実家が売られてしまった寂しさは
もうないけれど、、、
東京や、息子の住んでいる町の
借家や、売り家、、、マンションに、、、土地、
日本中のユートピアを探して
検索するのが、、、老後の、、、趣味になってしまった。
若き時代には「手に届かなかったリゾート、、、別荘地が、、、300万円。
古い家なら150万円の山林の中の家もある。
着く50年前後、、、
別荘地は、「おじいさん」と「おばあさん」の
滅びゆく村になっているのかもしれません。
風化して自然消滅しそうな
陸の孤島の売り家もある。。。
私たちの許された時間は10年あればよい方であるが、
一度は、、、生きねばという、、、仕事を忘れ
生かされて、浮遊できる山間の別荘を夢見た時代もありました、
しかし、、、戦争で焼夷弾に焼かれた東京から
自然の神様の居た和歌山県の熊野の奥に疎開した。
防空壕で生まれた私は祖父母のルーツの和歌山に
13歳まで住んでいた、
豊かな心をいただき、豊かな自然で遊ばせていただいた。
南紀の川も洪水で橋が流されたり
民家が流されてゆくのを見た。
電気もなかった、
円い形のヒノキの風呂が大好きだった。
洗い場は太い竹を並べた独特の感覚が足に伝わってきた。
ランプに灯油を入れて、フードを持ち上げマッチで点火すると
石油くさいにおいがして、風呂場はボート明るくなり、
風呂桶の下には砂山が盛ってあった。
井戸から水をくみ上げて、風呂場に運ぶのは
父の健康法にかなった筋トレであった。
2歳半のとき、右手にやけどをした私は
父と一緒に風呂に入り、湯の中で、右手のマッサージをしてもらった。
「、、、のう。。。」ため息とも、悲しみともつかぬ父の声が
今も聞こえることがある。
疎開地という古い古民家の点在する集落は、
「東京から名医が来た」と、にわかに人口が増え始めた。
医療機関のある近くへと、引っ越してくるものや、
転校してくる病気がちの生徒や、
にわかに、2000人を超える、疎開地となったのが、
50年後の今日、またもとの300人ぐらいの村落に戻ったのは
戦争が終わったと、、、疎開地が雄弁に語っているように思えました。
この、、、わずか13年間で
お金があろうとなかろうと、人のモノはほしがらないという
豊かな心を自然からいただきました。
父は必要とされていた,
「七か村,唯一のなんでも診てくれる医師」として
神様のように拝まれていました。
父母の居るところでは、大切にされる[医者の子供]たちは
父母のいないところでは「よそ者」の蚊帳の外に出されていた。
正月の、村の餅つきのとき、
弟と、私が父母より早く餅つき会場に行きました。
ワクワクして、弟の手を引いて、会場に着きました。
30人ぐらいのオジサンやおばさんが、
大きな臼に御餅だねを入れて、ぺったん、、、ぺったん、、
子供たちも、ねじり鉢巻きで奇声を上げて盛り上がっていました。
私も、弟も、うれしくなって、子供たちの中に入ろうとしました。
しかし、、、そこは、、、複雑な成り行きで、
いつもは優しいはずのおばあちゃんが、
自宅の西洋館の地下室を開放しての会場であり
しかも、村の婦人会のリーダーでもあり
弟と私は「おばあちゃんの家で餅つきをする会」と、
すっかり思い間違いをしていた。
父母もきっと、思い間違いをしていたのではないだろうか?
「おとさんと、おかさんが来てから、
あんたらは、一緒にここにおいで、
ここは、、、村の餅つきやさかの、、、
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お客さんは餅がつきあがってからおいで、、、。」
私と弟は、しょんぼりして、父母が来るまで、
餅つく会場の入り口の近くの
壁にもたれて、父母を待ちました。
しばらくして、父母がやってきました。
手のひらを返したように、特等席に父母と一緒に座り、
子供たちも、仲間に入れてくれて、
婆ちゃんがニコニコしながら父母にサービスするのを見ながら、
子供ながらに多くのことを感じる餅つき大会だった。
集落と、よそ者、
そして、唯一の医師の家庭。
このとき、小さかった弟が言ったことを
今でも、、、忘れることができません。
「お姉ちゃん、、、僕自身に、すごい力がないから、
お父ちゃんや、お母ちゃんが居ないと、仲間になれないんだよネ。」
「お姉ちゃん、僕も医者になって、村の皆に呼ばれる人になるからね。」
このとき、私たち兄弟は
自分自身、、、本人に力がないと、どうなるか!
