花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

春の頼りの思い雪を。わだちにならないように除雪の闘い

2019-02-21 14:23:00 | Weblog
春の便りの青空が、見え始めた札幌!

早朝に降った思い春の雪

yoisyo ,,,

ヨイショ

よいしょ!

どっこいしょ!!!

春のお通りに、

わだちは似合わない。

この労働が始まると

静岡の桜や、雄大な富士山の幻に心が騒ぐ。

手も、足も、、、勝手に重労働をしているが、

頭の中は、桜の咲く伊豆に居る。

やっと、、、長い長い、、、冬が帰ってゆく。

札幌の生活が、やっと戻ってくる。

3か月半、びっちりと雪かきの毎日だった。

TVとPSと、雪かきの、、、

閉じ込められた、、、船底から

冬の鎖が解けてゆく、、、

結婚以来、、、50年間、、、私だけが雪を掻くのが

当たり前になっていた、、、。

東京の都立高校から、北大に合格した主人は

初めから、雪を掻かない生き方を選んでいる。

私は、いつの間にか、、、雪を掻く人になっていた。

医師という立場の人間は、

人生をとうして、、、

「医師をすること以外に目はいかないという事が、、

結婚してからわかっただけに、、、

誰かが、、、雪を掻く役なのだ。」

50年×3ヶ月半、、、雪かきの時間だった。

、、、、雪は遠くから見ると美しい

。。。富士山に登って思った、、、

こんなに石だらけの山だったなんて、、、

遠くから見ていた時は

アンナに美しいのに、、、

勤務医の奥さんになるという事は、

無給金の舞台裏係になるのと同じだったけれど、、、

自分が社会貢献を出来ない分

主人は社会貢献を出来てきたのだから、、、

社会からは評価されなくても

舞台裏の労働力が欠けると

「医師をすることの歯車の油切れが起こり、、、ダウンすると思える。」

孤独な後ろを守る仕事に明け暮れ乍ら、、、

後期高齢者の

姥捨て山が、、、雪に埋もれて、、、姿を現す日が来るだろう。

その日が、、、春の日差しであってくれると、、、

神様は居ると、、、信じるのだが、、、

夫より長生きしないと、

「医者バカ」の医師には、医師をすることが

社会への還元に繋がる唯一の、、、人の為になれる奉仕になる道だと思った。

家に、、、居ては、、、粗大、、、何とかと、、、変わらない。

ハイ!!おそまつでした。

、、、、、一回ぐらいは、、、てんこ盛りに掻いて、、、

お疲れさんの、、、ケーキぐらいは。。。買ってきても

良いと思うのよ!!!!!、


雪がもうすぐ、、、桜吹雪になって

手の甲に、、、前髪に、、、足もとに、、、はらはらと寄り添って

天使のキッスが、ストレスも、、、一気に溶かす春が

もう、、そこまでやって来た、、、と思うのは

春一番の、ドカ行き吹雪が過ぎ去ってからにしますね。。。





父が生きていたら、、、109歳!今日は命日

2019-02-19 18:52:53 | Weblog

私は、、、19歳だった、

54歳の父が、煙になって空に昇ってゆくのを見て、

突然の現実を受容できなかった。

涙が止まらなかった。

なくなる前日にMTさんの手術を成功して

麻酔が切れるまで、起きているからと、、、言って

それっきり、、、、

本人も死んだのに気が付かないのではないかと思うほど

早朝、ゆったりとした表情で、眠っていた。

5時前だったと思います。

父が外科医、兄が内科医、親子のコンビで

患者さんは毎日毎日

待合室にいっぱいだった。

母は、突然のことに忙しく手配しながら

「お父さん、、、ずるいよ~~~

子供たちは、まだ大学生と、高校生なんだからね、、、

起きなさいよ、、、私だけに押し付けて、、、」

しばらく、天下泰平な顔で昇天してしまった父に

母は、、、文句を言っていた。

婦長さんの正看護婦さんが

父の足元に正座して、いつまでも、、、父を見守っていてくれました。

初七日。。。49日、、、100日、、、

水栽培中だったサフランが、たった一日で球根から花に化けた。

信じられない勢いで花が咲いた。

父とそっくりの容貌をしている叔父さんが

大勢集まってくださった患者さんたちを、バスの前までいざないながら

火葬場まで、どうしてもついてゆきたいと

涙ながらに、帰らない患者さんのために

母が、、、バスを用意しましたからと、

挨拶をしながら、

「大先生の後は、若先生が、継ぎますので、、、、」と。

早稲田を父に親代わりになって卒業まで応援してもらった叔父さんは

長男よりも、父のすべてに全力で、走り回ってくれました。

父は54歳で、、、惜しまれて突然、、、死んでしまいましたが、、、

戦争に行っていた身体は、帰還したとき

細い骨と皮の姿が、軍服を着て映っていたから、

急に、、、椅子に座って、

診療所から出ない生活が、

運動不足のコレステロールの血管に

なっていたのかもしれません。

育ち盛りの男の子3人と、娘が一人、

3人とも、医者の父のおかげで私大に通っていた。

ストレスも多かったことだろう。

弟だけが高校生で、医学部希望の詰襟の高校生だった。

父が、、、突然、、、いなくなった弟は

本当に頑張ったと思いました。

千葉大学の医学部から

合格の、電話を受け取ったのは

偶然ですが、、、私でした。

「合格だって、、、!」

父が死んでからの受験は、

確実な国立を一つだけしか

受験していなかっただけに

受話器をお用途に渡すと、、、

「はいはい、、、ハイ、、、ハイ、、、」

ハイばっかり言ったあと受話器を置くと、、、

「お姉ちゃん!まさか、、、誰かのいたずら電話じゃないよね、、、!」

「千葉大からだよ!間違いないよ!、、、

電話を取ったとき、、、確かに千葉大の医学部って言ったよ!」

弟は、、、初めに電話を取ったのがお姉ちゃんで

千葉大まで、一緒に来てくれという、

いたずらだったら、、、許さないと言わんばかりの不安顔だった。

「本当だってば、、、!合格だよ!合格!」

結局、、私も千葉大まで同行することになり、

「ま、、、!、、、いいか!、、、すごくお目出度いことだし!」

千葉大につくと、弟は、一人で駆け出した、、、にこにこしながら帰ってきた。

「本当だった!、、、受験ナンバーがしっかり、確認できた、」

兄弟で、大学の合格を確認しにいた思い出は、、、今となっては懐かしい。

きっと、亡き父が、自分は体が無いので、私に乗っかって

合格を喜びについてきたのかもしれません。

父は、早逝しましたが

自分がやり残したことを、弟にしっかりとバトンを渡してゆきました。

国立がんセンターで

団塊の世代の一人として

医学の分野で、なみなみならない努力を続けてきてことは

遠く北海道に嫁いだ姉の私にも

新聞や、TVや、外国の雑誌を媒介に伝わってきて、

孤独な北海道に、弟だけは

すぐそばにいるような、近しさで過ごしました。

友人と、突然泊まりに来てくれたり、、、

奥さんと子供を連れて遊びに来てくれたり、、、

学会で、ロイトンのホテルで講演をしたり、、、

同じ母のお腹から産まれたとは思えないような活躍に

私は、日本にCTを普及させたコロンブスと、、、勝手に愛称で呼びました。

「柳田邦夫さんの、がん回廊の朝」をはじめ

弟が出ている単行本は全部買いました。

父の写真と一緒にしまってあります。

先日、、、茶の間の国会討論で

阿部首相が「民主党に変わった政権のことを、、○○▽×、、ウンヌン!」

野党が「取り消しなさい!、、、」

まるで、、、国会劇場のようなワンシーンに

苦笑しながらTVを見ていましたが、

国立がんセンターで、活躍していた弟も、

政権交代のさなかに定年が近づいてきて、、、

理解できない、激動の政権交代の津波の中で

50年間、しっかりと記録し続けたことも、研究も

独立法人になったときに、研究は国家予算が必要な分野なので

継続は考えられなくなったと

悩んでいました。

私には、高度な分野だけに、

推測することすらわからない次元の高さですが

すべてを捨てる前に、

びっしりと整理してフアイルにしてあったものを、

題目だけでもメモっておきたいと、

思ったぐらいです。

時代の移り変わりというのは、、、無情なものですね。

CTの時代が来るまでに、自分のことも、家庭も

すべて振り返るまのなかった研究が

今日の、

世界に羽ばたくがんセンターになった

黎明期の勇者が

先代の苦労も知らないで

「余は、、、生まれながらの将軍だ!、、とばかり、、、」

弟が定年した後のがんセンターで、

時代の波を受け継いでゆくのを

喜びとも、、世代交代の、、、仕方のない無情ともつかぬ感情で

自分が、家庭という孤島のような船底で

雪を掻きながら過ごしてしまったけれど。

柏の国立がんセンターが建設される頃、

いろいろの分野の方々と、会議会議で

その活躍は、体力勝負の限界まで頑張っていた若き日の弟が

亡き父の可愛がっていた「戦争を知らない団塊の世代の一人であり、、、!」

このパワーが、戦後の日本を復活していったと、

弟を通して、、、団塊の世代に感謝がわいてくるのです。

その当時、、、私は、、、意味も分からないままに

弟が、、、プレシジションというCTに全身全霊を打ち込んで

話してくれたことを思い出します。

そのころ、薬学会の「薬史学会のヨーロッパの学会に参加しました。」

ウエルカムミュージアムの医学の歴史的な展示室に

初期のころのCTが展示されており、

写真に撮ってきたことを思い出します。

弟の啓蒙のおかげで、家庭を放り出して

世界の医療施設を見学して回った時期がありました。

医学の歴史は、

先人の苦労が、

貴重なこととして病院にも保存されていました。

ノーベル賞をとられた教授の写真も、賞の入った額も、

実験室丸ごとが「歴史の保存」になっていたのは

パリの病院でした。

イギリスでは「ペニシリンを発見した時のシャーレ」が

アオカビとともに、

セントメリーズホスピタルのロビーに展示されて

エリザベス女王陛下のお写真と文章が並べられて

物事の黎明期の苦労した時代の先人の頑張りを

あとから続く世代も、大切にしていました。

国立がんセンターの、50年史のHPを見ていると、

ちょうど、、、阿部首相の発言した政権交代の時の

民主党になった時だったと記憶しているのですが、、、?

