
全てを解決します。という
念書も、書いておきますね、と。
私の車もやがて、引き取るときには、
今回のように、きちんといたしますと、

指導してくださった。

真偽は解りませんが、
きちんと許可を受けた店には

マークが、あると、教えてくれた。

確かに、、、念のため、教えてもらったことを
やふーで検索してみた。

中古車は、いろいろ面倒だと、
ネットにも出ています。

買った時のディーラーに、
お金を2万支払って

廃車手続きをきちんとしてから、

車を持って行ってもらいました。

主人は社会人なので、車一つ扱っても、

万一の、、、トラブルに巻き込まれないように

石橋をタタイテ、私が、代行して、廃車にしました。

日曜日に、近所しか走らない50年間でした。

もっぱら、タクシーを呼んで、乗せてもらうのは、

自分の運転より、プロの運転が安心だからだそうです。

マイカー通勤で、万一事故でも起こしたら、

病院で主人を待ってくれている患者さんに

多大な迷惑がかかります。

その点、プロのタクシーの運転手さんは

主人のように、わだちから、歩道に飛び跳ねるような運転はしません。

私のように、子供たちを乗せたまま

坂道で、一回転することもありません。

あの時、、、、もし、歩道に人がいたら、、、

あの時、、、もし、対向車線に車が来ていたら、、、

ぞーとします。

車を運転しながら、雪道は30キロで運転していますが

主人は、車を引き取ってもらったから

タクシーしかありません。

なんで?
奥さんの車があるでしょう?、、、て、思うでしょう。

70歳過ぎた女性ドライバーの助手席にも、後ろの席にも、

冬は、絶対に乗りません。

タクシーが、なかなかつかまらない時は、

バス停まで、歩いてゆきます。

札幌の冬の季節は

雪の中で、立ち往生しているのは

車だけではありません。

老人ドライバーになった今、

雪の状態、
車の往行状態、
除雪の状態、
我が心の運転する気持ち


全てがオール5のレベルでないと

1月、2月3月は、、、、車庫の中で

ひたすら寝そべっている、、、うらやましい休暇中の愛車です。

穏やかな休日、

2017-01-09 00:42:38 | Weblog


久々の、げんきな太陽!

何処かに、出かけたい、、、

やっぱり、これから来る嵐に備えて

雪置場をつくつかな、、、、、

ベランダが手すりまで、雪が積もって圧縮され

壁の塗装が細かい日々が出来ている。、、、

ベランダに置いてあったゴム靴とセーターのまま、

チョットだけ除雪するつもりが

膝下まで除雪、、、2じかん、、、

すぐに、風呂に飛び込み、温まり、汗を流す。

冷えは、、、72歳の後半の耐力には、、、はるかに危険要素である。

後2か月、
風雪が来ても、生きてゆける環境をつくることが、
北海道の主婦の仕事である。

お互いに、自分の仕事を頑張って
70歳代を、自宅で生きてゆこうね。

弱くなるところは
筋肉を鍛えて、代行して

年はとっても、
自分を甘えさせないように、
孫子もためにも
緊張感を持って一生を全うすることを

心の「金」とします。




正月の三元日が過ぎたエポック。

2017-01-04 15:23:27 | Weblog

去年の暮れから雪搔きやら、買い物やら、掃除洗濯、、、と

新しい年を、まっさらで迎えたいという

自己愛から、納得いくまで、整えた。

大晦日に、息子夫婦、家族が、年越しを共にしようと

迎えに来てくれた。

孫たちは、ボクシングのTVに夢中であります。

普段は、私はボクシングを見ないで

大晦日の、仕事を傍らにしながら

音楽番組をかけっぱなしにするのが習慣だった。

今年は、孫のおかげで、異次元の大晦日を体験して

12時を過ぎて、

皆で、年越しのお椀をいただき、

「あけまして、、、おめでとう、、」

ご挨拶を交わしたあと、

岐路に着いた。

自宅では、まだ何か足りない空白が、感じられたので、

明け方まで、TVをかけっぱなしで、

ソファー―に寝っころんで、明け方まで

お菓子をつまんだり、新年がそのまま朝を迎え、

明け方から、夕方まで爆睡した。

2日目は、恒例の、「もち」の入っていないお雑煮。
「おもち」の代わりに
「おでん」の種の「もちもどきの団子」を入れて
お互いに、「もち」は控えましょう。」と、、、(^^