思いっきり、、、
恥をかく人生が待っていることに気が付いたのでした。
昭和30年になろうとするころ
村人は良い人たちばかりであったが、
戦後のインタナシヨナルな教育を目指さねば、
アメリカの占領軍の居る日本を守るのは
息子たちの時代だから、、、
新しい教育を受けさせなければならない。
父の父、、つまり、、、御爺ちゃんは
宮内庁に勤めていた。
当時
父は宮内庁の人々が患者さんとして来られる「慈恵会病院」から
戦争の激しかった大陸に
総合病院の院長として、鉄砲や、弾丸や刀傷の治療を
現地の、医師に指導する役目を仰せつかっていた。
現地の大学に相当する大学病院の医局には
西洋医学の外科の医局に相当する教育機関がかけていたらしい。
提供された総合病院の院長という立場で
父の国への銃後のご奉公が
「現地の医師への西洋医学の教授」であったようだ。
日の丸の旗の交差する病院で
提灯袖のような、コックさんのような
不思議な白衣を着用した日赤の看護婦さんが並んでいた写真は
父の後を継いだ兄の院長室にも保存されていた。
実家が売られてゆくとき、その写真だけは歴史を語るので欲しいと申し出たが
成り行きはよくわからないが、
痴呆と診断された夫人の安全の為に
夫人を施設に移し、
自宅は転勤する施設の母体となっている病院に一任して片付けたと言った。
父から譲り受けた医療施設で、法人にしていなかったこともあり
きっと、、、税金が95パーセントだったのだろう。
230坪の東京都の土地が、5000万円だったなんて、、、
信じるのは、兄弟を信じるからであって、
施設入寮雑費で、兄弟に分ける分は無いと言われた、
一円のお金も取り分はなかったが、
父が真ん中で写っていた「あの写真」だけは
探してもらえないだろうか、、、と
パニックになっていた兄に申し出たが、
結果は、、、どこに行ってしまったかはわからないという事だった。
兄には内科医になっている息子が居るから、、、
もしかして、そちらで保存してくれていれば、
貴重な戦時中の医師の服装や、日赤の看護婦さんの
占領地での服装が映っている
医療現場の外科の様子が分かる写真だったのにと、、、
残念で仕方がない。
終戦に向かって、野戦病院での診療所の指導や、
敗戦色濃くなった昭和19年代に入ると
軍のトラックで野戦病院に従軍することもあったそうです。
医師たちも、武器を背負っての訓練に参加したそうです。
戦場でも、現地人のお産に立ち会ったり
耳が痛くて、悲鳴を上げる子に、
懐中電灯で、耳の中に入り込んだ虫を外に誘導したり、
足の切断、手の切断、止血、顔が割れて骸骨の露出した兵隊。
野戦病院では、キリストに出逢ったと言っていました。
父は、野口博士の話をしてくれながら
右手がやけどで使えなくても
医師になって、アフリカで研究生活をしたことを話してくれながら
「お父さんが、必ず、右手をもとどうり、治して見せるからね、」
毎晩「タルク」という城委粉で、小さな指をマッサージしてくれました。
毎晩、、、ちいさな指の成長に合わせて、
指の骨が曲がらないようにと、肉を切開して、
ラケットのような添え木に指を固定して
黄色い消毒液のガーゼを毎日交換するという
普通なら、ありえない根気のいる患者を抱えていtのでした。
節目節目に七回の手術をして、全快したのは17歳になったときでした。
戦場で命の瀬戸際で戦ったお父さんの患者になれたことを
感謝しています。
一切の金銭は無くても仕方がありませんが、
あの、、、白黒の、、、日の丸の旗がが交差した真ん中に居た
父の写真は、、、欲しかった、、、と。
嫁にいってしまった私が持ってる理由はなくとも
父親であると同時に、
私の右手を、、、とうとう治してくれた恩人でもあるのです、
54歳で、過労死してしまったことが、残念です。
その後の母の人生を兄が支えてくれたのですから
頑張ってくれたと思いますが、
奥さんが痴呆になってしまっては、
仕方がありませんね。
私は、独自に日本の医療の歴史に興味を持っていましたので