がんセンターも、激動の津波が押し寄せたような

独立法人、、、そしてまた、、、国立へと、、、

私は、患者だったこともあり、

CTはじめ、ペットの開発初めに、患者として

斬新な多くの画像が並ぶ自分の内臓にびっくりしたものでした。

先代の市川平三郎先生や、舛添先生や、崎田先生や、、、

がんの早期発見の時代の黎明期に、活躍した先生が

CTも、内視鏡も、日本の企業と多くの頭脳が円卓を囲んで

戦後の日本の

「団塊の世代の、マキシムまで燃えた総合力」であったと

医学と、科学と、戦後復興の希望に燃えた世代の

黎明期の、パワーが、

「がん」という不治の病だった巨峰に向かって

CTの開発、MRI の開発、リニヤック、、?、、胃カメラや

大腸カメラ、、など、

先陣を切った「コロンブス」を

患者の立場だった私は、「忘れません。」

新しい世代が、、、パソコンも、スマホも、3Dも、、、5Gも

すべて、、、当たり前のところから始まって

団塊の世代の名づけ親さえ死んでしまった今日

希望と、夢と、

日本の世界に向かっての復興をなした

昭和20年代の、、、弟たちよ、

君が定年で、居なくなったがんセンターに

黎明期に開発されたITと、人間の読影の素晴らしさが

次代を担う若者が、CTも、へりカルCTも、、プレシジョンCTも

まるで、、、テレビが茶の間にあるのが当たり前のように

発明者の名前など、、、無関係に引き継がれてゆくのだから、、、

誰かが、歴史の足跡を、記録してゆかないと、

ある日、、、誰かが、、、外国の病院の歴史的な発展の記録を見て

日本の、発展のプロセスを

手探りで探し始めるかもしれないね。





弟が、甥っ子に、教えてくれた医学生のころ

息子は、、、言っていたよ、、、

古い時代のCTや、レントゲンのぼやけた画像を

どうやったら、医師の必要とする画像に近づけるかが

課題だ、、、と、

写真として、綺麗だったり、美しくても、

医学として、がんの発見に必要な画像が映し出されないと

役には立たない、、、。

息子は、当時20代の学生でしたから、、、

がんセンターに遊びに行くのが、、、勉強だと考えていたようでした。

弟は、忙しい中、、、、学生の為に

質問に答えてくれました。


画像診断の医局に入局したのは

叔父さんの影響が大きかったと思います。


息子は母校の尊敬する先生方のご指導の下に

救急病院として、ヘリの飛んでくる病院で

患者さんのために役に立っている臨床医として

頑張っています。



お父さんが早逝した2月19日は

戦後の「戦争を知らない弟が、、、頑張り始めた記念日でもあるね、、、!」

塞翁が馬、、だったかもしれないね。

お父さんは弟をいつも抱いて皆と月夜の晩に

景踏みをしたっけね、、、

お父さんは、、、君のことが希望の誕生だったんだよ。

姉の私は、お父さんがあんまり君を可愛がるから

やきもち焼いて、、、君をコツントやったら、、、

診察室から,、、泣き声らしき声を聴いて

飛んできた。

「こらこら!!!弟をいじめたらだめだろう!」

、、、すごく、、、怒られました。

その日から、弟は、、、私が、、、コツンとするふりをしても

「泣くぞ!」と言って、胸を張るように、強くなりました。

私は、手も足も出なくなりました。

いつしか、弟の方が、家庭の中でも、偉くなっていました。

家じゅうの愛を独り占めする

やんちゃな可愛い弟でした。

お父さんは、戦争で失った3人の子供の死を

弟の誕生で、受容して、供養することで

心の傷は消えたようでした。

弟の誕生は、父が生まれ故郷に帰ってくるという

命がけのパワーを生んだことを

大人になってから、、、

息子の大学受験の時に気が付いたのでした。

お父さんの頑張りを思うとき

医師の息子を社会に送り出すのは

親の頑張りにも気合がいると思ったのでした。

今日は、、、お父さん、、、命日ですよ

生きていたら、、、109歳ですね!










チラシのうらなどに、絵を描く癖はなおらない!

2019-02-17 17:14:15 | Weblog
いまだに、、、ガラケーで、
月額3000円未満の、、、婆ちゃんです。

パソコンは、

一台はメールの設定や、


アカウントが勝手にわからなくなってしまった。


当初、間違いなくメールは開通していたが、

設定が消えて、サインアップの繰り返しにも

アカウントが、、、違っているという、、、

謎のまま、ヤフーや、グーグルの検索が動くので

知識の泉にはなってくれている、

きっと、外部からの、アプリが入り込んで、

勝手に操作が

まぜこぜになったのだろう、、、ね。

メセージの文字に、「悪意の、、云々、、、」と

吹き出しが現れるときは

問答無用で、

電源を切って、再起動すると、画面が元に戻る。

この年になると、、PSの複雑さには負けている、、

パソコントラブルが起きると

自覚しないままに、アチこっちのチラシの裏に

漫画や、絵や、スケッチやら、

美人画などを、

重ね描くものだから、

ボールペンがインク不足で書けなくなってしまう。

そうなってから、、、絵をかきながら、

パソコンの画面の復活するのを、操作する。

VM21 のパソコンを初めて使ったときは
夜明かしで、
バカでっかいフロッピーと
バタンバタンと格闘した記憶がよみがえる。

40歳の頃は
パソコンが復活するころは、

廻りもスケッチの絵だらけになっていた。



小松川高校に通っていたころ、

モグラ、、と

愛称で呼ばれていた数学の教諭が居た。


丸い枠の明治のような眼鏡をかけて、

元来のイケメンが

コミカルなイメージになっていて

生徒は気安く質問できる3枚目を

装っていたように受け止められた。

私は、数学の幾何学の時間になると、

漫画を描いていた、

主人公は、、、もちろん「モグラ先生」

ある日、ノートの漫画を、

べたの部分は塗りつぶしてしまい

仕上がった!と、、、悦に入っていたら

::::::::::::::::::::::::

ノートは宙に浮いていた。

夢中で書いていたから気が付かなかったが

モグラが、、、自分が主人公になっている漫画ノートを

つまみあげていた。

しまった!、、、怒られる!

絶体絶命の職員室行きかな!!!

うつむいていると

モグラが言いました。

「このノート、もらっていいかな??」

「は、、は、、はい!!!、」

モグラは嬉しそうに笑いながら、

怒らなかった。


しかし私は、それっきり授業中の漫画を描くことは、、、控えました。

卒業まじかに、

モグラが、、、進学相談の時に言いました。

「漫画、、、面白かった!

子供も家内も、ゲラゲラ笑っていたよ、、、」

嬉しかった!、、、モグラは,
忘れらえない先生となって、、、

時々、思い出しては、、、一人で笑っている、、、75歳まじかの

イタズラ漫画の思い出が、ふと、、、甦る

窓の外は、、、白一色の、富士山のような雪が、

視界を妨げ乍ら、

思い出の中の幻を浮かび上がらせる

真っ白な季節である。

北海道の冬は本物!

