花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

mayonakano NHK

2018-04-24 23:42:31 | Weblog




私は戦争中、南紀で疎開中の防空壕の中で生まれました。

南紀は暖かく北海道の大自然とは、真逆の温暖な自然でした、

小学校に入学したころから、

クラスの中にも、わけのわからない、、、

差別のようなものが存在することに気が付きました。

隣の席に座っていた「サーちゃん」は

絵が上手で、

当時

「かつやまひろし」という挿絵画家が

子供たちの間では人気がありました。

その絵は「松島ともこ」という

子役の、雰囲気と似ていて、

トモ子さんも、

雑誌の表紙になったりしていました。

鰐淵晴子という、お母さんがドイツ人で

お父さんが日本人という

バレーの踊れる子役も居ました。

「ノンちゃん雲に乗る」、、、だったかな?

白黒のモノトーンの映画ですが

戦後のオール貧困家庭の疎開地の子供たちの間では

松島トモ子。

鰐淵晴子。

二人のアイドルは、派閥さえ作るような状態でした。

どっちのフアンなのかで、

仲間に入れてくれたり、くれなかったり、、、

つまり、、、

差別の根源にあるのは「考え方の違い」

「何を支持しているか?」

「スポーツ系?  学者系?」

そんなことでも、、、差別が自動的に発生してしまう。

つまり、何を大切にしているか?

どういうことに時間やお金をつかっているか?

自然と出会う回数の多い人たちが仲間になってゆくから

派閥が出来てゆきます。

南紀の疎開者には

アメリカに住んでいた人や

カナダに移住していた人や

ワシントン大学に留学していた人もいました。

そこに、今までの無医村だったところに

私の父が、戦場から引き揚げて、疎開したのでした。

政治に関しては「一切かかわらず、、、その時の与党に準ずる」という

自分の役目は「医療のみ」という

軍隊で、命令に従うだけの時代だった名残が

色濃く残っていました。

いまだに理解できないのが

地元の不思議な習慣です。

よそから来た人の生活習慣を

それはそれ、、、として、

どんなに時代に即して合理的な意見であっても

第4族の原子のように、反応しないという、、、

ふしぎでした。

祖父は、地域の村落の最も旧家と言われる

田畑や、山林をしょゆうしていたのか?管理していたのか?

南朝の天皇陛下や、楠正成や、、、

歴史的に旧い家の一族の次男でした。

旧家の財産は農地や山林や伝承されたもののようでしたが

次男には教育を、長男には地元の風習と地元への既得権のような???

多くの文化のイベントの遂行する「掛け声」やく???のような

ご先祖様継承への責任があるようでした。

しかし、明治になってからは

長男はアメリカに渡り、

カリフォルニアの砂漠を緑地にするという、

中央から盛り上がった時代の流れに乗って

ロスや、シスコの日本人町ができる前後に

緑地に造詣の深いものとして

砂漠の水路などに熱心な開拓に参加して

お墓は日本にも、カリフォルニアにもあるそうです。

次男だった祖父は、日本を離れることなく

カリフォルニアと南紀祖行き来しながらも
日本人としての役割を

日本で果たしていました。

晩年、、東京に、、、帰還する父とともに帰ってきました。


祖父はもともと、東京の青山あたりに住んでいたことがありました。


今の筑波大学、、、と言ったらいいのか?
教育大学の前身と言ったらよういのか、、、

青山師範を卒業して

27歳でアメリカに留学して、

カリフォルニアの開拓に学ぶことが多く

3か月の汽船の旅を

嵐にあいながら、、、行ったり来たりしていたそうです。

敗戦直前に帰国していた祖父は

南紀の田舎に、洋館をたてて、

ベランダのある玄関は、厳かなドアがありました。

ドアを開けると、

自分が通い詰めて描き上げたという「ゴールデンゲイトブリッジ」

つまり「金門橋」という橋の絵が描かれていた。

モダンな教育に恵まれた祖父が

自分の生き方として選んだのは

旧家のある生まれ故郷の役に立ちたいという

血は、、、知でご奉仕するという厳格な心で

故郷の町長(後に、多くの村落は合併して町になった)になっていました。

あたり、、、七か村は、、、電気もない疎開地でした。

祖父の住んでいる村落だけが電気が付きました。

にわかに3000人ほどに増えた南紀の疎開地には

当時は「インテリ」と呼ばれるような、、、

弁護士さんもおりました。

進駐軍のジープが時折通過して、

子供たちは後をついて走りました。

ジープが止まると、

英語で何かしゃべりかけてきましたが

子供たちは、お互いの顔を観ながら
ひたすら、笑いました。

進駐軍は

「チョコレート」や

「チューインガム」をくれました。

子供たちは「マッカーサ!」と口々に叫んで敬礼しながら

進駐軍の笑いを誘って居ました。

それまでは、小麦を噛んでいるうちに

ガムのようになってくるので

村の子供たちが、チュウインガムを知ったのは

進駐軍からもらった物が、初めてでした。

村にはワシントン大学に留学していた青年が

小さな郵便局で

切手を売っているアルバイトをしていたり、

アメリカ帰りの

「強制帰国させられたというおじさんも居ました、」



傷痍軍人が白い服を着て、松葉杖を突いて、

募金を集めに来ていました。

父は、義足を作って、働くようにと、

役場に仕事を頼んだりしながら、

戦後の復活を促していたのを記憶しています。


疎開という、、、

いわゆる、、、

もともとあった村落から言わせれば、、、

集団でよそ者が合流してきたわけですから

面食らったのは当たり前ですよね、、、。


町立の診療所が出来て、

戦陣外科の野戦病院の体験のある

なんでも出来る医師がやってきたのですから、、、

医師本人は大歓迎でも、

お父さんが医師で、

村から町から大切にされるからって、、、

子供たちが、診療所に配給されてくる物資で

バターや、ハムがパンに挟まっているのですから、

「このやろう!!、、、親父が医者だと得しやがって!!」、、、と

面と向かって突進してくるのも、

大人になった私には、、、今はよくわかります。

診療所にはのおばさん方が炊事場に勤めていましたが、

昼時に、私が、配給されたパンに

たっぷりとバターをつけていると

「なんて、、、もったいない漬け方をするんや?」

「医者の子は、あほや!

バターがどんなに高い値段か!!教えたれ!」

炊事場のおばさんたちに、、、あほ呼ばわりされてから

私は「おばさんたちに、あらかじめバターをつけて持ってきて」、、、と

お母さんから、頼んでもらいました。

弁当が白米だと、、、「ゆ~~ゆ~~」

てがわれました。(やじられることでした、)

弁当には、麦と梅干と、のりを入れて、

白米はやめるように、炊事のおばさんに頼みました。

それからは、、、

クラスのみんなも、弁当箱の蓋を立てて

弁当を隠して食べていた昼休みには

弁当を隠して食べなくなりました。


私は、仲間になれたような、、ほっとしたような

不思議な心で、

「神様、、、ありがとう、、、」と

心の中で、唯一の味方の神様を見ていました。


ほっとした昼休みを過ごせるようになりました。


祖父は、

子供から見ても、皆に尊敬されているのがわかりました、


当時は町に合併される前の、

七か村の長という方々から

頼まれて、

戦後の復活の時期のまとめ役を引き受けていました。

合わせて、

中学校や、小学校の校長先生も頼まれました。

祖父が、町長を引き受けてからというものは、


中央の国会議員さんも定期的に来られるようになりました。

誰が悪い、、、だれが良い、、、、というのではなくて、

敗戦のあとの日本は

ポツダム宣言を受け入れたわけですから、、、



アメリカの考えがどんどん入ってくるわけですよね。

電気のない南紀の不便さに、国会議員さんも

誰に命令されたかは永遠の謎ですが


ダムを造り、

村落一体に電気を引こうという時代の急流は

贖えないものがありました。

戦後の収入源にと、祖父は、外からやってくる客人に備えて

一階美容室と、

集会所を兼ねる(ロビーに相当する広い)板の間のある

旅館を経営していました。

親戚の人たちとの、、、

現在なら合資会社のようなものかもしれませんね。


中央からの国会議員さんたちの

安心して泊まれる、宿となっていました、

やがて、、、ダムができるのですが、、、、


ダムが出来上がったころには、疎開していた人たちは

一人、、、二人、、、三人。。。と

町として合併された村落群から

都会に戻って行ってしまいました。

ダムが出来て、、、電気がついた!。

ラジオや、電蓄や、ステレオや、洗濯機、

ダムを喜んだモダンな心の外来者は

一人、、、また一人と都会に帰ってゆきました。

私たちも、父の生まれ故郷の東京に

母と子供たちが先発隊として、

サケのように回帰しました。

村人から、父だけは、、、帰らないで、、、と

皆の心の準備期間だけでも、

先生は残ってほしい、、、という事で、



2年遅れて、





父は東京に診療所を開業しました。

生まれ故郷の、市ヶ谷の町は、

武家屋敷のあったところは、跡形もなく、無くなり、

下町の江戸川に近い古いお寺が

診療所になるならと

大きな池ごと譲ってくれたそうです、


しかし、、、国家が敗戦という混乱の中で

第三の勢力が、台頭してきていたのか?