漢方学や、荒木先生の方術親和会の講習会は
植物の薬効と日照時間や、東西南北の畑によっても
薬効が左右されたという記録が有った。
例えば、、、桑白皮。
植生からくる薬効などを知りたいと思い
数年の間、会に通いました。
その後、北大の三橋教授の生薬学の本に出合って
ツムラのエキス剤漢方薬になった日本の漢方薬の成り立ちが
知りたくなって、北大の生薬学の聴講生になりました。
その時は、すでに生薬学教室は三橋先生はおやめになった後でした。
三橋先生の植物園の世話を一手に引き受けられていた助手の先生に
学門というよりは、薬草の栽培の仕方を教わりました。
現場に強い助手さんは
絶滅寸前の「ムラサキ」などを、医療大学の薬草園の山中に
群生して、よみがえらせていた現場の凄腕の先生でした。
ヒマラヤの登山の時の話がユニークでした。
例えば、ここから先は植物が無いという境界線で
コケ類の最終をして、乾燥させて標本にしていたり、
植物園の世話を現場でされていた助手さんだけに
当帰という植物を探して
裏日本と表日本を採取して回った結果
茎の赤いものと、緑のモノのが
地域によって植生が特徴あると、説明してくださった。
貴重なデーターは御茶ノ水女子大学の先生をなさっていた
佐竹先生が、興味を示されていた。
佐竹先生は「世界蘭の大会」のようなイベントにも
中枢でご活躍しておられたようで
たまたま、、後楽園の欄の大会に友人と観覧に行ってた時、
パンフレットでお名前に気が付き、
幅広く植物とかかわられる先生方の
大学では生徒には見せないご活躍のあることを知りました。
後日、名寄の方の登山に参加したとき、
北海道のアイヌ民族の末裔という男の人も参加されており
佐竹先生は「イケマ」tぴう植物について、
コイケマと「イケマ」はどこで区別しているのかな、、、などと
気軽に、話されながら、薬草の採取をして歩きました。
佐竹さん生は、食物に関するお茶などにも深い興味を示されている一方
マチュピチュのまだ観光が盛んになってない頃、
岩山に張り付いて丸太の橋を渡りながら
マチュピチュのてっぺんまで
薬草探索されたスライドを、地方会でみんなに見せてくださいました。
もう一度、、、ゆくのだけれど、、、どうかな?
現地の人が案内してくれるから、今回は楽だと思うので
一つ調べたい薬草を見つけているんだと、
眼が輝いていらっしゃいました。
あれから、先生は、、、また、マチュピチュにいらっしゃったのでしょうか?
薬草探索をしていると、
いろんな大学の、先生方の世界へのアプローチの発表があって
人生が、、、時間が足りないと痛感する思いに突き当たります。
少子化、、、子供を産まなくなった女性、、、、
子供を育てることと、両立しない世界が見えてきます。
少子化の原因は保育園が足りないのでもなければ
諸々の設備の姓ではないような気gしてくるのでした。
聴講生の時は、助手さんの企画で
お仲間の探索会に参加させて戴きました。
富士山の植物探索に青木ヶ原に行きました。
海の底に居るような湿気のあるコケの森を探索しました、
それから、5合目までの植物の観察をしながら
土砂降りの中を下山して、浅間神社の狛犬の下で眠りました。
医療と言っても、薬学に進学したので、
患者さんとは触れ合うことなく
薬草から、治療への基礎的なことに興味が向かいました、
当時。生薬学会の会長をされていた日大の滝戸先生も
北大の生薬学の先生方と研究の交流をされており、
北大の聴講生という身分が証明されていたので、
韓国の合同学会などにも参加させていただき
済州島の植物探索会に参加できました。
そこからは津島が見えました。
帰国してから、対馬に登山を兼ねて、植物の探索に行きました。
山中で、ちょっと変わったサンショウの木や
椿の原種を見つけ、種をいただいて帰ってきました。
その種は、眼を出して、鉢植えにして、夏だけ外に出しています。
一階だけ、一重の花を一つだけ咲かせました。
椿も故郷の津島が恋しかろうと、、、思うと、
私が死んだら、この椿はどうなるのでしょうか?
