花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

核戦争のない 地球家族になれたら!

2016-05-30 21:42:29 | Weblog



71年という年月が
アメリカ大統領のオバマ氏が
原爆投下されし広島を訪問された。

沈鬱な表情の中にも
世代を超えて
破壊兵器を無くすことが
オバマさんにとっては

これからの課題と言えそうです、

阿部首相ご夫妻の
サミットでのご活躍は

さすが、、先代も大きな心の
名政治家だったこともあり

一代の技ではないと思うほど
日本を、見事に

世界の舞台に使っていただけた
誇りが、甦ってきます。

一言二言で
ネットにかけるほど

心の狭い話ではありません。
毎日、読むことで
オバマさんの

今回の一連の
広島訪問、終了までは

後世にまで語り継がれることでしょう。


伊勢神宮と志摩半島

2016-05-25 13:07:21 | Weblog

日本の神話の世界からの
静かな
森羅万象
宇宙


そして

日本人の命のリレーの
知恵の稲穂の実っている伊勢神宮に

参拝してくださる
世界のトップの方たちの
サミットが

世界中の平和につながりますように
祈っています。

オバマ大統領が
広島を訪問してくださる
このサミットは

きっと日本の学生の
希望となると思います。

核戦争がストップできるなら
それは
地球丸ごとの
命の戦いとなるでしょう

緑の地球に
欲張らず
共存共栄して生きてゆくなら

地球は永遠の
エネルギー不滅の星だと信じています。

命と光に満ちた地球の命に沿って、
伊勢神宮は私たちに
多くの知恵と光を与えてくれています。

何事の
おわしまするか
しらねども

ありがたさゆえ
涙ながるる

自然の自然そのものを光で包んだお伊勢様

サミットの
世界の人は

言葉には表現できない
日本の
永遠の平和を祈る空気を

七色の肌から、
一足飛びに
神様の光の中の何かを

感じてくださるとき
日本の、平和への祈りが
いつの日か

地球から
戦争を亡くするでしょう

サミットの成功を
お祈りしています。

72歳の日本の
御婆ちゃんより

伊勢志摩の自然の力を信じていますと
伝えたい

今日の、日記です、


永遠の緑の地球を、、、大いなる遺産に!

2016-05-24 03:05:07 | Weblog

日米が、戦争を乗り越えて
お互いに、経験を無駄にしないで
世界の平和を牽引してゆく未来の為にも

オバマさんの広島訪問の日が、
実現することは

世界から、核戦争が無くなり

地球が、守られてゆきますように
両国の、願いが一致したからだと思います。

日本に謝るとか、、、、、ではなく

世界遺産は「平和な戦争の起きない地球」
全世界であってほしい。

核戦争無い日本に
核戦争のない地球に
戦争を体験して
姉妹を亡くし
親戚を亡くし

東京は焼け野原となりました。
この体験を
未来に行かせるのなら

願いは

平和な地球です。


30年前の阿蘇火口の思い出

2016-05-22 19:48:19 | Weblog

あの時、小学生の息子を連れて
札幌から、九州を一回りしました。

一度は見せておきたいと
阿蘇火口と桜島、磯庭園
長崎、宮崎、広島の原爆ドーム

そして、
ジャージと、リュックの母子は

ほとんどすれ違いの父を
もう、、、待たないで、

本州の、神々の国から
青年のような国の

北海道を、
外側から見せておきたいと
あちこちはしりまわる学童を

母一人で、
之は、「仕事に近い義務」と
自分に言い聞かせて

男の子二人と
旅に出たのでした。

阿蘇火口の雄大さと
活火山の危険と、、、

それでも、、、九州に行って
人生が変わるほど

大きな力をもらいました。

再び、、、観光できる九州に

甦ってください。

揺れる九州に

両陛下がおいでになり

再び、、、
「頑張れます」と言っていた
住民のお顔を観ながら

万感の想いでした。

   私など、、、
大分に 義妹が居るのですが、、、

揺れはあっても、無事でした。

かたずをのんで、、、復興を祈るばかりです

真夏の札幌

2016-05-21 23:43:41 | Weblog

庭の花が一気に咲きました

ボケの花は、急ぎすぎる散りはじめました

ジャガイモは芽を出してしまい、
カラスがつついています。

ムスカリが、紫のガラス球を、ぎっしりと並べています

おおばなの延齢草が 散ってしまいました

かいどうのピンクの花が、満開です。

高山植物は小さな
凛々しい花を咲かして

大きなクマンバチを呼び集めています。

鉢に入れて咲かせています。

鉢からはみ出した芝桜があたり一面に
拡がりはじめ、、、そのまま様子を見ています。

松は皆、グラスウールの箱にまとめて植えていますが

地植えした松は屋根を超えて
あたりに松葉を飛ばすので

上半分の枝を2割残して伐採しました。

今は、した1メートルだけが生きています。

可愛そうですが、
塀を壊し始めたから仕方ありません。

山にある松を
間違って、、、庭に植えてしまったのです。

大木の、少し曲がった床柱として

自分で伐採して、安全に運んで行ってくれるなら、

彫刻にも使えそうです。

差し上げますから、上8割の枝をはらった幹を
有効に使っていただけたら嬉しいのですが、

どなたか、松材有効に、その命を活用してもらえたら

嬉しいのに、松を観るたびに、

我が家の小さな庭に植えられたばかりに

その能力を、途中で伐採するしかなかった出会いを

寂しくも、木材となって
光をはなてないだろうか?

曲がっている不自然さが
芸術家に出逢えたら、面白い作品になる枝振りです。

とりあえず

日記帳なので、、、独り言でした




今日は私の母が、生まれた日

2016-05-19 02:22:55 | Weblog



髪の毛は女性の命だと思いなさいと、、
丸髷の下駄に時代に


斬髪の刈上げで、編み上げブーツに 
ピアノ科卒という

モダンガールの???
母に育てられました。

自主自立の未発達な小学校時代は

母の着せ替え人形のような、

母にとっては、村に閉じ込められた?窓を開けるように

戦後のストレスの解消の専属モデルでした。

なんで、、、ヘップバーン刈なん?