池を埋め立てると、

敷地が3倍以上になったこともあり

埋め立てたところは、地域に返上することで、

新規開業がスムースにゆくという、

復興しなければならない、、、国、、、だった時代だったのでした。







どさくさ時代の、見えない援助のボランティァ精神から

東京生活が始まりました。

慈恵会医科大学を卒業して、イギリス医学を取得していた父は

戦場に行くとき、

研究していた論文もすべて

共同研究者に託していったこともあり、

疎開中は、

大学に残って教授になった友人から、

「イノシシの頭を送ってほしい、、、」と言われ


南紀で疎開していた時の患者さんの知り合いで、

山の中で、猟をして暮らしている人から

イノシシの頭を、大学に送っていました。


大学の友人の教授からは、

「イノシシの頭と言っても、、、食べるのではないので

研究には、耳が必要だ」

と、いう事で、

次には、イノシシを耳付きで、送っていたことが

ショックで、、、今も覚えています。


東京に来てからは、

同級生の教授が提案して、

温泉などを楽しみながら、、、

クラス会に出てゆく父は

田舎にいた時とは別人のように、生き生きそわそわ、

しばらくぶりの同級生会に出かけて行きました。

東京といっても、、戦後の東京の下町に開業したのですから、、、

健康保険制度が導入されても

順応できない、、外科の医師、、、父、、、大好きだった父のことが。


抗生物質も保険が通らない[高価薬〕の時代。


手術後は、抗生剤は飲み切らねばならない期間がある。

保険の通る短期間では

黴菌が強くなってしまい、傷口がかえって治らなくなるからと、

自腹で、患者さんに必要な薬は供給するから、

しかも、、、退院の直前には

忽然と消えてしまう、、、

   (--!


暗黙の許しを前提に、、、消えてしまう患者さん。


お金、、、、代金。。。医療費、、、の不払いは

父も家族も、心は乗り越えられるが、

ありがとうの一言もなく、、、消えてしまうという

戦後の究極の貧乏で、

心の貧しくなってしまった日本人の、、、消えてしまう、、、という。

元気をえぐられるような時代だった。



患者さんの心理とは

面白いものである。





生きるか死ぬかの、、、術後は

医師も、神様。看護婦も天使、

泣きながら感謝するが、、、

退院の間際の、

元気になった心からは、、、

元気はもともと、、、自分のものだった。、、、

だから???????



医療費を払うのは抵抗が出てくるのかもしれません。



長い間の努力で

体得した「技術」も、評価しない、、、

看護だって

従業員に月給を支払って

看護してもらっているのだと、、、

言いたくなりませんか?


父が54歳で早逝したとき、、、

私は、、、理不尽な、、、思いだった。


無料の診療が、、、心の覇気を奪ってしまったのではないか??

こみ上げてきた涙を

戦後の貧困な心にぶっつけるのには

患者さんの生活面の理解を受け入れるしかなかった。


火葬場まで、、、先生を見送るのだと、、、

多くの、、、患者さんが、泣きながら、訴えてくるので

バスを貸し切って、同行してもらった。

父には、、、たくさんの友達が居たことを、、、

初めて知りました、



戦争とは、、、

親子兄弟、親戚も、同級生も友人も、

引き離し、

卒業したアルバムに、一緒に写っている友人とも

束の間の交流で、、

、戦地でボロボロになった健康は、

過労死、、、で、

「あとは、、、皆を信じて飛翔して消えた父」



おじさんも、おばさんも、いとこたちに、、、出会ったのも、、、

戦後、、の東京の開業に、、

居候として同居して来たのが初対面だった。、

父がたどり着いた

生まれ故郷の東京に

合流して

居候として、我が家に同居しながら

父母を取り巻き

私が父母に近づくと、

「おばちゃ~~ん、おじちゃ~~~ん」と

間に入ってきて、

実の子も、完敗という愛情を獲得している、、、いとこたち。



存在は聞いていても、、

、ピンと来ない、、、実の子の私を排除する

三人姉妹と末っ子の、かわいい男子。



私は彼らを仲間として受け入れ、

父母に向ける親愛の態度は好もしかったが、

一人娘の私には、異常にに冷たく

他人同様だった。


私自身は、父母の甥や姪として

何があろうと、、、

神様の名において、認めていたという心情でした、

彼らも生き残りがかかていたのだろうと思えたから。


長女はのちに大学に昇格したドレメを卒業した、、、

次女は、、、看護婦になった、、、

三女は努力で姉たちのご主人の後輩を射止めた。

いとこの長女は、医師と結婚して、

ご両親から、イタリヤレストランをプレゼントしてもらい、

ママさんをしながら、

ゴルフがシングルという

努力で勝ち取ったセレブの座であったと

我ながら、、、舌を巻いている、、


戦後の復活の成功者だった。
美人だったからね、、、
百恵ちゃんと、さがみちこ、、、の妖艶さを
足して割ったような

男なら、、、やっぱし、、、

100万本のバラを送りたくなる女性ではあった、、、
私の母が、私を見ては

「この子は男の子のような性格ね、、、」

嘆きながら、

彼女と一緒に

銀座のマギーなどに出かけては

ドレメの学校の材料を観て歩いたり

彼女を同居している彼女の母親よりも

買い物に一緒に行っていたような記憶が残っている、

私にも、ワンピースを作ってくれましたが、、、

「有難う、、、」と。

受け取りましたが、、、

ダンスに行くような、、ふれやーのスカートの部分は

座ると円形になりました。

「外に着てゆく機会はありませんでしたが、、、」

戦後の日本は、男性を意識した映画チックな魅せる服も

一部では流行っていました。

そして、、、彼女は

東京の病院の二代目と結婚した。

次女は、看護師になったものの、、、ジャンルの違う法律家と結婚した。

地味な努力の一生を過ごしたようです。

戦争から帰ってきた弟も

28歳で早稲田に入り

卒業して

学芸大学を卒業した彼女と出会い

結婚式も父が全面に支え

結婚してからも、

我が家の真ん中の8畳間二つを占領していました。

學校の先生だった奥さんは

居候のドレメのお姉さんに

「チャイナ服など作ってもらい、、、盛り上がっていました。」

音楽大学を卒業した母、、、

ドレメの,、従妹

チャイナ服の好きなおばさん、、、

学生結婚の長男のお嫁さん、、、

この方は、、、、プレタポルテしか来ませんので、、、

学生のご主人の出せる金額ではない服が、

実家から、、、持ってきていたようでした。

私の父は、、、おひとよしだったのでしょううか?


父は、8人の父親で、戦争で3人の子供を失っている、

それだけに、戦争で没落した弟家族を

亡き、息子や娘と思って、

あしながおじさんになったのだろうと、、、

私なりに納得していた。

喪失感が、、、放出にマヒ状態を作りながらも

生きる元気になっていたのだろうと。。。

戦争も戦後も、皆、自分のことで精いっぱいだった、

心まで、貧しくなるのが、、、戦争だと、、、思った。

成り行きで、実家から25分で通学できるという事で

駿河台の日大に行くことにした。

高校時代のジャンバースカートを

タイトスカートに縫い直し、

下高井戸の日大の教養学部に通学するとき

三井牧場のあたりで

腰かけるにも、制服から縫い直したスカートは

生地がしっかりしていて

自分的には教養時代の制服となっていた。







。。。。。。。。。


ばかばかしい私事の、我が家の戦後のどさくさ時代が

話の腰を折ってしまいましたが、、、

子供時代の、戦争の敗戦がもたらした心の貧乏は

物質や、見えるものや、仕事で、グループができていったということでしょうか?

つまり、時代によって

社会全体の好みもさりながら、

群集心理は怖いもので

アメリカの

かっての歴史のように

人種差別まがいのものが

、存在するという事ですよね。


私は、南紀時代の子供時代に、忘れられない体験をしました。


「サーちゃん」に何枚か絵をもらいました。

少女時代の宝物にしていました。

その子は、

何でもできたので、

皆は遠巻きにしていました。

疎開組と地元組の、、、不思議な、、、

お互いが蚊帳の外という

絶妙な戦後の疎開の村々の、、、

時代の風を、

幼い私は、、、不思議に思っていました。



私も、2歳の時に、

故なき「大やけどをしました。」

父の診療所でお手伝いをしていた

見習いの看護婦さんが、

(もう、、、時効だから、推測のままに述べましょうね。)


父の本当の娘になりたかった、、、という、、、

憎めない「嫉妬からでした。」

村にとって、神様のように慕われている医師の娘、、、

娘として、赤ちゃんなのに、皆からちやほやされるのが

腹が立ってきたそうです。

母が縁談を世話したことが原因でした。

村の青年で、だれから見ても、性格円満で好青年だったそうですが、、、。

診療所を辞めさせられるとおもったのでしょうか?

