花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

城と花

2018-12-29 22:18:55 | Weblog
今年の疲れがまとめて出てきた今日は、

いつものように早朝雪かきも無し、買い物も無し

洗濯もしない、、、

TVをつけっぱなしで、明日の雪かきに備えて、

筋肉をほぐし、リラックス、、、TV、

どこを回しても、銭形平次もないし、相棒もない、、、

今日だけは、穏やかな番組を探すと

やってた、、やってた、、、

高橋秀樹さんと、石原さん、、と美人女性と、

日本の城めぐり、、、

さすがに日本は大名の納めた国だけあって

手ごろな山には大将が居た証の城の石垣が残る。

岐阜の城はそのうち見に行こうと思ったけれど

結構な、、、城郭廻りをしていた事に自分でびっくりした。

本棚には、何十年も前に買った「城」という題目の

新聞社が出した写真集があるが、

印刷も、写真も、今なら出版できないグレードの印刷技術である、

しかし、記事が面白かったのだろうね、、、!

旅に出ては城めぐりをして、ほんのページをめくってある。

40歳ごろの記憶はあるが、、、
その後の人生は、どのように過ごしてきたのか記憶にないほど、、、

思い出せない。

覚えていたら、頭の中に記憶の組み立てた城郭と、
感動したときの記憶の天守閣があるだろうね。

次男が歴史のある私大の医学部を卒業した次の年の春
授業料が必要なうちは
息子にとって、親は城でもあり
お堀でもある、

卒業して、私の弟が
放射線医学の黎明期の若手エースの勢いで
良い仕事に打ち込んでいた時期でもあり、

進路を決める心には、
医学の雄の城に見えたのかもしれません。

若くして、まだまだ未開だったCTやMRIやリニヤック、

ペットCTや、画像診断と、

こともなげに、、、惚れ込んで楽しそうに話す叔父さんは

息子から見ると、白い色した城に見えたのかもしれません。

卒業して、叔父さんから

まだ見ぬ世界の面白さ、魅力を聴きながら

楽しそうに、若き医師として、大海にこぎだしたとき、

息子には、親は帰る城ではなくなっていました


あたらしい医学の城に住む先輩たちのもとに

巡礼しながら自分の居場所の城にたどり着く日が
いつか来るだろうと、、、

全身全霊で見守った息子を

厳しい社会に手放した、

同じ世界に、、定年はしたけれど

弟が居てくれるという事は

右も左もわからなかった息子にとっては

遠くに、たどり着かねばならない居場所でもある

天職の城の石垣が見えると思えた。



安堵の城が心に見えた。


弘前城の桜が満開の城を

一人の医師を世間様に返すことが出来た安堵感が

桜の花に重なった。

生薬学の認定の試験日であったが、

弘前城の桜見物などと、、、一泊休みの必要な

夫婦の協力し合った感動の一瞬の、、、このチャンスは!

外科医としての責任者の主人が休めることなど、、、
二度とはチャンスがつかめないだろう、、、

唯一の主人との共同作業であった医大卒業までの親の緊張。

弘前の桜の城で、

一人の医師を社会に返すという、、、
両親の激戦の時代は終わったのだと、、、感動した。

「戦いは卒業したと実感したかった。」

引き換えに、
病院で薬剤師として働くためにも

身につけた方がよいと考えて

大学卒業以来、定期的に講習会に出席していて
とうとう、、、資格試験の一日目まで受験したものの、、、
2日目は、主人と約束した「弘前城のお花見」と重なった。

主人はこの日を外すと、、、又、、休みは春にはとれないといった。

生薬学の試験を受けなかった私は

この日を境に、

漢方学の生涯学習列車を降りてしまった。

恒例のフィールドワークの連絡も来なくなった。

長い長い、、、生薬学、漢方学、東洋医学会

全ての会員を退会して
家庭の立て直しと、
華ではなくても、主婦は守りに着くことになった
「弘前城のさくら」の教えでした。

20年来のライフワークのピリオドとなりました。

背中合わせに主人とともに働くことも、
必要のない日々が来るだろうと、、、
仕事に関することは
親の私も卒業した。

、、、人生はそんなには甘くはありませんでした。

親としての一大責任だった二人の息子を

社会に返したという、、、卒業祝いに

主人と観光した記憶が甦った。


美しい桜が満開の城は、鬼であったとしても

城を攻めたり、矢を向けることは出来ないだろう。

難攻不落の城造りは数々あれど

弘前の華の城には、戦う兵も大将も、



堀に映した石垣に満開の桜が咲き

あまりの美しさに、

兵たちは

座り込んでしまい、見とれてしまうだろう、、、!

城は花の城であった。

香りの城であった。

戦うよりも、その美しさは

戦意を吸い込んでしまうだろう。

愛する女性の膝枕にも似て

大将も兵隊も、

戦いを忘れて安らぎの空間であったに違いないと

桜の花の魔術に

酔いはまわって、

城はこうありたいと、、、思ったりした

若かりし頃の、心に残る城がが、、、私にもあった。

TYを観ていて、、、思い出した過去の感動を

今年最後の日記として振り返り、
我が記憶の糸をしっかりと紡いでみよう、、、大みそかになる前に。

早朝5時のNHKが面白い

2018-12-29 10:56:55 | Weblog

暮れの放送時間が、

昼間とひっくり返ってしまっています。

ゴールデンタイムは居眠り時間で

真夜中の12時に、、、

やおら、、、洗濯機を回しながら

BSの記憶の扉を開けています。

早朝、、、玄関に朝刊のコトリ、、、という音を聞いてから

平成最後の正月に向かって、災害と、復興と、気力の画面を観ています。

災害地を、見舞われる両陛下の

皇室アルバムの、不思議な天与の光のような癒しの旅に

TVで拝見することで、感謝。

貴重なフィルムの放映にNHKにも、、お疲れ様のありがとう。

「陛下と美智子様の日本各地へのお出ましの番組を観ました。」


昭和生まれの戦前生まれとして、

戦後のドサクサを体感してきた私たちの年代の者にとっては

もっともむつかっしい時代を生きてこられた

昭和天皇と

鎖国が時代を超えて、、、
何かと日本を翻弄した世界の文化の津波から

情報の遅れもあり、
平和への討論のレベルがそろわなかった時代でもあり

民主主義の遅れもあって、

平成14年まで、
隠れた身分差別も存在した文化の遅れから

明治維新に、刀も、ちょんまげも、、、

やっと卒業した、、、

西部劇とあまり変わらなかった時代から

7人の侍が、農民ンを守るつもりが

戦争で死んでゆく。

戦争に継ぐ戦争に、

議論が追い付く暇のない「原子爆弾!」

科学がどんどん人間を引っ張って、

人工知能の設計した緑亡き、人工都市で地球は計算上は進化してゆく。

心ある日本は、、、心そのものが、「日本人」だから、。

科学の渦に巻き込まれて、文化国家になるまでには

戦争の津波に、、、破壊された、、、物。

心が残った!、、、日本の心は、、、日本そのもの。

ヨーロッパや

アメリカやフランスは

多くの国が地続きだった。

日本は海という天然の堀に囲まれた、、、文化の井戸。

明治維新は、
世界からの文化のシュウキョク。

文化のプレートが大きく動いた明治維新。

なるようにしかならなかった、、、生きる場所。





世界の動きに巻き込まれた日本が辿った歴史の道。

いつの世にも、、、

天皇陛下がいらっしゃった。

時の権力者に時代を振り回せられながらも

陛下は、、、いらっしゃった。

日本人が日本人の心を感じるとき

歴史とともに…在り続けた、、、天与の力が働いている証のような

日本の存続の象徴、、、。



平成が終わるまでに、、、NHKは

茶の間で、私が唯一の社会を知るテレビに

平成とは、、、を、伝えてください

平成時代は、、、とうとう戦争がありませんでした。

このまま日本は

「平和に向かって世界に大きな役割を果たして行くことを願いながら、、、

平和は続くのか、、、孫子の時代にまで引き継がれてゆく平和。

私もボケは確実にやって来るかもしれません。」




両陛下が国民と、、、ともに生きてくださった平成時代は

美智子様の、皇室と国民との間にかけた心の橋が輝いていました。

美智子様だから、

陛下の心の窓を開けて差し上げられた唯一無二の

国の母だと思っています。

全身全霊と、お子様が感じた如く

国民の災害後の涙は未来に向かっての復興心を秘めています。


両陛下の全身全霊の寄り添いのお心が

砂漠でいただいたいっぱいの聖水のように

日本人の生命尽きるまで頑張れる日本人の心を

少しづつ光の方へ導いてくださり

やがて、被災地を囲む国民の心が合流して

大河になって

日本の心を励まし続けてくださった

現実への「復興の見える力の動力」につながっていったことが

天与の輪のごとく、

終わりなき愛にも似た不屈の精神を呼び起こしてくれました。

日本人の結束の復興へと、災害地の難攻不落と思えた事を

背中を押されて、やれば出来るのではと、

復興に向かってゆく勇気になったと感じております。

NHKには、時代を超えて、あり続けた

皇室のアルバムを、、、、深夜、早朝、放映を期待しています。

特に、、、今回の歴史あるピアノで

「ねむの木の子守歌の演奏を聞かしていただいて

万感の思いがしました。


はま菊の宿のように

復興が、、、形になって見えることもよろこばしい。

形としては見えなくとも、

心が復興してゆくときに

形以上の形而上の生きてる光に気が付くかどうかは

孤独ではないという、自分自身の存在に光を感じたときでしょう!?


皇室の大事になさっている物事が、

まさに、、、見えない光に気付かせてくれるという

不思議な、、、ポテンシャルエネルギーのなさる心への光。

日本人がパソコンや、スマホにひっかきまわされて

消滅してしまったかな?と思っていた

心のひとかけらが、

むくむくと、元の大切さを認識し始めて

サイボーグでない、、、生身の筋肉の手ごたえを

再認識するとき、

復興に向かって。。。ものではなくて、、、心に直接光が当たるのですよね。


復興の実現という達成感に向かって

素っ裸のまま走りだせるような、、、

不思議な力の見守りを感じて
再び起き上がる気力を戴けるのです。


NHKの、、、何気ない放送は、、、茶の間の文化の光となってます。

今年も過ぎてゆきますが、、、お疲れ様でした。

これは日記帳です。




銭形平次と「イメージトレーニング」

2018-12-26 02:18:37 | Weblog

ここのところ、、、昼間の休息時間の3時ごろから

銭形平次にはまっています。

時代劇の面白さは

勧善懲悪が基本ラインなので

観終わったときの「すっきりする!」、、、劇場から出てくると

太陽がまぶしいような、、、力をもらって、


8時前には帰宅したことのない主人、
10時過ぎの風呂に入るペース
12時ごろから年賀状を書き始めるペース

75歳が目の前に来た私は、
洗濯物も翌日には回さない。

真夜中の3時ごろ、ストーブの周りに、、、干す。
風呂を洗って、明日の為に、


炊事場を、湯のみ一つ残さず洗って、ミルトン消毒。
この年になると、、、
弱に嵐の吹かぬものかは、、、と、

明日のスタートのスタンバイ状態で、2時間ぐらい仮眠すると

主人が行動開始の7時になる、

このペースが、ちょうど3時ごろ

何もかも休んで「銭形平次」の若い華にチャンネルを選ぶ。

コロンボさん、、、相棒、、、も
観たことのある作品が多くなっているから、

寒い北国の冬に、体を丸めて過ごさないようにと

若き日の「欣也さん」の華ある目力のファッシネイトに

目下、、、75歳の婆ちゃんは青春しています。

それにしても、伊東四朗さんというのでしたかしらね、、、

欣也さんの真逆の芸で、、、笑わせてくれますよね。

自分の中で、時間が止まっているような芸が

欣也さんの「素敵!」を浮き立たせていますよね。

銭形平次の子分になっている方は

お客様は神様です、、、オリッンピックは,、、ホレ、、、

三波春夫さんの御子息ですよね!?

若き時代の思い出の盛りだくさんなTV画面に

歳を忘れて、青春しています。

悪党が、、、難治の病気!

世の中の腐り切った政治で、、、銭の価値が地に落ちて

石ころにも劣る、、、江戸の貨幣改革の頃の、、、銭!

本来なら、ごみ同然になっている「銭」を磨き

生命を奪うところまではいかないが

かなりのがん細胞を狙ってデリバリーする抗がん剤のような、、、「銭」

その「銭を投げる、、、イメージトレーニング」が

銭形平次のフィナーレを飾って、明日へのいざないとなって、、、いいね!」

階段を降りてくる上半身が動かない見事な踊りを観ているようで

舞台俳優のたしかな芸に引き込まれています。

外科医の父、外科医の夫に、銭形平次が重なるのは不思議ですね。

今日の、、、クリスマスも、病院泊の主人ですが

中高生の孫たちと、おとといクリスマスを楽しみましたから

次男にメールをしました。

メリークリスマス!、、、目下激務の当直中!の返信が来た。

銭形平次が家に帰らないで、犯人を追っている姿って、、、

家も、女房も、二の次になる、、、仕事バカ、、、が

何とも言えない「生きざま」が面白くって

普通のご家庭と違って、平次がどこかで、、、女房に気兼ねしている。

真野さんの女房が、、、ひときわ平次に似合っていて

日本の時代劇は、生々しい現代劇の殺しの出てくる探偵ものと違って

お芝居の安心感があって、イイ男と、

伊東四朗さんのような

笑えるキャラがセットになって、

ほんと、、、後味がいいですよね!!!

