私は戦争中、南紀で疎開中の防空壕の中で生まれました。
南紀は暖かく北海道の大自然とは、真逆の温暖な自然でした、
小学校に入学したころから、
クラスの中にも、わけのわからない、、、
差別のようなものが存在することに気が付きました。
隣の席に座っていた「サーちゃん」は
絵が上手で、
当時
「かつやまひろし」という挿絵画家が
子供たちの間では人気がありました。
その絵は「松島ともこ」という
子役の、雰囲気と似ていて、
トモ子さんも、
雑誌の表紙になったりしていました。
鰐淵晴子という、お母さんがドイツ人で
お父さんが日本人という
バレーの踊れる子役も居ました。
「ノンちゃん雲に乗る」、、、だったかな?
白黒のモノトーンの映画ですが
戦後のオール貧困家庭の疎開地の子供たちの間では
松島トモ子。
鰐淵晴子。
二人のアイドルは、派閥さえ作るような状態でした。
どっちのフアンなのかで、
仲間に入れてくれたり、くれなかったり、、、
つまり、、、
差別の根源にあるのは「考え方の違い」
「何を支持しているか?」
「スポーツ系? 学者系?」
そんなことでも、、、差別が自動的に発生してしまう。
つまり、何を大切にしているか?
どういうことに時間やお金をつかっているか?
自然と出会う回数の多い人たちが仲間になってゆくから
派閥が出来てゆきます。
南紀の疎開者には
アメリカに住んでいた人や
カナダに移住していた人や
ワシントン大学に留学していた人もいました。
そこに、今までの無医村だったところに
私の父が、戦場から引き揚げて、疎開したのでした。
政治に関しては「一切かかわらず、、、その時の与党に準ずる」という
自分の役目は「医療のみ」という
軍隊で、命令に従うだけの時代だった名残が
色濃く残っていました。
いまだに理解できないのが
地元の不思議な習慣です。
よそから来た人の生活習慣を
それはそれ、、、として、
どんなに時代に即して合理的な意見であっても
第4族の原子のように、反応しないという、、、
ふしぎでした。
祖父は、地域の村落の最も旧家と言われる
田畑や、山林をしょゆうしていたのか?管理していたのか?
南朝の天皇陛下や、楠正成や、、、
歴史的に旧い家の一族の次男でした。
旧家の財産は農地や山林や伝承されたもののようでしたが
次男には教育を、長男には地元の風習と地元への既得権のような???
多くの文化のイベントの遂行する「掛け声」やく???のような
ご先祖様継承への責任があるようでした。
しかし、明治になってからは
長男はアメリカに渡り、
カリフォルニアの砂漠を緑地にするという、
中央から盛り上がった時代の流れに乗って
ロスや、シスコの日本人町ができる前後に
緑地に造詣の深いものとして
砂漠の水路などに熱心な開拓に参加して
お墓は日本にも、カリフォルニアにもあるそうです。
次男だった祖父は、日本を離れることなく
カリフォルニアと南紀祖行き来しながらも
日本人としての役割を
日本で果たしていました。
晩年、、東京に、、、帰還する父とともに帰ってきました。
祖父はもともと、東京の青山あたりに住んでいたことがありました。
今の筑波大学、、、と言ったらいいのか?