なんで赤い革靴で,学校へ?

なんで、、、
私のスカートが、ひざ下20センチもあるの?

    ************

日本舞踊に、弁論に、ダンスに ピアノに

三味線まで、、、


疎開地の村の夫人を集めては

お子様連れで、、、
おけいこ教室に

我が家の2階を開放していた。

古座や田辺や新宮から
お師匠さんを頼んで
疎開の皆が、やりたいおけいこを
意志さえあれば、
我が家の二階に落ちてるという
拾えばよいという状態で、

入会金も、場所代も要らない
お師匠さんへの実費だけの

文化交流会のようなゾーンを開放していた。

父が、疎開地の皆さんの
唯一の診療所の医師だったことも
人の集まる要素だったと
この年になって、、、
影の力を、、、使える女性だった母が

当時としては
珍しい日本女性の一人だと、、、
振り返るのです。

5月20日は、、、母の誕生日ですから。。
母の事、父の事、、、

甦ってきます。

    *********(^^

母は結婚する前、東京の女学校で

日本では珍しいと言われる時代の

先生をしていた。

人を動かす極意を知っていた。
その時代は、父とはグループでの交流が続いていた。

大学時代の寮の同室が
知る人ぞ知る
山本直純さんの
母上にあたる、、、素晴らしい女性との出会いです。

音楽大学時代の演劇発表会の
日本髪の二人の写真は、
母の宝物でした。

彼女は後日
芸大の教授と結婚されてからも
母とは、一緒に「絵画」を観に行ったり
交流は、直純さんが産まれてからも
続いていました。

こうした、
素晴らしい人たちの出会いの中で
ごく自然に、
母の周りには人が集まるオーラーを
身にまとっていったようでした。

普通の母のように、
娘が産まれても、
主役は母でした。

輝く母、
戦争中の、筆舌に尽くせぬ苦労や、
戦地で、死んだ、3人の子供のお位牌が
朝な夕なの語りかけの対象となっていました。

守りきれなかったストレスが、
何かをして、忙しくする時間によって
解消されていたのかもしれません。

山坂超えて疎開地まで

かっての教え子の、成人した方が

訪ねてこられたこともあった。

疎開地で、新たに、小学校の先生をしたり
私は、「かの、、おばさん」と言う
三人の子供の母で未亡人んのお世話になって
成長したと、云えなくはないほど

母には、娘は「おまけ」のような
任務外の存在であるか?のような
引っ張りだこの時代でした。

復活の戦後は
傷痍軍人さんや
学校の先生、
役場の若い衆
村人の皆さん、、、

ささやかな商いをしている
商店のおじさんや、おばさん、、、

ゆっびん局の隣の

タバコや切手を売っている
ミニ焦点の親父さんは

ワシントン大学卒業で

戦争前は
カリフォルニアで、活躍していたそうです。



エリートで、
なかなか話しかけられないような

弁護士さんも、

我が家を訪ねてくださって、

弟が書いた「弁護士」の作文が

県下一位になったときは

母が話していた
尊敬する弁護士さんの
出世物語を、
弟が、作文にした結果

モデルの本人にいつしか知れて

我が家を訪ねてくれました。

「この子は、、
未来は医者か弁護士になるでしょうね。
これからの日本は、
この子たちの頑張りにかかっていますね。」


弁護士さんは「井ノ口さん」とか。。。?
記憶はあいまいですが、、、
そのような名前だった記憶がありました。

一緒に写真を撮りました。

弟が、大切にしていた
『ヤシカ』と言うメーカーの
掌に入る小さなカメラで、

私がシャッターを押しました。

弁護士さんは、疎開地では
出世物語のヒーローでした。

弟は、、、子供だったので
相手の偉さが理解出来ない時代なので

井ノ口先生にも
好き勝手なわがままな友達のように
話しかけたり、質問したりするので
先生の方が、大きく包んでくださり、

その日は、一緒に
我が家で食事をしてくださり、
夜、遅くまで
弟の相手をしてくださった記憶が鮮明に
甦ってきます。

井ノ口先生が、
おっしゃられたように

弟には
戦争からの復興の「団塊の世代」の役割が
天の采配であるかのように

大役が回ってきました。

父も、母も、
生まれながらの快男児の弟の為にも

アメリカの近代教育を受けさせたいと
鮭が命がけで故郷に還るように

疎開地からの
新しい時代の教育へと出発する為に

再び、、、東京へと向かっていきました。

母は、東京の開業用地を探して、
一足先に、開業医を必要としている下町に

長期に出かけました。

父の大学時代の同窓生が開業している地区にこだわり
240坪の敷地に古家のついた建物を探してきました。

リホームして、
大学生の下宿屋のように、
3畳と寝室だけのはめ込み机のついた部屋を
いくつも作り

本当に、、、下宿屋を始めてしまったのです。
その頃、戦争から還ってきて
28歳で早稲田の理工学部に進学した父の弟が
つまり、、、叔父さんが、

学芸大の才女と結婚することになり、
下宿屋にリホームされた家に

自分たちが管理人のように
学生たちの相談がてら、
面倒を看るからと言う事で
8畳、6畳、寝室の一角に同居することになった。

結婚式は、疎開地まで来て、
村の人や親戚や、友人が
観光がてら、集まって、

私は、、、母の着せ替え人形のように
オシャレをして
皆にお酌をして回る
いわゆる
フラワーガールを勤めました。

そのような関わり合いから
叔父さんとおばさんと、下宿の人たちと
同居の、東京進出生活が始まりました。

叔父さん、おばさんは、二人とも
学校の先生でした。

神戸育ちのおばさんは
スーパーオシャレで
女優さんのように美人でした。

下宿の大学生の皆を
私は、、
岡本のお兄ちゃん、、
高井のお兄ちゃん、、

エトセトラ、、エトセトラ、、

まとめて、、
お兄ちゃんと呼びました。

昭和29年頃の大学生のお兄ちゃん方は
広い土間の玄関兼炊事場に

自分用の七輪をずらーと並べて

自炊していました。

秋刀魚などを焼くときは
七輪を庭に持ち出して、

うちわで、そこらじゅうに秋刀魚の匂いを
ばらまきながら、

焼きたての秋刀魚を、
ご機嫌で食べていました。

母は、こうして
戦後の復活のための