2019-02-15 19:25:32 | Weblog
寒い、、、というより

シバレルネ~~~と

北海道の独特の表現に出逢ったのは

留萌の寿町の宿舎だった。

寒い、、、というのとは違って

凍結する時の、マイナス温度の感覚が

さむい~~~とか、、、寒い、、、という客観的な会話用語ではなくて

眉も、鼻毛も、まつ毛も、、、凍結するという、、、

自分自身と、寒さとの対面で、

寒さに直撃されて、逃げ出したいけど、、、歩いてゆくしかない。

「しばれるね~~~!」

声をかけてくれるが、、、「ほんと、、、」と

やっと答えて、寒さの中で、仕事に向かう。

私の仕事は、、、ここの所、、、雪かき。

高枝ばさみに、雪かきショベルを紐でくくり

その上を、布製のガムテープで巻いて

4メートル以上延長できる雪かきショベルにした。

これを、ショベルの背中を上にして、

一階の屋根の、軒の雪庇を、ショベルの背中に載せて

斜めの位置に引き下ろすと

自分には落ちてくる雪はあたらない位置に落下させることが出来る、

去年までは、屋根にあがっていたのですが、

後期高齢者になる今年からは

屋根がつぶれない程度に

軒先にかかる重さを除雪することにした。

地震で、モルタル部分が畳2畳ほど

壁から落下してきたので、

キケンなので、モルタルをはがして運び去った後

とりあえず、スタンダードなサイデングを頼んだら

壁の中の木材の痛んだところも好感してくれた。

地震被害だから、中までボロボロになっているところは

次の地震で崩れないように

大工3人で予定外の工事の下地をつくったから

屋根の雪は降ろさなくても、大丈夫だよ、、、

見積もり以外の手間暇かかったけど、、、

ほ~っておけない状態だった。、、、といった。

細かく、写真を撮影してくれて、

治す前と、治した後の状態が

過程が分かる記録写真で

アルバムにしてくださった。

ネットで探した業者さんでしたが、、、

地震後のキケン要素はすっかり解決して、

今年は、、、水道と電気と、ボイラーと

やり直せば、何とか住める、、、使える住宅になると思うと

こまめに、手入れだけは欠かさないで

旧い家だが、甦って、、、とてもかわいい。

雪かきの雪は路肩に圧縮して積み上げているが、

2メートルの

雪の塀になっている。

除雪がほとんど来ないので

道路に救急車が入ってこれるように

3時間4時間は一日に除雪することは、

慣れっこになっている。

北国の雪は、、、戦うしかない強敵である。

雪まつりが終わると、、、春に向かって

春一番の吹雪が来る。

三月の初めの雪は

べた雪で、、、重たい。

ほんの2~~~3年と思ったが

北国の生活は、50年になろうとしている、

50年間、我が家だけは、、、女性が雪かきをし続けた。

二人の息子も、雪かきをした姿は見なかった。

男の闘いには
除雪の時間がとれないのだろう、、、と。

いつしか、片付け、ゴミ捨て、雪かきが

北海道に住むための、、、呼吸のような習慣になった。

早く、、、春が来てほしい、、、

春待つ心は、雪国の住民の共通の、、、希望でもある

受験システムの落とし穴

2019-02-13 05:05:10 | Weblog


世の中には、、、いじめ、、、という事が報じられて久しくなる。

虐めも理論も愛も道徳も、、、

人間性も、、動物以下の「戦争時代」。。

軍隊映画の上官が、部下の兵隊をいじめる映画など

面白おかしく、、、嘘八百でシナリオ化された現実が

バンジュン!、、、これって俳優の愛称ですが、

アチャコ、、、とかが、、、

白黒映画で、、、笑いの中の

日本の戦争を風刺した喜劇の映画が思い出されます。

将校には食事があっても、、、

兵隊は、、、鍋で、、、靴を煮ている、、、。

本当に靴を切って革にして戻して、、、煮て、、、食ったんだぞ!!!

戦後、我が家に合流して住んでいたシベリア帰りの叔父さんが

目を吊り上げて、、、私に言いました。


日大の理工学部の学生のころ、


戦争に出兵したため中退!。

出陣の時の軍歌を教えてくれたりしたことが有った。



こんな、、、勇ましい経歴の叔父さんでも、

帰還してからは、

「大学受験はもう、、、たくさん。」


復活の為の家屋づくりには、

叔父さんは引っ張りだこだった。

ステンレスの板から、流しや、洗面台をつくったり

庭にセットした丸型のこぎりが付いた機械で

自分が住む住宅部分は、

我が家の空き地のど真ん中に建てたりしていた。

婦人科医だと言えば、戦地に行かなくてすんだのでしょうか?

外科の医師は、真っ先に国にご奉仕です。

戦陣外科を、日赤の看護師さんたちと体験してきた父は

顕微鏡だけはいつも大切にしていた。

叔父さんは、父の為に、

顕微鏡の円い台を創った。

三段の円いヘリの段差があり、

木目が正目の見事に芸術的な出来栄えだった。

理工学部に在籍していただけあって、

父のレントゲンの技師さんもびっくりの

鉛をはめ込んだ、部屋を完成させたりして

戦後の、どさくさの物資のない時代を

魔法使いのように、いろいろな工具を使って生み出していた。

    

受験は、研究者だけ、厳しく受ければよいかもしれないと、、、

大学中退の叔父さんの生き方に

小学生だった私は尊敬の念を抱いていた。

大概の事はつくりあげてしまう器用な腕前には

学問をする人とは、又、、違う一念の伝わってくるものが有った。

この叔父さんには、学歴は必要なかったのかもしれません。



もう一人の、叔父さんは、

学徒出陣で、大学に入学する前に戦場に行った。

早稲田中学を卒業していたせいなのか?

理由はわからない。未来ある学生が戦場に行ったのでした、

終戦の後で、大勢の兵隊さんに交じって、

帰還してから、父の家に合流していた。

「兄さん!僕は大学に行きたい!」

28歳で受験に挑み、

見事に早稲田の理工学部に合格した。


疎開先に居た父は、生き残りの3人の息子や娘の育児の他に

戦争を知らない、、、新しい時代の男の子が産まれてくれた。

あたらしい時代の、新しい教育をさせるのだと

末っ子を見ていると

希望が湧いたと言っていた。

やがては、

教育の為に

疎開先から、

生まれ故郷の東京に

帰る日が来ることは、、、避けられないだろう、

その為にも、

生まれ故郷の東京で、早稲田に通う弟を

親代わりになって、

授業料、生活費を送り続けた。

卒業したときには、学芸大学を卒業したという

小学校の先生を、お嫁さんにと、、、連れて帰ってきた。



疎開先の、診療所の二階の広間で

叔父さん夫婦の結婚式を挙げました。


まだ少女にもなり切らない子供の私は

叔母さんの花嫁姿がまぶしかった。


赤い花の模様の着物を着て、私はおばさんのアクセサリーのように

大人に言われるままに、お酒を運んだりした記憶がよみがえる。

戦争が終わって、日本に帰還した父の弟、、、叔父さん!

28歳で受験をすると聞いたとき、

びっくりしたが、、、

「合格したら、応援する」、、、、と、約束した父は

「まさか、、、本当に合格するとはね、、、」と。

母は、たくさんの居候を抱えて、

勤務医だった父の開業に際して

音楽の知識だけでは、、、手に負えないと察知していた、、

青山師範(現代の筑波大学)を卒業後、

渡米して、多くの事を学んで帰ってきた母の父に協力を求め

開業のノウハウを任せっきりにしていた。

開業の事務に通じた人たちの協力を得て、

忙しい日々を送っていた。


疎開先では、父は「神様のような先生」といわれていた。


村にとっては、居なくてはならない、、、

たった一軒の医療施設だった。

そして、、、13年が過ぎたとき、

私たちの兄弟は受験戦争に突入した。




あのまま、、、疎開先で、医師をすることだけに専念していたら

父は54歳で過労死することはなかったかもしれない。


戦争で、八人兄弟姉妹のうち4人を喪っている、

男3人、、、女性一人、、、爆撃の時、、流産が一人、

富国強兵で、日本は植民地にはならないぞ!、、、という時代。

産めよ増やせよ、、、兵隊さんの候補生を、、、という、、時代。

東京の真ん中で東京タワーの見える芝公園。

当時は、

宮内庁の方々のかかられる病院だったと聞いています。、

慈恵会医科大学を卒業した父は、

娘の私から見ても、

眩しいような、優しさと強さと品が感じられた。

疎開先では、医師は一人しかいない。

私の、子供の頃の友人は、

父の東京言葉を真似ては、、、

先生がお父さんやなんて、、、あんたはほんまに、、、ええな~~~!



