戦後の小学校教育は疎開地の南紀で受けました。
自然が豊かで、川と山と、大自然の植物や動物のチェーンの中で
お寺の和尚さんや、疎開してきた都会での先生の経験者や
かって、教鞭を執っていた経験者や、地元の名士と言われる土着の方。
先生は素晴らしい経験豊かな戦争の生き残り組でした。
小学校のお習字は、半紙が貴重品の時代に
教頭先生の夫人が、どこからか調達してくださり
筆も硯も振り返れば、小学生にはもったいないほどの
那智黒の石の硯でした。
夏休みには高野山に連れていただき、山頂から、素焼きのサラを
何枚も、意味も解らず投げました。
高野山には競書会のような事が行われていたのかもしれません。
私の、思い出箱には、裏に、高野山競書会の文字のあるバッチが残っています。
遊びに夢中で、机を持っている同級生の方が少なくて、
勉強は、学校でするだけで、教科書は、机の中に入れたまま帰宅しました。
お習字の上手な同級生が、ひときわ目立って、
皆、顔中真っ黒になりながら、筆を半紙からはみ出させては
「元気がいいね!」と、先生に褒められていたのが、記憶に残りました。
振り返れば、算数や英語や理科や科学の、いわゆる頭の中の学習は
高学年になってからでも、指導者の上手な人に出逢えれば
すぐに、上位にならますが、
習字など、日本の固有な学科は、
小学生時代に必修だったからこそ、
空間のセンスに目覚めさせてもらえたと、感謝しています。
難しい字も書けないし、とりわけ習字が上手なわけではありませんが、
点数で競う今日の受験予備校化した小学校から中学校は
先生方も、評価の高い高校や中学校受験に合格させたいと
本来の「気付き」の学習より
詰め込み、技巧、要領の授業になっていったと思うのですよね。
私の中学校時代は、戦後の「目指せ東大」時代にかかり
疎開地からも、新しい戦後の教育に遅れまいと、
疎開地は、過疎化して、皆、東京、大阪、神戸、京都を目指して
復興精神で、狂乱の受験戦争に向かってゆきました。
私たち兄弟の生き残りの4人は、
戦争で亡くなった、兄弟の二男三男、長女の位牌とともに、
父の生まれ故郷の、市谷新宿方面を目指して、帰還しました。
しかし、かっての実家も、土地も、すべてなくなっており、
江戸川の近くの、ドブが流れる下町に
お寺が焼け残っておりました。
知人が駅の線路の近くに産婦人科を開業しており
戦争の被害の生々しい陣地と呼ばれる、地区のゾーンの
医療や、お産を、ボランティア精神で、引き受けていました。
大学時代は基礎の実験室で親しかった友人が
下町に、ちらりほらりと、開業しているのが励みとなり、
勤務をしたいと希望していた父は、
勇気を奮って、子供たちの為に、下町で開業をしました。
父が開業したというより、戦争で焼け出された親戚一同が
医師である父の周りに集合して、
みんなでよってたかって、戦後の診療所を運営し始め、
其処に、疎開地に残っていた父が、
呼ばれて、大所帯の、親類ばかりが職員の
生き残り組の
第二の人生のノアの方舟の出船のようでした。
親戚筋の大学生が、眩しいような新生日本の輝きで
七輪で秋刀魚を焼いており、従妹の4人兄弟が同居しており、
学徒出陣で無事に運よく帰還した父の10歳以上離れた弟が
早稲田を受けて合格し、28歳の大学一年生が、詰襟に座布団帽子!
看護婦さんに、台所の婆やさん、、、
生き残りの我ら4人が、どこに身を置けばよいのか?
戦争は、特技を持った兵隊を造ったのだろう、
お寺を買い取ったために敷地が広い、
其処に、日大理工学部を中退して、兵隊に行ったまま
シベリアで、捕虜の生活をしていたという親戚が
大工さんもびっくりという器用な腕を披露した。
空き地に、相二階の横木の壁の、家を組み立てた。
同居人20人ぐらいが、寄ってたかって、棟上げをしました。
役所に届けて、神主に厄払いをしてもらい、
寺だか?神様の御膝なのか?