すぐに、めいめいが勝手に時を過ごし、

3日に突入。

我が家では、結婚以来、
北海道神宮の参拝初もうでが習慣であり、

いつの間にか、孫も主人の背丈を越して、

我ワレハ、、
小さくなった?のと勘違いします。

此処弐三年、、、
小吉や末吉で、

おみくじは、心がえぐられていたのですが、

今年は、やっと、
中吉が戻ってきました。

受験を控えた孫たちも、
大吉で、

おみくじ万歳です。

足りない物を数えるより、
在るものを数えて

今日も、元気で、感謝です。

そういう年齢になりました。

    (^^!

姪っ子の子供たちの誕生が、
写真入りの年賀状に、元気を盛り込んでいます。

未来につなげた、安堵感と
まだ未完成な二男が気がかりです。


医師になったがゆえに、
強豪なライバルに囲まれ、

生き残りの戦いが続いている二男の頑張りにも

40過ぎての独身の正月は、
寂しいものがあるのではと、
胸が痛む。

この年になると、
どんな女性と縁があるのか?

想像が出来ない。

息子の、良きも悪きも、足るも、足らぬも
まとめて、容認してくれる伴侶のような

優しい人があらわれないものでしょうか?

自分の第二の故郷は、
結婚した土地だと思っているらしいから、
知ってる方の知り合いとご縁があれば、
味のある大人同士の
「結婚協力家族」になれるかもね。


とりあえず21世紀の結婚様式は
昔のように20歳や30歳の、
夫婦で協力の子育て中心の結婚ではなさそうね。

私の主人も仕事が先。長男の出産にはまにあわない。

育児も、手伝うポーズは派手にするが、
おむつも、大が入ってるとそのまま閉じて知らん顔。

麻疹の時も、私だけが「孤軍奮闘!」

患者さんか?我が家の麻疹の子供か?

迷うことなく「病院勤務の宿直」

風評被害で「医師は高給取り」と思われがち。

私たちが、無給医時代の最後の医師家庭かもしれません。

40歳近くなって、初めて給料が出て、

跳び上がって、喜んで、

当直を忘れてしまって、
夕食後、呼び出されて、あわてて出勤したっけ。

何があっても、仕事第一。
仕事が命。

人間をする時間が足りない。

親子二代で仕事以外の家庭の事は「片手間」

家付、車付、婆抜き、、、最低はそろってないとね。

電話をかけても、
そのうちに、、、しようと思っているうちに
月日が飛んでゆく。

母さん!僕の敵は「時間」だよ。

近くなら、世話焼き婆さんになって、
スタンバイ終了させて、退散の、気力と若さと筋肉は
まだあるつもり、、、

そろそろ、、、急ぎなさい、、、

之が今年の、、ママの豊富を願う初めです・

       *******(**)****


相手が見つかってから、

相手の好みの住宅を
ローンで買うと言っているが、

ローンが終わるころは
60歳で、定年も遠くない。

大丈夫!これからは、貯金するから、、、。

医師になるのも、、、結構難しいが、

医師をするのは、したたかな努力と、

親たちとの結束と、心からの応援が必要だ。

大学の日進月歩の
医学の進歩についてゆくスタッフの努力は

医師の道、
医学の道、
仲間たちとの支えあう大きな仕事に

たえず、
最先端の知識や、
施設や、
情報が必要だろうと推測できる。

本や、情報や、学会や、研究、症例報告など、、、など。
日本は学術関係者や研究者に厳しい環境だと、
留学生の研究者が述べていたのを、思い出す。

それでも、阿部政権になってからは、希望がありますよね。
国際的なお付き合いが精力的に行われていますよね。
政治にはきわめて疎い私ですが、
山口県からは8人だったかな?首相が出てますよね。