東京の土地を手配して

何年かのちに
疎開地を出てきた父を
東京に向かいいれたのでした。

近所で開業していた
同窓の先生方が

懐かしそうに尋ねてきてくださりました。
父と合流した母は

同窓の開業している先生の御子息や
御嬢さんに

趣味として
ピアノを教えて差し上げていました。

先生方に応援された父は
医療制度の改革で
健康保険制度に切り替わった時代を
何とか、
「いつも、診療所に居る。」

いつ行っても診てくれるという
苦難の忍耐で、開業への出発を果たしました。

しかし、、、自宅開業は、あまりにも不健康です。

歩く、運動する、趣味に通う、、、、どれもできません。

環境も、七転び、八転び、、、の人生です
市谷の
歌舞伎門のある邸宅の
ぼっちゃまだったのが

震災で焼けました。
空襲で焼けました、

大学病院の勤務だったのが
戦争で
大陸に行くことになりました。

教官として、
綜合醫院の院長と、現地研修医への
西洋医学の指導とで

別格の待遇の家庭と、
女房や子供にも会えない激務の中

敗戦一年前に
帰国命令、、、

娘や息子を海外で失い、
体一つの帰還の旅路、

そして、、疎開、、、
激務だったが、、心の傷は癒えた田舎暮らし。

このまま、疎開地に居られたら
父は、、、もっと、、

長生きしたでしょう!

戦争からの復活は、

全土焼け野原、、
原子爆弾2発

焼夷弾の雨のあと

物のないことが教えたのは

復活は「教育に有り!」

猫も杓子も

目指せ!!!東大!!

敗れたものは激務に耐えて体力勝負の復活作業!

東大を出た秀才は

凄い働きをして
敗戦の日本を牽引する人と、

東大がゆえに、
自分らしさを求めて、
待遇のよい仕事場を求めて徘徊する
青い鳥の症候群の人に分かれた。

もったいない、、、、
あの人。。。

東大出てるのに、、、

雀たちは、わけもわからず、、、

時代も読めず、

能力を発揮する事のできる日本にならねばと、、、

何人が、、、気が付いただろうか?

人材と、職場と、仕事が同時に復興しないと
戦後の復活は
遅れてしまうのでした。

そして、、、弟の時代、

復活から、耕された畑は確保した。

あとは、、、団塊の時代の凄い奴らが

この日本を
ここまで復活させたのだから、

ちいさんことにこだわって
女さかしゅうして、牛売りそこなう、、ではないが、

政治の舵取りは、日本丸に、錨をいっぱいつけるから

舟はぐるぐる回ることもできず

船長は、皆に解らせる説明文を考えるだけで

前に進むための
ブレーキになってしまってはいませんか?

又、日本の政治家は

タックスヘイブンには
名前が載ってないようですね。

本当にスケールの大きな悪い人は
外国にいるようですね、

野党の皆さんも
あたら、、能力のある東大卒の知事さんを

辞めさせてしまったら、

天ぷら屋の領収書も大切ですが

角をためて、牛を殺す結果になったとしたら

損害は、巨額な人材費用となりませんか?

頭の良い人には
頭の良い、女性秘書のやり手をセットにして、
細かいことは、
女性のエリートが引き受けて、

知事さんの
国際人を、使える日本の国会にならないと、
誰がなっても、

猪瀬知事さんのような、、、

せっかくの、オリンピックを担当できない知事さんが

椅子取りゲームのように

ドタバタと、入れ替わる気がするのです。

私は、、、見えない終活推進お化けに出逢いました。
とうとう、、、、正体も現さず、、、
いまだに、、、見当さえ尽きませんが、

70過ぎた老人家庭から、

外から見て、贅肉に見えるものを
被災地復興に協力してほしいと
言われているように思えて、

白色申告で、ささやかな
一軒しか入っていない借家APを処分して
多分、
次世代の復活に使われるのだろうと思われるから
空に投げた。


若い者の時代のエネルギーに回れとばかり
空に、投げました。

喪失感はありませんが、
人生の終焉の

70代が、とうとう来た。、
終活の動きから始まったと
わが身にもやって来た
人生の片づける幕を

正体不明の風が
吹き飛ばすように
目もとまらぬ速さで、
吹き飛ばして、かたづけた。

ストレスが大きかったせいもあり
全身、板切れのような
肩こりの伴った50肩を病んでいる。

負けるものか!
まだまだ!
枯れてなるものか!

父も母もエールを呉れている。


亡き父が
54歳で早逝したのに

父の引き出しには
何も残っていなかったのを思い出します。

私には、、結婚以来、
1000円のラッキーの洋服以外
買ったことはほとんどないから、

死んでゆく一日前に
業者に電話すれば、その日に片付く。

問題は、無趣味の夫が
仕事の傍ら、
ストレス解消に買いまくった

100個ぐらいの、、、けん玉。。とか

一つ2000円はしないだろう
地下街で衝動買いした

卵大の、黄鉄鉱とか、藤色の輝石とか、

100個はあるだろうか?
45年間のお参りの毎
ひととおり買わずにはすまない、、、お守りとか、、

靴下、、100枚
パンツ、、
シャツ、、、

手当たり次第に
ストレスで買う。
一か月で話せる英会話のブック、
DVD

開いた形跡のない洋書

人の物品は処分できない。

夫の雑貨は
我が家を埋め尽くしている、

大きな病院の外科のコーナーには

いつかは、自宅に持ってくるだろう雑貨が
10畳分は覚悟して

裏の離れに収納して
シュレターをして、捨てねばと
覚悟する。

離れは売って、旅行費にできるのは

まだ、5年や10年はかかりそうだ。

お母さん、、、あなたは50歳代で未亡人になりました。

あの時は、、、可愛そうにと

私で出来ることは何でもしようと思ったけれど、

人は、、、いつかは死ぬのです。

裕次郎さんのような

長かろうと、、、短かかろうと

悔いのない人生を過ごせるように、

人生は、、、お金でも、  名誉でも、、無い!
まして、、、物ではないと思うのですよね

何だかわからない私の人生は

ハツカネズミが、、、わっかを回しているように

繰り返しのように思いますが、

孫に恵まれた、未来への矢を放てたことだけが

快挙でした。

息子よ!
あなたも、、、41歳です!