いろんな考えの方々が、開業を出発させました。
戦前は、
総合病院を開醫院で所有して、
まさに、名実ともに院長という座にあった父にとって
提灯のように膨らんだ袖の制服の日赤からの看護婦さんが
チームとなり、総合病院は、
外科の医局も手術室もなかったト言っていた。
父が院長だった総合病院は、当時の日本の政策上の
大切な役割を背負っていたと聞いている。
西洋医学の外科の指導と、診療、外科手術などの
ノルマを果たしても、戦争の続いた時代だけに
帰国命令は敗戦の直前まで、なかった。
海外からは東京の自宅に。
亡き母の後に、後添えをもらった祖父が
住んでいた時期もあった。
第二次世界大戦は、東京の爆撃の後
自宅も土地も、くにのものとして、賦活していった
市谷の自宅消失、土地の喪失、子供三人の命の喪失、
優秀だった、時分より、はるかに優秀だったと繰り返す弟の一人が
関東大震災の前後に無くなっている、、、
海で亡くなったという、、、
この弟は牛込小学校から、早稲田中学校に進んだと記憶している。
未来ある若者が、皆死んでいった、、、戦争。
数えきれない戦争中の喪失。
戦地には結婚指輪も、全ての物を置いてきたという母。
戦後13年で、マイナス人生から、復活し、
以前住んでいたの文人通りには戻れなくても、
生き残った同級生の居る東京に
第二の開業をした父には、いつも、うつろな瞳で、空を見ていた。
人生の浮き沈み激しい時代ではあったが、
父母の人生は、長男長女の子だくさんの時代だけに
産めよ増やせよ富国強兵の行き詰まりの敗戦は
玉音放送の「耐えがたきをたえ、、、:陛下の日本の国」をしっかりと
残してくださった、玉音放送が、今日の復活につながったと、、、
明治生まれの父母の心には、
「憂きことの 尚この上に積もれかし 限りある身の力試さん!」精神が
まるで、荷車一杯の居候を弾く牛さんのような寂しい大きな瞳で
黙々と復活の道を、荷物を背負いながら、歩み続けてくれました。
江戸川縁のドブの街は、日々に整理整頓復活の街にと変貌してゆきました。
中学三年になった長男の兄は、
兵隊から帰還してから早稲田の理工学部を卒業した叔父さんが
中学校の先生になって、運よく受け持ちとなり、
同級生らを集めては、課外時間に理科や数学の授業を受けていました。
進学高校の両国高校に受かり、頭の中は
「目指せ東大!」と、、、受験病の可愛そうな価値観の人生に向かってゆきました。
父の開業を継ぐべき長男に生まれたのですから、
出来たら、父の母校の慈恵会医科大学に進めれば
親子とも、万々歳となるはずですが、
戦後の、昭和30年代の勉強熱は、バルブのように
東京大学に向けて、熱病の受験生が出現していました。
駿河台予備校には、夏休みには
受験にうなされたような、受験熱病の高校生が
東大目指して集まって来ていました。
戦時中、大陸には西洋医学のできる外科医が居なくて
大陸の大学に、外科の教官として赴任した父のもとに
母が、長男を連れて後から合流したため、
8年にわたって、戦地の至近距離で、現地の学校教育を受けた長男は
国語の学習に、困難を極めた。
両国高校でも、東大合格と、太鼓判を押された割には
国語で大きく躓いた。
日本国内で、当たり前の空気の流れで会話を身に着けた同級生は
ちーちゃん(長男の愛称)は国語がネックだね!、、
受験勉強より、日本の名作の本を、一気に読んで、
日本語の行間の意味することを知らなければ、
東大の国語は、誰もが出来るところで、躓くよね、、、!
回りの学友も、叔父さんも、父母も、東大を一緒に受けた友人も、
いつも、心配してくれていたのは
「読解する、国語の行間の意味する事への受容器の無さ」であった。
本を読みなさい!
父も、母も、心配していた。
外国で育った8年間の日本語の欠落は、決して甘くはなかった。
箇条書きのような、質問には正解、
問題集に出ているような
作品名と作家の知識なども合格、、、
しかし、、
「恵」という漢字の意味に含まれた「愛する事」などの
国語の問題に選ばれた長文の空気が読めないのであった。
物理数学、社会世界史、歴史、、科目数満タンの東京大学の受験は
結局、自分の弱点を指摘されたような、
勉強では追いつけない、環境や、運の良さや、
努力では解決できない、どんな時にも、
中枢にいる環境の保証されたような
幸運の一握りが、合格の掲示板をうずめた。
可愛そうだった、、、不合格のみじめな、、、親子。
之が受験の認識の始まりでした。
目指せ!!!東大!、、、これでは劣等感に突撃する。
何をやりたいのか?