東京は4人でしたか?
政治的にも、日本のオバマケアは秀逸だと思うのですが、
その分、医師達は、元旦も宿直当番だったり
医師の仕事が好きでないと務まらないと、、、
外野の私は、開いた口がふさがらない、、、。

多分、、、
結婚とか、デート、とか、

仕事以外の余裕がないのだろう。

「人間」をやっている暇が、
なかなか。
まとまった時間が無いのだろう。

主人も、医師であるが、、、
正月は、、、暮れから、、、

ひたすら、、、休んでいる。
50年近く、正月は、、、家で休息???。
なぜか?
外科は正月に「けがをしないように!」と叫んでも
スキーで大腿骨損傷したり
酒飲みが喧嘩したり

若いころは、正月に病院に行かねばならないことが多かった。

大学のスタッフだったころは
教授先生が国際感覚のある方で

仕事関係で、お仲間と
「アメリカ」は行けたようですが、
立ち寄り先は「心臓外科の国際的な指導者の居る病院」
初め、、、仕事関係の施設。
手術着を着用して「手術の見学に入る」

ほんのわずかだけ観光旅行。

「充実した」と、研修旅行に休暇を全部使ってご機嫌。
勿論、、、私は留守番である。

世間様が、医師の家庭なら、優雅にヨーロッパ旅行と
風評されても、、、(++!

「ロンドン」も「パリ」も行った事がない人生です。

病院休んで、ヨーロッパぐらいは、、、知っておかないと

TVを観ても、話を聞いても、ピンとこないわよ!

何度、促したかわかりませんが、

仕事上、ドイツにはゆきました。
本人が自慢にしていたドイツ語は、
思ったようには通用せず
英語で切り抜けたドイツでした。

之は、私がべーとべんの生家と言われている
観光に行ったときです。
音楽大学を卒業して間もなく
明治生まれの母が
すでに、来たことのあるらしい場所です。




海外に行くなら、日本語の通じるところが良いと
以後、、、海外にはゆきたがりません。

それでも仕事で、中国の巨大病院の交流には

「これは義務だ!」
と、出かけて行った。

仕事だ!海外だ!というときは
万難を排してゆく気迫は

家庭に於いてはありません。、、、寝ぼけた鯔のようです。

奥さん連れて、緊張する海外旅行するくらいなら

寝正月が良い、、、と言っている。
70歳過ぎてからは、正月は呼び出しも、宿直も、泊まりもありません。

還暦の記念旅行には国内でした。
結婚当初の、還暦には世界一周したいと言った事も忘れている。

国内旅行は行きたがります。

国内旅行は
気分が休まれるそうですよ。

「日光」の方が善い、

富士山の方がいい!

那智の滝が良い!

高野山が良い!

奈良が良い!

四国が良い!

九州沖縄が良い!、、、

青森から、100円バスを乗り継いで、東京まで、

停留下車見学で、行き当たったところを見よう!

琵琶湖が良い、、

結局、3泊ぐらいで行けるところはクリヤーしましたが。、、、

いつの間にか、、、
私も国内が良くなりました。
いつか、、、
中山道を歩きたいですね。


**************************

75歳を過ぎても、
しっかり仕事をして

仲間の皆さんと
一緒に居ることが、
一番幸せなようです。

**********************************

「あなたの家庭は?どちら?」というと

「男はやっぱり、、、仕事場だよ。」

「貴方の夢はどんな夢?」

「君の母さんが、3日前まで、ピアノのお弟子さんに教えていたろう!、、
あれって、、、凄い尊敬しているよ、、、
病院3日入院で、、、ハイ!さようなら!」

、、、何を言ってるのよ!?

アンダルシアや、地中海、短期クルーズとか?
西安の遺跡だって、観てないでしょう、、、

今年は休暇をいただいて、、、
海外旅行は出来ないかしら?