まったくの誤解ですが、

彼女にしてみれば、

疎開地で看護婦見習いの仕事が天職だったのでしょう。

私は診療所の院長の娘という事が


彼女とは、真逆の理由で「差別されていました。」

父は、

彼女を辞めさせませんでした。

町の医師会の准看護婦の養成の教室に

通学するように手配をして

准看護婦になるまで、

あしながおじさんをしました。

彼女は准看護婦になって、

しばらく、父の診療所に居ましたが

やがて、円満に出てゆきました、






父は、、、言っていました。

自分に何もないと、、、心が貧乏なんだよ。

准看護婦の免許を取得したら

自分が、心が豊かになって、

医師の娘だからって、

居場所争いをして、嫉妬しなくても

異なった居場所ができるから、

人をねたまなくなるんだね、、、。



「きっと、、、今は、、、心から、、、ごめんなさいと言える大人になったと思うよ。」

、、、のう、、、災難だと思って、、、許すことだね。」



父は、、、遠くの空をいつまでも見上げていました、

差別のない世の中になる日には、

皆が豊かに教育を受けられることが

大きなカギとなるのかもしれません。

真夜中のNHKで

アイヌ民族と、

北大の研究者の番組を観ましたが、、、

かって、日本は真珠湾を奇襲するような

教育の偏った時代だっただけに、、、

軍国の時代の日本の命令には

いろいろと、、、現在の次元で考えると

刀を差している時代のような、、、

理解しがたい差別があったのだと、



歴史として、振り返りながら番組を見ていましたが、、、


アイム民族の、先住民としての、文化を

北大は、今後、、、どのようにして、

時代に即した学術的なサポートをしてゆくのだろうか?



世界にも、同様な貴重な文化が

残念な歴史の時代の思考レベルの時代の流れのままに

貴重な文化が失われたに違いありませんが、

真夜中の番組でしたが、、、

目が覚めてしまいました。



町内会から、、、世界のグローバルなスケールに至るまで、

差別や、排除や、国境そのものを嘆いた

花はどこへ行った、、、この歌が、、、私たちの青春の歌だったことは

感慨深いものがあります。









日本女性の適齢期は?

2018-04-22 19:13:10 | Weblog

一昔前




「年齢の本」という大判の雑誌を座右の銘にしていたことがあった。

小学生から、、、大学卒業までの、

学校の試験や受験で、雇用されてゆく受け身の人生と

エジソンのように、

親子とも「俺流」の人生をゆくものが

年齢によって、、、

面白いコントラストの業績地図のような、

人生案内に近い本であった。

結構人気があって、

何人かの友人に貸したことがあった。

最終的に

次男が持って行ったきり、、、引っ越しが原因で

どこに埋没してしまったか?

いまだに探せないでいる。

女性が社会に進出しているようであって

女性社会でない、、、

絶妙に微妙な日本女性の居場所であるが、

マスコミにも、世間にも取り上げられない小さな部屋で

日本の文化を守り通しているお年寄りもいることは確かです。

小さな自然が大切な

島国の日本の女性は

海に囲まれている本土のように

それなりに浮かんで活きてきた。

鉄の芯を持った女性でも、

真綿でくるんで、

しなやかに、

「美は力」であるからして

立ち居振る舞いが美しくないと

社会の要職に長く鎮座するのはむつかしい時代が続いた。

今頃、、、こだわるのも

少子化の日本と

老人大国の日本の

行く末を心配する心も、、、あるのかもしれません。

ボブディランの「花はどこへ行ったああああ????」

大学時代の軽井沢の合宿の

早朝散歩で

ウクレレを持った津村さんが、毎朝奏でていたことを、、、思い出す。

女性が

ほとんどいなかった

総合大学の

理工学部のESS合宿は

卒業後、カナダやアメリカ、欧米で

電気や、土木や、建築の仕事を夢見る技師の卵の

夢実現に欠かせない語学習得のための

真剣なクラブ集団であった。

50数名の先輩、後輩、OBたちの合宿は

緊張の日々の中にも

旧軽井沢の別荘のあたりの雰囲気には

理工学部の学生達の夢と重なる瀟洒な建物が並んでいた、

インタナショナルな感覚で、朝の散歩を楽しめた。


建築科には女性が2人しかいなかった時代でした。

化学科にも、女性が2人しかいませんでした。

薬学にはクラスの半数弱が女性の学生でした。

私大の薬学科は、女性が、女としての家庭人と仕事が

両立できる条件がそろっていた。

おんなの人生を捨てないで、社会参加のできる科のようであった。

病院のスタッフや、

街の薬局に進出する臨床の

物知り健康相談員をしながら

子育ても可能な、、、

臨床面への進出を目指していた学生が

結構多かった。

昭和40年前後の

女性の社会進出の多くなり始めた時代であった。

一方、、、


女性の社会的な居場所と、

名誉も栄光も関係なく

ひっそりと日本の文化を守り続けている女性と

結婚年齢に、どのような違いがあるのか

こだわっていた時期がある。

私的にも、、、33歳ぐらいに結婚をして

家庭と仕事の両立を計画していた。

30歳になるまでの時間は

仕事のプロになるための「勤務」と決めていた。

父が大学時代に逝ってしまい、

開業中の外科内科の医療施設は

兄の内科医だけでは支えるのがむつかしかった。

タイムリーに、外科医の父の代わりに

開業を、手伝いながら、東京の医科大学の医局に移動して

帰郷を果たしたいという、、、

未亡人の母にしてみれば、

渡りに船のような、医師のほやほやのインターン修了者が

向こうから訪ねてきてくれた、

日本女性の,、、私にとっては

実家の家業の継続のためにも、

医師と結婚せざるを得ない風が吹いてきたのです。

女性本人の意思が多少でも入る余地があるうちに

家庭存続のための役割を押し付けられて、、、当たり前の時代だった。

おんなが24歳になると、、

、かくも、、

居こごちがわるくなるものであろうか??

内科医の兄は、、ひどい奴です。

生家の父の家なのに

私の追い出しと、医師と結婚することを

強要してきたのです。

開業を、内科一人で切り回すのは、、、苦しいというのです。

外科の居ない内科は成り立たないというのです。

外科医が、向こうから来てくれたのだから、

お前は「橋」になれ!というのです。

今回の縁談を断るのなら、

兄が、相手を探す!という強硬手段に出てきました。

穏やかなうちにと、、、

24歳の薬剤師は、これからの10年が大切なのに。。。

結婚している場合なのか???

苦しみました。

勤務していた病院を辞めて、

南紀で生まれた南国育ちで

小学校から、大学卒業まで東京で育った人脈も

友人も、親戚も置き去りにして、、、

寒い雪国の北海道は札幌、出張は留萌、余市、夕張、、、と

車移動の家具のいらない4年間の研修時代を

過ごすことになりました。

女性とは、、、これでよかったのか?????

主人と出会ってしまって、

結婚への道を選んだものの

父の早逝という条件下での

役割結婚による、、、やむを得ない結婚だった。

明治生まれの両親の中では

モダンなイデオロギーを持っていると

誇りに思っていたのに、、、

ことが窮すると

長男を第一に立てる風習は

女性自立の障害物に相当する思想だった。

頭の奪抜けた男っぽい快男児の弟が

高校生だっただけに、、、

「ここらへんで、、、我が家の為にも、、、嫁に出てゆくか、、、」

薬剤師の免許を持っているんだから、、、

付き合ったことはないけれど、

我慢ならない性格だったら

離婚すればいい、、、と。

団長の思いで、、、東京に別れを告げた。

主人になる医師が、

東京の都立高校を卒業しているという

唯一の信用できる、ボーダーラインの共有点が頼りでした。

私は、政治家の女性活動家の山口さんの母校でもある

都立小松川高校の卒業生でもありますから

女性が家に従属することを、良しとしなかった心が

高校時代の友人からも、影響を受けていました。

独身でもいいではないか!

女性の独身の、、、どこが悪い!

自分のできることを深く掘り下げて、

結果的に、社会に貢献できれば

お^ルドミスと言われようが、、、ちっとも、、、引け目は感じない。

高校の、化学の先生は。。。

独身の女性の先生で、50歳ぐらいでした。

素敵な根性の、尊敬できる先生でした。

私は、、、化学部にも咳を置きました。

日本の女性は、、、家庭存続のための

捨て駒ではありませんよ。。。

結果として、、、

子供を産み、育てる生活の厳しさを体験して

家庭婦人という

座のあるようで、、、座のない瞬間の勝負の連続に

闘争本能は、まっしぐらに

生活戦争、生き残り戦争の戦場で

勝ち残った優雅な、、、これが優雅というのか、、、というような

日本女性の鏡に出逢ったのでした。

社会進出は、、、分身に任せて、、、家庭を守り切った日本の母ちゃん!

すぐそばに、、、、すごい人がいたのでした。

年齢の本の話でしたね!