教育大学の前身と言ったらよういのか、、、
青山師範を卒業して
27歳でアメリカに留学して、
カリフォルニアの開拓に学ぶことが多く
3か月の汽船の旅を
嵐にあいながら、、、行ったり来たりしていたそうです。
敗戦直前に帰国していた祖父は
南紀の田舎に、洋館をたてて、
ベランダのある玄関は、厳かなドアがありました。
ドアを開けると、
自分が通い詰めて描き上げたという「ゴールデンゲイトブリッジ」
つまり「金門橋」という橋の絵が描かれていた。
モダンな教育に恵まれた祖父が
自分の生き方として選んだのは
旧家のある生まれ故郷の役に立ちたいという
血は、、、知でご奉仕するという厳格な心で
故郷の町長(後に、多くの村落は合併して町になった)になっていました。
あたり、、、七か村は、、、電気もない疎開地でした。
祖父の住んでいる村落だけが電気が付きました。
にわかに3000人ほどに増えた南紀の疎開地には
当時は「インテリ」と呼ばれるような、、、
弁護士さんもおりました。
進駐軍のジープが時折通過して、
子供たちは後をついて走りました。
ジープが止まると、
英語で何かしゃべりかけてきましたが
子供たちは、お互いの顔を観ながら
ひたすら、笑いました。
進駐軍は
「チョコレート」や
「チューインガム」をくれました。
子供たちは「マッカーサ!」と口々に叫んで敬礼しながら
進駐軍の笑いを誘って居ました。
それまでは、小麦を噛んでいるうちに
ガムのようになってくるので
村の子供たちが、チュウインガムを知ったのは
進駐軍からもらった物が、初めてでした。
村にはワシントン大学に留学していた青年が
小さな郵便局で
切手を売っているアルバイトをしていたり、
アメリカ帰りの
「強制帰国させられたというおじさんも居ました、」
傷痍軍人が白い服を着て、松葉杖を突いて、
募金を集めに来ていました。
父は、義足を作って、働くようにと、
役場に仕事を頼んだりしながら、
戦後の復活を促していたのを記憶しています。
疎開という、、、
いわゆる、、、
もともとあった村落から言わせれば、、、
集団でよそ者が合流してきたわけですから
面食らったのは当たり前ですよね、、、。
町立の診療所が出来て、
戦陣外科の野戦病院の体験のある
なんでも出来る医師がやってきたのですから、、、
医師本人は大歓迎でも、
お父さんが医師で、
村から町から大切にされるからって、、、
子供たちが、診療所に配給されてくる物資で
バターや、ハムがパンに挟まっているのですから、
「このやろう!!、、、親父が医者だと得しやがって!!」、、、と
面と向かって突進してくるのも、
大人になった私には、、、今はよくわかります。
診療所にはのおばさん方が炊事場に勤めていましたが、
昼時に、私が、配給されたパンに
たっぷりとバターをつけていると
「なんて、、、もったいない漬け方をするんや?」
「医者の子は、あほや!
バターがどんなに高い値段か!!教えたれ!」
炊事場のおばさんたちに、、、あほ呼ばわりされてから
私は「おばさんたちに、あらかじめバターをつけて持ってきて」、、、と
お母さんから、頼んでもらいました。
弁当が白米だと、、、「ゆ~~ゆ~~」
てがわれました。(やじられることでした、)
弁当には、麦と梅干と、のりを入れて、
白米はやめるように、炊事のおばさんに頼みました。
それからは、、、
クラスのみんなも、弁当箱の蓋を立てて
弁当を隠して食べていた昼休みには
弁当を隠して食べなくなりました。
私は、仲間になれたような、、ほっとしたような
不思議な心で、
「神様、、、ありがとう、、、」と
心の中で、唯一の味方の神様を見ていました。
ほっとした昼休みを過ごせるようになりました。
祖父は、
子供から見ても、皆に尊敬されているのがわかりました、
、
当時は町に合併される前の、
七か村の長という方々から
頼まれて、
戦後の復活の時期のまとめ役を引き受けていました。
合わせて、
中学校や、小学校の校長先生も頼まれました。
祖父が、町長を引き受けてからというものは、
中央の国会議員さんも定期的に来られるようになりました。
誰が悪い、、、だれが良い、、、、というのではなくて、
敗戦のあとの日本は
ポツダム宣言を受け入れたわけですから、、、
アメリカの考えがどんどん入ってくるわけですよね。
電気のない南紀の不便さに、国会議員さんも
誰に命令されたかは永遠の謎ですが
ダムを造り、
村落一体に電気を引こうという時代の急流は
贖えないものがありました。
戦後の収入源にと、祖父は、外からやってくる客人に備えて
一階美容室と、
集会所を兼ねる(ロビーに相当する広い)板の間のある
旅館を経営していました。
親戚の人たちとの、、、
現在なら合資会社のようなものかもしれませんね。
中央からの国会議員さんたちの
安心して泊まれる、宿となっていました、
やがて、、、ダムができるのですが、、、、
ダムが出来上がったころには、疎開していた人たちは
一人、、、二人、、、三人。。。と
町として合併された村落群から
都会に戻って行ってしまいました。
ダムが出来て、、、電気がついた!。
ラジオや、電蓄や、ステレオや、洗濯機、
ダムを喜んだモダンな心の外来者は
一人、、、また一人と都会に帰ってゆきました。
私たちも、父の生まれ故郷の東京に
母と子供たちが先発隊として、
サケのように回帰しました。
村人から、父だけは、、、帰らないで、、、と
皆の心の準備期間だけでも、
先生は残ってほしい、、、という事で、
2年遅れて、
父は東京に診療所を開業しました。
生まれ故郷の、市ヶ谷の町は、
武家屋敷のあったところは、跡形もなく、無くなり、
下町の江戸川に近い古いお寺が
診療所になるならと
大きな池ごと譲ってくれたそうです、
しかし、、、国家が敗戦という混乱の中で
第三の勢力が、台頭してきていたのか?