友人は、私を見て、いつも父の事を言った。

私の事には興味を持ってくれることはなかった。


無医村での、

奉仕の心で

昼夜働く父という神様に守られて、

よそ者の私は、、、最小限の仲間外れで済んだと理解している。

誰も自転車に乗っていないときに

昭和25年ごろ、、、私はワインレッドのママチャリを持っていた。

㋖自転車という会社の自転車だったと記憶している。

校庭に置きっぱなしで、

乗りたい人は、誰でも乗れる自転車になっていた。

私が乗りたいというと、すぐに自転車は交代してくれた。

キンモクセイと、ヤマモモの大きな木のある診療所では

お寺さんのような広い縁側があり、

キンモクセイの香りの中で、昼寝をしたものだった。

こんな素晴らしい環境なのに、、、

8歳年上の兄の受験が始まるからと、、、

母と子供たちは、

戦後のドサクサの、東京に、一足先に転向したのでした。

子供の受験。。。両親は、命がけで、



あたらしい戦後の教育を受けさせるために

地域医療に備えて

未経験の開業に向かって、

後戻りはできない、、、

父の故郷がえりでした、

「個人開業の入院室のある医療施設の経営を始めたのでした。」

父の家は市ヶ谷の旧家で、御爺ちゃんは宮内庁に勤務していた。

しかし、戦後の市ヶ谷は、帰れるところではなくなっていました。

慣れ親しんだ市ヶ谷とは、

又一味違う下町で

家族と息子とともに

下町のお寺だった跡地を世話してくださる医療人が居て

疎開先から、母と子供だけで、

上京した。

疎開先の村には、戦後合流した母の弟家族が残り

父は、生き生きと診療の後は趣味の時間に没頭していたと

従妹の義姉が、笑っていた。

「叔母ちゃんが、一足先に東京に行ってからは

叔父様は生き返ったように、診療所を、開放して

村の人がいつも、、、たまっていたのよ。

叔母さまから禁止されていた、囲碁も

麻雀も、解禁されて、

叔父様は診療の後、疲れて寝ていても、

村の人たちが、入れ替わりたちかわり、、、

叔父様を起こしに来て、

にぎやかな集会場になっていたわよ。

彼女は、、、その後、父が杉野ドレメの大学を卒業させて

医師と結婚し、イタリアンレストランを経営しながら

ゴルフはシングルという腕前で

一族の中では、堅苦しくならないで

医師のメンバーの集会するレストランになっていたようだった。

私は、美人系の彼女が苦手で、

彼女のレストランには一度も言ったことが無かった。

当時、レデースゴルフクラブというのが

芝の打ちっぱなしのゴルフ場で募集しており、

5万円ぐらいであったと記憶していますが

兄と、姉と、従妹たちが、私の名前も登録しており、

本人がアクションしないまま、会員になっていたことが有った。

そういうわけで、兄夫婦に、無理やり打ちっぱなしに同行することになった。

なんのことはありません、、、

内科医の兄は、初めだけ同行したものの、

後は奥さんのステッキガールとして、

私を同行させるのに会員にしたというわけで、

父が亡くなって、兄夫婦の政権下で

大学に通っている手前、

義姉の御遊び同行お供も仕事だと割り切って

会では、御つきの腰元のようにオトナシクしていたものでした。

あたらしい世を生きるための、

これも勉強だと割り切って、心は東京へ帰ってきたのでした。



戦前は、市ヶ谷に実家のあった父からは、

文人道りに住んでいた、学識のある著名人の人生を

聞きながら、私は、本屋でその人たちの著書を探した。

本屋では買わずに、図書館通いが再燃した。

父のさりげないよもやま話から

学問は大切らしいとは、、、気が付いていた、

医師になるつもりで、勉強には気を抜かないで過ごしていても、

居候や従業員を抱えた父の頑張りを見ていると、

男の子3人の大学が、最優先するのは仕方のない現実だった。

長男は私に逢う度に

「お前は、嫁に出てゆく人間だから、、、な。」

九官鳥の、、、馬鹿の一つ覚えのように

すれ違うたびに、わざわざ立ち止まって、私に言い続けた。

短期大学や女子大の受験願書を、ミカン箱一杯取り寄せて、

「大学は、この中から選べ!」、、、と言って
部屋に投げ込んでいった。

東京大学を受験すると言って頑張っていた兄は

別人になってしまっていた。

あの頃は、正座して、父母に「おやすみなさい」と言っていた。

映画に誘われても、、まともなものが多かった。

モーゼの十戒、、、眼下の敵、、、クモの巣城、、隠し砦の三悪人

椿三十郎、、、ナバロンの要塞、、、

「詰襟が似合っていて、夢にあふれていた。

見る映画も緊張感のあるものだった。

東京大学が不合格になると、

父と一緒に診療所をする医師になるんだから、

学問よりも、臨床力だから、

いろいろな疾患の患者さんに出逢って

実際の医療を体験しなくては、、、

怖くて、命を前に、、、何もできない、、、。

悩みが顔に出るようになった。

ある日、、久しぶりに映画を観に行こうといった。

名誉と栄光の為ではなく、、、という

よくわからない映画だった。

その後、、、「たが為に鐘は鳴る」を見てからは

彼女が出来たみたいであった。

そして、、、学生結婚!


愛する人の膝の上でうずくまる、、、カットの漫画。

このカットは、手塚治虫さんの漫画本を集めていた時

気に入ったワンカットです、。

手塚治虫さんに、フアンレターを書きましたら、

葉書でお返事くださいました。

北海道に行くからとも、、、書いてありました。

小学校に入学する前から、

ロック冒険記、月世界旅行、、、、タンカイという難しい漢字の表紙の

分厚い雑誌に、連載していました。

何度か、お手紙を書きました。

吹き出しに、自筆で、手塚だな?!とか、、、

自分の名前を書くのはどうしてですか?、、、とか、、、

手塚漫画は読まない物はないというほど、、、はまっていました。

兄が、、、東大を落ちてから、、、生き方が変わったね?!と言ったら、

家にあった漫画から、このカットを拡大コピーして

「お兄ちゃんの気持ちは、、、この漫画の絵と一緒だよ、、、」

渡されたカットを、、、しばらく壁に貼っていましたが、

手塚治虫先生の、海より深い心のカットを、簡単に使っては

申し訳ないでしょう!と、、、言いましたら、

「東大に入学した自分の姿しか考えたことが無かったのに

東大から、、、君は要らないと言われてみろ、、、安住の安らぎは

この漫画が代弁してくれているよ、、、」

手塚治虫さんのはがきと、この絵の事は、本人から、、、、ちょっと違うかな?

受験に失敗した時の、安住の憩いの場所なんて、、、N,,,,???

あの、お返事は、おいておけばよかったと。



手塚治虫さんが、、、兄さんだったら、、、きっと私も

漫画を描いて、いたかもしれない。

アンナ、、、あ兄さんが居たら、、、いいな~~~。


実際の、優しかった兄は、東大入学に桜散ってから

別人になってしまいました。

屋敷も、お金も、女性も、名誉も、地位も、。。。

生きるために必要になったみたいでした。

本来は、ぢんな人だったのでしょうか?

目的にしていたものが、、、無くなった、、、

仏教に「四苦八苦」とありますが、、、

喪失感に耐えるには、、、奥さんの膝が逃げ場だったのでしょうか?

東大ばかりが、、、大学ではないのに、、、

こだわり、、、執着。。。欲望、、、人は、もっと

大河の一滴になって、、、

流れのままに、次の出会いを、、、大切にしてほしいと思いました。

やがて、、、医師免許を取得して、

新しい人生観に出逢ったのでしょうか?



急に妹が邪魔になったみたいでした。

私にしては、義姉が出来るのはうれしいことのはずなのに、

まだ、高校生だった私にとっては

兄や兄嫁と付き合っている暇は無くなっていた。

東京大学という、、、自分の研究したい何かに向かって

夢を追いかけていた兄が、

私立の医科大学に進学して、父の後を継ぐ人生を決めたとたん。。。

結婚!!!、、、私には

短絡に思えたが、

出会いは時を選べないから、

なるようになって、、、私は最も邪魔な

小姑の座に鎮座する、、、目障りな存在となってしまった。

父は、優しかった、

近くのお寺の松を見に行こうよ、、、と

診療時間の休憩の時間に父と二人で

松を観に行った。

「御覧よ、、、松は、たくさんの支え棒で

美しく立っているが、、、松の木だけでは、枝は皆折れてしまう。」

父は、、、兄夫婦の横暴なやり方を、

支えてやらねば、、、あの夫婦は、、、立てない、、、と

言いたかったのかもしれません。

それからは、私は吹き流しのように、

全てを聞き流しながら、、、

松のつっかえ棒にもなれる条件で

自分で生きて行ける資格のとれる大学を絞り込んだ。

高校の先生は、千葉大学の薬学科を勧めてくれた。

受験番号125番

一番に来い!、、、良い番号であった。

前の日に千葉大の近くの旅館二泊まるからと家族に伝えた。

兄は、早朝、国道を行けばすぐだ、、、泊まらなくっても
お兄ちゃんが送ってやるから、、、と、

約束した。

しかし、、、早朝、

兄は起きてこなかった。

自分の事は、全て自分の責任で受験するべきだった。

舞い上がって喜んだ縁起の良い受験番号125番は

受験前の準備段階の甘さで、、、欠席という

予期せぬ出来事に、、、私は茫然となった。

それまでに、私立をいくつか受験してあった。

本命の千葉大受験の時に

心が平常心のまま受験に臨めるようにと

あえて、年子の一つ違いの兄が受験する大学は

お供のつもりで受験していた。

いくつか合格していたおかげで

浪人はしなくて済んだけれど、、、

その時以来、、、兄は嫁さんのご主人であって、

かっての、優しかったあのではないことに気が付いた。

大きなリスクはあったが、
大学院までは、望めない環境であることも

その後気が付いた。

医学部に居た兄には、

戦争で、ボロボロになった父は、短命だと気が付いていたのだった。

千葉大の合格すると、、、下宿になる。

家から最短距離の25分で通える日大が最高の大学だと

兄は言った。

なんのことはない、、、

兄が医学部で、妹が日大の後輩になるという

兄は、初めから、女性一人下宿に出すことを

阻んだだけであった。

千葉大の医学部に行きたくて

旺文社の電話帳を10年分研究して

数学は、出るだろう順番も推測がついた。
理科は物理と科学を選んだ。

国語は地震が有った。

ありおりはべり、、、いまそがり、、、

理科は日本史と、、、現代社会、、世界史はやめておこう、、、

推敲に推敲を重ねた原稿用紙のように

答えを書く順番まで決めた。

そのころ、、、兄は、進学するなら短大にするか、

女子大にして、卒業と同時に嫁に行け!と言い出した。

4年生の大学なら、、、行ける!

千葉大学は薬学も素晴らしいと思った。

園芸部があるから、薬草の研究もできる。

医学部に拘らずとも

薬学部には、薬理や生化学や、生体の宇宙の研究もできる、、、

私は、現役のうちは薬学の方が入学しやすいと考えて、

医学部は、中止して、もし、浪人するなら、医学部に願書をと考えた。

迷い迷い、、、確実なところをと思い

薬学部に願書を提出した。

私にとったら、、、本命だった。

前の日に、旅館に泊まり、アクシデントを避けるべきであったと

自分の甘さに、、、愛想が尽きた。

兄を恨む気持ちにはならなかった。

自分が、国立を受ける資格は無かったと反省した。

国立を受験して、研究者になるという基本が無かった。

自分の甘さに愛想が尽きた。

日大理工学部は付属高校の試験が済んでからの

少数応募の闘いだけに

実質は30倍以上の激戦になっていた時代である。

大學の指名した代表幹事に任命されて

クラスメートと教授の間の事務をさせていただきながら

学力はともかくとして、

多才なクラスメートの生き方に

影響を受け始めてからは

世の中は、いろいろだと思い始めました

::::::::::::::::::::::::::::::::::

父の話を思い出すと

学問だけではなくて、

いろいろな生き方を

これから学ぶことの大切に気が付いた時期でした。

思うようにはなっていたかもしれません。

はたのあきこ、、、という美形の雑誌の原稿を集める人が

借家に住んでいた有島文学の担当で、

べレ^棒をかぶって、モダンなスタイルの美人だったと言っていました。
ある日、、、文学者にありがちな

恋の道行で、心中してしまったのが、ショックだったとか、、、

父は、晩年ぽつりぽつりと、、、幼いころのことを話し乍ら、、、

子供たち皆を信じてるから、、、と、言っていた。




ちなみに父の言葉から聞いた著名人の本は

たしかに、、、素晴らしい作品ばかりです。

番町文人道りは、

父の青春時代の足跡が感じられる街でした。

父から聞いた著名人の日常の話は、

貴重な記憶の日記帳です。

ちなみに、、、今の若い人は知らないかもしれない

当時の著名人の事を

父と母は、楽しそうに話しながら、、、

その、作品の印象に残った言葉などを話してくれましたっけ。。。!!

