医師という仕事は、外側から見るのと
いざ、、、家族となるのでは
理解されないだろうと、、、
推測できるギャップがあると思ったりしている。
戦前の父と母のアルバムが
兄の家に有った。
総合病院の院長だった戦前の医師夫妻の写真は
当時の医師の働き方を推測できると思っていた。
一見お金持ちに見える写真の中で
父も母も笑っていない、
患者さんが退院の時、
父の熱意のある医療のおかげで、退院できたといって
一枚の日本画を置いてゆきました。
父は、
「患者さんは、医者のおかげで病気が治ったと思い込んでいるが、
治癒する力が存分に働けるように条件を揃えていったことは確かだが、
自分で自力で治癒して退院したことに、自信をもってくれれば
予後はもっといいのだよ。」
ぽつりと言ったことは、
「患者さんの病気は
患者自身が自分でなおしているんだよ。」
患者さんのサイドから
医師を頼ってきてくださるまでになるには
切磋琢磨の日々であることは
ほとんどの医師にとっては、
日常の常識のようになっていると思えます。
振り返れば、、、私事ですが、、、
私自身、女医になろうと思っていました。
小学校から高校2年生ぐらいまでは考えていた。
大学受験のとき、
親子兄弟親戚からも、
女医にまでして、嫁に出すのは
絶対反対!という気風から、
女医になれたら、独身をとおして、
家庭も子供もほしがりません。
ひたすら、医療に人生をささげます。
強く強く
説得したのですが
白百合とか、跡見とか、山脇とか、
女らしい大学があるだろう!
早稲田の理工学部を卒業して、
兄貴の中学校の公立の中学校の教諭を経由して、
山脇短大の教授になっていながら、
我が家の8畳の一番良い部屋を二間続きで分捕って、
学芸大学卒業の奥さんと二人で、住み着いていた
おじさん夫婦!
(^^ いつもスマイルで、あだ名は「湯上り」。
私の卒業した高校に
論文だけで推薦入学ができるコースがあるから
山脇に、、、ぜひ、、、入学しないかい?、、、と言った、
^^!
どうしても女子大というのなら、
東京女子大か、
日本女子大を受験する人がいるから、
一緒に受けてもいいけど、、、
理科系に行って早く技術を身に着けて、
おじさんたちが居座っている家から
独立したいのよ。
真面目に答えているのに、
医師の娘は女子大卒業すれば、
自分で稼がなくても、
お金持ちのお嫁さんになれるコースだよ、
、、、、、?????
勝手に人の人生を、商品にしないでほしいと思ったが、
好意から言ってくださるのだろうと、、、笑顔で無視した。
叔父さんも、学徒出陣で戦争に行って、
大陸で生死の間をさまよって、
終戦後、
疎開地の和歌山まで
復員してからまっしぐらに
兄貴にあたる私の父を頼ってきた。
漫画に出てくる「カバヤマ」というキャラクター並みに
よれよれのイメージだった。
28歳になってからも、出兵前の希望を貫いて
早稲田を合格した無一文の戦争帰還兵の弟を
卒業まで親代わりを果たした。、、、、戦争戦後の日本の男兄弟。
卒業して間もなく、
学芸大学卒の小学校の先生をしていた夫人を連れて
疎開先の南紀の診療所までまで帰ってきた。。
我が家の2階の三部屋の仕切り戸を取っ払って、
結婚式の準備に、村人も、患者さんも、手伝いに来ていた、
先生の弟さんの結婚式にお祝いとして使ってほしいと
ごそごそはい回るタライ一杯の「伊勢海老」が届けられた。
晴れの着物を着飾って、私はオジサン夫婦や
村のえらいさんに、、、?
お酌をして回りました。
彼女とおじさんは、晴れて結婚して、
東京に、父が買った開業用のお寺跡の広い家に住み着いた。
中学三年になった長男は、
疎開先に、いつまでも居たのではでは、
受験も突破できないというので
おじさんたちが、住んでくれている、
未来の開業の家に
一足先に兄貴を引き取って、一緒に生活するからと言った、
長い田舎暮らしの兄貴に、
家庭教師さながらの役割を果たした、オジサン夫婦でした。
戦争さえなかったら、父の男三人兄弟は、
素敵だっただろう、、、と
ふと思う時がある。
「医師をする」ということは、
戦後の
食い詰めた身内が、頼って寄ってくるという役割を、
当然とばかり引き受ける立場でもあった。
戦争に学徒出陣で大学を中退した母の弟。
日大理工学部の中退で、
シベリアの抑留体験のある母方の叔父さんも
家族6人で居候という、、、目下使ってない開業予定地に住み着いた。
父は市ヶ谷の文人通りの
有島武郎作家の住んでいられた借家の持ち主の家の坊ちゃまだったらしい。
美しい美人が有島さんの家に原稿をもらいに来る姿に、見とれていたらしい。
「晩年、、市ヶ谷には帰還できないと解ったころ、、、
有島さんと波多野さんのことを、私に話してくれた。
偶然とは黄なるものである。
中学校の時、私の息子が有島文学に応募して、結果を残している。
市ヶ谷の思いでは、大正時代に、摂政の立場に有られた御方が
牛込あたりの小学校にも視察でいらっしゃるのか?起こしになったそうです。
関東大震災に巻き込まれ、第二次世界大戦に巻き込まれ、
市ヶ谷は誰の土地かわからなくなるほど変貌していた。
疎開地に、、、引き留められ…引き留められ、、、
折からのダムの建設で、けが人も多く、
ダムが完成するまではせめて、、、と引き留められた父は、
私たちと一緒には東京に帰還できなかった。
一人疎開地に残り、二年後に東京の「ドブ」の町で
家族と合流しました。
東京帰還後は、市ヶ谷ではなくて、
ドブだらけの下町の400坪の庭に、
大きな池のある
古寺の屋敷に、新規開業の予定が有った。
大きな池は埋め立てた後、無料で回収された、。
結局、、、260坪の敷地に古寺をリホームして
空いたスペースに、木造の自宅を建てた、、
戦後の下町事情は語らずともWKIにて、写真入りで観れますよね、、、。
バラックだらけで、、、
古寺リホームの医院は、「お大臣ね」?????と
同年輩の子供たちが寄り合って、
こそこそと、
「のさ言葉、、、初めの言葉のアイウエオ票の文字の次に≪のさ≫を発音して入れる言葉」で
話しかけてくるという、、、セクトが感じられるところでした。
新入りとみると、複数で取り囲んでくる風習がありました。
私は小学校6年でしたが145センチほどの背丈があり
すぐに、皆と対等に話せるようになりました。
男の子だったら、、、結構、、、難局に出くわすのではと思うような、
敗戦のドサクサが、まだ、まだ、いぶり続けていました。
この間、、、兄貴は親戚のバリケードの中で
中学校を卒業して、
「名門の両国高校に進学できた。」
28歳から、早稲田を受験した、、、お化けの親戚のおじさんや、
日大中退でシベリア体験のある、、、母の弟にあたるおじさんや、
これまた、、、お化けの一族の中で
田舎の大将だった兄は、どんどんナーバスな人間になっていった、
家の持ち主で、
生活費や借金を払っているのが、
疎開先の南紀の診療所で働く父であり
、、、、医者だけが、、、なんで、、、居候を集めてしまうのか?