池を埋め立てると、
敷地が3倍以上になったこともあり
埋め立てたところは、地域に返上することで、
新規開業がスムースにゆくという、
復興しなければならない、、、国、、、だった時代だったのでした。
、
どさくさ時代の、見えない援助のボランティァ精神から
東京生活が始まりました。
慈恵会医科大学を卒業して、イギリス医学を取得していた父は
戦場に行くとき、
研究していた論文もすべて
共同研究者に託していったこともあり、
疎開中は、
大学に残って教授になった友人から、
「イノシシの頭を送ってほしい、、、」と言われ
南紀で疎開していた時の患者さんの知り合いで、
山の中で、猟をして暮らしている人から
イノシシの頭を、大学に送っていました。
大学の友人の教授からは、
「イノシシの頭と言っても、、、食べるのではないので
研究には、耳が必要だ」
と、いう事で、
次には、イノシシを耳付きで、送っていたことが
ショックで、、、今も覚えています。
東京に来てからは、
同級生の教授が提案して、
温泉などを楽しみながら、、、
クラス会に出てゆく父は
田舎にいた時とは別人のように、生き生きそわそわ、
しばらくぶりの同級生会に出かけて行きました。
東京といっても、、戦後の東京の下町に開業したのですから、、、
健康保険制度が導入されても
順応できない、、外科の医師、、、父、、、大好きだった父のことが。
抗生物質も保険が通らない[高価薬〕の時代。
手術後は、抗生剤は飲み切らねばならない期間がある。
保険の通る短期間では
黴菌が強くなってしまい、傷口がかえって治らなくなるからと、
自腹で、患者さんに必要な薬は供給するから、
しかも、、、退院の直前には
忽然と消えてしまう、、、
(--!
暗黙の許しを前提に、、、消えてしまう患者さん。
お金、、、、代金。。。医療費、、、の不払いは
父も家族も、心は乗り越えられるが、
ありがとうの一言もなく、、、消えてしまうという
戦後の究極の貧乏で、
心の貧しくなってしまった日本人の、、、消えてしまう、、、という。
元気をえぐられるような時代だった。
患者さんの心理とは
面白いものである。
生きるか死ぬかの、、、術後は
医師も、神様。看護婦も天使、
泣きながら感謝するが、、、
退院の間際の、
元気になった心からは、、、
元気はもともと、、、自分のものだった。、、、
だから???????
医療費を払うのは抵抗が出てくるのかもしれません。
長い間の努力で
体得した「技術」も、評価しない、、、
看護だって
従業員に月給を支払って
看護してもらっているのだと、、、
言いたくなりませんか?
父が54歳で早逝したとき、、、
私は、、、理不尽な、、、思いだった。
無料の診療が、、、心の覇気を奪ってしまったのではないか??