話をもとに戻します。



私たちの仲人をしてくださったカメラ会社の障子部門の社長さんは

東京大学を卒業されていた。

一斉風靡した「ハーフサイズ」のカメラをヒットさせて

有名になっていた。

その、、、奥様となられた方が

日本の内助の功を、お手本にしたような女性でいらっしゃった。

仲人をしてくださったのは

主人の父上様と同じ高校であり同級生であったことや、

主人の父の母様、、、つまりおばあちゃんたちも

子供のころからよく知っていたという

開業医と患者さん家族の時期もあったということを

奥様から聞きました。

東大主審ののご主事が、、

「ワイフにはかなわんですよ、、、!」

威厳のある静かな口調で、話されたとき、、、

日本の女性の強さって、、、なんなんだろう?、、、と

この、奥様からは、学ぶことが大いに違いないと思いました。

毎年、地元の名物をお届けして、

よもやま話をお伺いするように心がけていました。

ご主人が定年後は

東京の都心を離れられて

数種類の名門大学が移動していった山側に

終の棲家を新築されたと、、、お知らせをいただき

私は、ヒコーキに乗って、上京して、

高雄山のハイキングの帰り道

お寄りしました。

すっかり,、、お年を召され

お孫さんをお相手に、、、好々爺となられた、、、若き日の英雄も

奥様の前には、普通のおじさんのように

穏やかな自然体でした。

かって、、、若かりし頃は

部下のスタッフを大勢従えて、、コワイ上司だったかもしれない威厳は

丸く丸く孫に丸められて、
その笑顔は

私まで、つられて微笑んでしまうという、おじいちゃまになっておられました。

その後、また、お伺いしたときは

5人ほどいらっやったお嬢様が

皆さま、、、子だくさんで、

奥様は笑いながら、、、おっしゃいました。

「孫が23人になりましたのよ、、、、ホホホホホホホ、、、大変ですのよ、、」

勝手の社長さんのご主人も、

「女房には全く、、、かないませんよ!!!!!、、、勝てませんな~~~」

私も、敬服していましたら、

「末の息子も、結婚っしましてね、、、もうすぐ、、、内孫と登場ですわ、、、」

女房には、勝ち目がない、、、完敗のいっしょうですな~~~と笑った。

日本の女性は、、、強かった。

富国強兵政策の名残なのでしょうか、、、

戦争で、多くの男性は日本から消えた。

世界大戦の数年前ごろに

結婚されたと考えられるご夫婦の晩年を

私は、何度かお邪魔して、人生勉強になりました。

戦後の団塊の世代に、末の坊ちゃまがうまれていらっしゃる。

日本を戦争の廃墟から立ち上がらせたという陰の主役は

この、、、奥様のような

強い芯をもって「女の役割の道を、自然体で受容して生きる日本女性」だったのだと、、、

私は敬服したのでした。

薬剤師になってから、所属していた薬理の教授から、

東大の恩師の教室で、寿退職する薬剤師がいるので、

その研究所に行くようにと指示された。

3か月ほどたってから、

36~7歳になる寿退職するはずだった彼女は

破談になった。

「実験一本で生きてきた彼女は、、、退職を取り消した。」

私は、女の一生で、こうした状況は恐怖でもありました。」

女が腕一本で生きてゆくことは

男性の数倍の力があっても、、、むつかしいのが、、、日本の社会かもしれませんね。

子供を6人育てて

東大出身のご主人を「まいりました!」と言わしめた奥様の自然体こそ

女性が神様から与えられた天与の強さではないでしょうか?

近代日本の社会の中で

学歴や、研究歴のご立派な女性が多いご時世になった。

晩婚の女性も増えた。

代理妻に子供を委託出産するお金持ちの夫婦もマスコミに登場した。

しかし、日本の女性の強さは、

カメラの会社の商事部門の旦那さんをして、

「まいりました。」と言わしめた、、、あの奥様が

私的には「日本の女性は、男社会の上を行ってると認識させられた。」

果たして、、、彼女は

何歳で結婚したのだろうか、、、

その後、、、内孫は何人増えたのだろうか?

90になろうとするあの奥様を、、、

孫子がわっしょいわっしょいお世話をするという

子供や孫に
感謝を伝えて育児を完成させた強い日本女性は、

いつの日か、年齢を超えて、現れることを信じています。

年齢の本が教えてくれたことは。

年齢を区切って、受験生の時代の失敗を恐れないことだと思った。

天与の役割は、自然体の中で

黙々と、役割を果たしてゆけば、

国も、人も、未来につながってゆくと信じたい。

年齢の本をめくりながら、、、

本は、、、本であって、、、情報でしかない。


若き日の冬を振り返り春を喜ぶとき...

2018-04-19 08:27:00 | Weblog

人生は長いようで短く、

短い様で

、、、結構長い、




北海道の冬も終わり

恒例のストーブの整備を終えて、

「小メモリ」の

三分の一の火力でも、

、毎年、冬の終わりに起きる

ストーブの

オイル油送管の詰まり、

メンテナンス。、、、きゅうきゅう。




オイルの油送管のつまりが取れて

赤々と燃える(^^

微量燃焼メモリにセットしていても、、、(^^

小メモリに、合わせた程の火力となり

これで

来年の冬の始まりもスタンバイ!

、、、、、、、、、、、、、????????

来年も自宅でがんばれるだろうか?






医者バカの人生を

狭く生きてきた主人のことを考えると、

四季折々の気候に合わせて、

自宅で過ごす方が、、、

ボケにならないと

私的には、、、思っている。



小さな自宅ではあるが、

一家を季節ごとに整えるには

家事万端便利屋の私が

年齢より10年若い筋肉が必要である。

今年の春も迎えることができた。



早朝、

雪囲いを一本づつ外しては

枝を整えてゆく。


根元の若い枝は

馴染みの老いた枝の養分を遮断してしまうので

根っこに近い足元の枝を払ってゆく、


次に、天に向かう枝を残し

あたりに日陰を残す枝を、

しゃがんで、

空が見えるまで払ってゆく、

植物は下草をおおきくさせないためにだろうか?

枝を下垂させるように張り出し

日陰を創る。

すごい知的な戦争戦略である、


去年咲いた花たちの

お花芽のわきから出ている

若い花芽を持った枝を残し

去年楽しませてくれた枝はとって払う。


紫つつじも

ガクアジサイも

名月楓も

五葉の松も

藤棚も、

毎日高枝ばさみで弦をカットする、


カラスの巣のあるお隣の大木には

毎年カラスの子供が生まれて巣立って行く、

我が家のボケは、実が鈴なりになるのだが、、、

カラスたちが

きれいに食べてゆく。


カラスは実にお利巧である、


ボケの実を2つ食べ残して去ってゆく。


小さな鉢植えだった藤も
手に負えなくなってきた。

松もあたりに実が落ちて
実生の子供が生えてくる。

剪定を誤るとかれてしまうという樹木も大きく育った、

花の咲く樹木はことごとく枯れた。

百日紅の木が満開のピンク色をふりまいたのは
たった一年だけであった。

北限の函館でも百日紅は育つのは見ていない。

まして札幌では、、、枯れたのは無理もない。
枯れ枝にニスを塗装して保存した。

生まれ故郷の南紀には
百日紅があちこちに咲いて
子供達には人気があった。

木肌がつるつるで
たしかに、、、サルも滑りそうなつやがある、

世田谷の主人の実家の庭は武蔵野が切り取られたような

80坪のミニジャングルった、

柿の木が重たそうに橙色の実を鈴なりにさせ
毎年、母親が「庭の柿の実」を送ってきてくださった。

戦後の東京は、みんな貧しかった。

振り返れば
お金では買えない喜びや幸せに
心は穣だった、

奨学金と、親からの仕送りで
主人は北海道で生き抜いてきたようである。

出会ったときは、

発見されたときの

「小野田さん」をテレビで観たときのように

お疲れさま、、ご苦労さま。。。と

言葉にも出ない、、、何かがあった、


私大の薬学部を卒業した同級生の

結婚式の挨拶を頼まれて

私も、独身最後の思い出にしようかな。。。と

北海道の旅行を兼ねて、

札幌に来ていた。

東京の病院に勤務していたため
貴重な休暇だった。

友人から札幌の案内役にと紹介された主人だった。

コロンボ警部のダスターコートの、、、その男性は

30歳を目前にした一人ぼっちの北海道暮らしの中で、

先輩に頼まれてしまった案内役だけど、

費用も、預かっていないから、割り勘でお願いします。。。。という。


ツワー旅行を申し込んでから、札幌に着いたので
案内人は要りませんと、、、同級生の新郎になる方に

ご厚意だけはありがとうございます、、、、辞退した

北海道道東を頼んでいた私は、
いったん断ったものの、、、

先輩ののたっての勧めであるからと、、、
宿泊所に帰る途中
バッタリと、その案内人と出会ってしまった。

成り行き上、、

、言葉は交わさなかったが

先輩に頼まれたからと、、、
繰り返す案内人に

札幌の案内をするからと言うので同行した。

北大の植物園 
北大のポプラ並木、
北大の医学部、、、

蛍雪時代のグラビアの写真より
迫力のあるポプラ並木のメスとオスの樹木は

一目で区別できる枝の広がり方であった。

まっすぐ、、、自分の意思のままに
天に向かって迷わず伸びるオスのポプラ、、、!