疲れ切った年末は、、、「銭形平次」で

廻り舞台の「一泊休みを満喫しています。」

ちゃーちゃん!良い新年を迎えてください。

あまり働きすぎないように、、、

東京都、札幌に離れていても、、、

TVでつながるのも、、、いいな~~~!


🎄イヴに放送された天皇 運命の物語を観ました。

2018-12-24 21:19:57 | Weblog
万感の思いで、お二人の出会いと

生涯を、TVでもう一度、思い出すことが出来ました。

クリスマスイヴの夜

主人と二人で、茶の間のTVを観ておりました。


皇太子の恋の記録が

星の瞬きのように、心に秘められた光となって

茶の間にTVで届けられた番組でした。

感動しました。




皇室と国民に

捧げられた美智子様のお心に

なみなみならないご苦労を

乗り越えられたつよさと、

やさしさと、

柔軟なお考えと、

人としての

ご立派な、環境への順応に

国民と皇室に

虹の橋を架けられたと感謝でいっぱいになりました。

葉山の海の波の砕ける様子に、

御歌が万民の健康への祈りが有ったことを信じています。

ご回復された後も、陛下に寄り添い

国民に寄り添われ、

皇室と国民の間に架ける心の橋となられ

日本の歴史からの知恵がを、さらなる未来に

受け継がれて、

国民がくじけそうなときも

凛とした強い心で寄り添ってくださった

平成の戦争のない時代に生きた感謝を

記しておきます。

     TVは、若き日の、感動した興奮を
                     
              茶の間に届けてくれました。

平成時代の永遠の輝きは、、、真実の恋のなせることですね。

畏れ多いことですが、今日のTVの感動を

日記に記しておきます。

皇太子の男性的な誠実な真実の恋に答えられた美智子様の

公務が優先するゆえに、、、
守れないことも感じておられた殿下の文が
むしろ、、、

美智子様の御決意を深められたことに、

国の母となられた美智子様の
心の御覚悟が伝わってきました。

一緒に、Tvを観ていた主人は、、、

黙ったまま、そのお心の強さに、言葉が探せないまま

顔が紅潮して居ました。

男らしさとは、、、女らしさとは、、、

毅然とした国民と皇室に捧げられたお心の中に

含まれている、、、柔らかな部分かもしれません。

これは、個人の日記ですから、、、

感じたままを、ボケないうちに記録として

孫子に伝えたいと、、、思いました。



平成時代に戴いた心の宝物

2018-12-24 03:57:14 | Weblog

誰もが、例年とは違う心の宝物を感じたのではないでしょうか?

平成という、、、戦争のない時代を感謝で生きてきました。

そして、国民のおひとりでいらした美智子様が
軽井沢でテニスの恋をされた皇太子殿下の長電話が
国民にも報じられたころ、戦後の日本に恋の華が咲きました。

ミッチ―ブームと若者は皆、今まで見たことのない光を見ました。
そして、、、
来年ご結婚60年を迎えられる皇后さまに天皇陛下は
皇室と国民の双方への献身を真心をもって果たしてきたことを
心からねぎらいたい、、、、と、
国民が祝福と感謝で観ていたテレビの画面を通してお話しをされました。

皇室にあがられる前は国民の一人でいらっしゃった美智子様は

雲上人であられた陛下に、国民の心をお届けする橋ともなられて

お子様方も、両陛下のお手元で育児されるお写真が国民にも

公開されました。

皇太子殿下とともに

幸せな笑顔のご家庭を、美智子様は支えられてこられました。

粗野だった私など、戦後のむちゃくちゃ時代の中で

国民のお手本になられるような

美しくって、ご聡明で、語学も、音楽もご堪能で

静かでいらっしゃるのに、いつも輝いている

国のお母様が、育たれていた日本という国の不思議な魂を感じてきました。

若気の至りで、ミニスカートを着て跳ね返っているときも、

美智子様の映っていらっしゃるTVを観て

自分が恥ずかしくなり、

品性がいかに大切かを教えられました。

一人で伊勢神宮に旅をして、

太古からの知恵の塊の行事である遷宮も知りました。

指導者だった棟梁が歳をとるころ、

20年前の現場の大将が指導者になって、

そのとき見習いだったものが

中心となる現場の実力者に育つという

幾久しく変わらない神宮を伝承し続ける知恵を知りました。

私は、皇室の人々がいつも透明の光の中に

静かに和紙を透した光のように

静かに輝いているのを不思議に思ってきました。

ねむの木の子守歌、、、

皇太子妃の美しさと、才能に感激しました。

その後、童話も、ピアノ演奏も、

早朝のTVで拝見した時は

一日中満たされた静かな気持ちになり、

日本の女性は素晴らしいと、宝物の心をいただきました。

私の母は、着物でも、コートでも、

裏生地に妥協しませんでしたが、

皇室には、表も裏も、一切ない、光の透き通るお召しもののような、

殿下も、美智子様も、表であられる不思議な光です。

それでいて、

美智子様は光り輝く存在でありながら

陛下に寄り添われた不思議な輝きで

陛下と国民の間にいつもいらっしゃいました。

音楽で国民を酔わせてくださり、

その音は陛下のお心に宝物の音色を響かせたことでしょう。

、、、その音が

国民に届けられてくる、畏れ多い宝物のTVの画面でした。

その暖かな

厳しくもお優しい

皇室のご家族は、日本の宝物です。

戦争のは敗戦したけれど

日本人の心は戦争には負けなかったと思いました。

日本人が、日本人であるという心そのものなのだと。

心の宝物は、平成という時代に生き生きと輝き続けている。

日本人の心が日本であるという心を、

世界中に知っていただけた外交の数々。

平成時代の、

国民とともに生きてくださった両陛下のTV画面の前で

静止したままでした。

日本の心は、静かな永遠の輝きです。

静かな、不思議な輝きです。

戦争という災害、

津波という災害

地震という災害、、、

たしかに平成時代は

災害からの復興の時代だったと振り返りながら

両陛下の災害の痛みに寄り添われてくださった

強いお心のおかげで、

復興することしか考えられない前向きの心をいただきました。

国民に寄り添って生きてくださった殿下。


国民に寄り添ってくださった国のお母様が

陛下の孤独な戦いを支え続けられたのではと思いました。


振り返れば、昭和天皇陛下の玉音放送の時、

「世界から、核戦争が終わる為の嚆矢のお言葉」が流れたと受け止めています。

日本は敗戦はしていない、

核爆弾という手段が使われたことが

人類が、科学の使い方に敗戦したことだと思います。

日本が世界中に

核戦争の破壊を

分解を

木っ端微塵になる元素がえりを

禁止するための鏑矢に天から選ばれた国だったとしたら、

地球丸ごと、科学の使い方に敗戦させないための役割を

天から、命じられたのかもしれません。

玉音放送は、敗戦の放送ではなくて

このままでは、、、地球事滅びると思えた瞬間でした。

科学戦争に入る世界に啓蒙できる唯一の瞬間を

昭和天皇陛下は玉音放送で

人類の命の泉への復興のための

戦争、、、核戦争ストップ!のお声であったと思います。



皇室が伝えて来られた何千年単位の人類の歴史を通して

多くの知恵を見出すことが伝承だと思っています。

科学と、伝承と、天与の光の

地球とともにある世界を、

オリンピックという舞台のチャンスに

世界中の「命の輝き」を

地球という命の輝きにつなげてほしいと思いました。

地球、、、宇宙、、、星空、、、大自然、、、

無限のエネルギーに

心からの敬意を払って、地球生命の輝きを

静かに見守り、

精いっぱい考え、努力して、真摯に向き合う生きてる時間を

日本に生かされながら、

戦争のなかった平成の時代に感謝です。

私は、平成が迎える次世代への幕開けのお正月を

感謝で、迎える準備を始めています。

お疲れであろうというときも

被災地にお出ましだった両陛下のお姿は

平成時代の忘れることが出来ない心の宝物です。


伝えてくださった宝物の心です。

日本には、国民の一人一人に寄り添ってくださる

天皇陛下と美智子皇后さまが

被災地の打ちひしがれて立ちあがれそうもない国民に

希望と、もう一度頑張ろうとする力を

くださいました。

「はまぎくの宿」をTVで観ました。
皇居のお誕生祝会に参加されている

多くの国民に日の丸を見ながら

まだまだ余震の続いている北海道ですが

TVの画面に向かって

感謝でいっぱいです。




これは、75歳を迎える来年に向かって、

ボケないうちに、本音で書いている個人の日記です。

世間様に訴えるわけでもなく、公表するわけでもなく

一人の平成に生かされた老人の日記です。

やんごとなき方の事を思いながら

畏れ多いことですが、日記帳には記しておきたかった感動です、








12月16日の暖気に元気が出ました。

2018-12-17 00:51:26 | Weblog
昨日まで、しんしん、、、サラサラ、、、真冬の雪が降り続き

雪の塀が出現しました

今日は16日、久々の暖気に、

活発に動きたくなる元気をもらえました。

北側の、いつもは融けない屋根の雪に

50度のお湯をかけると、ポタポタト融けて

嬉しい雪解け屋根となり始めました

新年に向かって、少しづつ片付けながら

今年も、、、あとわずかとなりました。

今年の流行語は、、、口に出すと怖いので、

「災外」と書くことにしました。


私立の医学部のニュースに思う事(個人の日記です)

2018-12-13 05:40:41 | Weblog
母校の日大が、

何かとマスコミで書かれていますが

私的には、日記に書きたいことがありますので、

思う事を、

日記ブログのここに、書いておきたいと思います。

まだ、、、

ボケてはいないうちに、思っていることを、

ここに、吐露しておきます。


母校の日大も、

日大を卒業している親などの子は

同点だったときは

たぶん優遇されたことだと思うのは、、、常識になっていました。


国立ではない以上、

學校は経営を考えると思いますよ。

日大の創立の頃は、


日本は世界の文化の高いのに驚き


追いつけ、追い越せの、、、

富国強兵の時代だったのではないでしょうか???


だって、

創立130年目のお祝いに、

一卒業生として、

日大のロゴの入った記念品が欲しいと思うのは

卒業生なら、

あたり前の事でしょう?