家なし、車なし、貯金なしでは

結婚は「絵に描いた餅です。」

ローンでよいから

自分の城をかまえ

健康な女性と、出逢て、

孫の顔を見せてください。

それまで、、ママは死ねません。

心から、、、世話のかかる子供ほど

その子の事が、気になって仕方がありません。

今日、、生まれたお母さん!

あなたの孫を、幸せに導いてください。
人並みに、、、家庭を持つように

愛しい人に合わせてやってください、、、

朝になりました、、、

お母さん、、、おやすみなさい









もう一度、東京へ、還れたら、、、5月19日は父の誕生日

2016-05-15 23:46:42 | Weblog





大学を卒業して、
母と
銀座のビルの上から

ブルーインパルスが
五輪を描くのを観ていました、

父が亡くなってから
4年目だった。

父は東京オリンピックを
観ることはなかった。

市谷の文人通りのあたりに
父の想いでは
あふれていた。

東京に帰りたい、、、

父のお父さん、、、
お爺ちゃんは、
剣道も、5段だった、
囲碁も強かった、

父はビリヤードが大好きでした、
大正時代は
宮様方も
ビリヤードをたしなまれたと
父から聞いていた。

慈恵会医科大学を卒業した父は
眩しいような
坊ちゃまのような、美しい言葉だった。

そのくせ、ラグビー部に所属し
タックルが得意技だったらしい。
口髭が、ラグビーの話をするときは
小刻みに揺れた、

五郎丸さんの事を父が見たら
きっと、目を丸くしたでしょうね。

多くを語らなかったが
歴史の物語や、
神話や、
南朝、北朝のあたりの
武士道の魂を

柔和に語って聞かせてくれました。
私が19歳の2月、、、
父は過労死だったのでしょう、、、

前日に患者さんの手術を終えて、
麻酔から目覚めるのを確認してから
母屋に戻ると

そのまま、お気に入りの8畳の畳の部屋で
大往生しました54歳でした。

窓の下には
錦鯉の泳いでいる池がありましたが、
昭和40年あたり、、、
父の亡くなる一年前(去年の夏)

右目に痣のある
派遣のお手伝いさんが
池の上に、、、
事もあろうに、、、
糊に浸したシーツを

絞らないで、、干したのです。

池ノ上がバルコニーになっていて
物干しになっていましたが、

バルコニーの下に
自分でロープを張って
干したのです、、、

普通は、、、
池ノ上に物は干しませんよね。

父がコレクションした

金色の鯉、錦の鯉、、

夕方には
30匹ほどの、魚たちが
浮き上がって、、
腹を見せました。

糊には石炭酸が防腐剤として入っていた時代です。

家族のショックは隠しきれませんでした。

父も母も、
無言でショックを受けていました。

人生には、、、

関連づけたくないけれど、

生涯忘れられない、、、事もあるのです。

医師の家は、、、
一見豊かに見えます。

患者様に選んでいただくわけですから

デパートのショウウインドウのように
派手にアピールはしませんが、

一つ一つの事に
患者さんに信頼される
匠の心の入った
施設の維持と

空気をプロの清楚さで揃えて行くので

白の基調の中に

動くアクセントの錦鯉は

贅沢そのものに
思える人がいても仕方ありません。

しかし、、これらの鯉は、

昭和通りの縁日で、
父が、、
十センチぐらいの、
秀逸の鯉を
いつまでも、、、観ているうちに

どんどん値下げしてくれて、

それでも迷っていると
おまけに、
金魚や、
鮒や、わ金を
おまけに、つけてくれた魚たちです。

どんどん大きくなり、

長男、次男。三男、私で、
畳2畳ぐらいの長い池を掘り上げ

皆で、防水コンクリーを練り上げ
汗だくで仕上がった池に、

岩に生やした盆栽を中島に置いた作品でした。
5年も経つと、苔むして

天然の池に負けない
生き物たちの集うスポットになりました。

その頃、、、父が、縁日で、鯉を集めるようになり、
見事な鯉が煌めいていました。

開業を余儀なくされた戦後の復興期に

個人の医療施設に閉じ込められた
忍従の日々には

鯉になって、池の中でも回遊しないと
巨人の頭脳は
ストレスの逃がす場所が
見つからなかったのかもしれません。

我が家の想いでの池でした。

母は国立音楽大学のピアノ科に一期生です。

卒業していらい
多くの文化人との交流もあり
父が技術に閉じ込められた生涯に思えるほど
母は、モダンに、時代を生きていました。
戦争では。二人の息子と、娘(私の姉)を亡くし