風邪任せ、成り行き任せに
柳の枝を逆さにしたように
天に向かっているのか?
アトランダムの燦爛を素直とおもってみあげるか?
芯のないたいぼくとみるか?

メスのポプラに関しては、、、観る側の心理状態で
いろいろに思える樹木であると言えそうだ。

折から開催されていた北大生の学校祭のイベントには

医学部の解剖室の見学に案内してくれた。

学生たちの絵画部の展示場や、、、ETC.

札幌の町の案内ではなくて、、、

自分にとって、唯一のアピールである

「北大生」の

医学部の所属であるという、、、

自己紹介を案内していた。

都ぞ弥生の雲紫に。。。
恵迪寮の歌を刻んだ歌碑の説明や
クラーク博士の胸像のある所から
中央ローンを歩きながら

理学部の古い校舎が、、、何とも好きだ、、、とか。


銀杏並木、ポプラ並木、

極め付きは、、、貧しい学生生活の中

孤独を救ってくれたのは

野球部にいたからだと、、、

今度は、、、

球場を歩き回るのであった。

私も、一度は北大を受けようと思って
友人と受験票を申し込んだことがあった。

友人は現役で理学部の合格していた。

学生生活を4年間過ごすのだったら、

北大は最高の学び舎だと思っていた。

案内人の言葉はあまり注意して聞いていなかったが、

自分の感性で、勝手に、、、北大構内の雰囲気を楽しんだ。


道東旅行に出発するべき時間になったが

タクシーも呼べない。

野球場から、、、農学部の農場へと、、、

私は、、、へとへとだった。


正門まで来ると、さすがに足が疲れた。
図書館が素晴らしいと思った。

一度、図書館にはゆっくりと来てみたいと思った。

歩きくたびれたので、

割り勘でタクシーに乗って

狸小路に案内された。


これまた、、、700円のカキフライを、、、

わりかん。

道東つわーはまにあわない。

おまけに、

出会ってしまった、、、カウンセリングの必要な状態に、、、。


フライなど久々に食べたという主人は

超特急の腹痛と、下痢を起こし、

北大近くの学生宿舎に

私の方が送ってゆく羽目になった、


宿舎は質素な共同トイレの

何とも古めかしい学生たちの巣のような

男くさい、、、無 ム、、、ムム、、となるような

臭いが充満していた。

かって、、、
父が元気だったころ、

早稲田中学に受かったとき

座布団防止を泥浴びさせて、

制服を砂にまぶして汚して着た、、、と言っていたことが思い出された。


女性には一刻も早く立ち去りたい雰囲気であった。


私の気持ちにお構いなしの

札幌案内?と称して

自分の今日までを案内していた。

しかし、、、

長い間、戦争の終わったのを知らないで

島で役目を果たされた小野田さんの

TVに写られたとき、

私は、わけのわからない涙が止まらなかった。


孤独であった事でしょう、、、


敵に囲まれているままの終戦は

小野田さんにとっては

戦場だったことであろう、、、


男の一途な使命に生きる、切なくなるような

もらい泣きであったことが

思い出される。


戦後の、オール貧乏な家庭から

北大の医学部に入学出来て、

貧しい仕送りと、奨学金、、、野球によって孤独を救われ

医学を続ける気力を維持し、希望につなげた貧しさが

厳しい医学生の学問生活と孤独と、貧乏の中で

とうとう射止めた卒業と医師免許。

この男性にとっては、戦争からの復活の戦いにも似ていたのではなかろうか?

戦後の貧乏から、、、脱出したい、、、と。


札幌案内が「自己紹介案内」にまっしぐらになったのは、、、

血液型のせいかもしれない。


自分しか愛せない、、、芸術家、?画家?学者?

同じ血液型の著名人がいる。
自分しか見えない、、、状態。


道東で、原生花園や知床をめぐるはずのツワーが消えた。


くくっさい、、、民間の貧しい学生寮の

これまた、、、ひどい腹下しと

下痢の患者さんの看病に、

おかゆを作り、

綿あめのような誇りをソートふき取り

勉強机に新聞紙をひいて、

江戸紫で醤油を作り、、、

救急車を呼ぶべきだと、、、


逃げ出さねばと、、迷いつつも、


日本のこれからには、
なくてはならない外科医の卵だと、

とりあえず、

新婚旅行に出てしまった友人に

何とか、連絡を取ろうとあくせくした。


道東の二日目は網走の刑務所のはずだった。


「刑務所ね、、、、」

「医学生というと、、、聞こえはいいが、、、

勉強の刑務所に服役していた7年間だったのかもしれない、、、


長い間、、、それも、、、
貧乏学生という、、、独房の中で

歯を食いしばって、
希望と、
夢の実現にかけた
7年間の学問に服役した刑務所だったのかもしれない。

腹をおさえて、共同便所に通いながら

爆睡する姿を見ていると、

先輩から頼まれた案内客への
義務の案内が、、、自分自信のの案内になってしまい
久しぶりに、自分を認識できたのかもしれません。

見知らぬ女性の私でも、


停車場に故郷の訛を聴きに行った啄木のように

故郷で別れた彼女を思い出しているのかもしれません。



小野田さんが、孤独な島で

故郷の人間が現れたとき、、、

巣窟から、、、出ていらしたように。

、、、、、、、、

人間の出会いって不思議ですよね。

家もない、車の免許もない、、、

道具は勉強の机と疲れたロッカーが唯一の持ち物、


青医連や国家試験ボイコットで


北大医学部を卒業したのはいいが、、、

仕送りはストップ。


医師免許はない、、、

食うに食わずの。。。人生のエポック。


「神様、、、私に命令されていることは、、、むちゃくちゃです。」

東京に帰ったら、休んだ分だけ仕事が溜まっている。

くたくたに疲れた、、、病院の勤務中の10倍以上、、、

疲れこんで、

私は東京の実家にたどり着いたのでした。

その夏、、、

私の父が急逝したま、

「外科内科」の看板はそのままになっていたところに、

札幌の案内人であった彼が
いきなり、、、母に会いに来た。

北大で博士号を取得したら
お宅の外科の看板を、私が守りに来ます。

約束します、、、。

私の頭越しに、母は「お父さんが若くなって帰ってきてくれる!」

そう、、、言いました。

一開業医の施設で、外科医を雇うのは困難である。
母にとっては

故郷が、同郷で、都合のよいことに次男でもある。

博士号を取得後は

東京に戻りたいという男性は、、、
早逝した夫が帰ってくるように思えたといった。

結果的には、
北大に採用された主人は
学閥を乗り越えてまで
東京の再出発は選ばなかった。

母の臨終の言葉は、、、かなしい。

もう、、、待ちたびれたよ、、、


あの人は(主人?それとも」私の父?母の伴侶だった夫?)

嘘を、、、言った。


母は、主人が帰ってくるのを待っていたのか?

娘を北海道人として定着させてしまった寂しさに

耐えきれなかったのか?

俺のことしか考えない
あの血液型の主人を
嘘つきとまちがえたのか?

私的には、、、
主人は学閥を乗り越えるだけの
アグレッシブな精神は
もともとなかったように思っています。

主人の母が晩年息子を呼んでも
枯れ枝のように痩せた老衰の実母の前で
涙ぐむだけでした。
、、
大学がらみの仕事からは
実母の呼びかけにも
振り返ろうともしませんでした。

東京に帰らないと決めた日からは
妻のことも姑の母のことも
心の中では捨てていた、
実母さえ捨ててしまわないと
北海道人にはなれないという
自分の道しか見えなくなっていた、

妻の母親の、、、葬式には
現れることが、、、できなかった。

医者の家は、何かと豊かな金持ちと誤解されることが多い

地元で、何代か代々医師の続いた子弟が
たまたますんなりと医者になるという場合は
たしかに、、、
医学は足下にありと言えるかもしれない。

しかし、、、、
実父の弟が病院を継いだとはいえ、
実の父親はサラリーマンで

地方の大学や、

反対に地方から東京に出した医学生の親子は

一家ぐるみの戦場であることは確かである。

なわばり、、、?と言っては??
アウトロウの言葉になりますが、

医学部は
、築城された地域のように
見えない学閥があるようです、

主人は、、、学閥の島で、戦い続けて

居場所を確保していったのだと思いました。

母校を離れることが、どんなに、、、力が必要か、、、

博士号を授与されたとき

母校への忠誠を誓ったのだと思います。

その段階で、母も私も、、、
不要な
蚊帳の外の存在に
なったのかもしれません、

母は国立音楽大学を卒業して

「四葉会」の

主催者でした、

多くの弟子を教え

毎年コンサートを開いていました。



亡くなる三日前に

内科医の兄と、

国立がんセンターのスタッフだった弟に守られ、

多くの弟の同僚が手伝ってくださり

無事に天国に旅立ちました。


自分より30歳も若いかっての夫をさがしだせるでしょうか?