島崎藤村、、、破壊やリンゴの出てくる詩。

藤田嗣二、、、画家の数奇な運命。

有島武郎、、一房のブドウ(ひとふさのぶどう)

  生馬

菊池寛。。。山国川をさかのぼって、、、恩讐のかなたに

そのほかにも

中村吉右衛門

市川歌右衛門、、、ご存じ!!殺陣の華ある面白さで一世風靡

         私は、お子様の欣也さんの銭形平次に目下夢中です。

串田孫一、、、皆の方がご存知でしょう。
網の菊
川喜多半泥子
直木三十五
里見、、、
武田麟太郎
里見惇だったか?弓へんだったか。。。?

そうそう、、、与謝野晶子の、

弟よ、、、君,、死にたまうことなかれ、、、

この詩は、父が暗記していて、

終わりまで、きかせてくれましたっけ、、、!!

当時は知らないと、、、潜りだったそうな、、、

有名な人だったと思います。

おまけに、いつも遠くからとはいえ、

父の若き日に歩いた道には

ローマ法王庁の大使館がありますよね、、、

戦前は、借家を持っていたという父の実家も

戦後は、帰るどころではありません。

国の命令だったとはいえ、

戦場の傷や、弾痕傷や、外科の出番の多い中で

大陸の現地人の医学は役に立たないことがほとんどだったそうです。

イギリス医学を学んだ父が、

軍隊の、質問に対して、「外科です」と答えたことが

戦地近くの現地の大学の教官として、

現地の外科医の指導の命令が有ったとのことですが、、、聞いた話です。

現地の医局には、

外科の医局が無かったような、

有っても、、衛生観念が未発達で

役に立たなかったらしいです。

日本からの日赤の看護婦さんは

素晴らしい精神力を発揮していたそうでした。

父も戦場ではイエス様の立ち姿を見たと言っていました。

戦場は砂漠以上の精神の枯渇だったことでしょう。

イエス様のお姿が、枯渇した心に。。

心に一杯の水を下されたのかもしれませんね。

敵も味方も区別なく、助かる見込みのある兵隊は

国に巻き込まれて戦っているのだから、

敵味方なく手当てをして、心も身もボロボロに働いたそうです。


提灯袖で、

コックさんのような帽子をかぶった看護婦さんに囲まれて

真ん中で、

白衣を着たひげもじゃの医師が、、、

父だそうです。

なるほど、、、眼が二重で、、父の瞳に間違いありません。

その写真は日の丸の旗と、海軍の朝日のような日の丸の旗に囲まれ

戦争の緊張感が漂っているのが伝わってきました。

父の後を継いだ長男の院長室に

額に入れて飾られていましたが

私は、財産等は一円もいただきませんでしたが、、、

大学時代にお世話になったのが、、、遺留分と心得て

兄のすることには、、、ご無理ごもっとも、、、と

蚊帳の外に控えていた妹でしたが、

兄きの方からの侵略はしばしば、で

妹は、兄嫁の、部屋付き腰元のような扱いで

一日も早く、、、独立するか

父に代わる、外科医と結婚して、

兄と対等に、経営の両輪になるかだと

厳しく要求を突き付けられながらも、

一人娘、、、三人の男兄弟、、、

長男命のような母。

腰元の扱いの娘。

私の前の、バリケードとなった叔父さんの娘の三姉妹。

私が、母に用事があって、母を呼んでも、

三姉妹が、間に入り、

母は、娘より、姪っ子が可愛いのか、、、

ドレメに通わせていた長女は

特にお気に入りで、二人して生地を選びに

銀座のマギーや、

戸越銀座までも出かけていた。

この三姉妹は、

戦後に合流した母の弟の華族であったが、

皆、セレブになっている。

母の趣味と合ううと言えばよいのか、、、

理科系の、もっさりした娘はお呼びではなかった。

大学というのは、

どこどこ大学というよりは

専攻した科が、、、心をつなぐ出会いがあるのかもしれません。

早稲田、慶応も有名ですが、

同級生は、高校時代から「高分子化学の研究をしたいと言っていた。」

横浜市立大学の医学部と、北大の理類に現役合格して

念願の高分子の研究のできる北大に進学した。

姉さんが専修大学に行っていたこともあり

両親は姉が見れる実力と信じて

故郷の東京を離れて、札幌入りしたにだろうと

私は、、、彼の生き方も、ビジョンがあっていいなーと思っていた。


兄は東大に受かると信じていた時代が有った。

私に一緒に東大の中を見学しようと言って

三四郎池に行ったことが有った。

しかし、開業医の長男の兄は両親の盾でもあったから、

東大に入りさえすれば

開業医の息子として、後を継がなくてもいいと思っていたようである。

研究をする、自分を想像して、

妹の前で、此処に入りさえすれば、、、世界への門が開かれる、、、

誇大妄想の夢を語っていた。

しかし、、、入学合格所の代わりに

「桜散る、、、」の知らせが来た。

兄は布団から、一日中出てこなかった。

結局、私立大学の医学部を卒業したが、

がんセンターに通いながら

胃カメラの指導医になり、大病院に勤務医として出発した。

兄の時代に、実家は売られて、閉院してしまったので、

私が実家にたどり着いた時には

ブルによってひっくり返された、土に、

父母が大切にしていた、、、

正月だけみんなで囲んだ

柿右衛門の、、、父の御自慢の皿が

割れて、、、土に刺さっていました。

言葉も出ませんでした。

受験で東京大学に敗北した兄は

研究志向の人間だっただけに

臨床の開業が、、、不向きな性格をしていたのでしょうね。

開業しながら、医師を頼んで、

自分は国立がんセンターに研修に通い

胃カメラの指導医の資格を戴いて

せっかくの父の残した医療施設は売ってしまいました。

税金が95パーセントになったと言いますから、

親から譲られた医療施設は、法人にして、

兄弟に、医療施設のまま譲れば、、、

実家は残ったのかもしれませんが、

私たちほかの兄弟には相談が無かったので、

どうなってしまったのか、、、寂しい限りです。

後で、、、聞いたことですが、、、

旧い建物の維持は、

買うより高いから、処分したと言っていました。

東大を狙う!

東大を落ちる!

せっかく、臨床医としては

日本一になれる私立医大に合格したのに、、、

若き日の、自分の夢が忘れらずに、、、

医学部の学閥や、医師会や、学会

そして、研究部門の大学の医学部、、、

開業の父母を背負って、

主婦が、社会で、仕事をするような

中途半端な位置で

父の残した財産を燃やしながらのステータスの維持にも

泉が尽きる如く、、、

家を売らねば、嫁さんを守れないという

嫁さんの痴呆の始まりの現象が見えたとき

痴呆はいかに、、、周りのエネルギーを食うかという事が

女房がなってから、、、わが身の処し方に困惑したのだろう、、、

実家は売られてしまいました。

私が、、、主人とともに、実家を経営していたのなら

法人にして、地域に根差して、要介護のできる病棟も作り

母も兄も、姉も、主人側の兄も、義妹も、

長逗留できる、、、サザエさんの家のような病院をつくり

父の残した、240坪の東京都の土地は、地域の老人の不安を無くす

ゆりかごから、ご臨終まで、かかりつけ病院医師☜として、

私はそこで、雑用事務も一手に処理できる薬局を対面に創り

そこで、父と一緒に居るつもりで、

実家の大切な外郭の一人として

薬局長になっていたかもしれません。

国立大学に合格できなかったとしても、

生き方ははいろいろありますから、

横光利一の「蠅」という作品を、

サイド読み返してくだされば、

一度しかない人生を喜劇と思って

じっくりと、、人間を味わえる時間をつくるのは、、、

実に、、、生きてる、、、証拠だと思うんだけど、、、

兄にとって、東大がすべてだったという

刷り込まれた心の貧乏は、

父の残した240坪の東京都の土地が燃料になっても

俺は、、、俺は、、、と自分を持て余している姿が哀しい。

兄は81歳にして英検一級をとりました。

東大に入学するためには

15歳で、英検1級でも、、、どうでしょうか?