国務だった従軍の父の留守を守り
敗戦の色濃い昭和19年に、国に還る命令があり
戦場近くの生活は終止符をうちました。

焼夷弾の降る中を、、逃げて山奥へ。

疎開先の村の診療所に勤務した父。

母には、

どんなときにも、
ピアノがありました。
自分でお弟子さんをとりました。
小学校の音楽の先生の
指導を頼まれたり、
引っ張りだこでした。

手の保護の為にも

お手伝いさんを、
3人来ていただいていました。
普通の開業の奥さんのように、

裏を任せると「後方に憂いなし!」と
先生が、心おきなく、働けるタイプと
かなり違う母でした。

戦争の時代に
父が、
大陸には戦争の傷の手当のできる医師が
居ないという事で、

西洋医学の
外科の医学と臨床を
戦地近くの東洋医学に医師の皆に
滅菌や、手術を指導したそうです。

大陸の
大学病院のような役割の教官として招かれ

大陸には、当時は
西洋医学の
外科の医局が
存在しなかったためか

総合病院の院長も兼任して

臨床の指導は
院長をしている総合病院で、

日赤から派遣された
提灯袖と、
コックさんのような白衣を着た看護婦さんらと

50人ぐらいのスタッフが

交差する日の丸の旗の下で
現地の東洋医学の滅菌を学んだことのない医師に

研修をしている写真が
いくつか残っていました。


父は長男を抱いて
真ん中の中央に座っていました。

お国の為に
西洋医学の外科の臨床を
戦場の近くの医療施設と
大学で、指導していました。
軍医として、戦場に出兵するまでの事です。

現地の日本語の新聞にも、
父のことを報じる新聞が何十枚もありましたよ。

お国の為に役に立ててる
一生けん命生きてる
父の姿が素晴らしい記録です。
歴史的な写真なので
私はこの写真がほしくて
父の亡くなった後、

形見にほしいと言ったのですが
長男が、持っていきました。

その後、、、
長男の夫人が痴呆になり
実家の品は無差別に業者によって
何処ともなく運び去られました。

たった、、、一つの形見もありませんでした。

父の想いでがいっぱい詰まった
戦後の、、
幸せだった疎開地の山河を後に

東京に、戻ってくれた父の
教育こそ

多いなる遺産。

*******************

父は市谷出生ですが
牛込小学校を卒業し、
早稲田中学に進学しています。
弟さんにあたる「おじさん」も
早稲田中学から、戦争に行きました。
戦後、帰還して、

28歳で早稲田の理工学部に入学しています。
晩年は女子大の教授になり
黒板の前で、授業中に
まるで、、、殉職です。

父の兄弟には、高校生の時
海で死んだ、秀才の弟が居ました。

柔和な、父の雰囲気からは
このような、すさまじい
被災を、何度もかいくぐって来たとは
思えませんでした。

引き留められる疎開地の
健康に戻れた生活を振り切って

生き残りの息子たちの為にと
教育を「遺産」と心得て

44歳の転身を
生まれ故郷の東京の土地に
子供たちの未来をたくしたようでした。

おりからの
医療制度のはじまりもあり
医師が、別格の時代は終わりました。

戦後の貧困の中の
患者さんたちも、
退院の前日

忽然と、、、姿が消えて
収入にならない時でも
戦地を体験している父は
そのまま、何事もなかったように
収入は追いませんでした。

新規開業は、結束が大切でした。

受験戦争の東京生活の中の
ささやかな、、、
家族の結束の
想い出の錦鯉でした。

********************

あれから55年経ちました。
父が、敗戦にも負けずに
立ち上がって、東京に開業してくれた実家は
兄の代になって

開業を閉店し、

勤務医の時代に入りました。

何とか実家を存続させたいと

歯医者さんや、小児科、内科、、、内視鏡医
全て、母との面談でした。

お父さんが、、、若くなって還って来てくれるのよ!
未亡人の母が、輝きを取り戻しているようでした。

薬剤師として病院に勤務中でしたが
即刻、勤務をやめて

実家に入ってくれるという
母との約束で

外科医と結婚しましたが、

結果的には、
北海道の大学を卒業した夫には

地方の学閥もあり
なかなか、、、
東京に帰る機会がありませんでした。

****************************

結婚という出会いを大切に考える暇もなく
付き合う時間もなく、

父の残した医療施設と
父の早逝で、取り残された
患者さんへの責任感だけで

母と話し合い
実家に入ってくれるという
医師が現れたのだから
皆の幸せの為に
「とと姉ちゃん」を実行することにしました。

結果的には時代に流されて
何もできないまま
実家は、95パーセントの税金で
跡形もなく消えました。

親から受け継いだ病院も土地も、
領収書がないという事で
5パーセントで買ったことになるそうです。

私は、実家の存続だけを考えて
父と同じ、、、外科医と結婚しました。

しかし、、医療事情は刻々と変わり

まるで、、エネルギー革命にも似て
開業の時代ではなくなりつつありました。

実家に入ってくれるはずの夫も、
頼みの綱の内科医の長男も、
今は勤務です。

さらに、、、弟は
医学上の出会いに恵まれました。

弟は、画像診断で
「コロンブスのたまご」ともいえる
実績を残すことが出来ました。

畏れ多くも、、、宮様からの
賞をいただきました。

家族ともども
弟の環境を大切に思いました。


日本の画像診断の黎明期に
千葉大学の外科に入局し

実家にUーターンすることもなく、

二重造影で、当時は知る人ぞ知る
市川先生と、同窓として出会いました。

その後は、、、

日本のCT時代の先端をはしり、

ヘリカルCTの時代に
国立がんセンターの

なくてはならないスタッフになり

人生丸ごと、、、画像診断に浸かりこんだのでした。

多くの本にも出てました。
新聞には画面半分
弟の記事で埋まっていました。

肝臓、胆のう、すい臓、、では
ハーバードから来た知人の医師が
弟は、自分の目指す先生だとも話してくれた。

消化器が、いかに!!!日本が優れているか!