変な時代でもありました。
東京の家の住人で、仕切っているのはオジサン一族という
権利者と、実力者の「ギブアンドテイク」の不思議な
3家族の同居生活に、自分の父母が遠い疎開地という
大黒柱のいない家主の我が家は、
、、、四面楚歌の一面もあるという、集団の知恵で、
私が、一番、疎外といういじめ易い座布団に座っていたのかもしれません。
本人の私自身が、必要な挨拶をポーカーフェイスで交わすだけで、
図書館に入りびたりの本の虫だったこともあり
災難には合うこともなく、合同の十数人の食事時に、
兄や兄より2歳下のいとこの姉さんの話を、
ご無理、、、ごもっとも、、、と、うなづいていれば、、、時は過ぎてくれた。
東京の変則的な生活の中から、摩擦を避けて、
欲張りません。人の嫌がるゴミ係を自分から引き受ける。
さっさと、自分のスペースに戻り、
借りてきた本を読む、、、
、
受験生活の精神状態を保つために、、、
父からの仕送りは同居人全員で同じ権利で分け合うという
やがて来る開業の日の職員との住み込み同居のノウハウが
この時期に身についたのかもしれません。
外側からは、なんでもカンでも、医師の家族は、、、お大臣と思う時代でした。
大勢の職員を使って、
ピンハネしている医師家族はお金持ち?と解釈するが
世の中の常識でした。
実際は、居候の3姉妹は、母と話そうと思う私のしぐさの前に、、
「母のことを、、、おばちゃま、、、おばちゃま、、、と
猫ちゃんのようにまつわりついて、、、
実の娘が、大切な御用があって、母に近づきたくても、、、
ニャーーーゴ、、、フーというオーラーで
いつも、彼女らのいない時期に、母をもとめていた、
母は、実の弟家族の娘3人の教育を真剣に考えて、
長女は、ドレメ(現代は杉野大学になったのかしらね?)
次女は小松川高校へ、
三女は小さいので、かわいがっていました。
戦後の不安定な、青白きインテリ時代を
社会に送り出すまでは、
父は疎開地で不便に耐えながら、
町民には「神様」と拝まれながら、
お金の払える患者さんからだけの収入を東京に送り続けたのでした、
そのお金で、父の弟は大学を卒業、
結婚式は兄である父が全額負担。
母の弟は、理工学部中退のスキルで、機械工業をはじめ
独立して、祖父を同居に導き、
毎月、、、毎月、、、
姉としての母は
父親に当たる私の祖父のもとに
生活の足しにと
、
弟のプライドを傷つけないように
下手から、さりげなく、、、私に言いつけて、
生活費の一部を届けさせていた。
封書を届けながら、祖父の部屋のお邪魔虫をしながら、
汚れたシーツを見つけた、
「おじいちゃん、この次来るときは、選択したの持ってくるから、、、」
私にもできることがあったと、、、満面の笑みで祖父に言ったのでした。
しかし、、、
祖父は表情を和らげずに、私に諭したのだった。
ある医師にかかっているのに、注射💉が下手で、2回、3回と針を刺されたとか?
傷に張っていたバンソコを
力任せにはがして、痛かったとか、、、
そのようなときに、しゃしゃり出てきて、
「私が、、、はがしてあげるよ、、、痛くない様に、、、そーっと」
お医者さんは、喜ばないよきっと!。
出番を心得ないと、お医者さんは気分を害すると思うんだよ。
医者に置き換えて、祖父は大切な心を教えてくださった。
シーツが汚れていたとしても、
老後の祖父の命を丸ごと引き取ったおじさんのうちに対して
私の判断で、目先の汚れを洗ってくることは、
いかに、してはならないことかと、、、身に染みた教えだった。
「気持ちはありがたいが、、、いま、シーツの担当者がいてくれる限り
汚れは忙しさと思うから、暇ができるまで
そのまま、、待ちたいのじゃよ、
世話をやいてもらう側の常識の感謝の心がないと、
人の世話は続かないよ、」
m(--)m
80歳を超えても、微塵も衰えない祖父の威厳に
人の道を教えられた思いがした。
マスコミの発言の自由は反対派しないが、
伝達の仕方一つで、
メッセンジャーは、個人の家庭平和に影響してしまう。
かかわった者が辞退か、
首になるか、
懲戒免職となってしまうのであるから、、、
例えば、、、
日大の事件は、大学の自浄作用に任せないと、
生徒も、強くならねば、
日大を卒業してから、
身に着けそこなったスキルは、
社会の罠に落ちて、
イノシシ鍋にされかねないから、
どんな理不尽に思えることでも、
身内の采配は、それなりの「愛の鞭」と理解して
指導者側も、生き残りを考えて必死なことが多く、
もう一枚巨大な組織のような、何者かわからないような
正体のわからない怪物と、戦っている日大に気が付くのも生徒の役目かもしれません。
下の者にはわからないパワハラを受けているに違いないと
良いほうに解釈して、
自分の正義を、第三者に訴える前に、
学内で、自浄作用のできる学生になってほしいと
願わずにはいられません。
昭和生まれのわたくしの年代の者は
三越に行くときは高島屋の紙袋は持たないようにする。
日大のチームの一員として、指導を受けるときは
日大の許可する服装で、指導をしていただくのが、常識でした。
生徒の未熟は、授業料を納めているという建前上
未熟だから。指導していると割り切って、
教官は一段心を大きくして、
未熟者に、ひざをついて指導をするという、
成人してから、本人が、、あとから、こっぱずかしくなるような
スパイスを、演じておいてほしいと、、、
日大から、高校の教職をゲットさせていただいたころを振り返るのです。
日大も、東京医大も、お世話になった大学だけに、
マスコミの、知識と、理論と、正しいことの、、、裁判官でないが
お茶の間裁判を、、、拡声器で論じるのは
ある種の、、、パワハラにならねば良いがと、、、杞憂する。
東京医大は、私立だけに、
良家のお嬢様の、女医に、現場のすさまじいまでの命の闘いの戦場を重ねると、
男性医師の変わりは、トータル的に、女医さんではむつかしいと思うのが
解るような気がする。
身内の3人の医師は、、、結局、、、患者さんを先に考えると、、、ね。
外からの、正しいことや、法律では、守り切れない命の救急を、
男の医師たちは、
それしか見えないという、
「ポリシイのある生き方」ゆえに
急場が何とかなっているのだと考えれば、
マスコミの判断は、
頭の優秀な人の評論の域を出ないのではないか?