晩年は

美しい若い、、、

お弟子という娘たちに囲まれていました。


3台あったピアノは

一台は老人ホームに、

もう一台は、、、

最後に愛してやまなかったグランドピアノは

愛弟子に受け取ってもらったそうです、



私は実家の為には役割を果たせませんでした。




母はなくなる寸前まで

内科だけの看板で

開業を続けてくれた長男に

「大変だったでしょうね、、、一人で開業を続けてゆくのは、、、

本当に、、、お疲れさまでしたね。

あなたのおかげで、私は幸せでした、

ピアノを続けることが出来ました。、
、、」

手紙が見つかりました。


前後して、兄は「胃カメラの指導医」を取得していたので

千葉の病院に勤め勤務医としての晩年を過ごしています。

80歳で、英検の一級をゲットして、

自分の人生をおそばきながら始めました。

母を守る、、、

医者の未亡人を守る、、、
世間の風評被害が及ぶ院長の奥さんが未亡人。

守り切るには
母への絶大な尊敬と、愛情と、医師としてあとを継いだ役割と、

自分を生きてゆきたいというジレンマのなかで

兄は苦しかったことも多かったと思います。

奥さんが、、、花かごのような人だったからすくわれましたね、




弟は、医師になったらこうありたい!、、、私ならそう考えるほど

戦後の団塊の一人として、

日本の画像診断の黎明期から

あらゆるジャンルに必要とされる画像診断の時代を

戦陣を切って走り切りました。

外科医の父、見えないものをとらえ、具象化する音楽家の母

内科医の兄、理科系の兄弟と、豊かな人間関係の弟、

がんセンターも、弟の定年のころは

民主党になり、

独立法人になったり、、、激動の中でも、

おじさんの生きざまの中で

外科と、内科と画像独特の面白さのある画像診断に

病理の所見を合わせた医学のよもやま話を聴けた息子が

おじさんにあこがれたのであろう!

放射線科の医師となりました。



「母さん!」

画像だけ見てるのが放射線医だと思っているだろう?


内科の面白さ、
外科の面白さ、
病理との面白さ、、、

放射線は、技師の腕の見事さも左右するから

円陣を組んで、、、みんなで勝ちに行く医学だよ!」

スケートで金メダルとった「パシュートのように」

チームで勝ちに行くんだよ。


夢に生きていた時代の息子の言葉である。


その後、ドクターヘリの来る救急病院で
臨床に明け暮れていて、、、


43歳独身である、
気持ちは青年のように若いが、、、おじさんになった。

大学生のころはスリムであったし

ピアノやサクソフォンなどたしなみ、

心の旅路のできる息子であったが

画像診断という科は

座り机の前での仕事が
多いのかもしれない。

それとも、、、
救急のクランケは生死の境の緊張があって「
ストレスになるのか?

スタッフの少ない環境の激務が続くのか?

医師の本人は、

自分がやれることがあるという生きがいに


時間が過ぎてゆく実感もないままに、、、


患者さんが助かることが、生きている実感なのだろうか?


独身の43歳もあと半年で44歳、


幸せになるという事が、常識からは当てはまらない。




家庭がないだけで、

居場所のある男は幸せなのだろうか?、



病院の寮の一間で、

眠るだけの一人暮らしの中で

結婚がどういうものか?

想像もできない

青春の一部が、とり残された青年である、

仕事以外に

考える時間のない毎日は過ぎてゆく。

お母さんが馬鹿だから、、、息子を結婚させられない、、、

偏った価値観の中で、世の中半分女子なのに、

息子は仕事人間であるのがもどかしい。




画像診断でも、救急病院でなければ、
ジムに通えるだろうから、

一目ぼれされるスタイルに戻すことも可能でしょう。

しかし、、、

今のスタイルでは、、、

息子を愛して、

うるさく健康管理や、

運動管理に

生きがいを見出してくれる誰かが付かないと、、、

医師を続けるには健康維持の助っ人が必要だと思います。

太りすぎで

そつぎょうの頃の貴公子の雰囲気はない、


もっと、、、自分という

体型的なクランケをケアする曜日を作ってください。


生きてる間に、、、稀有なる面白い性格だった君の子供に:

出会いたいですよ、

君の遺伝子が、、、君一代で消滅するのなら

お母さんの存在も消滅します。

孫の顔を見るまでは、、、

いつまでも、、、頑張っていますよ。





さて、、、

あなたの父の、戦後の医学生から医師になるまでの

苦境の時代に、、、話を戻しましょう。
君だけのために、、、

思い出をつづっておこうね。

何十年も、離れたままだものね、、、、


***********************************


若き日の外科医としてピークのころ

主人を雇用している病院の

事務長さんが、

医師を働かせるのが上手だった。


医者バカがこうじて

過剰労働のエースだった主人の

ドレナージにと

ゴルフ場に連れて行ってくれたとき


入り口で売っていたと聞いていてが

小さなオンコの苗木を買って帰ってきた。


注意深く下枝を払って庭に地植えにした。

最大の注意を払って選定していた。

突然枯れたりすることもあると聞く、

オンコ

巨大化したヒバ、、、

そして、

建売業者が植えた、、、ヤマモミジ。


庭木にするには無理があると思われるが

初めてのマイホームだけに、

枝を切りながら50年近く同居してきた、

赤松は、

巨大化して塀を崩し始めたので

かわいそうですが、

立ち枯れて柱になってもらった。

我が家に、業者は、、、なんで???

こんなに巨大化する

立派すぎる赤松を

庭木にえらんだのだろううか??



いっそ、

小さな庭に、なじむように

盆栽のように

芯止めしておけば

巨大化した松の枝を払って、

オブジェのような柱にしてしまわなくても

庭の家族として

同居できたかもしれなかったのに、、、、

後悔は先立たず、、、。

万感の思いで、

無知は罪だと反省している。



半面、

忍びよるように

ふと気が付くと

巨大化している

松も、、、怖い。


小さな苗木だった五葉の松は

芯止めしていても、

二階の窓まで大きくなった。

クリスマスに、

若き日の華道仲間に枝を送って喜ばれている。


五葉の松は、

コミュニケーションの剪定を続けてきた。

我が家は、世にいう旦那衆とは違って、

肉体労働者のかなり激務の

臨床医だった。

心臓外科も担当する、

循環器のDrの

舞台裏の役割の自宅担当係の

おばさんであるからして、

家屋の中は

すべての部屋が
主人の物で埋まっている。

私の個室もない。

御着物なんぞ着替える部屋はない、

玄関の靴箱は

主人のかかとの減った靴で埋まっている。

ファブリーズが要る。!!


世の夫婦が一番大切に設計するという?

夫婦のベットルームもない。


つまり夫婦の寝室がない、


電話のそばのソファーで
病院からの呼び出しに待機しながら寝ていた主人、

今でこそ、
20人以上と研修医の居る病院だが、

たった4人の外科医が

なり続ける救急車のサイレンと戦ってきた

巨大病院の創生期の外科医の筆頭だった
、、

自宅は週末しか帰ってこない!。

子供たちと雑魚寝の二階の6畳は、

、、やがて

成長した息子たちのスペースとなり、


お値段以上、、、ニトリ、、、でおなじみの

家具屋さんで買った

三人掛けの薄皮張りのソファーに、

何十年もスラックスのまま、、爆睡して、

緊急電話で出かける主人を玄関で見送った、



主人が寝付く頃から朝まで仕事をするという、、、

昼夜逆転の

すれ違い夫婦を

何十年も続けている。


子供を作って以来

セックスレス夫婦だから、、、生き残ったのかもしれません。

ぎりぎりの体力戦争でした、



どの部屋にも主人の物があふれている。



主人がたまに見回りにしか来ない庭!

自分一人で、

リラックスできる自分の部屋である庭、


見せる庭というより

私が、、、勝手に気休めになるという

おもちゃ箱をひっくり返したような

整理されないままの、、、

私の休息ゾーンになっている。



庭仕事は無料の

アスレチッククラブ、

トレーニングを強制的に要求してくる。


冬の雪囲い、

春の庭片付け

草むしり、

落ち葉の掃除。

ペットボトルに水を入れて、

自動水やりの口とんがり部品をセットして

鉢植えに刺して回る。

枯れ枝の片付け、、、

庭の強要してくる筋肉トレーニングは

70歳過ぎても甘くはならない。




庭師を頼むことはほとんどないのですが、

長年のお知恵拝借の先生なので、

あっちこっち、、、

雪で崩壊したDーブロックぞーンを修復していただく。

お付き合いをしていただけるだけの、

最小限のお仕事は引き受けていただくように心がけている。

私も勤務していた時代からのお付き合いで、


維持費は年間で12万ほど。

家は、肝心かなめの水道と、雪の危険とスガモリ。


栗林ミサワの建売住宅は

水道も下水も屋根も、屋内のタイルや階段も

50年前の、技術未熟時代の家だったので

水道は何十年も使っていない。


雨水を使っている。

進歩したのは医学関係だけではありませんよね!