○○円で、

130年間の先輩たちのご苦労と

合流して、

130周年を祝えるのならと、

一口出させていただきました。

新興勢力大学とは経由してきた歴史が違いますから

多くの戦争時代

敗戦も、復興も体験している大学ですから

単なる智を習うのではなく

次代を生きる力の多様性を感じながら

自分の勉強の為にも

家庭教師をしたり

教職を取得しながら

中学や高校の実習事業を学びながら

教える立場

学ぶ立場の視点の違いを

興味を持って

「薬学の傍ら。物理化学の高校。中学の教職を取得しました。」

教授の推薦で、寿退職をする東京大学の技官の空席に就職しました。

「我が身の丈と、環境におぶさる甘えとを自戒」しながら

兄きの入学できなかった東京大学を

内側から見られるチャンスに、体験しておくつもりで就職しました。

公務員として採用されましたが、

寿退職するはずの三十過ぎた薬剤師の先輩の破談によって

一年弱で。私は、大学病院の臨床薬剤師に転職しました。

月給は2倍になり、結構楽しい臨床の取得の夢がありました。

月給のこだわることも大切なことだと、

実感した瞬間でした、


振り返れば、、、心は寂しく、緊張した父の早逝でした。

死の前日、患者さんの手術をして、

麻酔が覚めるまでと、

患者さんの目覚めを待ちながら、

早朝5時に、

内科医の兄に起こされたときは

父の手が、、、まだ暖かだったのです。



患者さんはその後、、、元気になられ

父の49日には、

声をあげて、、、泣いていらっしゃいました。

私が大学を卒業できた時は


54歳の人生で、、、父はこの世に居ませんでした。


新進気鋭の内科医の兄は

父のあと受診にきてくれるお馴染みの患者さんたちを

カルテに沿って、、、「Do!」はできますが、、、

新患さんの前には冷や汗でしたでしょうね。


父の親友や、医師会の仲良しの医師が

兄の指導の為にも

手伝って下さり、患者さんに迷惑が掛からないように

一丸となって、サポ~トしてくださった10年間でした。

遊びの延長の日本舞踊で知り合った近くの病院の院長さんが
父の早逝してしまったことに、残念な思いに尽きると。。。おっしゃられて、

その後何年にも亘って、兄の診療を指導してくださいました。
医師会のお稽古事は、医学の絆で結ばれた先生方の毛細血管のように

体温を伝えてくれました。

父が医者だったことが、

兄の医者としての成長を支える同朋の力を借りられた。、、、

外野の妹の私は、ずーと後になってから、、、

ホット!胸をなでおろすのでした。

本来は私立大学に通える余裕は無いはずですが、

多くの親戚や、町長さんだった祖父が、

私財をはたいて、孫子に応援してくれた事も

大きかったと、、、ふと、、、振り返るのです。



日大は、リッチな家庭が多いので

戦争に行って大陸で戦陣外科を指導して

敗戦の時は、骨と皮になって帰国した父のような

苦難を歩いた先生方は、、、もしかしたら、、、

少ないのかもしれません。

父はもともとは、

宮内庁に勤務していた文人通りの住人だった祖父の

長男として

東京大学に合格するか、

外科医となって、お国にご奉仕するか、

厳しい選択を親から申し付かっていたそうです。

祖父は剣道5段で、木刀で、指導を受けるときは

鳥肌が立つほど、、、父は、、、祖父が怖かったと言っていました。

子供のころは、有島武郎や波多野節子さんを、近所の借家で見かけた話や

与謝野晶子、の「弟の詩」を教えてくれました。

父の屋敷は早稲田にも近くて、中学までは父も、叔父さんも

早稲田中学に通っていました。

戦争で、屋敷もすべて失い、祖母も、40歳代で早逝したそうです。

戦争から還ってくると、母は子供を3人も戦地で失った事もあり、

父は心の疾患から、立ち直ってもらう医療を兼ねて、

母の生まれ故郷の、熊野の新宮から、山道を北に北に、、、山間まで進んだ。

電気もない、高校も、大学もない、、、専門学校もない、、、

進駐軍も、B29も、めったに来ない疎開地で、

母は失った子供たちを、取り戻すかのよう

高齢出産で、、戦争を知らない新しい日本を担う男子が産まれたのです。

この子の成長とともに

母の心の傷は癒えて、

この子の「新しい教育の為に!」一途な思いで

東京に帰ってきたのでした。

晩年の、、、残れる力を、、、

未来の日本を背負う新生の男子にかけたのでした。


弟は、、、成人して、医師となり、団塊の世代の役割を

立派に果して、後に続く医学生の為に

教科書も残し、

姉である私の二男も、「叔父さんは素晴らしい、、、」と言って

放射線科の医師になった。

外科医の実父は、尊敬はしていたけれど、

母親の、私が、家庭サービスのない主人に

厳しい点を付けたせいもあって、

こどもに愚痴をいう事の責任を思うと

私自身、外科医の家内は落第であったと反省しています。

「家庭は、、、寂しい、、、。何度も子供に話してしまった。」

それが原因であるとは思えませんが、

影響を与えてしまったのではないかと、深く反省しています。

「自分の時間も、家族の時間も無いという、、、

外科の大変さは敬遠したようだった。」

二番目の次男の兄は、戦争が無くて、全員が生きていて居れば、、、

4男二当たります。

戦後の疎開地で育った兄は、

音楽が優れていて、語学がネイティブで、

ICUに行きたいと、文系の受験勉強をしていました。

長男は、本来が物理学者が似合っているような理系が得意な学生でしたが、

父が「東京大学を進めてしまい、、、敢無く挫折。」

浪人して、臨床医としてがんばりたいと、、方向転換した。


兄が日大に進学したことで、

父は、休むことを知らないほど、

東京での開業の毎日を、激務で過ごしていた。

保険制度も入ってきた。

外科医が、保険診療をしていたのでは

抗生剤が使えない状態も、、、間々あるため、

採算を度外視して、

自腹で、薬を処方して、患者さんからは、、、また、、、神様だった。

戦後の復活をする下町での診療姿であった。

内村鑑三先生に心の影響を受けていたことで

戦場での地獄も乗り切ったと、、、父は言っていたから、、、

経済的な事は考えない医療の展開が

東京では、無理がたたってしまう人手不足の

悪循環で、身体は、、、ボロボロになってしまったのでしょうか?




私は、兄の絶大な勧めによって、

日大も受験したといういきさつでした。

受験した大学は全部合格できましたが。

兄は、日大に行くことを勧めてくれました。


日大に進学するなら、卒業までは保証すると言っていました。


高校時代のジャンバースカートを縫い直して、

タイトスカ―トに造り替えて、

大学に通い始めました。

大学指名の幹事に任命されて、

教授の先生と、生徒の間の

雑用をさせていただいているうちに

男性の多い日大が、あまり緊張しないで過ごせるようになり

だんだんと、愛校心が育ってきました。


物理の諏訪部先生から、
、、
「君の兄さんの物理の力には、、、びっくりさせられたよ!、、、

彼は、僕の書いた教科書を、改訂させたからね!」

「すごい生徒だった、」、、、と言われました。


昭和38年ごろの日大の薬学科は

理工学部の中にあり、

教養時代の、語学や物理、化学は

医学部の教授が兼任していました、


卒業後、薬学部になって、千葉の校舎が建ちました。


卒業生として、現在も会費は

喜んで支払っています、

卒業した大学が、、、どんどん立派になるのですから、

わずかな会費で、応援席に居るように

母校の成長を楽しませていただけるのですから、
、、

130周年の日大!


マスコミが、、、何かと取り上げても、

大海原にゴミが打ち上げているような

必然の時代の創る不始末だと受け止めて

戦争を乗り切って、

「ふるはし、はしづめ!」日本の水泳で

戦後の沈滞を吹き飛ばしてくれたのを、

君や、、、知る?

日大の水泳陣の事を、、、今の時代のマスコミの人は

知らないかもしれないね、、、


戦後の日本は、、、

立ち上がれた事、、、、その事自体が

奇蹟に近い頑張る人たちのおかげだったと思いますよ。


日大の果たした役割も、

災害復興の役割も、

今日ある日本が、これからも、

パシュートの

ななちゃんのように

チームワークで日本を成長させてください。

評論家のようなワイドTVの

心無い放送で、

日大をむちゃくちゃに誹謗するのは、、、どうかと思いますね。


130年の歴史と、戦争を乗り越えた日大は

これからも、

日本を支えてゆく大学だと思いますよ。

感謝で母校を愛していますよ、、、

何を言われようと、、、

日大で学んだ事によって、

札幌の私の人生は支えられたと

母校に感謝しています。



父兄が出すこうした祝福の気持ちが、

日大の水泳の歴史を創ってきたかもしれないし

スポーツで

金メダル21個という快挙を出した応援金の一部として

役だったかもしれないと、、、思いたい。


卒業生が、母校に、喜んで出すお金だって

学園が元気になると思うのですよね。


私立大学は、親も卒業生であることが

どんな時代にも対応で来る強い同志のような

支え合いがあると思うのです。

卒業生の子供を優遇するという事は、

ある意味で、試験のレベルが

医師になれるレベルであれば、

日大の医学部を卒業した親からは

日大卒の医者が跡継ぎになるという事は

何ら、、、問題はないのではないでしょうか?



医師そのものの能力も

国家免許も相続できない一代限りの能力と技術ですから。


「医師の人生アスリート、アーティスト」ですから

環境が良いことで

心置きなく医学が学べるのなら

良い環境をつくれる親の力も受験の一環だと思います。


一杯のかけそばからは、

私立大学の医師は

卒業までたどり着けないことは周知のとおりです。

あれは、、、ドラマの上だけに成り立つことであり

学問は、、、実に、、、実に、、、「大食いです。」

医師の父、医師の兄、医師の弟、医師の息子、

そして、医師の夫、おしの甥っ子、に囲まれて、

雑務と、応援の筋肉労働で、

グローブのような手になって頑張っています。

本来は、白魚のような手で、

マスコミはセレブだとおもいこむでしょう、、、

現実は、

「医師には、医師にしか出来ない仕事」だけでも

、、、睡眠不足の人たちです、」

近所では。ご主人が雪を掻いています。

患者さんの肌に手を触れる医師の手には

スコップは握らすわけにゆきません。

かといって、勤務医は、月給は、

医師のバ^ジョンアップに

宵越しのお金を持って居るようでは

日進月歩の医学の世界についてゆけません、

患者さんと、学問と、自分の身体のベストな状態を

維持するだけで、、、精いっぱいの

日本の医療事情です。

アメリカでは、プール付きの邸宅だそうですが

日本の勤務医は

家庭が舞台裏と同じの仕事の備品でいっぱいです。

断捨離で捨てられるものが無くて、、、どの部屋も

医師の主人の物で埋まっています。

患者さんは、、、病気という

ある種のブラックホールを持っています。

医師は白鳥座のように

「至近距離に居る白い鳥」です。

ブラックホールに吸い込まれてしまわないように

環境が、医師の力を100パ^セント病人に向けれるように

専門的な視線で理解し、医師の能力が発揮できるように

雑務や、時間を必要とする通勤に

配慮することで、

良い仕事を引き出すことが、
紙一重の集中力が命をこの世に引き戻すことだってあると、信じて、、、

家内は、持てる自分の時間と筋力と、雑務に徹して応援してもも

自宅に帰ると、抜け殻になっていますから、、、

医師にしか出来ない仕事だけに絞り込んで担当してもらう。


裏方の理解が、見えない患者さんを救っていると信じて

労働は祈りであると思って、

雪かきは生涯、、、私が担当してきました。


やんごとなきお方の御病気の際、

神の手を持つと言われた医師の方も

親が医者であることが、、、決して稀ではありません。


卓球の愛ちゃんが、泣き虫愛ちゃんから

オリンピックのメダリストに成長したのも

卓球教育の天才のお母さんの力は、、、

すごいのではないかしらね。

日大は医学部はほかの学部と違って、

社会的にも国際的にも、

力のある親御さんの御子息が多くて

昭和38年に教養学部の時通った下高井戸の教養時代には

ピカピカの高級車で通学してくる生徒さんが多くて

圧倒されました。

我が家のように、

敗戦まじかまで従軍軍医で、

着の身着のままの引揚者だとか、

疎開先の御奉公が重なり

心身ボロボロに近かったのではと、、、推察される医師や。。。


国立病院や、大学病院を行き来しながら

公的要素の大きい病院の勤務医だとか、

勤務のサラリーマン医師の月給では、

およそ普通の4年生学部に於ける学生生活を

支えるのに、男子優遇の受験戦争は

敗戦からの復興時代は当たり前の域を出なかったのは

時代の産物ではないかと思います。


一口に言えば、、、

日本は、教育にさえ、復興を考えなければならないほど

物資も、心も、社会性も、

全て、、、ぞん底だったと思いました。


我が子に限って言うならば、

名門の私立医科大学には合格したものの

一年生の夏休みに

「インスタンプールからヨーロッパへの旅行」に

誘っていただけたのですが、、、

たとえ、、、

入学試験に合格しても、

生徒たちの、ダイナミックな

地球をマタにかけた

教養取得を兼ねたレクレーションの行動力と

経済力にはついてゆけないと思いましたよ。、、、(**!

医師は晩婚の先生も珍しくありませんから

卒業まで、健康で授業料を支払えるかを

まず。考えてしまい、

クラスの友人との旅費は出しませんでした。

名門私立大学の受験の前も、

合格しても、我が家は勤務医だから、

クラスで一番質素な学生時代になっても

覚悟はできていますか?、、、と。

息子には念を押して、受けてもらいました。

「医師になれるだけでいいから、、、

卒業したら、、、出世払いするから、、、。」

彼は親に約束をしました。

たとえ合格しても、大学院や留学が当たり前の

私立の医学部で、

大学院に行って博士になって、、、

大学で研究や臨床の切磋琢磨の人生で

お金儲けの時間が無くても、

臨床も研究も続けるわけですから、

親の理解が大切な学部であることは確かです。


「あしながおじさんの気持ち」が無いと、


私立医科大学は親にとっては大変だと思います。


息子は、臨床医として、現場で臨床を磨きながら

救急病院で、

高度な技術を学ぶ機会が生きがいになっているようです。

43歳で、持ち家も、車もなく独身で、大学病院の至近距離の

1Kの独身寮で、日夜救急の患者さんのお役に立てる人生に

生きがいを感じながらも、、、結婚をしている時間はなさそうです。

医者バカの、仕事以外は、、、不器用な、、、

雑務をやらない、、、父とそっくりかもしれません。

目の前に75歳のやってきた私も、

息子の結婚は、もう、、、神の一存と、思います。



医師をするという事が生きがいなら、

そちらが守られれば、

病院が家族のように

居場所になっているのでしょうから

ほどほどの歳になって、結婚して、

自分の親の、総合病院に戻ってゆく先生方も

少なくないのだろうと思ったりしています。

息子の場合、

もう故郷には医師としては、、、

戻らない、、、。戻れない。

母校の大学附属病院にて、

医療現場で役に立つことが人生だと言っている。



かって、、、私も、、、日大の学生だった。



思い出します、

ピカピカの高級車を見ながら、

医学部の親の経済力が推察できました。

私の兄も日大の医学部でしたが、

父の後継ぎという事で、開業の後継ぎを暗黙の了承で

考えねばならない立場であった。

本来は「物理学者のような傾向の頭脳の持ち主ですが、

医学部に進学することが必須でした。

自分が大学教育を取得した後は

父の亡き後の 50歳代の未亡人の母の音楽人生をサポートしながら

国立がんセンターの研修医をしながらの

開業の継続に早朝5時から、靴の音が廊下に響いていた。

医学部の経済的に豊かな家庭環境の多い同級生の中で、


教養時代のたった1年間で

人の物は羨ましがりません、、、!

玉石混合で、大富豪と、

サラリーマンの家庭の普通の中流との

入り交じりの日大で

自分のペースで身の程知って生きてゆかないと

経済力では

かなう相手ではないことが、早々とわかりました。


駐車場を観ればわかりました。


さりげなくブランド品を持っていたり、、、。

学習院大学を卒業してから

日大に入学してきた学生もいました。

セレブな家庭の様子も、身近に学習できました。

飛行機を交通手段として

世界中を隣町のような感覚で言ったり来たり、、、

別荘を持っていたりしました。

同級生の新年会などに招かれたとき

30人以上座れる日本間の一段高い床の間風の空間に

お琴や、ナツメ、見事な壺など、さりげなく、逸品でした。

マンションの一フロア―全部が自宅だったり。。。!

学問以外に、多くの文化を、

目からも学習しました。

医学部は

入学さえすれば卒業までゆけると思うのは、、、

どうなんでしょうか?、、、ね。

兄の場合など、卒業までには山坂ありましたね、、、。

5年生ぐらいのとき、、、大病をして、

進学できるのかどうか、、、

ピンチを切り抜けました、

ひょんな事で

北海道で国立大学の医学部の大学院生に出逢いました。

結婚生活など、、、考えられない、、、やっと食べてゆけるような、、、

奨学金が生活を支えている、、、貧困の中の苦学。

主人のように、、、

国立大学の学生は、、、

その点、

貧乏のぞん底に疑問を持たないで、

先輩と実験したり、

医療現場で医術を学ぶことしか

!!!見えない!!!