聞いてる私も、日本の消化器部隊
肝、胆、膵の強さに、

球場で観たホームランの感動と同じ思いで
思わず顔がほころびました。

兄弟も夫も、息子も、
医師を続けることに
情熱を燃やし

医師をすること以外は
何も振り返らなかった。

兄も80歳近い
終活に父から継いだ実家を手放し
95パーセントの税金を払い
わずかなお金で施設に入った。

まだ、、、60代の弟は
実家が売られてしまったのが、、
たまらなくさびしく
父母のグランドピアノや
錦鯉の池が

忘れられない心のメロディ―として

何とか、、、買い戻せないか?
と、、、愚痴を言っていた。

イギリスだって古城は素敵だけど
維持が大変で
観光拠点になっていたりするでしょう。

平成の医師達は
親がお金持ちでない限り
父の時代のような

別格の品位と優雅さは
夢のまた夢よ。

我が家も、私が蝋燭のように
わが身を削って
点灯鬼となって、息子たちを照らしながら
社会に送り出しましたが、

まだ一人、、、夫と言う
医師をすること以外は
何も考えないという、、、

稼いだサラリーは
医師を続けることに
全部使うという、、、

ある種の「職業病」の伴侶が居る。

この、、仕事お化けを惚けさせないで
大往生させるには

生涯、、、最後の月になるまで
医療現場に居てもらわないと、

仕事辞めたら、、、手におえない。
痴呆になるのは目に見えている
専門バカの、無趣味。

仕事を辞めたら、
今まで休日は、家で過ごしてきたように
家に張り付いて、
運動不足、おしゃべり不足、、、エトセトラ。。。

社会からは、
よく見えるから、

お華を習いに行っても

私には10倍の費用を要求される。

華の先生と器のコラボレーションの展覧会には

必ず、声がかかり、
席代金3万円の御祝儀買いがノルマとなり
花を生ける台を買う。

展覧会の安くない器の購入も
師匠の顔の為にも、

買わざるを得ない空気の流れになる。

鳥の羽つけた帽子をかぶり
きらきらのホテルの会場で、

ひときわ聞こえる声で、

「この方の御主人はお医者様なのよ!」

目立つ空気を造られてしまう。

世の中には
小金もちの医師よりも
もっともっと
お金持ちがひしめき合っているというのに。

月給が少しばかり高いと言っても、
学会や、医学の日進月歩の進歩に遅れまいと
こまめにゼミナールや会合に
書物や論文作成や、外国の病院見学や、
医師を続けるための
日進月歩の医学会についてゆく
受験生が、一生涯居ることになる。

夫には、
自給自足の妻か、
持参金月の妻でないと
華の世界のような
社交界にはとてもついてゆけないし
ついてゆきたいとも思わない。

華友達も
ぽつりと言う。

「先生も、、、ひどいわねー、、
サラリーマン医師と
開業の先生で
自分の病院を経営している医師と
混同してるのよね。」

こんなことを続けていると
毎日、、、インスタントラーメンになるという
舞台裏が、女たちには見えない。

医師、意外に、金の世界がくっついていると
世間では安易に思う。

器の売り子たちは、私に向かってくる、、、

「この世界は、お金が支払えない医師の妻は
首が無いのと同じである。」

こうした、、花を取り巻く社会勉強そのものが
華(世間様で、カッコイイという事をすること)は

高級なお店で、
贅沢するのと同じだけのリスクもあると
教えられたのでした。
華を習うという事は
社会のシステムを
習うという事で、あるのかもしれません。

教養と言う事の意味が
解るような気がしました。

     ***********

風評被害と言う「医師の奥様」という
美味しそうな丸焼きチキンには成りたくないし

見かけ実質は違う事を説明する気にもなれず、

ご期待に応えられずに
華の世界は退陣してしまった。

そして、本職の薬剤師として勤務しながら
大学時代の仲間たちと
行動資金だけで済む
登山を始めました。

でも、元来が
花も樹木の好きなので
登山や、ガーデニングや

植物学の方に、

どんどん趣味を広げていった。
野の花の美しさや神秘さに
そして可憐な香りに
ほほ摺り寄せて

幸せな「私と植物」の時間が
目下、、良い時間になっています。

年をとると
切り花は、管理も大変で
細菌の怖さもありますし
庭木に興味が映りました。


仲間と同行する
行動費用なら、
私たちサラリーマン医師家庭でも

年に何回かなら、参加できる。

今は、明日は明日考えよう、、、と

家族が、社会に役に立てる人生を
全うすることだけを考えながら

昭和生まれの人生も、
最後の幕と相成りました。


なんとなく、、、クリスタルな時の人のコメント

2016-05-13 08:15:48 | Weblog

NHKのかけっぱなしのTVだったか?
民放だったか、
肩が痛くてチャンネルを気にしない昨日の夜、

体格の良い男性コメンテーターが、
知事さんの、答えの先回りをして、

どんどん、世論風評で、
ほんとか嘘か
「調べてみます。お時間下さい。」という

知事さんの、
繰り返す言葉を無視して、

庶民代表のように肩に力が入りすぎ、
既成事実のように
知事さんを、
問い詰める放送には、

不愉快なマナーを感じました。

どこかの市議さんで
泣き出した方がいましたが、

マスコミは、
画面慣れしたアナウンサーを
陪審員のように、
お茶の間の庶民の前に
さらけ出すという、
イメージに落ちてしまいます。

お茶の間の私たちの代わりに
インタヴューするという
気持ちで
知事さんと言う
多くの票をバックに持つ方には
エチケットが
必要と思ってみていました。

知事さんと言えば

5年前、
消防隊の
わが身を振り返らない被災地での活躍に
石原都知事は、
泣きながら、
瞬きも激しく
感謝をしていた画面に

私も、もらい泣きしました。

あの、、、都知事の、、、
マジェスチックな
石原さんが、、、泣いた。

裕次郎さんが、男泣きするのなら
若き日には
しびれてしまう女性ファンもいたと思います。
夜霧の中で
パスポートのない亡命を
涙して、映画を観たものでした。

戦争と平和、
老人と海
風邪と共に去りぬ
大地
源氏物語と並んで
なぜか、、、
本屋で買って時代の変遷を感じた
「太陽の季節」

芥川賞が、輝いていた

敗戦からの立ち上がり文化の
太陽族
「太陽の季節」の
著者のイメージのまま

一橋大学卒のエリートととして
私の脳裏には、
時間が止まったままだった。

それが、「東京マラソン」!

郷ひろみが、
ハワイのマラソンに行っただけで
太陽がいっぱいになった
敗戦からの復活。

まさか、
東京マラソンが、一大イベントになりました。

知事さんが交代したとはいえ
オリンピックが目の前に来ました。

知事さんは、
***東京を愛してる人と思っています***

東京の発展に、、
ヴィジョンをもっていられるようでした。

会計のシステムは、どうなっているのか?
都庁のシステムは、庶民は解りません、

でも、、、
東京都知事は
東京を誰より愛してるでしょう!