最近の建売は素晴らしくなりましたよね、

昭和50年ごろのに辻が丘に、
本州では有名だった
ミサワホームランドが建ちました、

東京主審の私たち夫婦は
迷わずミサワを選びました。

しかし、北海道の優秀な現場技術者は
本州の業者にまでは派遣されなかったのかもしれません。

現場の大工さんに、、、プロが少なすぎました。

思い起こせば、、、
あたりの悪い建売を買ったことは

病気の家族が居るのと同じぐらい、

大変でした。





2年前、

何十年かぶりに、

公務員の正社員の水道業者が来てくださり

庭の真ん中を掘り起こし、

万年水浸しで、原因不明の漏水の原因が

水道業者責任のゾーンのミスであり

居住者責任ゾーン内の漏水ではなくて、

それ以外の部分の水漏れ垂れ流しであったことを発見して

庭の真ん中を掘り返して、からは、、、

万年水浸しの庭が、乾いた普通の庭になった。



かって、、、ドヤドヤト数人が部屋に入り込み、

家屋内の水道を点検にしばしば訪れて、

水落としコックの全取り換えをしても、

メーターを毎年変えても

水が使われているといわれて、

ある日一時に十数万円の水道料を請求されて払ったことがあった。


それ以来、水は契約していないが、

メーターを取り換えに来ては

針が動いているといわれて、

問題が解決しなかった。


2年ほど前、

初めて、内勤の正職員が当方に来てくださり、

異常に水浸しの続いている当方の庭に疑問を持ってくださり、


「奥さん、、、これは、、、水道局の管轄のゾーンの水漏れかもしれません。」


三角の工事現場のような目印を置いて帰られた。

翌日、現場工事のニンプ?さんといっしょに来られた。


「奥さん、、すみませんが、植物の植わっている庭の真ん中を掘らしてください。」


真剣なまなざしで、きりりとおっしゃったので、


「漏水の原因と、我が家への嫌疑が解決できるなら、

どこでも掘り返してくださっていいですよ。」


その方は正職員の内勤だけあって、一枚上手であった。

掘り起こした庭に泥んこになって手を突っ込んでは

機械を使って水を下水の方に誘導してくれた。


「奥さん、、、原因は水道局の責任の区域内の漏水でした。」


長年の何十年も続いた水道の漏水嫌疑が晴れた。

しかし、

長年水道を使っていない鉄管はさびているでしょうね、、、という。

水を出したら、どこで漏れてくるか、、、わかりませんね。

今は鉄管の時代は終わっていますので、

全面引き直されるといいですね。

説得力のある言葉だった。


新築後数年で庭の水浸しが続き、

水道局との契約はしていない、


当然、トイレも使っていない。

不要になった家具や、

息子達や、主人の本。小さくなった衣類、

昔の重たい布団。

物置小屋となって、ガラクタの館になって数十年、

しばしば掃除もするので、愛着はひとしおである。


リホームしようと見積もりを取ると

1500万の設計づ面を作ってきた。


今のミサワホームは素晴らしくなったが、

昔のミサワをリホームするのは、

新築並みの費用が掛かることがショックである。


家はリホームされても、

喜寿を過ぎて頑張っている主人が

ストレスを感じるぐらいなら


生きてる間は、物置として、固定資産税も、6万円まで下がってきたし、、、

このまま、、庭だけ楽しみ、

雨水を撒きながら、

心穏やかに過ごしたい。


しかし、水道局の内勤の彼が来てくれなかったら、


いまだに水浸しの庭で、
水道メーターを取り換える作業が続き、

こっそり、、、水を使っているんだろう、、、と

嫌疑をかけられ、

不愉快な時間にストレスをためていたと思います、

時間がすっ飛び、、、
水道全面引き直しの塩ビ管時代が来ていたなんて、、、


考えられない思いの中で


ストレスに耐えていたのかもしれません。

いっそ、、、
井戸を掘れば気分もすっきりするかもしれませんね。

今だに

内側がトノコのついたままの未使用に近いまま

外壁は亀裂が入り朽ち果て始めた、、、

思い出の初めてのマイホーム。

戦中に生まれた主人は

土地付きのマイホームに愛着を示す。


家は広かったが、東京の実家は借地だったという。

建て替えができないので、

土地付きにはあこがれがあったという。

やがて、家屋は朽ち果ててゆくだろうが、

土地は歳をとらない。

今年も庭の樹木や花が

使わなかった家屋をやさしく守っている。


五葉の松、

ヤマモミジ

かいどうの桃色の花

つつじ、

ゴルフ場で買ってきたオンコが2本

もうすぐ咲くだろう、、、リラの花

北大の徽章になっている、、、延齢草。



北方植物園で学術発表の合宿に参加したとき

知る人ぞ知る植物園の先生のご配慮で、

参加者に分けてくださった

シャクヤクの種が発芽して、

チョウチョがほかの品種の花粉で雑種類となってしまったが、、、

楊貴妃が愛したという

シャクヤクの原種の種だった。

いつの間にか、、、庭から消えてなくなった。

生薬としては、、、基準の植物だった。

アメリカにんじんは

放し飼いの犬に張り起こされてしまったが

家は使えなくても、庭は私の居間である。


ぼろになっても、、、家には役割があると思った。

心の支えの存在なのである。

土台が風化しないように、

石黒ホーマでペンキを買ってきて、

とりあえず風化を防ぐ処理をしておいた、

我ながらへたくそ!!!、、、笑ってしまう。



当時は提携ローン9分で、

頭金は100万ぐらいで購入した。

北大の大学院で

博士論文と取っ組み合っている医学生が夫だけに

自分の学問代金を

アルバイトするのがやっとでした。



3か月に一か月、、、

留萌の寿町の崖の上の

築。。。???
何十年か経った宿舎に移動する生活だった。



平屋建てで、ワンルームが並び

いつも、、、
5人ぐらいの医師が出張アルバイトの宿泊にしていた。

冬は、、、海側の塀がぎーぎーと前後に揺れて

今にも倒れそうだった。

玄関の隙間からは雪が振り込み

廊下は長靴で歩いていた。

天候を見計らって、、、

坂を下り、、、桟橋まで行ったら、

冬の海で「きゅり、、、?」というのか?


小刀のような

品の良い川魚に似た魚が釣れて

留萌の冬の荒れた海が、、、

やさしかった一瞬でした。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、

山の天気ではありませんが、

空が灰色になって、

雪が降り始め、

桟橋には誰も居なくなり

私も危険を察知して

坂を登って宿舎に帰ろうと、

足早に歩き始めました。


あ!という間に吹雪が視界を遮りはじめ

吹き飛ばされそうな風が

海に向かって吹き荒れ始めました。

途中に、

食品や雑貨のミニミニデパートがあったので避難して

風が治まるまで買い物をして待ちました。

地元の人たちは、

知り尽くしている天候の変化に

顔色一つ変えないで、

通りは人の姿が消えています。



ほどほどの時間の後、

何とか、

向かい風に負けないで坂を登って

宿舎にたどり着くと、

玄関を出るとき

手前10メートルほどのところに刺した

スコップの三角取っ手が

かろうじて見えていた。

スコップで、玄関まで

獣道を掘りながら、

北キツネの巣にたどり着いたような気持ちで

ワンルームたどり着いた、



白黒のテレビも

アンテナがなくて映らない。

二人掛けのベッチンノ生地を突き破って

らせんの金具のはみ出たソファーは

座れない。

シャバシャバに線だけ映っているTVをつけたら、
都はるみ、、、だろうね、、、

北の宿から、、、

「着てはもらえぬ背~~~た~~を。。。

   涙こらえて、、、~編んで^ます~~~」

吹雪でとぎれとぎれの

唸り声が、虎落笛と重なって、、、

奇妙な音声になって、、、耳に残っています。


主人は、鉄筋の病院の宿直室に連泊で
研修アルバイト中であった。

何故、、、私はこんなところにいるのだろうか?????


備え付けの布団は押し入れの雨漏り?

湿気?

それとも雪の滴?

水がシャーベットになってごわつく布団。

風呂は煙突が取れている。

スト―ブの石油を買いに町の燃料屋に行くと、

オイルショックで

よそから来た見知らぬ客には、売るほど無い。

引き返して、

悔しいけれど主人に頼んで

病院から

宿舎に

ストーブの設備を申し込んで、

ピンチは切り抜けた;

寮がびっくりする山小屋風であったのも

戦後の日本の復活までの過渡期であったと振り返る。


戦争がなかったら、、、日本は、
もっとゆたかだっただろう、、、

戦後の北海道の復活の直前の時代の話である。

その年、宿舎の目の前の
留萌小学校の古い校舎が火事になった。

シングルエイトの8ミリで
火事を撮影していた、

火事のあと、小学校にフイルムは差し上げてきた。


夫は、ほとんど寮には帰らず、

研修を兼ねて、

病院の当直室に泊まりっぱなしだった。

結婚早々、

二間の二階建ての風呂のない木造アパートを借りた。

何か月も過ぎることなく、、、

階下の大家さんの若夫婦の喧嘩が原因とかで???