自家用車なんて、、、持ってる学生の方が珍しい。

親に金銭的なプレッシャーはかけませんよね。

、国のお金が

授業料となって応援してくれている生徒たちで、

おまけに、

奨学金まで貸してくれたりして、

授業料は、比較になりません。

成績が優秀であれば、、、親以外から

貰う事に抵抗もなく、

お互いに先輩や友人の仕事を手伝っている最中も、

昼ご飯はスパゲッティを割り勘とか、

仕事の会場までのタクシーも割り勘とか、、、。

先輩が仕事の為に用意してくれた宿泊所に

汚れた仕事着のまま、、、問答無用で流れ込んできて

山小屋風な、、、使い方をするとか、、、

根本的に文化が違って、

仕事で一緒に行動しても、

その、泥臭さに、、、しばらくはストレスが大きかった。

共同の机の上に、、、クサイ靴下や、泥んこリュックを置くとか。。。

仕事の最中に欠品した用具や材料は

「足りないから!」と、中断して

相棒が、どこからともなく、調達するまで、

ひたすら、待てる気配があって、、、負けてしまう。

薬剤師として、月給をもらっている私の方が支払うとか、、、。

持ち合わせの有る方が、払う役になってしまう。

何の、、、悪気が無い空気の中で、相棒になった私の方が

ありえない忍耐力に負けてしまう。

学業優秀という水戸黄門様の印籠のように

周りが、、、問答無料で上席に座ってもらう雰囲気になり

堂々と、、、もらい慣れしている自然態には、、

文化の違いを感じてしまうから、

空気の流れで、、、良くて割り勘、

ほとんどは、、、便乗されて、

当方払いの共同の仕事に

なっていることが多かった思い出を振り返る。

国立の生徒の、とりもちのような年張りと、忍耐力は

一体???

ドノカリキュラムから体得したのだろうか?

一方、、、私立大学での思い出は、

合宿も、山荘も、大学側の施設を利用できるので

フィフティ、、、フィフティ、、で。楽しかった。

親に庇護を受けていたことや、

リッチな友人の別荘に招待されて

親御さんに

「フラメンコ」の切符を戴いたこともあった。

フラメンコは芸術だと思ったのは、、、

実際の舞台からくる感想です。

親の力で大学に通えている私立の大学生の多くは

試験の合格点の゛ウンヌンではなくて、

学生時代に親が死んでしまったりすると

卒業にもかかわるほど、

経済的には厳しい状況になるのは当然ですよね。

一方、国立の生徒の中には、、、生活力がたくましくて

他人に空気で負担させる説得力は、、、実に魔法のようであり

まずは、、、未来において、

倍返ししてくれるだろうという魅力に近いですよね。

実際は、、、倍返しなどありえませんが、、、

社会性があるので、金銭では返済されなくても

人間関係のポテンシャルエネルギーで

当方が当方の都合で、挽回できる総合力は

彼らのすごい武器だと思った。

一方。

私立大学の医学部に進学させるのなら

経済力が必要であることは常識であります。

むしろ、、、

お金が無いのは、首が無いのと同じだと思える10年間を

父兄は、あしながおじさんを続けることになる。


子供が医師になることを

喜んでいる親であるという事が

卒業まで、

走り切れる力となると思うのですよね。

親が医師だと、

物ごころついた頃より、



医師の視点が御子息を育てるわけですから

卓球愛ちゃんの環境と似てますよね、、、

私立大学で、

親を選ぶのは、、、

生徒を途中で挫折させないためでもあると思いますよ。

親だって、

自分の母校に息子や娘が進学することは

授業料を喜んで出せると思うのですよね。

生徒の心も、応援団の親の心も

医師になりたいという

気持ちの結束が

大切だったように思うのです。

私の父は

慈恵会医科大学でしたが

兄はあえて、

父の七光りだと誤解されるからと

受けるのを避けていました、

両国高校でも10番という、成績の兄でも、

国立の医学部は失敗しました。


浪人して、

日大の医学部に進学しました、

父は、

私立の医学部に進学するのなら、

自分の母校に進学してほしかったのではないでしょうか?

兄は、元来、、、

父のような幅のある人格者とは違っていました。

「総合大学にいきたい。」,、、と

それだけのことが、

日大を受けた動機だそうでした。

父と長男との価値観の一致は、

卒業までの二人の頑張りには

大切な条件でもあると思いました。

兄は、

元来、、、、医師には向いていない鋭い知識の持ち主に思えた。

理工学部物理学科が似合うような性格だと思いました。

自己顕示欲も旺盛だった。

自分自身をこよなく愛するところも感じられた。

切れ味の鋭い頭の良さからくるのかもしれないが、

無理やり他人に等しい者も巻き込んでしまう竜巻のような知識だった。

主役はいつも、自分自身であったような印象だった、


父のように、

「病気だけを診ないで、病人のすべてを丸ごと診る」という

人間を謙虚に理解して、様子を診るという

謙虚な視点の持ち主ではありませんでした。

兄は、家族全員の、、、

今は早すぎるという、、、反対を無視して

学生結婚もしました。

父のノルマは大変だったと思いました。


医学部の結婚と、学問は果たして、、、

両立するものなのでしょうか?

日大の合格発表は
兄が一人で見に行って
写真を撮ってきました。

拾人ぐらいしか合格していない3月近い受験コースでした。

兄は、40倍近い最後の受験の突破を自分毎のように喜びました。




私も、家から30分という

至近距離の日大に進学しました。

薬学は、実験が多いので、

通学に時間と体力をかけるわけにはゆかないと思っていました、

受験した薬科大学は全部合格しましたが

近いという事はどこの大学よりも魅力でした。

近い大学を選べた幸運が

教職も、車の免許も、華や料理の学校も顔を出しながら

雑学も学べ

家庭教師も、英会話を使った英語の勉強を兼ねたアルバイトも

友人との連携で実現させることが出来た,

教えていた学生が大学合格出来たとき、

親御さんから特別ボーナスが出て、

協力してきた相棒の学生と

笑いが止まらなかったという、、、

忘れられない楽しいアルバイトでした。

リッチな雑学時代でもありました。

時には、、、銀パリや、歌声喫茶や

新宿の、「ぞん底」にも

モダンジャズを聴きににいったりもする傍ら

あまりのモクモクのたばこの煙で、咳が止まらなくって;

2度と行く機会がありませんでした。

飯田橋の百円映画館で

シナリオ丸暗記するまで通ったりしながら、

ESSの部活仲間と学園祭に、

「英語劇」に参加させていただいたり、

実家の近くの大学に通うという事のメリットは

盛りだくさんの大学生活のおかげで、「愛校心」に代わってゆきました。

英語劇で、私の娘役の「エミリー」を演じた超美人の後輩は

男子生徒のあこがれのアイドルだったこともあり

英語劇は、男子学生が観客席をうずめてくれました。

彼女の自宅にもお招きいただき

食事を御馳走していただきましたが

あまりの、、、お金持ちなのに、、、びっくりしました。

大きな会社、、、一部上場の会社の社長のお嬢さんでした。

一方、大学院の夜間授業で知り合った理工学部の他科の学生たち。

教職で知り合った大学院生の女性の家にもお招きいただき

玄関から門までの間が、、、非常に長い植込みが続くお屋敷で

びっくりが重なりました。

その女性は大学院を出てからも

社会貢献度の高い

女性学生の

最先端の生き方を

まっしぐらに進んでいきました。

お父様も日大で、著名な方でした。

内側から眺めて、、、50年たった今、、、

私のような、スタンダードな経済力の学生が

天下の日大で、天真爛漫に、

友達のおかげで、

社会勉強が出来た幸運に感謝するのは、

北海道に嫁いでから気が付いた感謝でした。

国立の医学部の医師と結婚して、

ゴルフも、ダンスも、日舞も、買い物も、

全部禁止、

家内として、、雑役の無月給の長い時間を

子育てで充実させていた、、、一人ぼっちのような、長い時間なのに

人生はス飛んでゆきました。

自分の事にだけ集中して生きていた主人は

それなりに、社会のお役に立つ医師として、

患者さんに必要とされて、予約もいっぱいになりながら

一人前以上の医師になっていたことに

私は、、、気が付かない状態で、子育てに、仕事に薬剤師として

すれ違うことも自覚がないままに75歳になろうとしています。

忙しかった、、、とにかく、、、忙しい人生でした。

主人は「居てくれた。」というだけで、

外堀になってくれていたのでしょうね!きっと、、?

印象としては、

子育てと、

雑用と、

進学時期の社会復帰の仕事と、

雪かきだけにおわった

男女関係が無くなってからの40年間のすれ違いを

気が付く暇もなかった。

ローンが終わったの65歳だった。

結婚人生を振り返るからかもしれません。

子育てだけで、、、いっぱいいっぱいでした。

大学は、国立があるのですから、、、

自営に近い私立大学は

私立大学が、生徒を環境ごと選ぶのは間違ってないと思います。

私のようなスタンダードな学生が

環境の良い生徒の家に招かれて、

身の程をわきまえ、

頑張るしかない人生に、

謹んで頑張れるのは

お金が無いという事は

首が無いのと同じ世界があることを見れたという

社会学のチャンスが、、、

日大の生徒間の

環境のスケールの大きさから学べたという事です。


ちょっとばかりの経済環境が良いだけの友人なら、

私だって、、、一人前に、、、

アン人たちは。。。よかしゅ~~~~などと、、、

嫉妬まがいの心がむくむくしたかもしれませんが、、、


比較にならない社会貢献度の高いダイナミックな家庭の友人に

北海道と違って

東京では、、、

「医者は、、、開業医は、、、中の中?」、、

もしかしたら、、、「中の下」の経済力かもしれません

我が家はその「中の中」でも、

父の早逝によって

経済の環境は、

私立学生3人と国立一期校の下宿をしている医学生一人を抱えて

父は、、、激務に耐えて、、、一人で苦を背負って

早逝してしまいました。


私は日大在学中に父を喪いました。

医学生の間にすでに」結婚している内科医の兄の

ほやほや家庭の

居候に転落してしまったのでした。


学生結婚していた兄夫婦に

毎日、、、「まだ家に居たのか?」

「卒業したら、ササと嫁に行け、、、」等と、
、、
父を喪った外科内科の

一人ぼっちで開業を続ける医師のストレスを、
もろに、、、妹にぶつけてくるという、、、
悪循環が始まりました。


ある意味で、聴こえないふりをして、アルバイトに勤しみました。

大学卒業したら、、、自立できる。

私は、遺産相続の放棄の印鑑を押して、

卒業までの費用と交換した。

卒業旅行の3万円が足りなくて、

兄に、

「貸してほしい」と頼みました。

「お前は父の居ない子なんだ」と

「自覚しろ!」

「旅行までは面倒見切れない!」

単なる予防線を張る癖のある、、、気弱な兄きの、臆病風が言わした

「協力節約宣言」でした。

医学部志望の高校三年の弟が。。。

まだ、、、我が家のエースだった。

最後の切り札を医師にするまで、、、お金は節約という

結束が、、、暗黙の了解だった。


たった一人だったと思います、

卒業旅行に行かなかったのは。

岐阜城も犬山城も、川下りの醍醐味も、いまだに知らないで75歳が目の前に来た。



父の経営していた医療施設は長男と、

短大卒のお嫁さんが相続した。

「父と同じ外科医と結婚して家を一緒に継ぐのなら

ここに居ても良いが、、、

ほかの学部の男性と結婚するなら

すぐに出て行け。」。。。???パワハラみたいでしょう?


パワハラではないんです。


外科内科で看板を挙げていただけに、、、

外科のいない内科は弱かった時代です。


生き残ㇼがかかっていたのです。

兄は父と一緒に開業していましたから、

孤独で、、、怖かったのだと思います。


一人で開業するという事は、、、
恐怖だったのかもしれません。

私は勤務が病院でしたので

我が家の経済状態を知らない医師の先生方は

医師の娘で医師の妹で薬剤師で23歳という条件に

結婚を申し込んでくださり、

返事のしようがありませんでした。

友人の結婚式の代表挨拶で、道内一周旅行付の

結婚式に来たとき、

人生の岐路に差し掛かった。

奨学金の返済をしなければならない金額が100万にもなっており

大学院で、博士論文も研究中で、

金銭に今は困っているという学生医師に出逢ってしまった、

博士号を取得したら、我が家の父の空席の所に

自分が入り、東京に還り、両親を支え、

弟の大学も支えるという、

外科医の駆け出し医師に出逢った。

北海道に居るその学生は

東京大学で3人の心臓外科医と言われた

東大出身の教授の医局に居た。

「この外科医なら、師匠の東大出身の教授の退官とともに

東京に帰って来て、勤務医になるはずと思った、」

夏休みに母に会いに来て、必ず東京に帰還して

我が家を手伝うからと、母を納得させた。

その学生は、7年にわたる苦学の末の卒業が

国家試験の全員のボイコットの時代に卒業したため、
医師免許が無く、実家からは卒業した医師だと思われて
仕送りがストップしてしまっていた。

勉強漬けの7年で卒業しているのに
国家試験が受けられないという、、、あの、、、

青医連の時代の産物と言ったらよいのでしょうか?