私は十代の時英検二級を合格していますが

その後は、英語を勉強していません。

オードリーの映画なら、英語のまま聞き取れます。

英語ニュースも、語彙には苦労していますが

英語のまま聞き取れます。

もう,自然に任せて活きることにしています。

東大にこだわり続けて、「道化」をさせられたような人生には

悲しみしか、感じませんね、、、。

受験は、大学にこだわらずに、、、

自分の成長に合わせて、柔軟に

数多ある道を楽しみながら、、、

細い道でも、原野でも、、「気づき!!」が大切ではないかと、、、

私自身、こだわった欲望は、一切捨てて、

その時々に、最高と思える努力をしながら、

孤独に強くなることを、意識しながら、

大学という、、、マジックの世界に

落とし穴が見える年になりました。

受験生に、孤独を与えないシステムに切り替えて、

受験は人を育てるマジックになってほしいものですね。




いろいろなことが、

津軽海峡を隔てて過ぎてゆきました。

主人が札幌に住むと決まった時点で

外科医を連れてくるはずの私は

ミイラ取りがミイラになってしまいました。

学閥というのは、生活が懸かるだけに

主人は「必ず二人で東京に帰りますから、、、」と

母の了承で、私は実家継続と、母の為に、結婚したことが

若さの無知から、、、

医学部の学閥を認識できていませんでした。



北大の臨床医の舞台は北海道だったのです。

さもなくば、、、超優秀で、ハーバードぐらいに留学して

日本全土に通じる医師にならなければ

津軽海峡は海よりも深く広いという事でした。


七年間も、家賃の半分を稼げるのがやっとの

大学院生活が中退の後、終了となったのは
博士号が取得できたときでした。

主人がが博士号を取得すると、
大学にきちんと居場所が出来て


医局長、講師、、、そして、
北大医学部の卒業生の創立した病院へ

研修病院の指導者として、医局人事によって

北海道にはなくてはならないドクターヘリの飛来する救急病院の

外科のスタッフとして、4人で頑張る運命が来ました。

外科四人で、、、全科そろった五〇〇勝以上の救急当番のある

患者さんを受けてゆくのですから、、、

創生期間もなくといえど、、、開業医さんに頼っていただくためにも

主人は、、、住処は、、、病院のような毎日でした。




家内も、子供も、、、お父さんは居ても、留守ばかりという

父の存在だけで、守られてはいても、

実態は母子家庭に類似した生活でした。

母にとって、私にとって、

一般の人にわかりやすく伝えるとすれば

学閥というのは、地域第一の医療の病院を守るのに、

出来上がった外科医を、東京に行って、即戦力にするという事が

出来ないという事でした。


主人は言いました。

僕の生きる仕事場が、医師の家庭であって、

医師以外の時間の家庭が、、、、

私と子供の居る華族の家庭であると。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

私は割り切りました。

主人は社会からは評価さっる慕われる医師だとは思いますが

医者バカであると、、、私は主人を医者バカの棚に分類して

医師をすることのサポート以外には

興味を持たないことにした。

国会道内では一番の国立大学を卒業した以上

主人は、北海道という地域の所有とみなすのも

ストレスからの回避になった。



もともと、契約結婚のような事務的な動機の結婚だっただけに、

私の仕事は、実家の立て直しから、、、

大きく進路変更になりました。

夜中に帰り、早朝出かけたり、

4人で守る巨大病院の外科は、

土日に帰ってくればよい方だった。

長男の作文には、、、こんなことが書いてありました。

+++++++++++++++

お父さんは居る。

でも、、、お父さんは居ない。

お父さんはめったに会わないが

家を守っている神様だ。。。

**************

連れてくる友人は、片親だけの子供がほとんどでした。

私は、2階の主人が居るはずの部屋を開放して、

おにぎりをつくっては、、、子供たちと

その友達たちと、話をしたり、

笑ったり、胸がこみ上げてきたりしました。

多いときは十四~~五人の学生のコンパの部屋でした。

手塚漫画で部屋は子供の部屋と見間違う漫画を集めていました。




家庭で、独りぼっちの育児は、知恵の足りない、

困ることの多い手探りの母親役でした。


子供の成長期に、理解できない反抗期もありました。


100時間の、カウンセラー養成の講習にも出ましたが

卒業の論文は受け取っていただけませんでした。

5万円で、100時間は格安の講習会だと思いました。

習ったことは、びっしりとノートに書いてあるし、

ロジャースの本も暗記するだけ勉強したし、、、

視点が広くなりましたが、

どういうわけか、、、私の卒業論文は、講師の先生には

却下、されました。

理科系の視点では、カウンセラーには向いていないという事が

解っただけでも、、、

子供たちの心を理解しようとした試みは失敗に終わりました。

「心」  心、、、こころ、、、

夏目漱石の「心」を買ってきて読みふけりました。


文系の視点が、理系の私とは、違う事にも気が付きました。

それからは、カウンセリングよりも、

精神医学の本を読むようになりました。

主人の大学の教科書だった諏訪先生の「精神医学」の教科書を

何度も何度も、読みました。

ビリーミリガンの本も、心を知るには役に立ちました。

人の心は、、、本当に難しい、

仏教に、四苦八苦というのがあるが

兄のように、、、東大に悲願という?

理解できないコダワリノお化けもいますし、

東大の受験で敗れた心も、、、その一つであろう。

受験に敗れて、

「基礎の常識」の「学門以前の問題」で落第して

希望の学門に門前払いされるというのが

現代の日本の、

公立大学の受験生の心であろうと、、、想像している。



「苦」を体験した人間が、どこか違う場所に行って
「苦」を吐き出すか、、、

他の人間に「苦」を与えるという

アイデンテティの確認をするという、、、

人間の弱さがあるのではなかろうか?




戦後の貧困の中で、主人の母が、向ヶ丘公園に行って

普段、、、食べられない御馳走を、

3人の兄弟と妹にふるまったとき

主人は、子供ながらに、

普通ではない空気を感じて

母に言ったそうである。


「母ちゃん、、、僕は医者になって、母ちゃんに楽させるからな、、」


お母さんは、涙を流したそうである、、、


主人も、私の弟も

国立の医学部に合格できたのは、

ハングリー精神のおかげかもしれませんね。

私の弟も、受験前に父親を亡くし、

ハングリー精神で、
末っ子だけが国立一期校の医学部を卒業しました。

上の三人は私立大学です。


その証拠にはならないかもしれませんが

父親が、留守同様でも、

ハングリーとまではならない健在ですから

息子は二人とも、私立大学の卒業ですよ。

受験とは、、、ハングリー精神。


受験とは。自然体で、知識や学問に興味があり、

ご飯のように勉強が好き。

見栄や、競争心のかけらがあっても、、、

国立大学はむつかしいですよね。

親に言われたり、強制されたり

知識の詰込みでは、、、やっぱり受験は突破しにくい。


広い巨視眼と、自分なりのたしかな「ヴィジョン!」

健康を守れる日常の心身のバランスのとり方の習慣

やっぱり、、、

ハングリー精神に負けないで

第一希望に命がけで挑む。

それには、TVも、ラジオも、小説も、音楽も

、、、、フウテイに相当する、、、と思うから、

知識の津波に流されない高台に立てるだけの

日本の大学の要求する模様が

山の上から見えるまで、

鳥瞰図的に、問題の座標が見えるまで、

リラックスした見方も必要に思ったりしています。


大学に合格したらおめでとう。。。

落ちたからと言って、

居場所を見失わないで

自分探しをしながらも、、、体造りを欠かさないで

結構な精神をもって、来年は

滑り止めもしっかりと用意してください。


斬鉄剣というサイトが、ずーと昔ありました、

その中に、「浪人時代の思い出」という

コミカルな二浪時代の受験への目覚めのような

晩稲の青年の体験随筆がありました、

作者が、

最後まで〉大切にしていた言葉が思い出されます。

「合格した奴は、、、すべからく、、努力をしている。」
「至誠天に通ず、、、という、、、故人の言葉!」

そして忘れてならないのが、、、、健康維持の

1時間ごとの、体操です。

ドリフターズの名言に、

「歯」を磨けよー!

受験生の皆、、、とりわけ、、、わが孫よ!

風邪ひかないよーに!

   婆ちゃんの、思い出話を、、、、5月過ぎたら読んでね!





いつの間にか、、、話がそれてしまいました、

孫が受験です。

頭のハンドルが、、、気が付くと、

受験の柱の前でエンストです。

心の不思議の書かれた本は、

私は中学時代に、

一番先に探し始めた本たちでした。

人工知能の時代に

心の在る学生を合格させてくださいね!

日本の未来が、みずみずしさを保ち続けるためにも

アナログの細胞のある合格者を期待している。

主人は世間から見ると、ご期待に応えられた医者バカですが

舞台裏の相棒の家内から見ると、

日本の受験時代の洗脳が年老いても効いているのでは?、、と

「医者をすることだけが人生の道と思ったまま、、、

他の面には無関心な、、、不思議な世界に生きています。


一流大学に入ることも道かもしれませんが、、、

自分のビジョンを持って

大学にこだわらずに、

行きたい道に通じている先生のいらっしゃる大学を目指すのも

おっとりした人格になれるのではないでしょうか?
一度しかない人生を幸せな心で楽しんで頑張るようにしてね!

茶の間の婆ちゃんでした。

設定を変更しないまま、安心して日記を記します。

2019-02-08 14:42:51 | Weblog
何年も、、このブログを書き続けていますが

嫌なことは一つも起きていません。

それだけに本音で、

若き世代の人が

戦争のない幸せな時代に生きてほしいと

思い出話も、

本音で書いています。

GOOのサイトは、私のような、年寄りにも

安心して

思い出話や、世論未満お茶の間話以上の

感想も、本音で書けています。

ひっそりと、

今までのように、知人と

偶然立ち寄った人に読んでいただければ、

満足です。

私は。本が好きで、

人との付き合いは、疲れる方です。

嫁さんとも、喧嘩はしませんが、

必要以上に

二人で買いモノをするという付き合いは

気を使うのでしませんが、

家族単位での付き合いは好きですので

孫子嫁さん、主人と私で

誕生会などするのが、大好きです。


私の誕生日というのは、

とりわけすることはありませんが

孫の誕生日には、家族で盛り上がります。

孫子親戚、友人、その口こみで、

言いたい事を、書ける日記で、

昭和に生まれた婆ちゃんの、

戦中に生まれ、

戦後の心も物資も貧しかった時代に育つと

手探りで、、、光の方へと生きてゆく

刹那の積み重ねが

戦争は、、、何故?おきてしまうのか?。。。

75年の年月では、ワカラナイという答えです。

平和の時代を世界が一緒に目指さなければ

戦争は繰り返し起きて

地球は変わり果てた、汚れた星となってしまうでしょうね。

汚染物質と放射能と元素になってしまうという事です。

平成時代は日本には戦争が起きていません。

平和ボケしていると

PCやスマホや携帯電話を通しての、管理社会で

老人ばかりの時代から、一足飛びに

日の丸の入った星条旗に

羊のように、、、飼育された英語を話す戦後の子供が

日本人を感じて、社会のはやし立てるままに

踊らされて、赤い靴を履いて

教会に出かけてゆくかもしれません。

欲の皮を材料に

次世代の若者は、、、どこにゆうどうされてゆくのでしょうか>


創った赤い靴は脱いで

神に誓って

それだけで、、、うれしいのです。

SNSや、書き込みのトラブルを観ていますと

私たちには、、、GOOさんの、、、守られたサイトだけで

ありがたいと、、、思っています。

メールも設定できないし、、、

アカウントってなに?