現場のすさまじさは、
内部からしか見えないし、
信号守っていたら
、
人工頭脳は、*********************
3人跳ね飛ばす方角にハンドルを切らないかもしれないが、
確実に、
一人しか跳ね飛ばさない方角にハンドルを切ることが
正しいと、行動するだろう。
************************************
医師たちは、目前の岩にぶつかって、車も壊れるが、
寸前のとこで、エアバックで自分も助かるという
絶妙の計算をできる
************************************
命のプロの戦士たちであることは確かです。
、
人工知能の100点のような正誤表で、
時代が作り上げて来た
「戦後の団塊の世代が、岩にぶつけながら救い続けてきた何かを」
交通事故を起こしたと、、、取り締まるのは間違いではないが、
スマホのない時代に、
授業料を、感謝して払いながら
、
専門的な情報を受け取ってきた私たちは
師の影、、、三尺離れて、、、その影を踏まずの魂が叩き込まれているのです。
そこかしこに、U=tyu-buや、検索で、知識が雨のごとく降ってくる今日、
モンスターの指導者も
、
モンスターの学生も
人をいじめている暇があったら、
世界を学ばないと、
国内の覇権争いをしていると、
あちこちに、防空壕を掘りまくらねばならない
道徳戦争の爆弾除けが必要になってくるかもしれません。
もともと官僚は強いのだから、
その強さを、、、個人の利益に使わないで、
日本人の、わが子の、、、
得意とする才能を伸ばせるシステムを作るのに
その力を使ってほしい。
男女平等は、人間が考える前に
天は出産の力を女性に与えているし、
男性には、目前の敵と戦う力を与えているのだと思いませんか?
強くなった女性は、主張が強くなりますから、
自分が主役になりたくなるとしたら、、、?
社会は、ややこしくなりますよね。
カウンセリングに欠かさず出て、
出席の知識の集積こそ絆になってゆく男性の外科医
ツーカーのサッカーチームのパスのように
パシュートのチームのように
全員で手術の成功を目的にしてゆく外科医の、
人は人、我は我、、、されど仲良き、
各々が、信ずるままに力を磨き、
会合で意見を出し合うことが、絆になって、
不可能に近い激務も、こなしてゆく現場の風景は、
外科医の娘であり
外科医の家内であり、
がん専門医の姉であり、
内科医の妹であり
救急病院の医師の母であり、
内科医のおばさんである
薬剤師という、医療を学んだ一人の薬剤師として、
感じたことを、独り言日記のブログに残しておきます。
日本の医療に、
どれほど多くの専門家が
働き方計画が通用しない緊急事態に出会っているかを考えたことが
果たしてマスコミの方々は、
水の中に着けられても消えない花火の、噴射力を、
奇蹟を跳ね飛ばす医師たちの努力で、
命のケアがされていることに
気が付くマスコミは少ないはずだと思うのです。
正しい法律どうりに行くのなら、
正月に事故を起こせば、
引き取る病院はないということになります、
正月に出勤して来た来し方の40年以上を振り返り、
主人に向かって、70歳過ぎてから、
今頃、、、文句を言っては、、、ストレスをさらに、回収してしまっています。
主人も好きで、正月、ゴールデンウイーク
連休を
当直したのではないことはわかっているのですが、
積年の恨みつらみが、怒涛のように口をついて出てきて、
医者バカのあなたの子は、
やっぱり医者バカで、
少しは、、家庭の愛とか、幸せに、関心を持ってはどうなのよ!と
責め立てれば攻めるほど、
家庭に帰るよりは、仕事に没頭してしまう、、、
女性の感性とは、
かなり、、、別の生き物のようです。
別の生き物同志、、、相棒になっている結婚生活、、、、。
家内の方も、貫くしかない土嚢のひとつ。
医師の主人が、医師と話しているときには
本当に生き生きと話しています。
緊急手術に備えて、お酒を一滴も、
家庭では飲めない主人に
世間は
「外科医は≪おお酒飲み≫と決めつけてきます、」
マスコミの女医のエース「だいもんさん」は
「医師の間では人気の番組でした。」
女医を演じている女優の目力も、漫画チックで面白いのですが、
最新の医療事情が組み込まれたシナリオに
医師の休息の時間の視聴率を高めた要因の一つだと思います。
大半が、医療界を、ここまでいじくりまわして、
面白おかしく素人受けする欲張り金まみれにした番組の
たった一つ、医師にチャンネルを回させる要因は
最新の医療事情を、入れているという点だと
私的には、、、横目で思っています。
ここまで、、、医師たちを馬鹿にしている番組なのに
何が「御意!」よ!と、、、思いながらも
笑ってしまうのは、、、
外部から見ると、あまり飛べないクジャクのほうが
渡り鳥の多くの鳥より
マスコミは上位に置くということでしょうね。
役割を果たしている鳥よりも、
美しい鳥が正しくて、
多くの鳥は、美しくて、見栄えがして
見とれる外観の鳥が、、、正しいという順番になるのでしょうか?