こみ上げてきた涙を
戦後の貧困な心にぶっつけるのには
患者さんの生活面の理解を受け入れるしかなかった。
火葬場まで、、、先生を見送るのだと、、、
多くの、、、患者さんが、泣きながら、訴えてくるので
バスを貸し切って、同行してもらった。
父には、、、たくさんの友達が居たことを、、、
初めて知りました、
戦争とは、、、
親子兄弟、親戚も、同級生も友人も、
引き離し、
卒業したアルバムに、一緒に写っている友人とも
束の間の交流で、、
、戦地でボロボロになった健康は、
過労死、、、で、
「あとは、、、皆を信じて飛翔して消えた父」
おじさんも、おばさんも、いとこたちに、、、出会ったのも、、、
戦後、、の東京の開業に、、
居候として同居して来たのが初対面だった。、
父がたどり着いた
生まれ故郷の東京に
合流して
居候として、我が家に同居しながら
父母を取り巻き
私が父母に近づくと、
「おばちゃ~~ん、おじちゃ~~~ん」と
間に入ってきて、
実の子も、完敗という愛情を獲得している、、、いとこたち。
存在は聞いていても、、
、ピンと来ない、、、実の子の私を排除する
三人姉妹と末っ子の、かわいい男子。
私は彼らを仲間として受け入れ、
父母に向ける親愛の態度は好もしかったが、
一人娘の私には、異常にに冷たく
他人同様だった。
私自身は、父母の甥や姪として
何があろうと、、、
神様の名において、認めていたという心情でした、
彼らも生き残りがかかていたのだろうと思えたから。
長女はのちに大学に昇格したドレメを卒業した、、、
次女は、、、看護婦になった、、、
三女は努力で姉たちのご主人の後輩を射止めた。
いとこの長女は、医師と結婚して、
ご両親から、イタリヤレストランをプレゼントしてもらい、
ママさんをしながら、
ゴルフがシングルという
努力で勝ち取ったセレブの座であったと
我ながら、、、舌を巻いている、、
戦後の復活の成功者だった。
美人だったからね、、、
百恵ちゃんと、さがみちこ、、、の妖艶さを
足して割ったような
男なら、、、やっぱし、、、
100万本のバラを送りたくなる女性ではあった、、、
私の母が、私を見ては
「この子は男の子のような性格ね、、、」
嘆きながら、
彼女と一緒に
銀座のマギーなどに出かけては
ドレメの学校の材料を観て歩いたり
彼女を同居している彼女の母親よりも
買い物に一緒に行っていたような記憶が残っている、
私にも、ワンピースを作ってくれましたが、、、
「有難う、、、」と。
受け取りましたが、、、
ダンスに行くような、、ふれやーのスカートの部分は
座ると円形になりました。
「外に着てゆく機会はありませんでしたが、、、」
戦後の日本は、男性を意識した映画チックな魅せる服も
一部では流行っていました。
そして、、、彼女は
東京の病院の二代目と結婚した。
次女は、看護師になったものの、、、ジャンルの違う法律家と結婚した。
地味な努力の一生を過ごしたようです。
戦争から帰ってきた弟も
28歳で早稲田に入り
卒業して
学芸大学を卒業した彼女と出会い
結婚式も父が全面に支え
結婚してからも、
我が家の真ん中の8畳間二つを占領していました。
學校の先生だった奥さんは
居候のドレメのお姉さんに
「チャイナ服など作ってもらい、、、盛り上がっていました。」
音楽大学を卒業した母、、、
ドレメの,、従妹
チャイナ服の好きなおばさん、、、
学生結婚の長男のお嫁さん、、、
この方は、、、、プレタポルテしか来ませんので、、、
学生のご主人の出せる金額ではない服が、
実家から、、、持ってきていたようでした。
私の父は、、、おひとよしだったのでしょううか?