そんなレベルのパソコン婆ちゃんですから

変わるのが怖いのですよね

GOOさん、、、このままで、、、めんどうみてください。

よろしくお願いしますね


若者の時代の理解は無理だけど、道化も出来ないシニア

2019-02-05 04:27:41 | Weblog

昔、、、中学校の対面に図書館がありました、、、と、いうよりは、

図書館という無限の泉が魅力で

区域の違う隣の区域の中学校に越境入学をした、

小学校6年の時は

学級委員をしていましたが、

クラス全体は皆、友人として、距離を置いて親しくしていました、

疎開先の熊野の山中の小学校から、

父の生まれた東京に転校してきた私は、

心は柔軟に見えていても、

道化の出来ない欠点がありました、

東京に出てきたという事は

あたらしく知るべきことが多すぎるという事でもありました、

手っ取り早く、図書館の前の中学に通えば

本を買うお金を戴いたようなものだと思いました、

中学校が終わると、本を借りて帰るという生活は

お金持ちになった気持ちがしました、

太宰文学に出逢ったとき、

クラスで、道化をして、人気をとる主人公の耳元で

一人だけ見抜いているクラスメートが

「わざわざ、、、」と、、、ささやくシーン。

中学生の私が、

どんなに、

このワンカットのような文に

影響を受けたことだろう。

なんとなく、、、嘘っぽいところの感じられる小説という世界が

嘘だから、、、面白かった、

しかし、横光利一の「蠅」という作品のように

短編の中に

世界の秘密が示唆されていて

「お前らは、、、蠅なんだぞ!」、、、しっかり真実を見ろ!、、、

そのように、視線すら合わせてくれないで

棟から胸に、衝撃波を飛ばしてくるスケールの大きな作品も思い出す、

本を好きになったという事は

友達とは、一緒に居ても「うわのそら」という事だった。
太宰治は、一般には人気が有ったが

等身大の面白さだと思ったりもしていた。

兄きである長男が実家のあと取り息子で

めい家の生まれという、実際は具体的なものは
絵にかいたもちのような、、、

旗本の次男なら、

養子に行くことも出来たかもしれないのに

意識だけはリーダーの自尊心で、

目立たなくてはならないのかもしれない、、、。

廻りの見える環境や、物質的な事や、

とりもちにかかったコトリのような、、、飛べない主人公。

妥協と道化と、自分という

ごまかせないもう一人の自分。

アナログだけの世界のようにも思えてくる。



デジタルな時代に生きる私たち年寄りは

蠅という作品と

進撃の巨人が重なってしまうから

若者の世界を理解できていないのだろう、、、私は。

貧乏という心は、恐ろしいブラックホールを抱えていて

大学受験は、試験問題に合格した人間を

あたかも、初めから

金持ちで育った人間として

分類してゆく部分もある。

金持ちで育った人間は

お金がある金満家という意味ではなくて

何かが稔る様な両親だとか、

掘っ立て小屋に住んでいても、、、

最高の季節が最高の自然の恵みを享けさせてくれる

欲張りという字を書けない金持ちもいる。

心豊かな状態が、、、続く状態の人はお金持ちかもしれないと思ってしまう。


自分の利益や、

優位な立場ばかりにこだわらない。

だろうね、、?きっと。

国会の討論をYVで観ていると

若い人の論争の技が、間といい、、歯切れの良さと言い

語句の切り方と言い、、、、適度な高揚といい、、、

国会の質問や答弁の内容は、時事問題であるだけに難解ですが

若い人や、壮年や、老年の議員さんの特徴が伝わってきて

国民の義務と思うから、、、TVを観ていますが、、、

全員が、、、歌舞伎役者のように、、、大切なところは興奮しないで

怒り口調にならないで、

歌舞くという、テンポの変更で、

お茶の間の政治音痴の婆ちゃんに伝えてくれれば

誤解されずに伝わるかもしれません。

国民から選ばれた国の代表者だけに



道化をすることは、、、しないだろうね。

でもね、、、


野党は、反対ばっかりしているけど

議員さんはお金持ちの育ちが多いですよね、

オリンピック選手とか、

並みの人間の追従を許さないような、、、抜きんでた人が多いですよね。


子供のころから、

世界感のある環境で、

英才環境に居る人が多いですよね。




はやりの漫画ゲームに、、、話を戻しますが

はじめっから、

シガンシナクに居ることから

幼少期が始まる金持ちの何代目かは

世の中の迷路は金持ち同士のネットワークで

なんとなく避ける教育が、

出来るのかもしれないね?



親の希望がスタンダードでないだけに、、、

力や適応力が無い場合、

受験は難関突破を強いられるだろうね?

敢え無く適応できなくて。、、、浪人、、、


向き不向きもあるからして

これで、、、優劣の評価をつけられては

居場所がありません。

受験に敗れた頃から、、、

ブラックホールを抱えてしまうかもしれない。

そして、、、

やむなく、、、自尊心に負けて

道化者になってしまうかもしれない。



生まれながらに将軍で、

周りの御神輿が控えていてくれる場合は

名君になるだろうけど、、、。



受験の失敗は、クモの糸の宙ぶらりん状態で

芥川さんと言えども、、、糸が切れて落下するストーリになっている。

貧乏は金銭的な事ではないらしい。

人をはねのけても、、、

自分は這い上がりたいという心が貧乏かもしれない。



皆と一緒ではないのなら、

自分も地獄に居ると言える人???,、、いるかしらね?

落下、落第、浪人、、、

この経験をさせる日本の受験は罪作りだと、、、思ったりもする。


卒業試験や資格試験を受験並みに難関にして

社会で即戦力になる能力が無ければ

落第させればよいと思うんだけどね。



パソコンの試験を例にとるなら、

公務員大学なら

ゲームの問題は出ない、



しかし、検索能力が出題されるとか、、、



秋葉原大学なら

ゲームも漫画もなんでもオタクの問題にするとか、、


目的に沿った国の立役者のそろう受験にすれば

浪人したから、、、

馬鹿というレッテルつけられなくても済むし


向き不向きの能力を開発できると
思ったりしています。

眉毛の太いあのモーレツな実地TVをこなしている女性は

安室奈美恵にひれ伏しているような
崇拝が伝わってくるのですが、

見方によれば、、、
なかなか!
安室奈美恵のコンサートはともかくとして

腹がでんぐり返るような、、、

おかしさで、、、

そのプロ根性に

お茶の間の婆ちゃんは元気をもらっています。


入試よりも、、、
むつかしいと思って観ています。

仮に、、、女優とか、タレントの選抜の

入試に失敗したからと☜、、仮定しても、

自分の居場所がなくなるような

自分に三下り半を突き付けるような、、、、

システムの価値だけにこだわらずに

あの手この手で、自分を高めてゆけば、

眉の太い、頑張り娘さん、、、32とか・33歳とか本人が

画面に向かって、冷水に飛び込みながら、言っていましたね、、、

お誕生日、、、おめでとうございます。

これからは、、、厳しい場面を卒業して、

もっと優しい役を引き受けてくださいね。

ずーーと観てきたので、わが娘なら、、、

結婚適齢期だと思いましたよ。

何かのレベルに達したとき

出会いがあるというような、、、社会であってほしいから。



桜咲く、、、桜は散らない、、、また来年も咲く。

彼女は東大生も出来ないことをしてきたから、

これからは、円熟期になって、周りもいたわってあげてくださいと、、、

観終わると、、、ひどいよね~~~こんなことさせるなんて、、、

年齢的に過去の栄光から、挫折させるような

無理なことを、させないで、、、、世界のフアンの為にも

良い出会いを祈っています






しかし、、、その挫折が戦争によるものだったり、

自然災害の被害者だったりの場合はどうだろう、?

自分のせいではないのに

多くの目に見えるものは消えてゆくが、

どこかで、、、あきらめに似た、、、自然には勝てないという

無口な自分になってゆく。



廻りが、、、一人は多くの人の為に、

大勢は一人の為に、、、日赤が先頭をきって、毛布を配りはじめ

世の中の善意が続いて行く、、、。

人が人を支えるのは、無意識な応援で、神の心のように

社会が動いてゆくからかもしれない。

復興してゆく自分の中の巨人に出逢うのではなかろうか?