******************
後日、偶然の縁から、東京大学のS先生にお誘いを受けて、
医薬史学会の参加に薬剤師会のメンバーとして参加させていただいたとき
イギリス、フランスの旧い時代から
今日まで健在の病院のシンポジュームに参加しました。
会では、スライドを使って、何百年も続いてきた病院の発展を
歴史資料として、見せてくれるゼミを開いてくださいました。
そのあと、病院の歴史館に案内してくださり、
紙質の良いフランス語で書かれた「病院の歴史」の一冊をくださいました。
表紙の扉には、歴史観の館長をしている方のサインもくださいました。
その建物には戦時中の医療を油彩で書かれた絵がかなりありました。
画廊になっており、その中の一枚に
野戦病院で働く医師のわきに
キリストが、空中に現れた絵がありました。
戦場という
「究極のすさまじい環境の中で、
傷病兵の治療に当たる医師のそばのキリスト!出現の絵画、、、」
これは宗教でもなく、
万民の
万策尽きた状態の時に見る「神」が
キリストのように見えたのかもしれません。
戦争という罪は
キリストを打ち抜いた十字架の楔のように
罪の深い状況だったのではないでしょうか。
傷病兵も、治療に当たる医師も
キリストのように
人間の罪の究極の地獄に居たのではなかろうか、
遠くイギリスやフランスの病院の画廊で
幼いころ父から聞いた「野戦病院でキリストを見た」という
戦場の究極状態での、いっぱいの水を下さったのは
やはり、、、キリストだったのだろうか。
父の話にこうした具体的な画廊で出会えるまでには
多くの学門の先生に出逢いながら、ここにこれたことを
深く感じるものがありました。
イギリスにおいては
(医薬史が、エーザイから、まとまった翻訳本が出ていますが、)
その原書が地下の本屋さんで売っており、
ここに来た人だけに販売していて各国には発送していないというので
4キロもある原書を、トランクに入れて、帰国しました。
ウエルカム医史博物館の中では、初期のCTも展示されていました。
札幌にも今世紀に入ってから、大きな病院が建ちました。
創生期の医師たちは、国境を越えて、大きなビジョンをもって居たようですが
日本の医療には政治や地域が深くかかわりながら
地元発の病院から徐々に徐々に
行きつ戻りつ世界の医療に足並みそろえてゆく経路をたどるのかもしれません。
ヨーロッパのある病院の発祥は
行き倒れの貧しい病人を、
修道女が教会で世話をし始めたのが始まりという500年も前の病院の中に入らせていただきました。
「俺はやった!」「俺が、、、俺が、、、」という歴史は残っていなくて
歴代の院長の時代にどのような医療がされていたかという資料と医療機械。
世界からの留学してきた医師の資料。
その時の時代の王様とのかかわりの資料。
株式会社の経営する今日の病院の条件とはかなり違う医療状況だったようです。
イギリス医学を学んだ父の言葉を思い出しながら、
教会の4庭に建っていた精神病院の祈りの姿に出逢い、
日本の病院は、医療の世界が世代ごとにフォーマットされて、
特殊な疾患で苦しんだ人々も
医療とは別に、
政治のかかわりで、
時代の考えのもとに処遇されてしまった一面があり
正しい歴史が残ってゆくのはむつかしい国だと思いました。
疎開が終わるころには、
医師の子供たちは
やはり、、、医療関係者として生きてゆくことが
先代の残した見えない精神的なあり方という財産を失わないで
人々にとって必要な仕事がこなせるのではないかと思いました。
医療技術の他に、
医療にたち触るものは
白衣の心で患者さんに接することが
先代からの深いメッセージだと思うのですよね。
自分個人の見解や体験を大切にしすぎると
大きなことを見落としてしまうという、、、人間は心が絡んだ疾患も多いという。
患者さんが先生だと、、、父はよくつぶやいておりました。
ダビンチというロボット手術で
前立腺疾患が、予後が良くて
ある種のジャンルでは、
人間の医師とロボットの共同医療の時代になりましたが、
父や兄や弟、甥や従妹、、、三代以上続いている医師と
一代医者として、
戦後の貧乏の時代から
北海道という新天地の医師になった人の考えは
大きく違うところがあると思いました。
北海道では医師が社会的な地位が、本州より評価されているという事です。
本人も、周りが接する接し方で
自分を認識してゆくわけですから
かなり、、、「精神面でカリスマ性が強く、エリート意識も潜在していて、、、」
手っ取り早く言いますと、
付き合うのに神経が細かいものを要求されるので、
兄きのような2代目も、
主人のような初代も、
一緒の暮らしてゆくには
肩が凝ります。
人からモノを習うのも下手で、
言い方を間違えると、
いつの間にか、こちらが講義を受けねばならなくなります、
病院以外でも、指導者のスタンスで居るので、
本人も苦しいでしょうね、、、