私は、受験の時に、
すでに父の死ぬ時期はすぐそこに来ていると
霊感に近い理由なき静けさを感じていました。
「お父さんは、もし死んでしまったら、、、私はどうすればいいの?
高校生の弟は、慶応とか、慈恵会とか、、、、私立医大の科目しか勉強していないみたいよ?」
錦鯉の池を見ながら、
父に話しかけたことがありました。
「、、、ん、、、その時は、お父さんもお前たちを信じて旅立つから、、、
お前たちも、自分を信じて戦いなさい、、、」
ぽつりと言いました。
総合病院の院長だった父が、
戦場の野戦病院で、キリストの幻を見た。
戦後は、疎開地で、戦争で傷ついた母の心を癒しながら
無医村のマルチ引き受けの激務の医師として働き、
13年目には、実家のあった市ヶ谷界隈の文人通りの生活とは一転して、
下町の、ドブだらけの復興地のお寺跡で新規開業し、
1。。。。。に在宅!
2、、、、、に在宅!
3ーーーー,4、ーーーがなくて、
5。。。。。に在宅という
不健康な開業の激務を果たし、
アメリカに敗戦した進駐軍の駐留する日本を
次の時代に取り戻せるのは、、、グローバルな教育しかない!!!!!
中学3年生の長男を一人東京の中学に戻し、、、弟妹は小学校の家に東京に移す、、、
父は、一人で疎開地に引き留められながら。
2年後に東京で合流しました。
父の父、、、戦争前は市ヶ谷の住人だったのです。
父が他の祖父は、宮内庁に勤務していました。
市ヶ谷界隈には借家があって、著名な文人に使ってもらっていたという事です。
父は与謝野晶子さん夫妻の事を良く話しました。
君、、、死にたまうことなかれ、、、
戦争の狂気を心から、悲しんでいました。
多くの戦争復員の居候家族を学校を出して、
4人の子供を大学まで出すという
アメリカに支配されないためには
新しい未来に通じる教育を身に着けさせるという
一族のレベルアップに向けて、
わが身を薪にして燃やし続けた父だったと、、、思いました。
2歳半から17歳まで、やけどの治癒のための患者でもあった娘の私は
父をいやす、娘ではなかった。
私の右手を、
医師としてマッサージを続けてくれながら、、、
17年間も粘って粘って、、、とうとう、、、
「エリーゼの為に」という曲を母のピアノで奏でる事が出来るようになった。
父の心を思い浮かべながら
ピアノが弾けるまでの右手にしてくた2年後には
火葬場の空に、父の煙の昇天してゆくのを、、、涙で見送りました。
精根尽き果てた人生の夕暮れを
私は、理由もなく感じながら、、、
父の心が、、、もう十分努力したから、、、ぐっすり眠りたいんだよ、、、と
思い出を、指でなぞれば
取り巻く空気が静かすぎるのに気が付いたのは、受験直前でした。
医学部を受けるか、、、薬学部を受けるか、、、考えているときでした。
私立医科大学の兄貴はきっと、私より早く、
父に生きがいを与えられなかった「東大入学合格の失敗」で
何かに気が付いたからこそ、
短大や、女子大を受けさせて、
妹を厄介払いしてから、
弟を医科大学に進ませて、サポートできる人選を始めていたのかもしれません。
居候のオジサン夫婦が、マンションに越してゆきました。
母の弟に当たるオジサン夫婦も、小さな会社を作って独立してゆきました。
父が、ドレメを卒業させたいとこは、
兄の同級生と結婚して、
セレブな人生に出発しました。
一人ひとり、、、また一人、、、居候から独立してゆきました。
ひと時は17人もいた同居人は、
私たちの家族と、イケイケ姉ちゃんのお手伝いさん二人と、なりました。
そして、父が、、、眠るように54歳の人生を卒業してゆきました。
男の医師はかくも多くの人間たちを、
医療の副産物かであるかのように、、、、、、一人前にして!
最後まで自らの背中で子供たちに伝えてゆきました。
人生、、、損得を考えないで、、、
誠意の限り、、、自分の本分に邁進しなさい。
他のことは考えないで、
自分の役割に全力で生きてゆきなさい、、、
世の中は、
医師の家庭には誤解だらけの解釈が向けらえることも珍しくありません。
とてつもなく、世界的に影響のある人物も、
患者さんになってくることだってあります。
老後に、いきなりみじめな立場にさせられないからと、
考えた結果、、、
4軒だけは入れるAPを半分以上のローンで買って、
万一の時にと、せっせと返済していました。
自分が薬剤師に復帰した5年間の給料で、
未来の備えを買ったつもりでした。
ところが、、、リホーム、メンテナンス、、、もろもろの管理、、、、
、、、しかし、、、素人とは、、、社会にとっては、、、プロ集団のお客様でしかなかった、
このまま、、、さらりーまん医師で、一年契約の新システムの病院で
退職金のない老後は、、、どのように生きればよいのか心配だった。
ところが、意図しないうちに、
主人は社会的に立場が責任ある地位になってゆきました。
世界の地位ある救急患者さんも責任ある立場で断れない地位になったのは、
私立の病院勤務だったからでしょうね、、、きっと。
万一の国際的な責任が出るようなことは、
国立が前面に立つと、ややこしくなるのでしょうかね???