数々の被害を潜り抜けたばあちゃんは、、、つぶやいています。

この気持ちは、客観的には理解されないだろう、、、

自分の、「日記」のような、、、ブログだから

書き留めておこう。





忙しすぎる医師の兄弟、家族の働き方改革は、、、無理かもね

2019-02-03 03:03:52 | Weblog

子供のころから、医師の父は忙しい人でした。

夏休みに、川に泳ぎに連れて行ってくれると約束しても、

早朝、、、患者さんにつかまってしまって、、、行けなかった。

兄は両国高校に通っている頃は、面白い洋画が来ると

弟妹を連れて行ってくれました。

医師になってからは、「親父が、、開業施設を残して逝くから、、、仕方ない!」

早朝5時から、跡取り息子は診察室で、働き始めて

深夜まで、母屋には帰らないようでした。

義姉は、一般家庭から嫁いできたせいもあって

家庭的な時間がすれ違う事もあって、良く外出していました

弟は医師になってからは、勉強の毎日で、

貧困家庭だと、ぼやいていました。

兄は、父の後を告いでも、

開業は自営の仕事なので、デパートのショウウインドウではありませんが、

生き生きとしたイメージが大切なので、

週末は、健康維持に本人はリハビリーのように熱心に

ホテルのプールに泳ぎに行っていました。

民間からはゴルフは贅沢に見えますが、

小さな室内業務で椅子に座って診断の時間が多い生なのか?

精神を休め、足腰に働かせて、腕を振り回すゴルフ場は

体力あっての開業だからと、月に何度かコースに行っていました。

弟には、学者になる事を進めてきた割には

金銭的な応援は、思うように行かずに、

奥さんの海外旅行代金になっていたようでした。

父が亡くなったとき、私はまだ大学生だったので、

卒業まで、家にいてよいという事と引き換えに

相続の全面放棄の印鑑を、義姉が押してほしいと言うので

薬剤師になってしまえば、就職はあるので、

卒業までの権利の方をとり、遺留分は放棄しました。

5年間働いて、後は家庭に収まりながら、

主人に万一の事があれば、子供は自分が育てるという気持ちから、

認定薬剤師の講習会には18年間継続して、

いつでも、職業につける様に

認定薬剤師をいただいて、今日の治療薬は毎日目を通す習慣をつけました。

主人が、予期せぬ病気やら、単身赴任二なったときは

正社員として、

血液製剤の管理や、医療機械の流通の仕事で

管理薬剤師をしながら、

主人が帰ってくるまで、母子家庭を3年弱、経験しました。

全快した主人が帰って来ても、

50近くまで国立に居て、転勤や移動が多い生活でしたので、

家庭の事に関する雑事や、育児は

私が任されるという、、、孤独で奮闘する50歳代~60歳でした。

ドクターヘリの飛びかう大きな病院の外科医なので、

外科医は緊急事態に備えて待機するので

週末に帰宅すると、爆睡していました。


はじめは4人の外科医で、めまぐるしく働いているうちに

30人ぐらいの外科のメンバーが切磋琢磨するという

地域からも、開業医さんからも

大切な存在の病院に育ってゆきました。


あれから30年経ちました。
医者のトップは院長ですが

経営者のサイドには別の職種の事務長さんがいらっしゃります。


立ち上げのころは、自宅が病院のような生活の主人でしたが、
70歳を過ぎてからは、

泊まりの日以外は、8時になると帰宅するようになりました。

母親と二人きりで過ごす事の多かった長男には

何かと、私が影響してしまったのかもしれません、、、

私自身が、うらやましいと思えるほど、

薬のスペシャリストになり、病院薬局ではお役に立っているようです。

孫も、「薬剤師になりたいと、、、勉強中です。」

そのうち、、、成りたいものが、、、代わってくるかもしれませんよね。

今は、親父さんを尊敬しているので、

おなじ職業に目が行くのでしょうね。

次男は、30代のころ。

初恋をしていたようですが、

医師の国家試験の忙しさの時期に、

「医師として、医師をするための勉強に追われて、時間がつくれずに。。。」

いつの間にか、忙しいドクターヘリの飛ぶ病院のスタッフになり、

仕事、、仕事、、、仕事の毎日が続き

いつしか45歳になろうとしていますが、、、独身です。

叔父さんが、国立がんセンターの研究者として

医学部の教科書や、参考書を世に出していたせいか、

目標を高く持ち過ぎたのかもしれません。

今は、定年退職して、第二の人生を、民間で送っている叔父さんなので

若き日に教えていただいた写真が、、、宝物になっている姉の私です。

忙しすぎる弟には、会うのには一か月ぐらい前にアポをとらねばならないので

なかなか、、、兄弟でも、会えないのですが、

学会や、仕事で、、、ひょこんと、我が家に現れたりしていたのですが、

目下、、、忙しい毎日で、なかなか大変な時間貧乏のようです。

私も、後期高齢者になるので、白髪になりました。

いよいよ、いつ何時ボケが来るかもわかりませんので、

思い出の写真を、載せますので、

お兄さんや兄嫁さん、、、姪っ子、甥っ子、、親戚の方々

この「日記ブログ」を見つけたら、、、

「懐かし~~~写真ね、、、と、、、思い出してください。」

あなた方が遊びに来てくれた日の事が、昨日のように思い出されます。

家の周りも、雪が積もり、きっと、見つけることはできませんよ。

2月に亡くなった父の命日が近いせいでしょうか?

父と母の事が思い出されて、我が家の思い出の写真を

父母と兄弟、息子たち、親戚に、観ていただけるように。

       おやすみなさい





















次男は、大学の附属病院の科長さんをしているようです。

息子の大学のHPがリニューアルしたので、

今日は、一日中HPを観ていました。

皆、それぞれに開かれたHpですから、

クリックして、病院巡り、附属病院巡りをしています。

卒業生ばかりではなくて、日本中のいろいろな大学から

指導者の先生が、いらしているのですね。

観ていて、医療の事がいろいろとわかり、楽しい大学病院巡りでした。

地域に拠点病院があるという事は、開業医にとっても

自分の患者さんにとっても、頼もしい機関ですよね。

皆で支え合っている大病院で

お役に立てているのですから、、、

個人的なことは、後回しになるというのも

解るような気がします、

一人は多くの社会の人々の為に

多くの人々は、一人の為に結束して頑張ると

私の父が良く言っていました。

父が慈恵会医科大学を卒業した時代は昭和の初めの

富国強兵時代で、

植民地にならないためにと、日本は強い国になろうとしていました。

戦争も大小さまざまに、起きていた時代です。

植民地になるぐらいならと、、、戦いを余儀なくされた日本も

原子爆弾の2発の投下は

ピカソのゲルニカの村が荒れ地になったよりも次元が違うほど

広島、長崎は人間も建物も、動物も木々も

炭素や、多くの種類の元素に分解されました。

人と人、国と国、イデオロギーとそれ、哲学と哲学、、、

こうした理論的に勝負しかないという戦争と違って

問答無用の、地球丸ごと、その地域は

人、物、植物、町、建物。。。ゲルニカもびっくりの、、、破壊で

全ては元素になって、無性別の物体で、

生きた人間の姿は、炭素になってしまった。

日出国の、、、日本の森羅万象地球丸ごとの相互のバランスから

長き年月で培われた知恵も、技術も、歴史も、伝統も、

人間の優劣や、身分や、功績や、罪も、

無差別に炭化した現状は、、、、、終戦であって、

人として、敗北したのは、原子爆弾という

無差別の破壊兵器を使ったという、、、人間の体温や愛や、ビジョンや、、、

いとおしいまでのみずみずしい、、、戦う努力を、

問答無用の破壊で、、、、人工知能の世界のような、

心のない時代を、つくってしまったことは、

天災の被災地の復活のような

パッションと、やる気と、起き上がる頑張りでは、、、歯が立たない分解だった。

74年間、、、原子爆弾の戦争が無かったことを感謝します。

これからも、こうした戦争手段において、戦いが起きないように、

原子爆弾を使ったら、勝敗はルール違反として、認めないという

国際法が必要だと、お茶の間の婆ちゃんは思いながら

未来の平和を、祈りながら、、、

人生の坂道を、オリオン座を見ながら、、、美しい月を見ながら

この美しい地球に生きてこれたことを、感謝して、

若者が、破壊予備軍にならないように、

命尽きるまで、、、、破壊戦争が地球の星を汚して
本当の宝物を喪う事を、伝えねばなりません。
人工知能が組み立てた人工人間の

最後の部品を仕上げたとき、、、

人間よりは優秀な学習能力で増殖してゆく知恵や能力は

武蔵野が東京になって、スカイツリーの脳みそアンテナで

世界が鳥瞰図のごとく把握しても、

果たして、、、「心」、、、が宿るのだろうか、、、

魂という言葉が、、、死語にならない未来を

若者に、伝えて、便利だけでは

キイボードをたたきながら

ゲームのごとく、

人として、愛くるしい心或る命を、、打ち落としてしまうという

デジタルの世界のタブーを

国際法で、守ってゆく時代が来たのではないだろうか、

人の命の、たおやかな麗しさ、みずみずしさ、、、心、、、

人工知能に変えられない香しさを愛する限り、

医師という職業は命の前に大切な職業として

国際的にも、国内的にも、心ある人間からは

働き方改革では解決できない10時間もかかる手術だって

こなしてきた外科医の舞台裏の応援団は

医療には、医者バカは、、、ありだと、、、苦笑しています、

どんなに大変でも、、、

充実して仕事に従事している様子がわかります。


病院のHPはどこのをサーフィンして拝見しても

HPでは、皆頑張っている医療界のチームの皆さんが

充実して表現されているので、

健康第一にご注意を払いながら、頑張る様に祈っています。

次男は子供のころは、寂しがり屋で、

私がお兄ちゃんばかりに気をとられていると

寂しくなってしまうのか、

可愛がってくれる叔父さんに会う時などは

興奮して、嬉しそうでした。

皆さん、、、今年も、よろしくね!