卒業はしても、、、働けない、一銭も無いという、、、

うつ病のように、、、無表情な

顔なしの時代の、、、可哀想な大学院生に出逢ってしまった。

薬剤師として総合病院に勤務していた私は

余裕が有った、

彼にとったら、、、溺れる者が藁をもすがる気持ちだったに違いない。

とにかく、、、ついてきた。

無視しても、、、ツイテきた。

そして、、、私の頭越しに、未亡人の母に談判した。

医師免許を取得して、博士になったら、

外科医だったご主人の空席を必ず、埋めに東京に帰ってきますから、、、

目下の必要経費は、勤務している以上、そちらが負担して

結婚してほしいと、母に申し込んだのでした。

「お父さんが若くなって、、、帰ってきてくれるのよ!」

もちろん、ほとんど仕上がっている医学生が、

社会に役立つ医師となるまでのサポートは、

全面的に、引き受けましたと、、、母は言いました。

母は喜びが隠せなかった。

私が、お断りの返事をする前に

「娘は、あなたに差し上げます。」。。。と

言ってしまった、

私は母の私物ではないと、、、

親子で言い争ったことを記憶しています。

薬剤師は30歳までは結婚しているようでは

一人前の技術は身に着かないから、、、と、

目下勤務の総合病院をやめたくはなかった。

しかし、、、兄は、

私を、、、医事新報雑誌の結婚欄に

「医師妹、医師に嫁ぎたし、、、23歳薬剤師、、、云々。」

私は本当に激怒した、

医師会の日舞に長年通っていたこともあり、

知人も容赦なく見る雑誌に

事もあろうに、、、

「妹をたたき出すような広告を出したのでした。」

翌日から、、、勤務を終えて帰ってくると、

兄夫婦は、私に無断で、応募者の先生と

談笑しながら、、、私を待っているのです。

本気にして、兄の、妹追い出し作戦だとも気が付かないで

私にデートの日時を申し込んでくるのでした。

時間貧乏で

付き合っている暇がゲットできない環境なのでしょうね、、、きっと。
兄きの笛に踊らされた気の毒な先生方は、、、、

こんな兄貴夫婦のパワハラに逢うのなら、
遺産相続放棄の書類に印鑑を押さねば良かったと後悔しました。

条件として、足手まといにならない薬剤師と結婚するのは

何ら、、、やぶさかではない、、、から。。。と

成りきに巻き込まれてくださる方々に、

どうやって、、、「ごめんなさい、、、」

「兄貴が、足手まといの小姑の、、追い出し作戦ですと、、」

失礼で、言えないと、、、、思いませんか?

はるばる北海道から私の頭越しに母に「契約結婚のような条件」で

23歳の薬剤師の目下の月給を、藁に見立てて、生きるためにやってきた医師未満、

結婚してから、大ぴらに、初恋の女性の作品を買いまわるので
気が付いたことですが、

主人が、芸大の有名作家との失恋のあとで、

心の空席を埋めてほしいという状態だったのですよね。

音楽大学を卒業していた私の母は

「あなたの気持ちは、この曲と同じでしょう?」
彼の前でグランドピアノを弾いた。

後に主人になった外科医師は、私というよりは
ピアニストだった母や、初恋の失恋相手の彼女を
50歳過ぎるまで、評価して、心の恋人として、慕っていた、

片思いも、ここまでくると、サポートしてあげたくなりました。



未来において、、、失恋も癒されたころ

生まれ故郷の、両親と、夜人兄弟との待っている家に帰るだろう、、、

博士号の為の実験論文が出来上がるころ

教授も退官で、、、東大卒なんだから東京に戻ってくるだろう

数年の北海道暮らしなら、

よそ者生活の蚊帳の外の扱いも、

社会体験で貴重かもしれないと

東京にいずれは帰還してくれることを条件に

母は、結婚を受諾して、どんどん式に向かって頑張るのだった。

札幌の風呂のないアパートの新居を見ても

「これなら、、、思ったより、、、早く帰ってくるわね!」と

かってに

家具や、

20インチのカラーテレビや、

絨毯を運び込んでは

「お父さんが、若くなって、帰ってきてくれるんだから、、、」と

夢にような、独りよがりのストーリーに酔っていました。

私は、、、可哀想な未亡人の

母の心のすき間を埋める「人形」だったかもしれません。

それから何十年か経ちました、

母と兄の思惑は大きく外れました。

医学部の学閥の認識が、世間を知らなかった主人にも解ってきて

主人は大学に残り、ひたすら、医局の仕事に奔走しました。

講師になったことは、

大学のスタッフの仲間になったことだから

大学関連病院で生涯地域の盛り立て欲として、

札幌で生きるだろう。

もう。。。我が家では帰ってくることは待たないと、

ミカン箱一杯、

病院経済状態の自宅の情報メールも手紙も

プチント途切れた。

医学部には、、、こうした学閥もあるのですから、、、

開業医の親元が
地域医療の継続の為にも
先代が残した患者さんを、路頭に迷わせるような
不安にさせないためにも
医療施設の存続は地域社会の大きな問題でもあると思っています。

私立の医科大学が、
親の環境なども、
生徒の未来の学問達成のためにも

はじめから選考基準に優秀環境点数として考慮に入れたとしても
不思議であるとは、、、

私的には思いません。


遠くの国立の医学部に入学した学生の卒業後は

医師として生きる充実とは裏腹に

地元の女性と結婚すれば

幸せであっただろうと思う反面

故郷に錦を飾ろうと思うと、

国際人になるまで頑張らないと、

御国がえりは出来ないと、医師の多くの人の言葉です。

地域には貢献できても、

「私生活はよそ者」としての

孤立の期間が長すぎるという

痛しかゆしのリスクが医学部はありうるという。

主人と、母の間で、院長が急逝した医療機関のメンバーとして

貴重な体験をしました。

この際、、、母の人形となって、

未亡人の復活の夢にかける

「人形」になって、

様子を見るのも人生経験であると割り切った、

一切の知り合いは出来ないと覚悟して、

表面は大切にされる客人としての分をわきまえる社会生活に向って

北海道の留萌の断崖絶壁の近くの病院に主人について、やってきました。

虎落笛のヒューヒュー鳴る、海は

まるで自分の心の中の嵐のようでした。

耐えられたのは、

山や自然が好きな、薬剤師だったという要素が

大きかったと思います。

主人は「愛がむしろ邪魔」という、

自分しか愛せない虐環境の時代の研修医師の卵の時代ですからね。

時間貧乏の外科医でしたから、

背中合わせに、

育児と仕事を分担するしかなかった

相棒の生活で、同居している背中合わせの二人だった

国立出身の初代の医師は、開業の医師のヴィジョンとは
方向が異なっていた。


私立の医学部は

、むしろ開業している地域の患者さんの為にも


病院が後継者が居なくてつぶれてしまわないように

医師になる学力さえあれば、

施設継続の為にも、同点ならば、

環境を考慮する加点があってもいいのではないかと思っています。

医師の周りのスタッフの幸せも、かかってくる問題であると思いました。

年老いた父母のもとに

学閥を超えて、帰ってこれるのは

私立医科大学卒業という環境の方が、実現しやすいと思いました。

先代が居なくなるころ、

若先生が、残された患者さんを引き受けて、

人生の終焉まで

地域の人が安心してかかれる病院があることは

好もしいことと思います。、


我が家の場合は、特殊かもしれませんが、

北大で、博士号を取得した後は、

娘の主人が東京に帰ってくるのを、待ちながら、

とうとう、、、兄も80歳を超えました。

還らぬ妹の伴侶である外科医を待っても、もう帰ってきませんよね。

母が、父の残した開業を継続する必要があったのでしょう。、、

閉院が遅れてしまったための

見えないリスクで、

兄は、中流から、持ち家のない特別老人ホームの介護付き施設にと

奥さんと引っ越してゆきました。

そこから勤務医をしています。

私は、、、

母の最後には間に合いませんでしたが

兄の言葉を借りて言うならば、、、

「待ちくたびれた、、、OOサンは嘘を言ったのかしら?。。。」

待ち続けて、、、亡くなった最後の言葉を伝えてきた。


主人も、心ならずも、会わす顔が無かったのか、

葬式も、諸七日も、49日も一周忌も、、、

仕事を選んでいた。

3周忌に、弟が開いてくれた法事に

中野の宝仙寺にて兄弟と再開、

和気あいあいの若者世代の会合は、

盛り上がり、法事であることが不思議な様子で

明るい世代交代の交流が始まったのでした。


去る者は、、、日々にうとし、、、


「お母さん、、、すみませんでした、親不孝な一人娘でした。」

墓石に向かって誤るのは私ぐらいでした。

昔、、、そう、、、昔、、、

主人が大学講師になったとき、

もう、、東京には帰還しないことを悟った兄貴は

一人開業の孤独が耐えられなくなったのだろう。、、、

一日150人の患者さんが来ていた盛業のまま

閉院することになったときのことを

私は、、、今も忘れない、


開業しながら、

がんセンターで研修を重ね

内視鏡の指導医を許され、

巨大な病院の勤務が決まった。、、、兄。

日大卒の根性を見せてきた。


ボーと、主人の期間をまっているような、、、

営業オンリーの待ちぼうけに会うような

やわな性格は、日大卒業の医師にはありえなかった。


23人いた従業員にも、専属だった税理士さんにも

退職金を払って、閉院してしまいました。

国立がんセンターで指導医の資格を取得して、

千葉の巨大病院に勤めてしまいました。


私の実家は亡くなりましたが、


兄は、

弟が、戦後の日本のCTや

へりかるCTの先駆者となって

生き生きと生きるのを観ていて、


大きな施設で

医学とともに臨床医をしたかったのでしょう。


私にとったら、

無断で実家が売られた、

職員の退職金に消えたのですから、、、

ショックであったことは確かです。

しかし、、、医師としての兄は、

頭がいいと思いました。

開業より、、、閉院は大変だと、、、

心からわかるからかもしれません。

勤務医として、医師の喜びに向かっていった

気持ちがわかるような気がしました。

開業で、たった一人になって、

毎日「命」と向き合っていたら、

孤独と、恐怖で逃げ出したくなると、、、

解るような気がしました。


医学部卒業したてのほやほやの若き医師にとって、、

親が医師であるだけで、助かります。

金銭的なことはともかくとして、

命と向き合う仕事だけに、

親が医師であることで、指導がいただけるので

命を前にした、自分の学門が及ばない症例の時など

孤独も、恐怖も無くなると思いました。

兄を見ていてそのように感じることが多かったからです、



日大の医学部が、

状況も、環境も、面接点になるようなら

あながち親を選ぶのは、

生徒への情けであるようにさえ、、、おもいませんか?


この年、75歳になって、、、

息子が医師になってからも

大学に感謝することが多いのです。


主人としては、家庭的ではなかったですが

息子が医師になった段階で

親が医師であったことは救いとなりました。


知識だけ、点数だけ、、、

それだけなら、、、

私だって入学点数はとれる。

医師の免許を取得してから


医師をすることの大変さを


目の当たりにしてきました。

家庭生活はゼロでも0は有理数だと認識できた。


医師の日常は、、、私には真似が出来ない。

あらゆることが、超人的に大変であることが解ってくる。

二代目、三代目、、、代が多くなるほど

親の力が育てたモノが

患者さんぐるみの人生を守れる知恵を

授かっていることも多い。

試験制度に正しいことを第一にするのなら
人工知能に、あらゆる条件を記憶させて

受験の正しい在り方を出させるのなら

正しいことが,,,
正しいと出てくるのか???

そこを知りたい。

点数だけを重要視するなら、、、国立でしょう!

東京大学とか、

京都大学とか、

ノーベル賞にも関係してくる頭脳が

世界を席巻する学部が

点数で合格するのはわかるような気がする。


能力が高くて、

限りなく自分のヴィジョンに生きる人たち。

しかし

私立の医学部の先生方は

社会の奉仕に近い、

心身や肉体、家庭ぐるみで

サービス業でしょう?