家事!!!

2階のわが部屋もタールまみれになり、

貧乏苦学生の新婚のアパーとに

せめて、

カーテンだけでもと

三越であつらえてお気に入りだったベランダサイズの

ずっしりと品の高い

ワンポイントのインテリャを

セレクトしていた。

           (--!



カーテンは半分焼けて、茶色に変色していた。

この日は

友人の医師が急きょ出張先の病院に行けなくなり、

実験費用や、奨学金返済で

金銭不足できゅうきゅうしていた主人が

代わりに、宿直に行って

アパートには居なかった。



私は、

夫の祖母の急逝で、

羽田にいた。

御祖母ちゃんが、

救ってくれたようなものでした。


主人と、、わたくしは、、、助かったのでした。


日赤からは毛布が配布された。

被害者救助のきめ細かな日赤の援助に敬服した。


戦後のどさくさで日本人総勢貧乏人の時代を

夫は生きてきた。


5歳年下の私の時代は、

復活の兆しの中で

アメリカの援助もあり

復興の兆しの中で

団塊の世代に突入するころでした。


敗軍の軍医として

最後の韓宇連絡船で帰還できた父は

満身創痍の健康で帰国後も


南紀の山奥の疎開地で七か村無医村で

疎開で住人が200人から3000人ぐらいまで

にわかに膨らんだ村落銀座で


町立の診療所の医師をしていた。


戦陣の中を苦労して生き抜いた父は

にわか銀座の迷える戦争被害者の片隅を照らす灯になっていた、





疎開地の診療所では、

ガラス窓が多かった。

キンモクセイやヤマモモの木がガラス越しに見えて

枝を灰色の蛇がうねりながら上手に進んでいたのが記憶に残っている。

青山師範を卒業後サンフランシスコに留学していた祖父も

カナダに渡ったアメリカ村の人たちも

戦後は一丸となって

復興に取り組んだ頃でした。

フト気が付くと、、、w

私は北大の外科医の伴侶として

北海道に居たのでした。


南と北、、、

なんで北海道に住んでいるのかも不思議だった。

人の一生など、、、どこでどうなるのか、

どこで道を間違えるのか?


なんで日本は、、、、

真珠湾に奇襲をかけたのか?


なんで、、、、部下たちはこぞって

ニイタカヤマに上ってしまったのか、、、


夢中で戦後を生きた私は

70歳も半ばになるこの頃、、、

思い出すことを、

アトランダムに

走馬燈が勝手に回る影絵のように

記憶をつづって見た。



平和こそ人類の最終目的だと信じています、



核の装備など、もってのほかの地球の中で

原点に返って、


自然の絶妙なバランスは

人知を超えた域に思えるほど本物だけに

本物を壊して、

コンクリートのジャングルを作り続けても

風化は免れないと思うのですよね。



自然は、大きな意味で

生命科学の示すように

呼吸している。


人間の作った人工のバランスは

愛情や、思いやりや、温故知新の尊敬を置き去りに

お金だけが幸せにしてくれると思うような哀しい社会である。



酸性雨や、

イタイイタイの人工公害や、

原発稼働津波被害、、、

社会の発展と称して、新しいものに飛びつく前に

立ち止まって考えてみたい。

バンカブルなことは、発展につながるが
バンカブルな考えやセンスは
永遠の戦争につながらないだろうか??

欲望や栄光や権力の世界は
底なしの戦いにつながってゆくとおもいませんか?



心の貧乏人が生まれ続けるのではないでしょうか?

心の貧乏人は、、、確かにお金で幸せになります


しかし、


自然の中で放浪した戦中に生まれた私は

人間は原点は

獣と変わらないのではないかと思います。

それだけに、

経済がすべての幸せを作ると考えるのは

、、、欲の獣と変わらないと思うのです。


人生もゴールが見えてきたとき

自然の偉大さに気が付きますよね。


やがて、、、

自然に帰らねばならない自分をどうしますか?



、、、、人間が作った悪魔。

戦争、

受験の敗北者、

お金がすべての世の中

名誉が先行して、

クジャクの羽を付けたカラスが
自分はどこ?、、、どこにいるの?
鏡に映ったクジャクの羽のカラスは
自分を探せない、

コップに石を入れながら

食べ物を浮かび上がらせるような

科学の終焉の臭いを嗅ぎ分ける

ハゲタカになってゆくカラス、。



欲と経済の数字だけを見つけて

それなりの見えないレールで走っていると

年老いたライオンは

なわばりを見回ることもできなくなるのですよね。



地球が親であって、

地球との共存共栄を第一にしないと

道教のお国も

スモッグとビルの大地になってしまうかもしれません


中国が「眠れる獅子」であり続けていてくれたなら、

地球の幸せは、

健全だったかもしれませんね。


働かざる者食うべからず、、、

マンションを

現金で買うお金持ちはいなかったかもしれませんが、

中国の台地には

月から見える万里の長城が

地球丸ごと

世界遺産になっていたかもしれませんね。



大地の子は、、、存在しなくなるのでしょうか?

パールバックは

真珠を握ったまま死んでしまったのでしょうか。

       支離滅裂の、、、記憶のままに

                      パッチワークな文となりました。

やっと居場所を見つけた40歳過ぎの息子。

結婚する気になり始めています。

知人が花嫁候補を、、、教えてくれています。

医術しかできない、、、女性への劣等感?があっるようです。

せっかく、、、教えてくれた女性に、

自分からアクセスすることが出来ないようです。

不器用な女性音痴の医者バカ。

哀しからずや道を説く君。

男は黙って抱き寄せて愛を伝えれば最高でしょう!


息子の縁談がうまくまとまりますように!

素敵な愛の、思いやりの、助け合いの、

「二人羽織」のできる奥さん候補に出会えますように。

これから、、、春を迎えに

         庭の枯葉、冬の名残を片付けに、、、

     泥まみれの一日の中に

         土のぬくもりを感じながら、

            今年も、庭が私のトレーニングジムでありますように

             土運びも、砂利運びも、堀っ返しの鉢の植え直しも

           見えない自然の空気のインストラクターが

     無理なく指導してくれる

夏に向かって、

        天然の筋トレ会場である
              
              小さな我が家の庭の

               清掃、地慣らし、修復の日課が、、毎日.

        

今年も、、、食料用のユリ根を庭で咲かせよう!

何かいいこと起こりそう!


冬の寒さを避けて部屋の中で、

君子欄が、、、

いま三つも、、、

咲いてくれました。

息子の運命の女性は

君子欄のような女性なのかしら?


冬を超えた感激を

共有して

愛しい花のメッセンジャーですよ。

君は今年中に、、、

幸せになれるよ!!!!


!!!、、、君子欄が咲いたから!






政治音痴の直感で思う時代の流れ

2018-04-14 01:15:52 | Weblog

おんなさかしゅうして うし 売りそこなう、、、

ほとんど通用しなくなったことわざですが、

大家族の主を中心に「男衆」が力仕事に耐えて、

世間の魑魅魍魎の横行する中を

スクラム組んで働き、世間の流れの土台の働きをしてきた。

おんなはおとなしく、うちに居て守りをたしかにこなし

内助の功という、上から目線の評価に

自分のアイデンテティを思うばかりの時代が基礎にあった。


富国強兵

朝鮮戦争

インパール作戦

第二次世界大戦

敗戦、、、

歴史は雄弁であった。

男衆をたてている内助の功では

国は世界からとり残しに会うことが

敗戦で、、、目からうろこが落ちました。

かといって

病院の看護集団のように

どなたも負けてしまう巨大勢力になってしまっても

男衆はマニュアル以上の働きには摩擦が伴うのだろう、、、。

本来は強い指導力のあった医師会や、薬剤師会も

厚生労働省????労働省の中の問題として、日本の内助の功?になったのかな?

日本の医療は、海外に輸出できるレベルの秀逸な医療力であったも

世界の中の「商品」にはできない。

地域の住民の「ともしび」となって、

片隅を照らすという。

お寺がいっぱいできたように

病院もひしめき合っているゾーンは目づらしくはない

その中でも、

心臓の移植手術などをなさる医療分野のスタッフは

国内だけでは技術が追い付かないのだろう。

海外留学して、

インターナショナルなスケールの社会性と

医療と、国内から持ち出させられる医療費の防衛と

今、国内で失われると国が揺らぐという人物たちの「ともしび」に

高度な医療は君臨しているのかもしれません、

     未熟な考えにつき、、、今宵は、、、ここまで考えただけで、、、よかろう回