ともかく、、、とんでもない責任の重い救急を引き受けた時点で、
入院患者さんが、、、あわや、、、ボヤを出しそうになりました。
主人の立場⒥事を考えると、
社会的なリスクのある事件が入居者の中から起きても、
主人の足引っ張りになると
役を降りるまで、AP返済は一時中止の作戦をとりました。
APの居住者に
引っ越し代金を支払って、
三軒分は空き部屋にして
内部の異変に対し、最新の中医で
、
完全なリホームをしました。
ローンの上にローンが重なりました。
お子さん二人を抱えた入居者一軒だけを残し、空き室に施錠をしました。
採算は合わないけれど、
女房の経営するAPから、家事や、トラブルを出さない対策に、奔走しました。
未払いのリホーム代金も発生しましたが、
人が無断で入ったり、
何かを置いたりしたときに、
リホームして有れば、
原因を突き止めやすいと考えました。
人生の相棒が責任ある立場にいる間は、
入居者を募集しない方針を取りました。
結局維持できなくなり手放しましたが、
名誉ある地位を引き受けた以上
リスクは仕方ないと、腹をくくり、金銭的には損害金を負いましたが、
医師一本で、後方に憂いなく仕事をすることは
第一条件だと思いました。
身分ができるときは、社会責任も重たくなります。
莫大な保険料も払いきった時には
70歳過ぎており、保証も自然消滅していました。
人生で花開く地位に就くということは、
湖の白鳥の優雅な浮かんだ姿の陰で、
水車のように回り続ける足の役割の部分があることを
多くの社会は見落として、
税金対策だと誤解します。
ちょうど津波災害だった時期でもあり
一切の説明もしないまま、税金として納めさせてもらいました。
知事さんからは、、、税金へのご理解に感謝しますという、、、
ワープロの紙が入った封書が着ました。
自宅が残っただけでも、被災地の事を考えると、
いろいろと説明する気にもならないままに、
ありったけの貯金をおろして、その日のうちに振り込みました。
日本が困っているのだから、、、、
老後は年取ってから、、、困ってから、、、考えてもいいと思いました。
被災地の津波の時の新聞の束を、、、今も捨てられずに。復興を祈っています。
責任ある立場に立ったとき、一番恐れたのは「放火」でした。
APの経営どころではありません。
入居者を最小にして、子供の走り回る一軒の入居者に
多くの便宜をはからい、一軒だけはいていただきましたが、
外側から、花咲いて見える人生は、
華やかにショウウインドウを飾るように、
見栄えをよくして、頑張ってしまいます。
家内の、休んでいるにも似た対策とは無関係に、
主人人生は、本人が医療に一途に生きるだけですが
実にマイペースで、自分のできることだけを忠実に
ぶれないで、史実に医療に従事しています。
医師の家内になった私は、
先手先手で、対策に奔走したつもりが、
主人のために役立ったのは、
子育てを、ほとんど一人で、外交を担当したということぐらいです。
自分でごみ集めをして、
ゴミ捨てにお金をかけたようなおせっかいな対策だったという
一人芝居のような老婆心でした。
買った日本空港の株も、拓銀の株も、、、紙切れになりました。
売った,、買ったをしない、株だっただけに、
会社ごとなくなるなんて、信じられませんでした。
医者の女房の悪あがきに似た、、、下手な離職を考えてしまうのは。
結婚していても、孤独であり、
老後のstatusは
どうやって、維持するのかが問題です。
月給の半分は、日進月歩の医学の知識や技術の維持や
学会費や、本題ですが、勤務医には控除はありません。
しかし、、、知識を食べないと、、、医師は痴呆になるかもしれませ。
男の医師の「医師をすることにかける情熱とプライド」は
半端でないものがあり、
裏側が手伝えるものではありませんでした。
私が支えたつもりの、、、全ての財テクは失敗しました。
ドタバタ人生だったかもしれません。
老後は息子たちのお世話にならないように
節約して、もう、余計なことはしないで
必要な家事だけこなして、
健康に過ごすことが、
残された時間を、自分の時間として、受容することかもしれませんね。
年金のカット大幅で、介護費用のほうが
共済年金の支給より膨大ですが。
医師は一生医師として必要とされるスキルがあるので、
年金は、受け取れるときは、
人生が終わる、、、数か月前ぐらいかもしれませんね。
、
必要とはされない、、、雑用の山、、、
失敗すれば、
主人の足だけは引っ張るかもしれないポジションで、
堤防の決壊する前に、
土嚢を積むという配慮は
業界がしっかり担当しているから、
余計なことをしないでいる、、
、ある意味、、、孤独な「刺身のつま」であるかもしれません。
女医になって、
「アイデンテイティ」を感じられる人生にしたいと願うとしたら、、、
男の医者に、そのようなことを考えるその時点で引けをとっているかもしれません。
彼らは、医療のこと以外考えている暇がないほど、
働いて、、、働いて、、、「アイデンテイティ」など、、、
考える暇もないほど
信じられない、、、お化けの域の、、、専門バカであると思いました。
医師の裏方についた人が、自分なりに、
医師のサポートの人生を出来るならば、そのことが
世間様に役立っていることになると思いました、
医師の医師としての、持てる力を、
世間様に還元できると信じて、
政治が
医師を使いこなせるとしたら
姑息的な支配や、追い落としや、世論で追い詰めたって
何にもならないと思います。
医師をすることに
命を懸けている、、、
それしか見えない人には
、
十分に力を発揮させることのできる場所を作ることだと思いました。
そのプライドの高さは、
守れる環境を維持しなければ
、
一夜にして、国は、見えない大損害を被るほど、
彼らの居場所を、生涯を通して、作れることが、
最も大切な対策だと思うのです。
年寄りの患者さんの、「病気だけ」を診れるのは、
若い医師でも出来るでしょうが、
年寄りの「病気を持っている病人を丸ごと診れる」のは、年寄りの医師でしょう?」
年寄りには年寄りにしかわからない事ってあるものですよね。
70歳から80歳過ぎても、ピアニストや、医師や、舞台俳優さんはカクシャクとしていますよね。
彼らは仕事がある限り、、、
素人の私が見ている限りは、「草笛さんは、、、若いですね、、、!」
痴呆になるということはありえないでしょうね。