でたらめだった年金事務と
取っ組み合っていた議員さんですから
まっすぐな人だと思いますよ。

眼光鋭い知事さんを信じて
皆で、足を引っ張らないで
助け合えば、

助け合った集団が知事さん効果を発揮すると思うので、

戦争で消えた東京オリンピックの芽が
世界に国境のない平和を目指して、

核戦争のない地球を先導する気持ちで

政府も一体となり、
東京オリンピックを成功させてほしいと思います。

原子爆弾を、広島、長崎、日本全土、爆撃で
木端微塵になった戦争から
立ち上がった日本の東京で

平和を祈る国境なきイベントが、

日本が、
世界平和の牽引んする時代の
嚆矢となるように、

オリンピックは、

  世界に、

日本が
平和の牽引の役割を
果たす資格のある
原子爆弾の被災地を体感しているという事です、

誰よりも、

核戦争は

地球と言う、
かけがえのない「星の命」を
木端微塵にするエネルギーを
持っているという
「メッセージ」を

世界に送ることのできる

資格のある

「核、被災国」を体感しているという

世界の平和の提唱者になれる
オリンピックだと思うのです。

体操ニッポン!
音楽日本!
デザイン日本!
企画日本!

物づくり日本
技術日本!

etc.etc,

世界に日本人の居場所が出来れば
平和の提唱者の生き方で

核戦争の怖さを伝え
タコが自分の足を食べてしまうような
戦争で、

地球そのものを壊してしまう事を
世界中が手を取り合って
辞めさせないと、、、

☆地球と言う緑の天国☆

、、、放射能の満ち満ちた、、、住めない星になるのです。、、、

世界が、戦いをやめて、
東京オリンピックに参加してくれることが
来し方の、、、中止になった東京オリンピックの

時代から、平和への扉となる

東京オリンピックを、
再び、、、成功させてほしいものです。

子孫に残す「大いなる遺産」は

金でも、贅沢な物品ではありませんよね、、、

「平和」、、、緑の地球を壊さない事。

72歳になって、、
人生を振り返るとき、

世界の平和こそ、、、「大いなる遺産」

世界遺産が残り続けることのできる「緑の地球」こそ

団塊の世代の日本復興組の
最後の仕事であり
生きた証となるはずです。


もう、、、戦争は、、、しない地球に
日本が世界の牽引国になって
オリンピックを成功させてください。
永久平和への世界へと
発表できる場ではないでしょうか?

眼光鋭い知事さんは
インタビューの、
節操のない先走りの質問にも
泣き出すどころか、

ピンチをチャンスに改善してゆく意思を
茶の間に示され、

すごーーーく
頭の良い方と思いました、

お体が悪く
公務の車でリハビリーの温泉療養の傍ら

雑音のないとこで
集中していたのでしょうか、

私も、今は、
4時におきて、
朝。自宅のふろに入り、

動きにくい肩を、
湯船の中で
1時間、
孤独でつらいリハビリーをしています。

意志の強さが
リハビリーを成功させるか、
老いの世界に転がってゆくかの
瀬戸際です。

病み上がりなのに、
糾弾するかのような、
節操のないインタヴューにも

泣き出すどころか、

「時間をください」と

チーム全体の
リーダー格の風格を崩さない
巨人に、

もう、、、、風評被害で
健康に、ストレスを与えるような

足引っ張りはやめて、
知事さんに
細かいことは任せて
最高の健康な精神で
オリンピックの成功だけを
考えてもらったら
いい案が出るのではないですか?

成功させて、
経済効果の上昇で、
帳尻が合う作戦はいかがでしょうか?

日本の素晴らしいおもてなしを
今は考えたらどうですか?

日本が一丸となって
東京オリンピックを成功にみちびきませんか?

被災や津波、地震と
国土自体が揺れている
こうした小さな国の日本が
世界に認められて

交流によって、
地球上に居場所を造れる社員を派遣できるためには

オリンピックのような、
国境のないイベントを
成功させることではないかと思いますよ。

頭でっかちなマスコミにならないで
マスコミの、本来の素晴らしさに立ち戻ってください。
ジンベエザメの集合のNHK放送など
秀逸でしたよ!!!!!!!

自然の連鎖の地球の、宇宙の連鎖のように考えて

派閥の引っ張り合いではなく

一丸となって、
世界に経済効果の突破口を求めて、

大成功させることで
まず!「日本!」

大成功のあとで、
反省会をすれば、
未来につながってゆくでしょう。

インターナショナルな
東大卒の知事さんが

出来ないことは、
他の新人が交代しても、
出来るとは
かんがえられないと

思いますから。茶の間の70過ぎの
婆ちゃんの、老婆心としては

派閥や、団体、イデオロギーを乗り越えて

今は、東京オリンピックに
日本政府丸ごと一丸となった
一枚岩になり、

3本目の矢を宇宙高く放ち
世界平和の牽引国の名乗りを上げて、

経済効果の成功を祈りつつ、

それまで、、、生きていたいと

がんばりたい72歳ですよ。

マスコミの「言論の自由」は
インタビューの仕方に

人間力のある、エチケットの有る質問の仕方を
茶の間では望んでいます。

政治とは、、
、引きずりおろすことでは
無いと思えませんか?

政治の世界だけは
赤子同様の認識の浅い私ですが、
ジャンヌダークも
何かをなした人は
新しい勢力に抹消されてゆく世界史の授業は
100点満点の8点しか取れなかった私ですが、
プルターク英雄伝や
戦争と平和や
何度も読み返しました。


家の中の、コケコッコ―おばさんの視点は
地球の星の永遠の豊かさ
天然の
エネルギー不滅の星の命を
世界で、守るべきと言う事しか
今は、、、見えない!

眼光鋭い知事さんが
どうか、、、正義の知事さんであることを
祈っています、

成功、不成功は、

後ろの屏風の光が
日、、、出ずる国を
今日に伝えられるかだと思いました。

之は個人のにっきちょうですから
知人だけ読んでください、

何か言いたくなるような
失礼なインタヴューに

日本には、礼儀が無くなったと
哀しく思いましたから、、、。


文明の利器が、もしなかったら?

2016-05-12 18:14:32 | Weblog

時々、、いいえ、、、しばしば、、、
科学の産物が無かった時代に戻ったら、、、

世界は今頃、どのようになっていただろうか?
時間はゆっくり流れ

時間軸がどうなっていただろうか?