ドクターが本来の医師であることを忘れて、
ジャンルを超えて、如才なく半値で語り合うことができたのは
父と弟だけでした。
兄と夫はいつでも医師であるので
本音の言葉で語り合うことはむつかしいと思いました。
つづく
父の実家のあった東京の市ヶ谷に戻ろうと
父母は、知人に、開業できる施設を依頼した。
そして、、、知人が父の代わりに探してきた施設は
旧い大きな池のる、、、お寺の跡地でしたl
しかも、、、天井川とまではいかなくても、
江戸川とすれすれの集落で
ドブが運河のように流れて、
水害の時の側溝のごとく
存在を誇示しながら
蚊が、、、ぶんぶんと」、、、偉そうに
飛び回っていた、
人の血で、どす黒い腹を太らせて、
腕にトマッテくる、、、戦争の傷跡のまだ残っている
下町だった。
住めば都になっていった、
つづく
父と散歩に行った
近所のお寺の松の木の広場。
ここでは、、、今、海外にも人気の盆栽市がしばしば開かれていました。
実家が人手に渡ってしまったけれど、
近所に思い出のお寺があることは
父が、今でも私と一緒に居てくれるってことでしょう(^^!
20歳以上もお父さんより年上になった私が
いつか、お父さんの世界に逝った日に
わからないかもしれませんね。
若いお父さんい出逢って
眩しいかもしれませんね、
故郷は、、、消えてないのです。
10代のころ
錦鯉を縁日で買ってきては
診療の合間に、、、池を見に来ていた父。
「ドクトルジバゴ」は
医師になっても。戦争で医師をすることが出来なかった。
産めや増やせの富国強兵政策、そして戦争、、、
大国の存在の認識が
攻撃が、最大の守りに思えた時代が、、、たしかにあった。
生き残りの3人と、戦後生まれた弟の4人兄弟姉妹。
実家が売られてしまった、、、というより、、、
あの時代は「長男に全権があった為、ほかの兄弟は蚊帳の外でした、」
父と母の時代は、、、終わったと感じたのでしょうね、、、きっと、
東京でのまとまった260坪と鉄筋の建物は
今でも、GOOGLE地図で残っている。
父母の植えた玄関までの常緑樹の木々は
自動販売機に代わってしまっていた。
あの部屋の2階の30畳のリビングには
父の好きだった、宮様たちとともに楽しんだという
ビリヤードの象牙の球と、
戦後、偉業を引き継いだ兄が購入した台が、グリーンの色で
白い球が素敵に輝いていた。
女主が痴呆になるという事は
毎日の掃除さえ、一部屋4万の業者を頼んでいたというから
維持できなかったのだと推察できる。
それにしても、、、、どこの誰が、、、買ったのだろうか、、、
北海道に外科医を迎えに、結婚して、家を守るつもりが
北大の講師の任命を受けたとき
主人は、、、故郷の家には来てもらえないと、、、悟った。
主人も、「母の葬儀にも、、、、参列しなかった。」
ひたすら、北海道の住民として、
母の葬儀の日も
諸七日も、
四十九日も、
百日も
弟が主体になって、
行ってくれた、
一人で、、、東京と札幌を
何往復もしながら、、、四十九日の母の家は
母屋の隣にあった木造だったからか、、、
ブルがナラシタ凸凹の空き地になっていた。
父の錦鯉の池のあたりに
父が自慢していた
皆で囲んだ
正月の「柿右衛門の赤絵の大皿が」、、、
土に突き刺さっていた。
時代の流れ、、、
我慢していた涙があふれてきた。
誰も見ていない母の空き地は、
大切にしていた「貯金の木」世も呼ばれる肉厚植物が
散乱していた、
私は、空港手に入れた紙袋に
母の、、、植物を入れて、
そのままUーターンして札幌に帰ってきた。
一人一人の兄弟が、個々の力が有ったことが、裏目に出てしまったのだろう。
私たち兄弟は、全員が国家免許を持っていた。
最終的には、自分さえしっかりしていれば
遺産相続は必要なかった。
母も、明治生まれなのに、国立音楽大学のピアノ科を卒業していた。
なくなる3日前まで、減益だった。
頼ってくれない母の、
父の時代に築いた母のstatusを守らねばならなかった長男は、
一見、、、財産に見える実家を母親含めて引き継いだ。
兄弟は、皆、それぞれの力で自立していった。
長男は、、、眼に見える東京の260坪を引き継いだから
母を世話することは、当たり前だと、だれもが思ってしまった。
次男三男のお嫁さんも、自分たちの実家のことで忙しかった。
母が亡くなったとき、日ごろから、兄に頼まれて、
母の健康管理や、親戚筋の法事に関することは
弟が、兄の依頼ですべてをしてくれていた。
私は、義姉であっても、、、北海道に行ったきりでは
蚊帳の外のメンバーだった。
それでも、弟は、必ず私を姉として接してくれたので、
母の葬儀にも、出席することが出来ました。
母という、、、要が居なくなるという事は、、、
各人自立した兄弟の絆が有ろうとなかろうと、、、
結婚という、他人が付いているという事は、
実家がひつようなくなるということなのでしょうか?