必要とされている実感が
アドレナリンの分泌につながり、、
余計なものを欲しがる複眼を持ち合わせていないと
私的には、、、思うのです。
医師の家内になるということは、、、
医師を手伝うことなんかできないということです。
獣医さんに見習って、
医師の主人なんて、
猛獣のようなスケールのパワーがあるから、、
猛獣のすることは
それなりに、天与のバランス維持に役立っていると、、、信じて
自分の無力を思うときに、
私の存在がもっと大きく感じてくれる
サラリーマン家庭で
APを経営し始めたら、
サラリーマンの夫なら、
主人も巻き込んで、
老後の資金にできるような名案が出てきて、
今頃、ビルに建て替えて、
親戚一同の集まれる、
サザエさんのようなにぎやかな老後になっていたかもしれません。
その大家族の中で、
小さな世界の大きな幸せを感じながら、
結構幸せだと、
掌の幸せに、愛が芽生えていたかもしれません。
医者には、主人のように、愛が邪魔なのかもしれません。
医療に従事する者は、
合理的かもしれません。
東京医大の女医さんの問題も
多くの男性医師は
能力もプライドも
育ちも
主張も
、
たじたじの女医さんと組む日は
神経も使うと思うでしょうね、、、きっと、
凛とした自分流を確立している女医さんが
確実に、お産や、産休で、穴をあける権利があるのですから、
やっぱり、、、
男の医師は、医者バカだから、、、
穴の開いたリスクを背負うでしょうね、、、きっと。
チームを作る側にすれば、、、
男性医師は宝物でしょうね。
役立たずの医師の家内の一人語とですが、、、
そう思いますよね。
しかし、
女医にはなろうと思った時期はありましたが
医師の奥さんだけにはなりたくないと思っていた。
病院というところは、
患者さんの命を預かる仕事場であるから
医師だった父は、家庭を一歩出ると、仕事のこと以外には頭になかった。
母はデリケートな感情の音楽家であったが
外科医の父は、台所のお手伝いさんと
子守係のおばさんと、家事全体を任されている職員を雇っていた。
母の時代は、富国強兵で、
「産めよ、増やせよ!」の時代でしたから、
28歳と、当時は晩婚のキャリアウーマンの母は
女学校の音楽の教師という、職業を捨てて、、、
28歳から、40歳までに「8人」の子供を産みました。
戦争ばかりの、時代だっただけに、父もお国の為の仕事で日本を離れて
大陸で終戦を迎えるまでに、
3人の子供が命を亡くし
4人の兄弟姉妹、
つまり、男3人、女性の私が一人、生き残ったのでした。
総合病院の院長だった父は
一歩家庭を出ると「社会の物」だったそうです。
子供が40度を超す熱を出しても、
自宅に帰ってきてくれることはなかったそうです。
病院の前の公衆電話から、
院長室に電話をかけても
交換手が「院長先生にはお仕事中ですので、電話は繋がりません。」
紋切型に伝えてくるだけで、
母は、心細い育児であったそうです。
私は、父が54歳という若さで死んでしまったため
「父の死で空席になった外科に、来てくれるという外科医が現れた。」
母は、「父が、若くなってかえってきてくれる。」
外科の看板をおろさなくても良いという、、、
それだけに頭がいっぱいになった。
私は、高校生まで、女医になろうと思っていたので
千葉大や、北大は、過去問を10年分旺文社の本から調べた、
卒業生が、どのような病院で『働いているのか』?調べてみた。
北海道大学を卒業して、
精神科の諏訪先生という教授の医局員は
本州で、大学の教授として活躍していたりする。
私は主人との結婚で、
子育てが受験時代に入るころ、
諏訪先生の書かれたという、
北大医学部の授業に使ったという著作本を読み始めた。
臨床に、体力の限界をささげて、走り回っていた父とは
生き方が違っていた。
人間の心の中に住む「超自我」や、「エゴ」という感情において納得しまいがちな状態を
科学で、多くの患者さんのデーターを基にして、脳や神経にも迫っていた。
開業は奉仕に近い。
ボランテイァ精神の権化のような状態が、
自己の達成感のような精神報酬で
人生の時間を、
いつの間にか保険制度の中で
脇から見ると、本人は気が付かないが、、、
報酬は、、、
雇っている職員の家族を支え、
市町村への効力金として自発的に回ってゆく。
医師夫人は、大学など卒業していると、
上手に周りから立てられて、、、
自分の子をそっちのけで、自分の本分の音楽教育にのめりこんでゆく。
大学に、独身で居座り続けて、
学問が認められて、周りからの援助を獲得するという
一路一筋の生き方と異なり、
戦争ばかり起きていた時代は、
状況に翻弄されて、
無医村の町立診療所で、一人で全科を担当するという、、、
内村鑑三が自宅で聖書を読んでいた魂のように、
男の医師、、、
私の父も、、いつ寝ているのかという激務の診療に我が身を投じていた。
戦地での野戦病院の経験が、父をして、どんな苦しくても、
薬や、包帯や、手術室のある状況で医療が出来るなら、
休息している暇がもったいなかったのかもしれません。
町立診療所のレントゲンは、ポータブルで、
鉛が薄すぎるガードの木造だったためか?
原因はわからないが、、、父の手は放射線潰瘍で、皮膚がボロボロにめくれていた。
その、、、お粗末だったレントゲンで
胃、虫垂炎、大腿骨折、
山道転落による顔面の骸骨露見の症例
ダンプにはねられたひざ下ぐちゃぐちゃの状態に、親指だけがぶら下がっている、、、
たった一人の外科医の所に、
救急車ならぬ、、、山林トラックで
瀕死の患者さんが、ガタガタにゆすぶられながら、真夜中に到着する。
二つに割れた顔は、
三か月後には、顔が中心線の縫い目を残して、修復完治していた。
足のつぶされた子は、のこぎりで、ひざ下を切除され、
垂れ下がった足の皮膚をくるりと切断面を包むように塗って、、、その後完治。
運ばれてきたときは、両親が、
「殺して楽にしてやってください!!!」と泣き叫ぶ中
親を隔離して、子供だけを診療所で預かり、
完治するまで、
親の出入りを父親だけにするという、、、めちゃくちゃな条件の中で治療にあたった。
男性医師の一人であった私の父は
その子の足を完治させた後、義足を創って、
運動会のリレーに参加させた。
ビりケッツで、ゴール出来たその子には、
村中の拍手が鳴りやまなかった。
「母ちゃん、、ワシを殺してくれと、先生にたのんじゃろう!?