父は、8人の父親で、戦争で3人の子供を失っている、
それだけに、戦争で没落した弟家族を
亡き、息子や娘と思って、
あしながおじさんになったのだろうと、、、
私なりに納得していた。
喪失感が、、、放出にマヒ状態を作りながらも
生きる元気になっていたのだろうと。。。
戦争も戦後も、皆、自分のことで精いっぱいだった、
心まで、貧しくなるのが、、、戦争だと、、、思った。
成り行きで、実家から25分で通学できるという事で
駿河台の日大に行くことにした。
高校時代のジャンバースカートを
タイトスカートに縫い直し、
下高井戸の日大の教養学部に通学するとき
三井牧場のあたりで
腰かけるにも、制服から縫い直したスカートは
生地がしっかりしていて
自分的には教養時代の制服となっていた。
。。。。。。。。。
ばかばかしい私事の、我が家の戦後のどさくさ時代が
話の腰を折ってしまいましたが、、、
子供時代の、戦争の敗戦がもたらした心の貧乏は
物質や、見えるものや、仕事で、グループができていったということでしょうか?
つまり、時代によって
社会全体の好みもさりながら、
群集心理は怖いもので
アメリカの
かっての歴史のように
人種差別まがいのものが
、存在するという事ですよね。
私は、南紀時代の子供時代に、忘れられない体験をしました。
「サーちゃん」に何枚か絵をもらいました。
少女時代の宝物にしていました。
その子は、
何でもできたので、
皆は遠巻きにしていました。
疎開組と地元組の、、、不思議な、、、
お互いが蚊帳の外という
絶妙な戦後の疎開の村々の、、、
時代の風を、
幼い私は、、、不思議に思っていました。
私も、2歳の時に、
故なき「大やけどをしました。」
父の診療所でお手伝いをしていた
見習いの看護婦さんが、
(もう、、、時効だから、推測のままに述べましょうね。)
父の本当の娘になりたかった、、、という、、、
憎めない「嫉妬からでした。」
村にとって、神様のように慕われている医師の娘、、、
娘として、赤ちゃんなのに、皆からちやほやされるのが
腹が立ってきたそうです。
母が縁談を世話したことが原因でした。
村の青年で、だれから見ても、性格円満で好青年だったそうですが、、、。
診療所を辞めさせられるとおもったのでしょうか?
まったくの誤解ですが、
彼女にしてみれば、
疎開地で看護婦見習いの仕事が天職だったのでしょう。
私は診療所の院長の娘という事が
彼女とは、真逆の理由で「差別されていました。」
父は、
彼女を辞めさせませんでした。
町の医師会の准看護婦の養成の教室に
通学するように手配をして
准看護婦になるまで、
あしながおじさんをしました。
彼女は准看護婦になって、
しばらく、父の診療所に居ましたが
やがて、円満に出てゆきました、
父は、、、言っていました。
自分に何もないと、、、心が貧乏なんだよ。
准看護婦の免許を取得したら
自分が、心が豊かになって、
医師の娘だからって、
居場所争いをして、嫉妬しなくても
異なった居場所ができるから、
人をねたまなくなるんだね、、、。
「きっと、、、今は、、、心から、、、ごめんなさいと言える大人になったと思うよ。」
、、、のう、、、災難だと思って、、、許すことだね。」
父は、、、遠くの空をいつまでも見上げていました、
差別のない世の中になる日には、
皆が豊かに教育を受けられることが
大きなカギとなるのかもしれません。
真夜中のNHKで
アイヌ民族と、
北大の研究者の番組を観ましたが、、、
かって、日本は真珠湾を奇襲するような
教育の偏った時代だっただけに、、、
軍国の時代の日本の命令には
いろいろと、、、現在の次元で考えると
刀を差している時代のような、、、
理解しがたい差別があったのだと、
歴史として、振り返りながら番組を見ていましたが、、、
アイム民族の、先住民としての、文化を
北大は、今後、、、どのようにして、
時代に即した学術的なサポートをしてゆくのだろうか?
世界にも、同様な貴重な文化が
残念な歴史の時代の思考レベルの時代の流れのままに
貴重な文化が失われたに違いありませんが、
真夜中の番組でしたが、、、
目が覚めてしまいました。
町内会から、、、世界のグローバルなスケールに至るまで、
差別や、排除や、国境そのものを嘆いた
花はどこへ行った、、、この歌が、、、私たちの青春の歌だったことは
感慨深いものがあります。