兄さんは自宅を売ってしまって、世界をまわった。
バカ?か利口?か、、、終活の仕方はさまざまです。

長生きすれば葬式も家族だけの30万だけ。
家具も、衣類も処分して
ケア付きの施設から、仕事に通う。
80にして、現役の仕事マンという兄は
もしかしたら?、、、
日本の勝ち組は、これから、「惚けない事」に絞れるかもね。

「医師と言っても、
サラリーマンだよ。
老後の生活費だって、要るんだよ!」

金持ちだと思っているのは、世間の勝手だけれど、
病院経営している「医師経営者」と
ごちゃごちゃにしてるんだよね、、、」

我が家は公的機関の施設に収容されないように
惚けないことがこれからの目標です。

3日寝て、コロッとさよならできるんなら、
老後の費用は要りません。

人間は、、、最後まで、、、
プライドのある事が、貯金も保険も多少は必要。

しかし、、、宵越しのお金を持っているようでは
日進月歩の医学の世界からは取り残される。

ドンドン使って時代についてゆかなくては、
患者さんに、最新の医療は届けられない。

月給は旅行積み立てを少し残して、
最新情報、体つくり、リハビリ運動と
自分にかけて、やっと、若者に認められる仲間になれる。
予約の患者さんが、来ているから、出かけてゆく気力がある。

さっぽらで50年医師をしてると
顔見知りも多く、その方々から元気をいただいて
若さを保っているようです。

痴呆防止、健康維持、孫子と付き合える頭の若さ、、、
そのためには、惜しみなく月給を使い、社会に回して
又。社会から、元気をいただいて、、、の70歳代です。

それらの維持だけで、、、
サラリーマン医師はいっぱいいっぱいかもしれませんね。


お金は銀河鉄道の宇宙の度には、持ってゆけないから、

眞田丸の教えてくれた
「六文銭」さえ残しておけば

宵越しのお金を持たずに、、、旅をしたい私ですが、

仕事だけが生きがいという、、
俺、俺の強い主人と
、出逢ってしまった以上、、、

相手の言う事を立てねば、丸くおさまらない。

*********************

次は、国内3日間の、平泉に行きますか、、、?

いつの日か
セーヌ川のほとりの骨董市で
旧き良きヨーロッパの品を見つけ
歴史の旅を、、、
年老いた腰の曲がった婆さんが楽しんでいたら
それは「私」です。





今年の抱負でした。(~~ (^^  (**





2017年1月2日  札幌の羊が丘周辺の住宅街雪景色

2017-01-02 22:38:52 | Weblog


今日は、雪が止んで、久しぶりに太陽が元気です

正月には、一日マラソンを観て、ドラマを見ている主人ですが、

運動不足になると、新年あけに、困るので、

近所の雪の街の散歩に誘いました。

手稲の方も、北の方も、

この、半分も雪が無いよ、、、と、いっています。

バス通りも大道り公園周辺の街が、雪が無いと、、、彼は言う

50年ぶりに、大雪だったこの界隈の

人間の頑張り、植物の頑張りを、デジカメでご紹介。





外の寒い世界から、暖かな部屋の中の世界には、36年前くす玉のように咲いた
背丈ほどの君子欄が、タネだけ残して全滅しました。
実生の君子欄が、世代をつないで咲き続け、又実生の花が、咲くでしょう!

植物は、人間より、、、強い!

日本の女性よ!子育てこそ、男には出来ない、
箱根駅伝は、女性の子育てが無いと、、、いつかは消えてしまう。

がんばろう!日本の、女性たちよ!


新年あけまして おめでとうございます

2017-01-01 10:31:27 | Weblog

昨年は、いろいろとありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

昨日は12時過ぎるまで、ボクシングや、お笑いや、
普段とは違うテレビをかけっぱなしで、

ワイワイガヤガヤ、、、家族や孫と、新年を迎えました。

「おめでとうございます!」

「おやすみなさい!」

そして新年、あけましておめでとうございます」