母ちゃん、、、今でもそう思うとるんか?」
息子の前に、
母親はひれ伏して、うれし涙で、泣きじゃくっていた。
「、、、ごめんなごめんな。。。」
父は、無表情で、子供が走り切るのを見に来ていた。
「小児科は、、、母親が、、、邪魔をするからのう、、、」
ぽつりと言っていたことが、脳裏に残っている。
力が有れば、
医師という力が、
戦争の、めちゃくちゃな条件の悪い環境下で
命を見つめたからこそ、、、
力になれる実力が有ったのだろう。
明治生まれで、大正昭和を生き抜いた、
戦争だらけの条件下の外科医は
医学の脚光の当たらない、、、
七か村、、、無医村の臨時疎開町で
報酬は、
ウナギやアユや、大根で、
当たり前のように激務に耐えた。
音楽家だった母も、真夜中の緊急手術には、
わけのワカラナイママ、、、
父の厳しい指令どうりに
にわか看護師のように、ガーゼを渡したり、糸を渡したりしていた、
ピンセットを落として、拾い上げてしまった母に、
父はひどく怒った。
落としたものを拾うなと、何回言ったらわかるんだ!!、、、
母は「手伝ってあげてるのに、、ありがとうじゃなくて、起こるんだから!!!」
とさかを真っ赤にしてコケコケコケと、言っている、鶏にも、笑われそうな、、、母の怒りは収まらなかった。
医学に、素人の、医者の奥さんは、、、
マスコミの評論家の先生よりも、、、無理解であった。
母は、、、
自尊心の高い女性だった。
やがて、父に振り回されないように、
音楽を駆使して、お弟子をとり、独り立ちしていった。
晩年の父は、
コンサートや、
お弟子との音楽人生の母を、応援するようにはなっていたが、
母のように、マスコミも、医療人以外の知識人も、
医療には、
周りから見た正しい条件を押し付けてしまうと、
結果的に、患者さんが救われないという、
臨機応変のとっさに間に合う医療が命を救うだろう。
、
病気の対応が
法的な規則の
処理工場になってしまったとしたら、、、
医療って、何なんだろう?
学術と、一方
患者さんから教わる「経験の臨床力」と、
コンタクトしてゆかないと、
20年以上前の心臓移植のように
科学の壁が、命を保証する前に
医療のための医療に終わってしまい、
悔しい結果になることは、
避けてほしい。
解らないなりの状況サポートや、
門外漢の合理性の知識だけで
良かれと思ってしたことが
専門家の翼を切ることにもなりかねない。
医師の働き方改革を
聡明な、ハンサムで、
家内族のフアンも多い日本のトップの方が
トップのレベルで提案していることは素晴らしいと思います。
医療の世界にも、、、実践できるなら、、、、すごいことですが、、、
問題は山積だと推察できます。
議員サンが、医師の現状を変えられるとしたら
現場から考えられるというのなら、
医師であり、法律家であるあの、、、議員さんが、
医学をおさめられた土台の上に
ハングリー精神に近い根性で、現場を多角的に見直して
私立医科大学の傘下の地方病院の医師の供給に
女医さんは、耐えられるのかを、考える必要が出てくるでしょうね。
私の息子も、ある大学の傘下の地方の救急に従事していますが
男性だから、、、勤まるのだと、。。。ジーンと涙が出てくる時がありますよ。
頑張っているね!、、、母親には、手伝えるものがありませんが、、、。
女医さんの多くは、、、、
恵まれた家庭から、
多くのサポートの中で
自己実現してきた女性の割合が多いとおもわれます。
自覚しないで、多くのサポートを受けることに自然体だと思うのですよ。
目下の者にも、素人の患者さんからも、受けてるサポートってあると思うんですよね。
患者さんから習うという、、、自分が白紙のペーパーのような
謙虚な白衣になって、対象にむきあえるものなのでしょうか。?
優秀とか,、、才媛とかの前に
医師というのは適性が大切だと思いませんか?
クリーンヒットのホームラン打者であっても
ゴロをトンネルすると
患者さんは死んでしまうこともあるのが、、、医療ですよね、、、。
自分が素晴らしすぎる才媛人生を走り続けてきた女医さんは
一見、、、退屈な、、、抄読会や、カンファレンスのために
睡眠時間を減らせる努力がストレスには為りはしないのだろうか?
医療だけを考えて、行動できるのだろうかと、、、今でも、
自分がもしも
父のような立場に置かれたら、
自分の時間がなくて、自分を見失うと思いました。
仮に、、、あの時、、医大に進学していて
6年間頑張ったっ結果、
私は医師の免許をとれても、
医師はできなかったろうと、、、
今は思えます。
外科医の父や、、、主人を見ていて、
医師になるよりも
「医師をすることのむつかしさ」を
おかめ、、、の目には見えてくるのです。
父や主人の裏舞台に居て思うのですよね、、、
医師をするという事は、、、
多角的な、多くの視点の、応援が要ると思います。
その絶大な応援をゲットできる総合的なスキルが必要だと痛感します。
私は自宅に、お客を招いたことが生涯を通してありません。
年賀状も書きません、
表札は主人の名前しか表示してありません。
主人の無料お手伝いのように、
雑務の応援で、
見えない責任に使われています。
自宅は舞台裏になっています。
医療とは、、、病気というマイナスエネルギーを持ったブラックホールに
エネルギーを注ぎ続けるような、
計算抜きの熱意の持続が、
自覚しないで、
気が付いたらやってたという状態にあるかという事に思えます。
亡き父や 主人の
現場の状態が想像すると、、、
このように、、、
無意識ではないかと?
そのように思える時があります。
いつもではありませんが、、、
まま。。。。ありましたよ。
女医さんとは組みたくない、、、
外科医は、一人でつぶやいているかもしれないと、、、
想像しているのですが、、、
マスコミは素人なので、、、
報道のデーターや知識だけで
医療をウンヌンするのは
危険なように思うのですよね。
あくまで、、、
薬剤師の74歳の、、、婆ちゃんの 独り言ですけどね。
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話を元に戻しましょう、、、
北大を卒業した基礎医学者の病理の先生は、
東京大学の医局に居たりした、
我が家のような、開業医の家に
父が亡くなった後、
内科医の兄が経営する23人の職員の医療施設に
戦後の
開業10年に満たない
内科、外科の医療施設に
北大で、
博士号を取得した医師が、
来るわけはない、、、と思った。
母に、
「お母さんはどうかしている!」
医師になったばかりで、
これから、医局で医学の実際を学ぶ先生が
東京の開業医のマスオさんを、遣ると思っているの?
ありえない!
その医師は一代で、
サラリーマン家庭から医師になったから
医局制度が、わかってないとおもう、、、
北海道で、
しかも、、、
国立という、、、
国のお金で医師になった者が、
開業という、個人事業に参加すると思うの?