親のセンスが英才教育となり、

理屈ではなく身に着いた技を持つ。

患者さんに寄り添える

多面性のある雑学の豊富な先生が多い。


天皇陛下の手術をされた勇気も、

親が医者だったという心の英才教育が

あのような。。。

畏れ多い方の畏れ多い手術を

引き受けられる、、、

「医者魂」の、、、すごい勇気があるのだと思いました。


言葉にも、文字にも書けない

すごい、、、何かの、、、エネルギーを感じます。

大学院の頃の主人が取り組んでいた博士論文は

自前で買い取った犬を使って

バイパスの実験に明け暮れていました。

陛下の成功の新聞記事の中で観た

「解説の医学の図」を睦めながら

主人の論文に同じようなバイパスの図が書かれているのを見ながら

研究は臨床で生かされてこそ

すごい価値があると思うと、

臨床医の主人には、、、

いよいよ、、、雪など掻かせてはならないと

循環の大切さを身に沁み乍ら、

陛下の御命が救われて、平成の時代が続いたことに

感謝しながらも、

災害の続いた地域への

国民とともに心の旅にお出ましになり

術後の御体に、、、国民はハラハラしながらも

お元気に役目を果たされた陛下を

後方で支えられた美智子様に

思わずTVの画面に向かって、

深々と頭を下げておりました。


このような大変な公務をつつがなく

まるで、、、

平常心の御顔で災害地に立たれた両陛下のお姿に

執刀された先生は、神の手、、、そのもののように思いました。


平成の「災」あったことも、

多くの事で、頑張る力を取り戻してきています。




もしも、、この先生が

昭和40年頃、日大の主治医になっておられたら

父は助かったのにと、、、思いました。

一方、、、国立の奨学金で卒業した国立の医師の一人は

例えば、私の家庭を例に挙げるなら


主人は一代医者ですから、、、

医師の家庭で育った医師の兄弟の居る嫁が必要でした。

医師の義兄弟が居ることで、

下腹に力が入ると言っていました。

臆病なナーバスな考えが湧いた時には

友人の医師とディスカッションしながら、

難局を乗り越えていました。

私は薬剤師ですが、

主人は医師以外の意見は受け付けません。

医師以外の者は

家を守ることを望み

一切の家事は、主人は自分には管轄外として、

医師であることを貫きます。


夜8時前には帰ってきたことが無く、

育児にもほとんどかかわらないで、

父である責任感だけは、、、

独り占めするほど

感じるのは、、、

独裁者に通じる自分流がありました。

一緒に食事をしたことも、思い出せません。



しかし、陛下の手術をされた先生が、

家事や雪かきをなさる姿はありえないことですし、

在ってはならないことだと思いました。


もう、、、主人に向かって、、、

腹を立てることはしなくなりました。

あれ以来、、、、。

日大は、平成の時代を一緒に生きてきました。

大きな役割を、

天が白羽の矢を

日大に届けてきた平成時代でした。

人生で一番大切な「時間」を

医療に捧げた、、、


医師は医師でないと支えにはならないのです。


医師になってこそ解るイデアのような、共鳴し

音叉のように周波数が一緒でないと

命の前には。議論する相手が限定されます。


女医さんになっていれば

私も、主人と話し合えたかもしれません。


医師になりたい学生の父が医師であることは

私立大学にとっても

地域医療にとっても

開業奨励の医療政治の時代でしたから

孤独な医師を救うためにも、

地域での唯一の開業医が
跡取りが居ないために
無医村になってしまう事を回避するためにも、

医師の息子が、優遇されるのは、周囲も願う事でした。

身内が病気になったとき

医師が高給料だとか、、、いい車に乗っていることなどは

どうでもいいことで、、、

地域に医療施設があることが

大切な、大切な時代でした。

ドクターヘリが、、、無かった時代ですからね。

地域にとって、医療機関は宝物の時代でした。

私立大学の、一見、不平等に見える入学制度が

医療政治の一環だった時代でした。

環境ごと医学生を選抜することが

必要な時代だったと思います。

地方勤務の先生は、日進月歩の医学の社会から

置き去りになる大きなリスクを抱えながら、

何万円のタクシー代金を払って

車の中で睡眠をとりながら、

町中の学会に出席していたことが、

思い出されます。

しかし、、、人工知能が会話相手として台頭し、

パソコンや、サイトや、アプリの効力が、

時代遅れの父親の医学を上回ることは

科学のなせる業と思うと、

時代の作り上げた制度は、

その時の環境で判断して付かないと、、

今の時代の環境から、、、

医科大学が、正しいとか、、、正しくないとかは

言う方が無理があると思います。

時代の不備な制度の中で

国会と喧嘩しながら

喧嘩太郎の名を有名にした先生もいらっしゃり

弟が、晩年その先生の

画像解読の主治医をしたこともありました。

父も主人も弟も、息子も、

全てを振り返らずに、断捨離して

医師として生きた、、、のを、、、身近にいるものは

感じながら、暮らしてきました。

背中が語るものが、、、

人工知能のような智ではないと思うのです、

正しいとか、正しくないとかではなく

命は一つですから、

命を救うことで、

どのような時代も

最善の事を考えながら

日本の医療は、アメリカ人がうらやむような

国民にとって良い制度として今日に至っています。




がんセンターで、人生で一仕事をなしえた弟は

疎開先での、、、

戦場からの引き上げの医師の姿とともに

暮らしてきました。

質素なレントゲンは父の指を潰瘍だらけにしていました。

一町立診療所の医師だった父の事を

70歳になっても、恵愛しているという弟。


父の背中は、医師を育てる、、、

遺伝子にも似た作用が有ったと思います。

姉の私は、田舎で頑張った父が、医の神様に思えるときがあります。

朝日がんセンターを戴いた弟の医師魂の根源になっていると思うのです。

ちなみに、、、

弟は国立一期校の医学部を卒業していますが、

幼いころから、

父に抱かれた父の分身のように

姉の私は、

弟に、リモコン操作で動かされているがごとく

弟の方が、、、はるかに優秀な子供時代であったと

苦笑しながら、、、振り返ることがあります。

短絡で、親に河合がれる弟を、嫉妬したり

かなり幼すぎる、、、馬鹿な姉だったと振り返ります、



月夜の夜、、、、

父の左腕に抱かれた弟が、

大勢の子供たちと、景踏みをしながら

皆、が楽しんだ、、、

父の居てくれた風景が

懐かしく、思い出します。

医師は、誰も相続できない能力です。

一代限りの厳しい職業だと思いますが、

一代限りの傑物は、、、、

子供のころ、月夜の番に

左腕から伝えられた体温が、

医学部を突破する気力を流したと、、、

姉の私は、、、

今でもふと、、、幼かったあの頃を振り返り、

私たち、

子供の一生の航路を照らしてくれた

月夜の夜の景文だったとだったと

父に感謝するのです、


父が疎開先を去って、

生まれ故郷の東京に還るとき、

いくつもの村からお別れに来た患者さんで、

橋も、道も、人で埋まり、、、駐在さんが整理に出てくれました。

患者さんだった、、、老婆は、、、道にペタン事座り、、、
「先生、、、行かないで、、、」子供のように泣きじゃくっていました。

そのとき、小学校3年生だった弟は、、、

「お姉ちゃん!!医者ってすごいね、、、

僕は大きくなったら医者になる、、、」


弟は、もらい泣きしそうになりながら、、、


父の背中をはっきりと見たと思いました。




医師は一代限りで

その能力も、免許書も相続は出来ない。

しかし、医師になろうとするパワーは

弟は父から受け取った瞬間を、

私は、、、ヤシカの子供カメラで、しっかりと撮り、

心にこの瞬間を刻み、未来の時代の医療の光を感じました。

弟を、、心から、、、
いつも、、、遠く北海道から

応援していた。

定年退職した弟の事を、

幸せな老後を送ってほしいと願っている

若き日の、単行本になっている

国立がんセンターの黎明期の本を読みながら

健康を大切に、過ごしてほしいと願っている。

医師の裏を守りながら

閉じ込められた雪国の雪を掻きながら

結構、、、マイペースで自分で

筋肉トレーニングと割り切って

孤独な登山にも似て、

労働は、祈りであると

ある種の信仰心で、雪山を美しく積んで除雪する。

弟よ、父の早逝のあと、、、

君は本当に、、頑張った人生だったね。

あの苦境を跳ね返して

国立一期校の医学部に合格することのできた君だから

周りの兄弟も、君に負けまいと、、、頑張れたと、、、

来し方の日々を振り返っている。

君が居たから、、、

人生の君の舞台を観ていたから

体は家庭に閉じ込められたけれど、、、

楽しかった、

頑張る医師の身内を応援するのも

君には届くことのない距離だったけれど

、まるでやりがいのある、、仕事のように

厳しく、一生懸命に戦った応援席でした。




本格的な冬到来

2018-12-10 08:08:05 | Weblog
雪を掻いてきました。

腕とひじのあたりに

「寒冷蕁麻疹」でしょうか?
湿疹が真っ赤に出てきました。

カユイ。。。掻くとひどくなるから、、、我慢すると
関係なさそうな背中や肩のあたりまで。掻きたくなります。

ポリ性のゴミの分別だしの日です、

ゴミかごのある前の家は何かとたいへんです。
以前一緒にボランティアの講習会で、一緒だった叔父さんが

小学生の交通安全の交差点誘導で

蛍光のウインドウブレイカーを着て

白い息を吐きながら、「サム~~~い!ネ、」と肩を丸くした。

「お疲れさんです!寒いですね、、、、いつもありがとうさんです、、」

思わず、頭が下がる。

地震でモルタルの巨魁落下で、危険防止のためにも

壊すか、、、修復するか?迷った結果

壊すのも、サイデングにするにも

値段はあまり違わない。

壊した方が、高くつくことが解っただけでも

びっくりが続き、頭の皮膚が、真っ赤になり

茶色の浸出液がポタポタト落ちた。

ともかく、ヒビが全体に入り

フランケンシュタインのような離れの家を観ていると、
地震って思っていたより、、、ずっと怖い。

ともかく、外壁のモルタルをはがして、運び出すのが先決だった。

近所の子供のお母さんには、

5人の子供を、工事の間は近寄らせないでくださいと、

幼児用のビスケットと、リンゴジュウスを持って

子供の監視をお願いした、

「大丈夫です、しっかり見張ります。

万一、何かあったら、母親の私の責任ですから、」

きりりとした緊張の声で言ってくれたのは

11月の9日だった

今年は暖気の冬で、まるで秋のような11月だった。

月末には、屋根の塗装が始まり、

札幌も、遅い雪が降り始めた。

さび止めを塗り終わった夕方から、雪が降り始めた。

翌日は晴れていたので、

ドライヤーのようなもので、乾かした後

一日置いてから、ペンキ塗装が始まった。

壁は、長男の考えをもらって

気持ちが明るくなり、元気になるように

お洒落なタイル模様にした。

冬が来るのを、、、しばらく待ってくれた天気の神様

「ありがとう!!、、、やっと、、、ぎりぎりで間に合いました。」

買った時から、タイルや壁の落ちてくる家であったが、

今回は生まれかわり、危険分子が無くなりました。

主人もいつまで働けるかわかりませんが、

とりあえず、、、外側だけは「家」になりましたから。

来年からは、まず、水道を根こそぎ直さなければ

家の機能がストップしたままなので、出費が続くでしょう。

階段の壁のベニヤがねじれているから、、、それも張替、、、

火災保険はかけていたが、、、、まさか???

札幌にこんな、、、大地震が来るなんて考えていなかったから。

地震保険は、、、まあ、、大丈夫だろうと、かけなかった、

これからは、3年ぐらいの長いスパンで、

中を治すのを、気長に趣味にして、上等の物置だと愛することにした。

働いていると、年金がストップしているのですが、

国は、札幌のような、地震被害の地区には

ストップしている年金を払ってくれると

老後の生活費を大幅に出費しなくて、少しは気が楽になり

ストレスの湿疹が止まるかもしれません。

あちこちに出していた協力金は

3年間、待ってくれることが知らされてきました。

良かった!、、、

来年は、水道設置のやり直し。

再来年はトイレの配管と位置変更、

その次は、電気回路の引き直し、

そして次は、、、門塀の亀裂と崩れの修復。

そして、最後に、暖房設備の引き直し。

あと、、、5年間ぐらいは、、、

物置から、夜泊まれる家にするまでは、、、

だらだらと、、、出費が続きますね。

次男も、やがては定年になって、

老人になって、故郷の札幌に

育った家があれば、寂しくは無いでしょう。

その頃は、母さんは星になっているだろうけど、

南高校を卒業して、

本州で、いまだに独身で頑張っている44歳の息子の

孤軍奮闘を考えると、

北海道に親が居るという事は

嫁さんになる女性のブレーキになることが

この年になって、思い知りました。

この家を住める家にして、

札幌にも、親の家に泊まるのではなくて

ロングステイできる離れがあるというようにしないと

今のままでは、家も、親も独身の息子にとって

結婚相手にとって、親がお荷物に見えてしまうのだろう。」

主人はともかく、姑になる私との、同居などを考えてしまうのだろう。

息子は、定年後でないと、札幌には帰ってこない。

その時は親はいないはずであるが、、、

100歳の姑との同居を、
場合の数に入れるダロウの、、、???。

30歳過ぎた大卒の熟女が
対象になるはずだから。

北海道の母親は結婚の障害物になってしまうだろう。

息子はDRヘリのある救急病院の医師であるが

仕事がやりがいがあるからと、
病院300メーター以内の
!DKの独身寮を借りている。車も持ち家もない。

自分を一人前の医師に育てるために人生を
医師としての仕事に絞り込みをかけているが、
一人前の医師になるためには大学を出るぐらい
の費用をかけて、
自分の中の見えない医学を
臨床面で
ひたすら磨くために、
指導を受ける卒後5年間は

新幹線通学で勉強の時間を買う。
タクシーの中で睡眠を買う。

競争相手は、皆お金持ちで優秀で、選抜された医師である。

道内で、おっとりゆっくり、、、大自然のスピードで有った彼。

結婚生活も考えている。

「45歳までには結婚しなくっちゃ、、、!」

親はいつまでも生きてはいませんよ、、、
心で、いつも思いながら、

医師は医師しかできないような「時間貧乏である。」

病気は医師を使いまくるのは、観てのとうりですが
医師を選んだ息子は、苦痛では無いようだ、
むしろ生きがいを感じているようだ。

大学の医師はサラリーマンであるから、、、
中流の中の経済レベルです。

患者さんとして付き合いは、ピンキリです。

教養も、人格も。自己研鑽で磨き上げないと
病人を人間事把握できるのはむつかしいだろうと
病人心理に寄り添う雑学にも余暇を投じる。

それに加えて、医師の世界は「認定医」だとか「専門医」だとか

さらに、役が付くためには「専門医」などと、、、

講習会も。勉強会も、学会も、いわゆる「生きる要素」、

チームはもちろん、大学からも、学会からも

実力あり!という評価の得るまでは結婚どころではない。

北海道は南校と言えば秀才と言われているが、

本州は星の数ほど秀才が居る。

努力と仕事に集中する以外によそ見が出来なかったのだろう。

ともかく、、、
北海道では医師はお金持ちに扱われている。
しかし、本州に行くと、ただのサラリーマンであり、

仕事に入れあげているモーレツ社員のような医師より、

はじめから、家や車や、マンションを持っている環境を
子育てをしようとする女性はチョイスしてくるようである。

はじめから、環境を選ばないと、
よっぽど親がリッチでないと
マイホームなど、夢であるのだろう。

日本という国は
見えないコロニーで出来ているから
地元を離れた上京組は
40歳までの若さをやとって貰えても
40歳になると肩たたきか左遷されることや
栄転と称して、窓際に追いやられることもある。