なにをしたいのか?
どんな夢があるのか?
自分の育ってきた環境から、
自分を含めて、自分の力で、
社会に参加するには
受験に踊らされるのではなくて、
自分を生み出す大きなチャンスが、受験という追分だとおもいませんか>
目的に向かってゆくというより、
自分の目的に気づき、自分を生み出す事の方が
自分の時間を、自分なりに、完成できるのではないですか?
私の受験のころは、一億総貧乏からの這い上がり目的の時代でした。
バブルも、今日の、経済格差も、受験合格の点数の内ですよね。
お金があれば、大統領にも成れる日が来ました。
しかし、、、お金がないのは、、、首の無いのと同じ時代でもあります。
大学を、お金儲けにつなげる社会のシステムに適応できるかどうか?
学生たちは、社会のシステムに大半は吸い込まれてゆくでしょう。
その中でも、欲を捨て、自分を見つけ、
明日の食べ物があれば、良しとして、
自分の一度きりの人生の自分の時間を手に入れれれば、
死ぬときに、これが自分だった!と
自分に出逢えるような、運命を引き寄せられるような受験をしたいと
おもいませんか?
此処で、、、中学校までの勉強は
がんばった人が、、、必ず勝てると思う量です。
大学受験前に、日本だけでも、自転車で走る番組を見て、
教育界、に関係なく、時間を止めたまま、
もしかしたら、、、これが、本当の日本の暮らしかもしれないと
芸大もかなわない、竹芸術や、彫刻、絵画、音楽が
マスコミの目に触れないで
源流の水のように奥深く存在するのを感じたいと思いませんか?
経済の流通に無関係なところで、
お金がいくらあっても、
東京大学を卒業しても手の届かない
深淵な自然体で、本人は、その輝きを自覚することもなく
穏やかに、明日のコメの文だけ頑張って
何百年も、ちょろちょろと
源流の水のように、流れ出していることを
日本人なら、、、これが、、、宝だと、、、
誰にも知られないように、心で受け止め、通りすぎている。
受験の造る知識の世界制覇。
受験の造る地獄だけは
考え方で、回避できるから、
東大にこだわると、風評にもてあそばれる劣等感の芽が
人生の多くの実りを、多くの感動の気づきを、覆い隠してしまいます。
受験のもたらす最悪の闇にうずもれるから、
その、こだわりのブラックホールだけは、
吸い込まれないように、
時に、自己愛の強い、早稲の為に、ちやほやと
回りから期待された、少年時代の天才は、
受験の、東大病になってしまっては
敗退が当たり前の学校だと思えずに
劣等感の塊が残り、自分の存在を手探りするあまり
小さい事でも、負けまいとする、、、アピーラーのような
自己の心の落ち着きどころを探して、一生、
目の前の幸せを、観るという事が出来なくなります。
幸せは、東大に入る事ではなくて
自分は、一度しかない人生の時間を、
何をしたいのか、、、気づくことでしょう?
大学に入ってから、自転車の旅をしながら
お寺に泊めてもらいながら、
人生は誰と出逢うかで、運命は開けてゆきますよね、
天地草木、星と出逢う事もあるし、
こだわりと、名誉や地位や、大学のこだわりは、捨てて、
自然体で、東大が夢の人は、夢の実現のためには
がんばってください。
でも、落ちてしまったら、夢から覚めて、
現実の、自分のやりたいことの為に、
惜しみない努力を、続けて、自分を発見してください。
Aがだねなら B、C.D,,,,と
自分が導かれてゆくままに、惜しみない努力をもって
自分自身を創り上げてほしいと、祈っています。
勝てる者には、東大は、踏み台になるでしょうね。
高い評価から ,社会も受け入れてくれるでしょうね。
でも、、、世界では、、、すでに20番目というから、
スマホや計算機、電子辞書も、良いけれど、
頭にそろばん玉が、位ごとに動かせる、、、そろばん
暗算、習字の空間の面白さ、炭の黒さを見ないで
残された雪の野原に、あなたの想像の世界の花園を心に描いて
日本は、経済や、教育知識のほかに、、、
凄いことに気が付く島国だという事が、
国土全体が、堀に囲まれたお城なんだから、、、
特殊な感性が人生の時間を止めているところもあります。
国土の時間は
場所によって、早さが違うという事に気づけば
君は200歳まで生きられる、100歳の人生が広がっている。