ありえないと思います、。
私は、駿河台の恋人未満、、、親友以上の
結婚を申し込まれているが、、、早すぎるから、
30過ぎたら考えるからと、、、答えた彼のことを
ふと思っていた。
しかし母は、
お父さんと同じ外科医の夫人として出発することを勧めた、
私は、幼いころ、初めて出会った京大教授の
近藤先生を思い浮かべた。
男性の医師は威厳があった、
たじたじとなるような、
研ぎ澄まされた、やさしさの中に
従わざるを得ない強い,、、オーラーが輝いていた。
父の疎開先の町立の診療所まで、
私の右手の火傷を完治するまで、南紀の田舎まで来てくださり
私の手を治すのは、医師たちの使命と思っているから、、、と、
京都大学の医学部の教授でいらっしゃった近藤先生は
父の指導もかねて、我が家に泊りがけで執刀してくださった。
3歳から17歳で、完治するまで、
我が家の親たちは、教授の指導に従って
親だからこそ出来たのだと思える持久力で
私の小さな2歳半の団子の手を
骨の成長の為に、指の肉を切開したまま
ラケットのような添え木に指を強制させながら
17歳まで、実に!
7回にわたる手術や皮膚移植を試みました。
母の左腕の皮膚を
私の手と縫い付けて、生体皮膚移植も試みました。
失敗でした、
幼さない私は動いてしまったからでしょうね。
その後、自分の手と、腹部を縫い付けました、
幼かった私は、腹部の傷跡がぐちゃぐちゃになるまで
動き回ったのでした。
京都大学の教授は
実に、一か月もの間、
汽車で、通っ着てくださったり、
我が家に宿泊したりしながら、
医学の進歩につながる症例だからと
父と一緒に、気迫のこもった15年間の医療を施してくれました。
*************************************
この一例を知っていただけただけでも
本気で患者さんと取っ組み合えるのは
男性の医師だったからだと、つくづく思いました。
****************************************
女性の医師は、
本能的には医療に向いていると思いますが、
京都大学の教授の奥様が、
症例のある所、
医学の進歩のある所、
飛んで行ってしまうご主人を。支えられて
留守がちの家庭の育児と家政を
切り盛りされるのは、大変だったと推測できます。
男性医師は、
このように、
内助の功に支えられるという事も
大きなお仕事にぶつかってゆける条件が整っていらっしゃると
私的には思うのです。
もし、、、女性の医師であったとしたら、
患者さんも大切ですが、わが子も大切という
板挟みの条件の中で
果たして、集中ができるのでしょううか?
東京医大の問題は
単なる「正しいとか、、、
正しくないとかの観点からは語れないと思うほど
現場で裏から見ている私には、多くの疑問と、問題を感じながら
マスコミの評論家の意見に、
知識の先走りを感じたりして
画面を拝見しています。
医療現場の男性医師は
奥さん方に
家庭を任せきっりで
世にいう
「モウレツ社員」そこのけの
めちゃくちゃな働き方をしているから、
私は、、、
外科医の奥さんにはなりたくなかったというのが
本音ですが、、、
女医にもなれなかったと、、いう反省から」
医師として、社会に還元できているものには
理屈抜きに便宜を図り、
頼まれれば、努力を惜しむまいと考えてきました。
愛でも、恋でも。好意でもない、、、私の勝手な意思です。
、
医師免許を取得してからの、
それ以後の
主人のマイペースな、
患者さんの事だけしか考えない徹底ぶりに
付き合ってきただけに、
旦那様のサポートが日常雑務にまで期待できないと推察するから、
女医さんは、大変だと思いました。
子育てや、家庭と料理を出来るのは
女医さんの、若いお母さんが、
娘のためにひと肌脱いでくれた場合に限ると思いました。
家庭を引き受けてくれて、
秘書のように、女中さんのように、
時には愚痴の聞き役に徹してくれるような
我が娘が女医になったことを誇りに思ってくれる母の力が有れば
男性医師と同じような働きが出来ると思いますし、
現に多くの皆さんが報道などで周知のように
林久恵先生などは、、、女性とは思えないような活躍で
主人も尊敬している女医さんですが、
お母さんの武勇伝は 医師の妻となる者へのお手本として
聞き及んでいますが、、、
とても、まねのできる次元ではありません。
普通は、、、孤独な戦いの艱難辛苦の
「女医の道」だと、、、思います、
東京医大は
女医さんの点数を下げるのは、よくないと思いますが、
女性の割合をあらかじめ決めれば問題なかったのではないのかと
おかめ、、、の私は、思ってしまいます。
机上の学門なら、
私も主人には負けるとは思いませんが
「医師をする姿」を見てきた結果、
私にはまねができないと、心底思います。
男の医師の働き方は、、、めちゃくちゃだと、、、
働き方改革など、マニュアルだけで
医療現場には、実行不可能な現場だと思いました。
若いころは、正月に喧嘩して
刺された患者さんが
べろんべろんにヨッバラって
瀕死の状態で運び込まれて、
正月から泊ということがありました。
主人に向かって、言いたいのです。
あんたは、患者さんの事や仕事以外のことを
考えたことがありますか?
若いころを振り返り、、、言わせてもらいますが、、、
私が風疹で40度の熱を出して、
息子が二人幼児だったころ、
「風疹じゃ死なないから、、、近くの医院に行きなさい、」
そのまま、当直や、救急や、ICUの仕事だったとかで
3日ぶりに帰ってきました。
実家を手伝うからと、調子よいこと言って、
こんな結婚続けるのなら、
北海道の女性と結婚すれば、
風疹の40度の発熱の時は、
二人の幼児抱えて、関節ガタガタになって
熱に浮かされて育児しなくても
北海道の女性なら、
友人や、兄弟や、母親が
とんできてくれるのにと、
自分サイドの都合ばかりで、
一切、家庭のことは振り返らないポリシーの男性だから、
人の命を、救えることが、至上の生きがいという
男は、、、化け物だと、、、思えてくる時がありますよ。
でも、産婦人科や、婦人科の先生や、
小児科の先生は、
天性のセンスで、素晴らしいお仕事をされるように思いますが?
生活条件というハンデの中で
サポートが大変ではないでしょうか?
私的、小さな一例の、現実からの、愚痴かもしれませんね。
東京医科大学は
お世話になった
かけがえのない大学病院だけに
周りの、理解を得て、次世代にも羽ばたいてほしいと思っています。
東京医科大学は南紀の新宮でも
活躍した医師が居たことを、
素晴らしい大学だと、、、思っています。