イギリスは古城の管理費で破産しそうになった貴族が居るとか、、、。
260坪の鉄筋の建物は60年も経過すると、
壊し代金で結局収入は5000万円だったとかで
「税金を差し引くと、兄弟の取り分はありません。」
病院の経理を担当していた職員が何十年も務めた退職金を請求して、
兄夫婦は千葉の介護施設に入居してしまった。
兄の息子は、親の後を継ぐのなら、医者になりたくないと、、、
かなりの間、医者の世界のカーストのような
先輩の強さに反抗して
若さのむつかしい時期を10日ほど一緒に過ごしたが、
洞察力の抜きんでた若者で、医療界のルールや習慣や価値観に
従順に従う事の出来るまでには
もっともっと、、、
世間の大変さを知らなければ無理だろうと思えるような
努力をする前の段階での反抗期に、おばさんとして出会ったきりである。
私は、半ばストライキを起こしている甥っ子を映画に誘った。
「千と千尋の神隠し」という漫画映画であった。
そして、、、映画のあと、共通の話題を持った彼と話したっけ、、、!
「親が医者に成れ」、、、命令されて医学部に来たのではないんだよ。
すでに、、、医学部に来てしまったのは君だから、、、
ストライキを起こしていると、、、映画の「顔なし」や
クッサィ、、洗っても、、洗っても、、、汚れだらけで
そこらじゅう、、、汚水だらけになる「汚いお化け男」になるよ、、、
そんな話をしながら、、、札幌の夜景を見に
藻岩山のてっぺんに連れて行きました。
宝石の海のように、、、
一人一人のともす灯りが、、、
札幌を創っているんだよ。
この中で、、、医者のともす光を探せるかい?
もっともっと、いろいろな職業の人が、
思い思いの灯を輝かせているんだよ。
、、、、、、
彼は、、、黙って光の海を見ていた。
「探せないような、、、小さな一つの灯が、、、君のパパだヨ。」
パパは、本当は弱いんだよ、、、
息子が医者になってくれて
すぐ近くで灯を掲げてくれないと、
息子の光を探すことができないんだよ。
こうして、、、山のてっぺんから灯を見ていると、、、
親父の力に屈して医者にならなくても、、、
他の職業に転部してもいいんだよ。
でも、、、せっかく医学部に入っているんだから、、、
わざわざ、、、親に逆らって、、、
隣の隣の、、、そのまた隣の灯りを灯しに行くのも
、、、、、
山のてっぺんから見ていると、、、
なんでもいいから、、、お前さんも、、
そろそろ、、、
ひと隅を照らす灯を、、、つけたら?