地元には世襲制のように

生かされ組のサラブレッド家系の専門教育のプロ集団が居る、
ある種の特技をマスターすれば、

「生かされ組に入り込める、実力を備えられる。」

北海道からの上京組は
本人も生涯教育に切磋琢磨して、

時代について行き
機械のバージョンアップにも強くなり

手足となる機能を時代の波に流してしまわないように
素手でも役に立つ何かを持たないと

外国人の雇用者が入ってくると

彼らは、命がけの頑張りを見せてくるだろうから、

指導者の立場が逆転しないように

日本男児は頑張るしかありませんね。

医師を続けることは、、、医師になるよりむつかしいと思った。

息子は、立派に医師を続けている。

人様の薬に立っている。

一緒に、世間様に役立ちたいという心意気の女性が現れて、

医師をすることの邪魔にならない、、、自立した家庭をつくれる女性を

待ち続けています。

息子の仕事の腕が結婚によって、さらに磨かれますように

神様。。。運命の女性と出会いがありますように

親は、一切のお荷物にならないように

残されたものは、すぐに使えるようにしておくという

人生のゴールへの準備を75歳から

ライフワークとして、、、始めます。

息子は、医師独特の、お腹が出ています。

話も、態度も、考えも、親しい者には30歳の若さです。

役が責任者なので、貫録を出そうと頑張っているのかどうか、、、

ひげを生やしているのですが、

剃ると、、とっても若くって、びっくりします。

性格も、学術派の探求心が旺盛で、根明です。

手塚治虫の漫画と、横山光輝の三国志と、巨人の星が大好きでした。

医師になってしまった以上

マイホームパパとはゆかないとは思うのですが、

職場に近いところに家を建てるだけの力はあるはずです。

奥さんになる人が、ぐいぐい、、、マイホームをつくりあげてゆかないと

仕事に没頭して、仕事が好きで、

患者さんのお役に立っている実感が生きがいなのかもしれませんので

医師として、社会にお役に立つことに応援できる心の、

自立心のある女性を、待っています。きっとね!

いいな~~~と思う人が居ても、家庭的な夫を望む女性や

仕事と両立できそうもないタイプは

涙を呑んで、、、「僕には荷が重い、、、」と、、、
オンコールに答えながら、独身を続けています。

「私と、、、仕事とどっちが大事?」と聞かれたら、、、

「決まってんだろう、、、仕事だよ、」と答えるタイプの息子です。

そのように思っても、、、

「そんなこと、、、聞かないでくれよ、、、答えられないだろう、、、
愛してるんだよ、、」などと、、、言える息子なら

きっと今頃は子供が3人はいたかもしれませんね。




話は地震後の処理の、外側、見かけの完成と

危険分子の撤去成功ですが、、、出費も大きかったですね。

今年はそれでも、、、平成時代であることを感謝して

新年と、冬に向かって、頑張ります。

まず!!!雪かき!




リホームは、身体的なストレスを避けるためにも

老後のライフワークのつもりで

5年間のスパンで、復活するのを楽しみながら

息子の未来の嫁さんが喜んでくれるような

宿泊できる機能を回復させながら

少しづつ、回復を喜びに変えていこうかと、、、思う

お父さんが働けなくなったら、、、貸せるようにまでしようかな。

平成時代最後の、、、平静な心の12月です。

もっともっと、大きな被害にあわれた方の

心の復活を祈りながら、、、我が家は

こんな程度で、負けてはいられない!

来年は、私も後期高齢者ですが、気持ちは30歳で

頑張ることを誓います。

もう。。。いくつ寝ると、、、お正月???

絵になるカレンダー

2018-12-05 13:30:42 | Weblog


嬉しいことに、親しい人から、

カレンダーが送られてきた。

子供のころ、昭和30年より、もっと前の

戦後の娯楽は「映画でしょう!」という時代がありました。

疎開先の熊野の山中の竹藪の向こうに

芝居小屋が建ちました。

そこには、人情芝居がやってきたり、

美空ひばりや、中村錦之助の

若衆映画がやってきました。

市川歌右衛門や知恵蔵や月形龍之介の

「日輪」という映画も来ました。

土手の上での歌右衛門と知恵蔵は、、、70歳を過ぎた今も

もう一度「日輪を見たい」と思うほどの

戦後の貧困時代の「総天然色映画」の中でも

華のあふれた俳優が演じる物語でした。

京マチ子と長谷川一夫の

時代劇や

「平安絵巻のような美しい総天然色映画」も来ました。

「地獄門」という、、、

芥川文学の映画だったと記憶しています。

映画が代わると、しばらくは芝居小屋になっていました。

扮しまするは、、、谷たかし、、、田舎人情芝居劇場になりました。


ある日、、、

「親子鷹」という映画のポスターが

芝居小屋の近くに、掲示されました。

疎開先のクラスメートの男の子たちで

一番かっこいい子も、、、遠く親ばない。。。

凛々しくて、きりりとした目には

子役であるはずなのに、主役のオーラーがあって

前髪の凛々しさの中に何とも言えない華があって

小学生の私には、

映画を観に行くというよりは

子役の男の子の魅力で、

映画に引き寄せられてしまいました。

今思えば、一代では生まれない、、、何か?

ある種の本物を感じる、、、スキのない動きだったのに

決して機械人形ではない温かさが伝わってきました。

内容は、幕末の難解な物語でしたが

画面に市川歌右衛門と欣也ちゃんが出ているだけで

ストーリーには関係なく、感動していました。

私の母は。明治生まれですが

近衛さんがべートーベンの運命の楽譜を日本にもってきて、

*ジャジャジャジャ~~~ンとはじまる運命なのか?
じゃじゃじゃじゃじゃ~~~んなのか???
私には、チンプンカンプンの感性の持ち主でした。

音楽大学の、ピアノ科を卒業して、

街は、着物姿のお淑やかな日本女性の歩く中

斬髪姿で、ブーツを履いて、自転車通学という
当時としてはびっくりのもどんな女性でした。
湘南で泳ぐワンピースの水着の写真や
ハンチングを被って、テニスラケットを抱えた写真は

黄ばんではいても、弟の宝物になっています。

父は音楽に夢中な母のリードで

ワルツを踊るのが大好きな外科医でした。

新橋の「フロリダ」というダンス喫茶は

父母の青春のダンスデートのお店でした。

その母が、「素敵だ、、、素敵だ、、、華があるよね、、!!」

市川歌右衛門の映画が大好きでした。

旗本退屈男の、歯切れのよい歌舞く立ち回りが

楽しくてしょうがないという母でした。



母の若い時の写真ですが、歌右衛門さんの日本武士の着流しと
どうやって、結びつくものがあるのか?????

女性の感性とは、、、摩訶不思議なものがありますね。

母は歌右衛門さんが大好きだったのですよね!(^^!



「。。。。パッ、、、パッ。。。」

私は、歌右衛門さんのセリフが聞き取れなくて、

着流しの華のある立ち回りを、
日舞を観るように楽しんでいました。
小学生から、中学3年まで、

私は、日舞を習いに

「花柳の男の先生の教室に通っていました。」

医師会の母の知り合いの奥さん方が、

娘たちの交流にと

来ていただいている先生でした。

おかげさまで、歩く姿に文句を言われなくなるまで

3年以上かかり、、、

腰が入っていないと言われなくなるまで

5年はかかったと思います。

お弟子さんたちの発表会には

歌舞伎座からの鼓や三味線やお太鼓のスタッフを迎え

貸衣装を借りて、

「雨の五郎」「浦島」「道成寺」「藤娘」「松の緑」「山姥」、、、など。

大変な費用だったのではないでしょうか?

お客さんで隅田劇場は満員でも

全員が無料入場者なので、

戦後の沈滞ムードを、お祭り効果で盛り上げる先頭隊を

父母は、明日の貯金を考えないで発表していたのかもしれませんね。

患者さんのご家族など、、、大変に喜んでくださり、

当時は医師と、地域と患者さんは家族とはまた違った

絆で結ばれていました。

医師は、地域のおばあちゃんや、お母さん方の

町の文化の伝達者でもあったような気がします。

スマホ、、、携帯電話のない時代にも、

開業医の待合室は、、、

じいちゃん、ばあちゃん、お母ちゃん、叔母ちゃんらの

情報の飛び交う「さろん」の役を

はたしていたのかも???しれませんね(^^!


受験が始まり、、、お稽古はやめてしまいましたが、、、

母とは、歌舞伎や宝塚の舞台を観に行く暇はありました。

日生劇場で上演していた「オンディ―ヌ」を観に行ったとき

女性は加賀まりこさんでしたが、、、

男役は、、、欣也ちゃんではなかっただろうか?

それとも、私の中で、主役はどの役者さんも

欣也ちゃんだったと、、、

記憶をぬりかえてしまっているのだろうか?

遊びの合間を縫って勉強をした割には、

受験した大学は全部合格できたのは

運がよいだけではなくて、先生方が優秀だったという効果が大でした。

東京府だったころの、古い高校で府立第七高女、、、とか言われていた。

古い校舎で、毎朝ワックスがけに忙しい当番のある高校でした。

先生が、お茶大とか、東大とか、外語大学とか、

オリンピックの陸上5位入賞の選手の旦那さんだとか

普段の横道話(横道の雑談)が

当時としては、

大学受験に必要なイデオロギーや

ビジョンや、

考え方の国際的な広がりを持った独身女性の先生だったりしました。

教材が「モームの原文」だとか、、、東大卒業の英語教師は

「道の過度の店の親父が、、、毎日通行人に同じことを聞かれるが、

初めて聞かれたように、、、フレッシュに、同じ答えを繰り返して

人生の終焉に至るまで、、、答え続けた、、。」

英語を日本語に訳すと、、、こんな意味になりますが、、、

東大から来たその、、英語教師は、、、

「素晴らしい、、、素晴らしい、、、私も、この人のようになりたい、、、」

モームを読みながら、感涙に浸っている授業が、私には眠くて眠くて、、、

目を開けて、昼寝の時間でした。

肩の凝る授業でした。

理屈っぽい学校が終わると、、、

どうしても、映画館や、ボート漕ぎや登山という

天井から押さえつけられない世界で

私は私に還っていた。

高校は、運のよいことに

蓼科に高校の寮があって

卒業生だという大先輩の衆議院の女性が

あの山中に「水道」を引いてくれたおかげで

登山の好きなグループは

期末試験の前日の夜に帰宅するというような

試験勉強は全くしないというスケジュールの中

山から山へと、、、歌って歩いた。

蓼科山は頂上付近から、ごつごつの岩だらけで

四つん這いになって張って歩きながら、、、魂は自由の空に浮遊していた。

馬に乗ったのも高校時代の事でした。

その後、白樺湖まで遠征して、

馬を借りた走った時には最高の快感を感じました。

時代劇が大好きになるきっかけが

馬で走るかっこよさであったことも、、、確かな記憶です。

日本の映画を楽しめるのは

画面全体の面白さを発見できたことにもあります。

疎開先の大自然の恵みの、、、色合。

何とも言えない自然と調和した衣装。

武士のかぶる傘なども、絶妙の工芸品に思えるほど色が良い。

現職の突き刺すような色は無い、

赤も、閼伽も淦も、アカ色も十数種は使い分けている。

衣装の染め色も、藍色や、柿渋や、桐生の絹織物の反物やに入ったようで

日本の映画は、画面全体が楽しい。

雅な主役の垢ぬけたきらめきを、

芸の達者な脇役が、観衆の気が付かない絶妙の効果で

浮き出させて、見方によっては

わきの上手い下手で、、、主役の見せ場の芸域までもが輝いてくるという

チームワークの良さに唸っていた。

歌舞伎の舞台を見に行ったとき、

安宅の関の弁慶の、派手派手ないでたちや動きや、セリフやおお見栄をきるとき、

ひたすら座って動かない芸の福助の演じる義経に

動かぬ芸の不思議な芸のオーラーに

弁慶も関所の役人も、、、そちらが脇役に思えてくるほど、

座ったまま、、、の芸に驚かされたこともある。

欣也ちゃんの大衆向けの番組にも、

静止した時の

絵になる画面の黄金分割には

観劇していて、深遠な近代のモダンを感じている時代劇だと思ったりしている

遊びや息抜きの映画や観劇で楽しみながら

常識を戴いたことに、、、晩年になって気が付きます。

大上段に「受験勉強という檻」に閉じ込めるのではなくて。。。

「日本では女性は、お勉強だけ点が良くても、

男社会だから、はみ出して染むのよ、

常識こそ、必要なのよ!」

お茶代を出て、独身で風紀係のようなばあちゃん先生の口癖が懐かしい。

クラブ活動や、レクレーションを通じて、

楽しめるように、楽しい方の基本を

日常の生活の中から、教えてくれた父母や

高校の先生、、、

たくさん見た映画や舞台、、、に

後期高齢者が目前に迫ったこの頃、

感謝を覚える。

楽しめる枠が拡がって、欣也ちゃんの自転車も

とうちゃこの、、、自転車も、

方向は違っても、

色の深さや、自然の深さや、人工の手の入った絶妙な分割が楽しめる。

自然に溶け込み一部分の動植物の輝きと、

桜島を背景の磯庭園の雅を超えたダイナミックな主役の立ち位置を

画面全体から、楽しめる老人に育ててくれたのは、

映画のおかげかもしれません。

黒沢映画の、三船敏郎も、七人の侍も、、、、

洋画の「荒野の七人」も、

日輪も、、、

銭形平次も、、、

それぞれの時代背景事、楽しんできました。

TVでは、最近は夜中の番組を観ることも多いが、

多様化した世界の情報の入る中、

時代劇を観ていると、

「私はこの時代に生かされてきた。」と

ほっとする。

その後、、、裕次郎さんが現れ

新人類のカッコよさも加わりはじめ

クラシックや演歌やホップスや、ダンス音楽のタンゴやワルツの

形式にはない、、、不思議な感性に胸から胸にセリフのように入ってくる

裕次郎さんのムード音楽から、日活の映画もかなり見た記憶があります。

でも、、、私は、蚊帳の外のグループで、

私は、楽しんで観ていましたが、、、違う習慣の社会として

映画の世界を楽しんでいました。

いまだにガラケーしかもっていない私だから、

最先端の現代人から見れば、

蚊帳の外の老婆かもしれませんが、、、

もい一度、、、もう一度、、日本!