仕事は人かい作戦の会社だけが、
伝統を守り続けていたろうか?

地方文化が盛んで

祭りが盛んで

若き男女のスマホの出会いが無いわけですから

宵闇に空気を変える恋の火花が飛び

年寄りたちも、
時代を担う若者の為に
ひと肌ぬいで

お膳立てに、
老後の生きがいとばかり
ねじり鉢巻きの湯気を立て

出会いの機会になるような

魂が奪われる演出に、
第二の人生を燃やしただろうか?


         (^^!

不便という言葉にさえ気が付かず
ゆっくりと流れる時間の川に

舟を浮かべて、
若き二人は、
二艘の舟になって
運ばれていっただろうか?

     **************

あまりにも速く時間は飛び
100メートル歩く間に
地球を七回り半の速さの移動距離で
スマホやキーボードで、交流する今日、

傍観することも出来ない、、、
遠い、、、遠すぎる
宇宙に行ったり来たり。

何が何だか解らなくなって「痴呆」になって

自分の宇宙を徘徊するのだけは避けたいと
願っている。

しかし、、、いつ来るかわからない痴呆の世界。

息子にも、孫にも、夫にも、
重荷を背負わせたくないから。

申し込んでも、3年以上待ちと言う
「介護老人ホームに、申込書を出した今日。」

3年後には
痴呆になっているのは考えたくはないが、
どこかを、確保することは、

がんばれるから。

今朝も、
ゴミステーションで
曜日を間違えたゴミを見つけては、

町内全体に、
老人の未来の姿が透視されるようで、哀しい。

今まで、、、あまり、、、
怖いと思わず、
タイルを張るように、
一つづつ、どんなことも、
かたずけてゆけば、
いつかは終了した。

無理難題のてんこ盛りも、

老いの入学ほど難しくはなかった。

老いの不安、老いの孤独、
押し寄せる老いの津波に、
避難場所はない。

あるとしたら、

全てを諦観できる人格を備えるべく

あるのか?無いのか?。。。
居るのか?居ないのか?

自分の中にきっと住んでいられた
魂の世界に
自分をゆだね、

日々の切磋琢磨に終わりなきよう頑張り
生き続ける方向へ、
光の方向へ

心を向けて、
全身で、
明日の光を光合成する心の強さを
持ち続けようと、、、

たかが五十肩、されど五十肩と
不便にさいなまれながら
必ず、、、治る!!!!!!

、、、、と、、、

今は思っている。





連休も終わりましたね、、、

2016-05-11 01:33:21 | Weblog

70歳過ぎの五十肩の痛さは、睡眠障害があります。

桜の花を追いかけたり、
ふと、気が付くと、ダンボ―ル買いをした馬鈴薯が

芽を出し始め、皺が出来ている。

一日がかって、厚く皮をむき、冷蔵して確保。

せっかくの大型連休も、例年に習い
自宅で、夏の仕度に追われて終了。

何処の御婦人も、70歳を超えると

我が家が一番かもしれません。

公園の桜も散った10日の北海道の空は

寒さの残った、ご機嫌斜めの、雨が降ってる。

11日に、、成りましたね。

連休に、一度はドライブに行きたかった、、、若い日。

普通のご家庭は

御主人が、助手席に奥様を乗せられて、
ゴールデンウィークは
ラブラブムードの家庭日である事でしょう。

救急病院の外科医だったせいもあり、

休日は、
いつでも職場に飛び出せる自宅待機の癖があり、

家から出ない夫の相棒は、

仕事が増える。

台所の、サラダは夫の当番である。

結構楽しんで、材料を買い集めているが、

いまいち、見る目を成長させないと、

レタスなんか、、、
中側が茶色に変色したのを

かってしまう事もある。

トマトは、しっかりと赤く美味そうなのを選べるが、

箱中で赤く熟したのか、日光のもとで、熟したアカなのか、

見分ける力が今一です。

盛り付けは、シェフの作品を食して、勉強をしているから、

結構、色彩を美味そうに盛り付ける。

きゅうりの選び方が決め手になる。

連休の、主人のサラダと

五郎丸さんのコマーシャル以来
冷凍の本格炒めチャーハンがセットで

めったにない二人で食事を楽しむ。

母の日には、連休最後のフィナーレで

近所の小さなレストランで
息子家族が、
奢ってくれるというので

感謝で招待をお受けした。

ワタリガニのスパゲッティと

ハーブの紅茶を注文して

70過ぎての、なお、、、健全な母の日と

うぬぼれても、いいのだろうか?

孫を立派に育てている嫁さんの

「お義母さん、母の日おめでとう!」

思わず、、、
あなたこそ、育児戦争の母の日真っただ中で

孫も、息子も、私も、爺ちゃんも
あなたの母の日の「陣中見舞い」さながらに

お手伝いできることがあれば、
「母の日を、皆で食事」の時間を楽しみましょう。

70過ぎの、爺婆が、若い家庭にしてあげれることは

全員が一枚岩になって、

次の世代に「立派に社会人」を送り出すことですよね。

そういう意味では、

母の日、、、と言って、

嫁姑。舅、息子、孫たちが、
ごくごく、、自然に時間を提供できる「母の日」は

コミュニケーションの日かもしれませんね。

70歳過ぎて、
私の為に集まってくれた母の日だなんて

畏れ多いうぬぼれはやめて、

感謝するのは、私の方でした。

ありがとう!

未来が見えるから、婆ちゃんにも、
何か、役に立ちそうな事が有ったら

言っておくれ。

父の日は、どうする?








北海道の桜

2016-05-06 02:08:35 | Weblog


農林試験場の桜を楽しんできました。

手頃な桜の散歩道は

幸せな、自然からの贈り物です。

8日にも、もう一度行ってみようかと思っています。

出不精な来し方を振り返ると

桜の花は、毎年約束を守ってくれますから

親友と呼べそうです。

今日は、体操のNHK杯で、
たまたま、TVの前に居ました。

日本の体操の美しさは、

万人を魅了するでしょうね。

桜の花満開の美しさにも負けない
若者たちの美しさでした。