気楽に言ったのです。
翌朝、、、ラーメンを食べに二人で行きました。
「おばさん!一回ぐらいは、、、僕におごらしてくれヨ、」
彼は「顔なしからの出発」を決めたようであった。
やっと、、、親父を超えられたから、、、
外野の私はそれっきり、、、彼とは出会っていない。
息子は、親の後を継がなかったから、、、
95パーセントの税金を支払って
親父の意地が、全部、、、売り払ってしまったのかもしれません。
息子を、、、永遠の独り立ちの男として認めたから
退路を断って、、、最後の親の心が
こうした形になったのかもしれません。
兄きから、初めで最後の、自筆の走り書きのある
「小さな、、箱が」届きました。
息子が世話になった、有難う、、、
医師国家試験の合格発表の新聞の
我が子の名前に印をつけて
ゴディバのチョコレートが入っていました。
息子の結婚式には、、、私も主人も呼ばれませんでした。
叔母さんごときに、学生時代とはいえ
アドバイスされた我が身が恥ずかしかったのかもしれません。
ボンボンではありましたが、
医師になるような一本筋の通った意地もあったのでしょうね。
甥っ子は、、、やっと大人になったのだった。
今度は、、、わが息子の、、、お嫁さん探しです。
医師になるのが目的で、医師が天職の次男ですが、
43歳まで、自宅もなし、車もなし、財産なしの
大学職員なので、
息子を認めてくださり、
家族の一員として、仕事第一の
マイペースの医師を、
懲りずに旦那と認めてくださり、
子育ても、ご自分の母親に教わりながら
息子をあてにしないで、、、
あてにするのは月給だけという
自立した依存心のない女性でないと、、、
医師の妻は「孤独で、寂しいかもしれません。」
ただ、、、生まれた子供たちにとっては
父親として、父親らしいPTA活動はできなくても
社会への貢献を認めてもらえることが多いので、
本人さえ甘やかさないように、しっかり自立させる育児をすれば
母親が、ほとんどのことを代行をしやすいという事です。
ママ友も、先生も、親切に仲間に入れてくれますよ。
進学させるぐらいは、稼いでくれますから
趣味の一つや二つは持てますし、
寂しいことばかりではありません。
きっと、、、息子の近くに居るのかもしれませんが、
ERに居る時間貧乏の上に「見える財産の無い中年に差し掛かり、、、」
若すぎる夢多い女性には、、、電信柱に見えるかもしれませんが
キャリアウーマン目指して30歳半ばになって
子供を産み育てたいと、進路変更した大人の女性であれば
旦那さんに頼るような、依存心は無いはずですから
共存共栄のしっかり夫婦になれるとおもっています。
税務署は
勤務医の必要経費には控除を認めることは、ありません、
医師になって、5年間ぐらい、朝一番の振り子特急新幹線で
勤務地に向かい、夕方には大学の仕事や、会合と
通勤費にかなりの金額がかかったときも、
控除はありません。
アルバイトがあっても、
医師になるよりも、医師を続けるための自己学習に
宵越しのお金を持たないので
実家には、10年経過して、古本になった医学書や
ハイパーDVDの付いた教科書のような本が
山と積み上げられて居ても、税金の控除にはなりません。
つまり、、、物品に例えては、恐れ多いことですが
医師という「医師をする男性」は「ランニングコスト」のかかる
高級なマンションのような、、、気がします。
女性の方に「経済的な自立が必要」な時期もあります。
親が、生きているうちに孫を観たいと、願っているのですが、、、
ドクターヘリの飛ぶ大学病院の医師は
かっこいいとは思うのですが、、、
結婚相手の男性としては
どうなのでしょうかね。
実家が近くて、、、姉妹もとかくに住んでいて
自立しているお母さんが、日曜日にはお出かけに誘ってくれて、、、
「亭主は元気で留守が良い」。。
自分の時間を生きる女性であれば
医師というのは、、知的財産家と言えそうですよ。
そのような女性が、相手を探し出すのは35歳ぐらいでしょう?
43歳の息子とは、きっとうまくゆけると、思いますよ。
本人が縁があれば、、、きっと、二人はお似合いですよ。
家事育児、お手伝いをあてにはできない、、、職業ですよね。
「結婚したら、、、すぐに家を買うよ、、、ローンも信用があるし、、、。」
嫁さんの都合のよいところに家は買うと思うよ、、、と言いながら、、、
医師の43歳は30歳の会社員の男性より、、、社会に触れていないかもしれません。
話していると、、、学生時代と変わらないフレッシュさです。
歳は若いのに(35歳まで)義姉さん女房のように
息子の一部の社会音痴を見守って下さり、
フォロウしてくださる方がいましたら、
最高ですね。
東京を振り返ってくれることはなくなった。
息子は「伊豆」に住み続けるでしょうね。
温泉に、水族館に、富士山を観に
何度も息子と土日の小旅行を親子3人で行きました、
結婚相手が天から逢わしていただけたら
土日は、小旅行に、ゆけますよ、