日本の良さを、感受性の中から再現してみると、

日本の文化は、素朴と、雅と、深遠な動きと、間接光、、、

障子の美しさというか。。。

月光に映し出された障子の松の陰に、隣のキンモクセイノ香りが

寝付かれない夜が、感性の中の宇宙に飛翔させてくれるような、、、

ETは、子供の時、すでに、月夜のあの夜

幼かった私の中に見た世界だった。


欣也ちゃんの成長とともに
私も、成長しながら、

映画や、画面の構成から
時代の移り変わりを学びながら、、、やっぱり!!!

時代劇はしっくりと楽しめますね。

水戸黄門も、見ていますが、由美かおるさんが素敵ですね。

北海道の、、、郊外の、、、田舎で、、、
人生の半分は雪を掻きながら、、、
人生は終焉に向かっています。

やたら忙しくて、TVを観乍ら、
コマーシャルの時間に
野菜を刻み、洗い物をしながら
パッチワークの食事をつくり、
洗濯物をたたみながら、
TVを観る日常に、

サイン入りの
欣也ちゃんのカレンダーが
親しい人から
送られてきた。

「僕は、、、北大路欣也、、、知ってるよ!」
「ほんと~?すごいじゃないの?、、、」
「仕事で、出会ったんだけど、、、ネ。」

「サインもらえる?」
「失礼で、、、サイン欲しいとか、、、言えないよ、」
「オーラーのある人だからね、、、?」
「オーラーがあるからって、遠慮してたら、サインはもらえないわよね。」
「まるで、、、ミーハーに、思われちゃうよ、、、」
「でもね、、、かっこいい人だよね、、、!!」
「立っていても、座って居居ても、

「歩く後ろ姿だって、踊りの名手な芸になっているし、、、」


「歌右衛門の息子ってだって、、、最近はよくわかるよね、、、」
「落ち着いた華があって、
お父さんの歌右衛門のリズミカルな現代音楽のような華と
どこか一致する雅な華があるよね!」

「チャーちゃんの携帯が電池切れるまで、、、話していたっけ、、、(~~」

チャーちゃんにとっても、大切だったに違いない
サイン入りの、カレンダーを、
私は、「欲しいよ!」笑いながら言ってしまった。

男だね~~~チヤーちゃんは
早速送ってくれました。

絵になる写真で構成されたB5サイズぐらいのカレンダーは


人生の岩山の続く高山で見つけた竜胆のように
濃いムラサキのフレッシュが嬉しい。
若い時に出会っていたら、、、
追っかけの気持ちが理解できていたかもしれません。

それにしてもネクタイにスーツの
「私の人生の相棒」に
欣也ちゃんのような、、、微笑みのこぼれてしまうような華のムードを
一度も観たことが無い。

患者さんの診療でエネルギーを出し切って
家に帰っているときは
敷居に顎を載せて
くたばってい眠っているようなムードの主人に

欣也ちゃんの写真のカレンダーを見せて、
「ちょっと!こんなスタイルで、サイクリングしたくない?」

、、、と、、、言ったら、

「素敵だね、かっこいいよね!僕らの職場には居ない男性だね。」

幼いとき見た

親子鷹の映画で観た私のアイドル。

ロマンスグレーの老人になるまで

TVの作品は、走馬灯のように時代を回して見せてくれる。

贅沢な事を。

当たり前のように享受している今という時代に

今日、、、生きている私は、、、

運がいいと思っている。

親子鷹、、、

今思い出せば、、、勝海舟の物語だったような、、、?

それ以来、欣也ちゃんは私の中では、

しばらく、、、アイドルでした。

市川染五郎さんと、欣也さんが

「平凡」という雑誌だったと記憶しているが

早稲田入学の「座布団帽子」の制服でグラビアになっていました。

私の父は早稲田中学を卒業しています。

叔父さんは早稲田中学を出て、戦争に行って、生き残って復員した後

28歳から、早稲田大学に入学して、父が卒業まで親代わりとなりました。

戦争前に住んでいた文人通りの与謝野夫妻や、有島武郎と

泉鏡花と串田孫一、、、そして市川歌右衛門の事を

家族から、隣人のように聞きながら、

マスコミで報じられるたびに、、、なるほど^^^と

文学の中に流れるイデオロギーのようなものの違いを感じながら、

堅いこと抜きで、、、自分流の楽しんできました。

北海道は50年近くなりますが、

たった一人の親友もいません。

井戸端会話や、、、いんでないかえ?、、、そだね~~~と

長靴を履いて語り合うゴミの日の朝の挨拶会話以外、、

私は、日大時代の友人や、東京の文化と映画で時間が過ぎていった。

岩手から入植した人の開拓した郊外の静かな一軒家で

人畜無害の外野のように、

子育てと、主人の社会貢献の下働きに

日本の母ちゃんをしてきましたが、

不思議と退屈はしなかった。

毎日、、、TVの映画を見るまでの時間

いそいそ田働き続けた。

いや~~~~映画っていいですね!!!、、、長治さん!

欣也ちゃんが大学生になったころ、

そのころから、市川歌右衛門とは

親子であることなど、映画雑誌で知りました。

青春時代は日大に通っていたので、

飯田橋の駅近くの

100円映画館が常連さんになり

しばらく洋画、、、洋画の洋画ファンとなっていました。

ウエストサイド物語は、、、歌まで覚えてしまうまで

何回もミニ行きました。

「眼下の敵」は子供の頃にも観ましたが

大学時代も観に行きました。

卒業してから、、、仕事に追いかけられて
映画もテレビも空洞になった時代が続きました。

TVではドリフターズの「8時だよ!全員集合」で
育児時代は過ぎてゆきました。

やがて、子供らも、巣立って、、、
TVは私のチャンネル権の時代になりました。

子連れ狼、、、探偵さん刑事、、

昔良く見た「銭形平次」、、、

真野さんの御姉妹も大好きですが

平次のおかみさん役は

特に、美しい。

欣也さんのシャープな

透き通るような切れ味のある役を

真綿で包み

推理の鋭さや、殺陣の激しさを包んでいる。

日本の素敵な美男美女をTVで観乍ら

老後の一人の時間を楽しく過ごしている。

NHKを観るときは、、、なかば、、、

何かを教えていただいているような緊張感があって

番組が終わった後は

マッサージいすで肩をもみほぐします。

その、、、毎日お世話になるマッサージ肩モミ器の本棚に

親しい人からいただいた「欣也ちゃんのカレンダーをかけています。」

コロンビアとアクセサリー文字のある野球帽子が似合う

白いひげのおじいさんになった欣也ちゃんの

サイクリング姿の写真が気に入って

来年は9月か10月に

北海道の一本道をロケで

サイクリング姿で走る欣也ちゃんが

やってくるといいのにね、、、と、

ふと、、、年甲斐もなく、、、思ったりしながら

幸せな、ひと時です。

大好きな理由を聴かれても、、、

答えられないんだけど、

相棒と銭形平次が,
TVで重なった3時代は

欣也ちゃんの平次を観て、

夜の時間の「相棒」を観るという

地震の対策のリホームも終わり、

ホットする時間には、、、

時間を忘れて、、、

欣也ちゃんと真野さんの銭形平次を楽しんでいます。

それにしても、、、このカレンダーには

サインが描かれているんですよ!

嬉しいではありませんか。

身近に感じて、お茶の間の家族になれたようで、、、

カレンダーを送ってくれた、、、チャーちゃん!!!

ありがとうね。

北海道の地震で、長引く後始末に

疲れ気味でしたが。

良いこともあるんですよね!

欣也ちゃんのカレンダーって、75歳の婆ちゃんには

もったいない、、、33歳ぐらいの女性の

あこがれそうな、、、ロマンスグレイが

落ち着いた青春のきらめきが奥深くで輝いていて

京都ならではの、、、永遠のプリンスですね、

これから、銭型平次始まるから、、、ネットはこれで失礼します。




映画と、、、平成時代を生かされてきた、、、結構幸せな雪かきばあちゃんの

日常を、、、、チャーちゃんのカレンダーのお礼に。
思い出の記憶を辿ってみました。

白山登山

2018-12-03 06:45:01 | Weblog
グレートトラバースで白山界隈の登山番組を見ていた。
指の骨折でギプスをはめたまま

登山者は、白山登山の登頂成功をあれこれ考える。

TVを観ている者も。。。心配だった。

ギプスの中の骨折は、治癒していないことが映っているX線写真!

ドクターは、登山などでかかる力が、まだ無理である様子を説明した、

さすがに、登山のプロは、大和自分の体に謙虚だと思った。

歩いているさなか、肉や魚、栄養のあるものを食べられないのだろう、、、

骨折の治癒が遅れるのは当然の条件の中

田中さんはコースを変更したり

白山のコースも選ばれたと思ったから、

胸をなでおろした。

50代のころ、

素晴らしい山のリーダーの下で

白山の「馬の背」と、

山の愛好家の中で呼ばれているコースを登ったことがある。

岩山の続くよじ登り、下りの、手の力が無いと滑落すると思った。

田中さんの骨折に対する慎重な登山が、さすがプロだと思いながら、

プロになるほど、山の怖さと、

体調管理と、疲労の計算が慎重だと思いながら、

無理をしないで登頂にこぎつけたコース選びと

日程をズラス

治癒への思いが、

慎重であったと思いました。

プロは、無茶をしないと思いました。


白山の頂上で、2時間待って景色を観れたのも

視聴者を楽しませてくれました。

山の信仰の有名な高山だけに

無謀な登山は

地獄に落ちると思いながら、

神様に出逢ったような安心がありました。


早く全治するように、、、お祈りしていますよ


路線バスの旅!

2018-12-01 15:28:26 | Weblog
さいこ~~~~最高!

simizu 選手の太ももに感動したのは何年前でしょうか?

スピードスケートの奥深さが太ももに現れていて、

一軒単調に見えるスピードスケートを

注意深く分析しながら

風抵抗や、選手の重なりの抵抗の面白さや

遠心力を考えながら、、、楽しめるようになったのは

清水選手の太ももが、TVで写ったときからです。



私が30歳の時に誕生した清水選手に

大先輩のような多くのことを教わりました。

スポーツの精神力の強さ、、、というか、、、!

路線バスの旅、楽しみにしています。

今日は「黒糖」の生産も観られて感動です。

「黒糖」も奥が深いですよね。



清水さんは北海道の大自然の出身なので



金メダルの輝きと

世界の人々との交流と

スケート一筋に打ち込んだ一途な素敵が

ミックスして、

路線バスという、、、絶妙に楽しめるスピードの時間の動きは

独特の視点で楽しいですね。

飾らない性格と

世界レベルの金メダルが、民間で楽しめて、いいですね。!

清水選手を見ていたおかげで、

パシュートの三姉妹のレースの楽しみ方も深まり

単調に見えるスピードスケートの中に

奥の深い、

摩擦と抵抗と加速度と、

選手の重なりの絶妙な競い合いがあることを知って

体育系の金メダリストから、

深い、、、物理の流体の自然科学を学びましたよ。

あれから、、、何十年もたって、、、

来る年が後期高齢者の仲間になりますが、

スピードスケートの教えてくれた楽しみ方のおかげで

歳をとるのは肉体だけで、

頭の中は、、、

青春時代の総合大学時代の

素晴らしい才能の集まった日大時代の青春です。

素晴らしい若い人たちに元気をいただきながら

4Kの世界も、、、受け入れてみるかな???

。。。もう…歳だから。。。なんて。。。思わないで。。。

スマホも、4K放送も、茶の間に取り入れてみるかな?

清水選手の、、、路線バス。。。そしてとうちゃこ。。。

マラソンレディの時間の旅。

時間は地球上、、、動く速さが全部違って見える旅番組は

茶の間のオアシスですよ、、、

清水さん!!!楽しみにみてるからね~~~~!

北海道の、エースだよ。

スピードスケートのフアンの婆ちゃんが

かわいい、赤ちゃんの誕生を画面で見て

思わず、抱っこしたくなりました。

あの、、、

長野のオリンピックで

金メダルをトッタ

精悍な青年も、、、

パパになったんですね。

心から、頑張れ、、パパ!!!

ますます。味の深い旅になりますね。

これは、、、私だけの独り言の日記帳だから、、、

清水選手のフアンだ!って、、、年も考えずに、、

言えちゃうし、書けちゃうし、本音も言えちゃう!

あの太もも、、、サワリタイ(^^